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信用補完制度の解説~主に信用保険制度の観点から~(Ⅱ)


大臣官房信用機構課地震再保険係長(前 政策金融課政策金融第2係長) 中川  忠明

1.はじめに
前回、信用補完制度が構築されてゆく上での嚆矢となった信用保証協会の創設背景について述べたところであるが、では実際に信用保証協会は、どういった形で誕生し、また最終的に信用補完制度という形に結実することとなったのか。今回は、前回の内容を前提にしつつ、信用補完制度そのものの経緯を辿ることとしたい。
(注) 引用にあたり、原文は旧字体であるものについて、一部については、常用漢字に直している。また、印刷の都合上、環境依存文字となる一部の記号は、適宜変更している。なお、引用している条文等は、特段断りがない限り、令和5年4月1日時点のものとした。
また、意見に亘る部分は筆者個人の私的見解であり、政府や財務省の公式見解ではない。ありうべき誤りは、全て執筆者個人に帰属するものである。


2.信用補完制度の成立~信用保証と信用保険の統合~
日本における信用補完制度は、今でこそ、民間金融機関と中小企業者等を信用保証協会が繋ぐ(保証する)信用保証制度と、信用保証協会を株式会社日本政策金融公庫の信用保険事業(以下「公庫保険」という。)がバックファイナンスする信用保険制度の2制度が組み合わさっていると一般論のように語られるものの、当初からそのような一体的な制度が企図されていた訳ではない。
では、どのようにしてこのような制度が成立したのか。これは、結論から述べてしまうと、次の三段階を踏んでいる。
(1)地方公共団体レベルで信用保証制度が先行(民法上の法人からスタート)
(2)国が民間金融機関に対し保険する信用保険制度が登場(特別会計からスタート)
(3)信用保証制度と信用保険制度の統合(現行の信用補完制度が成立)
そして(1)は、国レベルでは当時の大蔵省が主に所管する形で進められた一方、(2)は当時の通商産業省が主に所管し、(3)の段階で、国レベルの所管を含めて(1)と(2)の領域が混交する(信用補完制度が成立)という展開を辿る。その上、省庁再編以降は、いわゆる財金分離(大蔵省から財務省及び金融庁への省庁再編)に伴い、(1)に当たる領域は金融庁と経済産業省、(2)に当たる領域は経済産業省と財務省が所管するということとなる。
信用補完制度の経緯は、簡単に文面にしてもこの有様であるから、後世の者(とりわけ実際に制度を利用される国民の皆様)からすれば、分かりにくいことこの上ない。こういった経緯の複雑性も、あまり信用補完制度に係るまとまった解説がない背景なのかもしれない。
とはいえ、このような背景を知ること無くして、何故このような制度が成立しているかを理解することは難しい。そこで、ここでは「連合会50年史」(社団法人全国信用保証協会連合会。以下「50年史」という。)にその多くを負いつつ、上記の(1)から(3)の順で、現行制度に至る全体像を把握することとしたい。

(1)地方公共団体レベルで信用保証制度が先行(民法上の法人からスタート)
中小企業者等の資金繰りを支える「信用保証協会」は、中小企業政策を支える代表的な機関の一つであり、現在は、内閣総理大臣(金融庁)及び経済産業大臣(経済産業省(中小企業庁))が、その主務大臣である。
中小企業政策については、どうしても経済産業省(中小企業庁)がそのメインになるほか、上記の通り、財務大臣が主務大臣でもないということもあり、信用保証協会について財務省というイメージを持たれる方は極めて少ないであろう。しかしながら、信用補完制度のうち信用保証制度の黎明期には、国レベルでは当時の大蔵省が深く関わっていた。

(信用保証協会の誕生)
そもそも、信用保証制度は、現在においても中小企業者等の資金繰り支援において重要な位置を占めているところ、その根本的な理由は、中小企業者等が大企業等に比べれば、資金調達能力として不利であるという、一見にして当たり前の点にある。ただ、これは著しい経済成長を果たした後の日本経済であっても解決されるわけではないことからも分かるように、戦前期の日本においては、一層深刻な事象でもあった。この様相を、50年史は「信用保証制度創設前の中小企業金融の実情は、金融機関の中小企業向資金量の不足、中小企業金融のコスト高及び中小企業者の担保・信用力の脆弱さに起因し、円滑さを欠いて」いたと端的に述べている。
では、こうした事態に対し如何にして対応してゆこうとしたのか。実は、日本の政策金融(とりわけ中小企業者等に係る金融)は、昭和初期における国家総動員体制に向けた変革等を推進力としつつ、現在の源流となるような機関や制度が整備されてきた部分もある*1ところ、信用保証制度に関して言えば、前回(第1回)述べたとおり、地方公共団体がその推進役であった。具体的には、当時の東京、京都及び大阪市といった大都市圏において立案され、実行に移されていったのである。
このうち、最初に信用保証協会を設けたのは、当時の東京市であった。東京市は、当時のドイツが導入していた保証制度を参考に検討を進めた*2結果「中小企業を苦境に追い込んでいるのは、主として物的信用力の欠如に原因があり、これを打開するためには対人信用を主とする有力な機関を設置する以外に方策はない」という結論に達し*3、最終的に当時の東京府との共同事業として実施することとしたのである。こうして、昭和12年、当時の民法(明治29年法律第89号)*4に基づく社団法人として商工大臣の認可を得た、東京信用保証協会が成立した。
その後、京都は昭和14年、大阪市は昭和17年にそれぞれ保証協会(京都信用保証協会及び大阪市信用保証協会)を設立させることとなるものの、戦況が悪化する中、戦前に成立した信用保証協会はこの3協会に留まることとなった。

(戦後の再出発とGHQ)
こうして戦前に誕生した信用保証協会であったものの、戦後どのような道筋を辿ったのか。まず結論から述べれば、終戦により、その存続は極めて危うい状況におかれることとなった。具体的には、米国を中心とする連合国最高司令官総司令部(以下「GHQ」という。なお、歴史研究的には、民政については「SCAP」とすることが一般的のようであるが、ここでは一般的な名称として、GHQを使用することとしたい。)の影響に翻弄されることとなる。具体的には2度危機があった。
まず1度目の危機は、GHQによる占領政策当初に訪れた。
占領政策当初、GHQは一般論としても知られているように、戦時機関や特殊性を持つ機関については、即時閉鎖の方向性を持っていた。ただ、その方向性は非常に極端なものであり、例えば、今では東京メトロで知られる東京地下鉄株式会社の前身たる「帝都高速度交通営団」も、戦後すぐには、他の営団等と並べて一律に、総力戦体制のツールと見做し、閉鎖・解散の可能性があったほどであった*5。
そのような中で、GHQは、信用保証協会についても、当時の民法に基づく法人であるにも関わらず、疑いの目を持っていた。その理由は、50年史曰く、GHQ内では信用保証協会について「ナチス政権下のドイツで設立された制度を参考にした全体主義的なもの」と捉えられていたためである。
このため、一時は信用保証協会に対し、保証業務の中止命令が出る事態となったものの、当時の東京信用保証協会は、GHQに直接交渉を行っている。50年史によれば、主に下記2点を掲げて説得を図ったのである。
(イ)ドイツの制度とはまったく異質のもので、極めて民主的に運営されていること。
(ロ)戦後の日本経済では中小企業は重要な地位を占め、これを援助する当制度は経済の民主化という占領政策に合致すること。
こうした交渉の結果、東京信用保証協会は、GHQ黙認のうちに業務を継続することが可能となった。その後、京都及び大阪市の信用保証協会についても、一時は新規受付を停止したものの、昭和21年から22年にかけて受付を再開。そしてそれ以後は、後に述べるとおり、中小企業者等への資金繰り支援策として「信用保証制度の整備・充実」が位置づけられる中、各地に信用保証協会の設立が始まっていった。信用保証制度は、消滅寸前のところで、存続したのである。
しかしながら、こうして黙認の上で事業継続が出来た中で、さらに2度目の危機が訪れる。その端緒となったのは、いわゆる独占禁止法(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(昭和22年法律第54号))であった。具体的には、この独占禁止法の補助法として制定された、事業者団体法(昭和23年法律第191号)により、如何なる形態かを問わず、広範に事業者共通の利益の増進を目的とする団体については、その活動を、統計資料の刊行や情報交流促進と言った10項目(事業者団体法第4条第1項)に限定されてしまったため、信用保証協会の活動も禁止される可能性が浮上したのである。
そして、当時の公正取引委員会は、信用保証協会の行為について、事業者団体法第5条第1項第12号にいう「構成事業者その他の者のために融資をすること」の「類似行為」であると判断、禁止することとしてしまったのであった*6。
ただ、信用保証協会はここで諦めはしなかった。50年史の記載を引用したい。
「…再び東京信用保証協会・田中専務理事は大蔵省銀行局と共に、GHQ当局及び関係機関との折衝を繰り返した。この結果、GHQ・大蔵省・公正取引委員会の三者間に、「信用保証協会法といった特別法が制定されるまでの間、現状を黙認する」という同意が交わされた。…」
戦後のGHQの方針があると言っても、ここでも改めて「黙認」という実益を勝ち取ったのである。
とはいえ、何でも黙認させていれば解決されるわけでもないので、ここで先人たちは知恵を絞った。具体的には、信用保証協会を現行の「社団法人」から「財団法人」に転換させることにより、信用保証協会を、一定の目的(信用保証)のために財産を運用する団体とし、事業者団体法のいう事業者団体に該当させず、また同法の精神にも反させない、というようにしてしまったのである。
この点は、50年史の記載が端的なので、以下に引用したい。
「解決策として浮上したのが、信用保証協会の財団法人化である。財団法人に改組する理由として、(1)社団法人としての信用保証協会は、会員(金融機関等事業者)総会により目的や活動を変容することが出来、事業者団体の不当な支配や活動を防止する事業者団体法の精神に反する、(2)財団法人であれば、一定の目的(この場合は、中小企業者に対する保証)のために財産を運用することとなるので、協会は事業者団体に該当しない、などの点が重視された。…法的には社団法人を財団法人に改組は出来ないので、付帯条件をつけて社団法人を解散し、所定の手続を経て財産法人の設立登記を完了、この新法人を受け皿に債権・債務、従業員、業務の一切を譲渡して、事業を再開した。」
もっとも、この時点で設立されていた40の信用保証協会のうち、実際に財団法人へと改組できたのは25協会であり、円滑な財団法人への移行が難しいケースもある中、残る15協会は、特別法(信用保証協会法)制定への動きを注視することとなった。信用保証制度は、ここに来て、民法に基づく法人を用いるという点で、制度上の限界が見え始めていたのであった。

(信用保証協会法の制定)
こうした信用保証制度の存続危機が2度も表面化する一方、中小企業者等への資金繰り支援をどのように具体化してゆくかは、当時喫緊の課題であり、信用保証制度の整備・充実は、それらに係る重要な方策として位置づけられていった。それが政府全体の政策として打ち出されたのは、昭和23年8月、中小企業金融対策要綱においてであった。この要綱(要旨)において「信用保証制度の活用を図ると共に、中小企業自体の信用力、担保力の強化に努める」とされ、これを契機に、地方公共団体を中心とした信用保証協会の設立が進むこととなったのである。
そして、こうした動きの中で、大蔵省銀行局では、「信用保証事業法案要綱」(昭和23年8月9日)や「信用保証協会法案要綱」(昭和23年10月25日)といった特別法の制定が模索されるものの、当時のGHQを筆頭とする占領行政下では、具体的な立法措置に至ることはできなかった。
こうした中で、昭和27年4月にGHQが撤退すると、信用保証協会側の強い特別法制定の要望も出される中で急速に法制化が進展する。昭和28年6月、信用保証協会法案は国会へ提出され、同年8月10日に公布・施行されたのである。
そしてその翌月には、先の事業者団体法は廃止され、ここに信用保証協会は、信用保証協会法を根拠法とする認可法人として、現在の法的地位を確立することとなった。
一方、ここまでの経緯を見ても明らかなように、現在の信用補完制度を構成する信用保険制度は、ほぼ同じ時間軸にありながら、信用保証協会(信用保証制度)との関係ではなかなか登場してこない。では、最終的に制度として統合に至る以前、信用保険制度はどのような経緯で成立するに至ったのだろうか。

(2)国が民間金融機関に対し保険する信用保険制度が登場(特別会計からスタート)
信用保証制度とほぼ同じ時間軸にありながら、全く異なる経緯で成立してきた信用保険制度は、そもそもどのような政策であったのだろうか。この点は、誤解を恐れずに言うなれば、前者が、地方公共団体レベルから積み上がってきた政策であったのに対し、後者は、国からの喫緊の対応策として登場した政策であった、と言えるのではないかと思われる。
では、一体どのような状況下で、どのような形で打ち出されることとなったのだろうか。

(中小企業信用保険法の制定)
信用保険制度が登場する背景、それは同じGHQに係るものであっても、よりマクロ的な経済政策と深く結びついていた。昭和23年にGHQが発表した、経済安定9原則(いわゆる「ドッジライン」)に基づき、急激なインフレ対策が行われた結果、昭和24年から25年にかけて、日本経済は大規模不況に見舞われたのである*7。そしてこうした経済状況の中で、とりわけ中小企業者等の資金繰りは深刻化しており、*8それらへの対応策として、当時の通商産業省(中小企業庁)は、新信用保証制度の創設を企図することとなった。
50年史によれば、当時の通商産業省(中小企業庁)としては、地方公共団体及び大蔵省にて進められていた戦前からの信用保証協会も含めて、各種制度を検討していたという。そのような中、「…米国議会で発表された「トルーマン教書」で、中小企業貸付に対する保険制度創設の必要性が強調され、これがGHQの説得資料として政府の保険制度構想を推進する」こととなり、結果「通商産業省案の中小企業向中長期合理化資金を貸付ける金融機関の融資を、政府が直接保険する制度」が創設されることとなったのである。このように、信用保険制度は、政府レベルでの包括的な中小企業者等の資金繰り改善策として誕生した。
ただし、この保険制度の在り方については、GHQから介入があった。
当初の構想は「…信用保険制度を設置し、これに独立の法人格を与え、金融公庫的性格を帯びた政府関係機関として運営*9」するという、まさに現在のような仕組みであったものの、GHQはそれを認めず、特別会計を中小企業庁に置くという条件を提示したのである。この結果、現在の公庫保険にあたる組織は、中小企業信用保険特別会計法(昭和25年法律第265号)に基づく特別会計となり、一方で当該保険の業法として、中小企業信用保険法(昭和25年法律第264号。以下「信用保険法」という。)が制定されるというスキームとなったのであった。

(信用保険制度の欠陥)
さて、こうして新たに導入された信用保険制度であったが、先に行く末を述べてしまうと、50年史の言を借りれば「施行後1年を経過しても、利用が低調であった」という。
さらに、そもそもの制度上にも問題があった。具体的には、当時の信用保険制度は、当該制度を利用するか否か(付保の選択権)を融資する金融機関側が持っていたため、いわゆる逆選択が発生する仕組みになっていた。すなわち、中小企業者等へ融資する民間金融機関にとっては、貸し倒れる可能性が高い融資について信用保険を付ければ損失が保険で埋まるという仕組みになるため、当時の信用保険制度は、本来であればリスクの低い者から高い者まで偏り無く利用される形であるべきなのに、リスクの高い者が選択的に付保されてしまい(逆選択)、非常に事故率が高いものとなってしまった*10のである。
加えて、その制度当初こそ、信用保険制度は、長期かつ比較的大口なものを対象層とし、信用保証制度は、短期で比較的小口なものを対象層とする棲み分けがなされていたものの「信用保険制度が小規模企業への傾斜を強めた」こともあり、事後的に制度重複という問題も生じるようになっていった*11。
先に述べた信用保証協会(信用保証制度)と比較すれば、信用保険制度は、信用保険法と中小企業信用保険特別会計という国家レベルでのリソースが提供されたものの、そのリソースを適切に活用してゆくには、一層の制度改善の要が認められるという代物であった。

(3)信用保証制度と信用保険制度の統合(現行の信用補完制度が成立)
さて、ここまでの内容を一旦簡潔に纏めてみたい。
まず信用保証協会(信用保証制度)は、地方公共団体レベルからのボトムアップ的な性格を有する政策であったものの、信用保証協会に係る個別法すら欠くという基盤の脆弱性が課題であった。これは法的な面だけで無く、財政的な基礎という点でも同様であった。
一方、信用保険制度は、喫緊の中小企業者等への資金繰り支援として、当時のGHQにも説明が通りやすいという観点も踏まえつつ導入されたため、法的及び財政的な基礎は有していたものの、その制度改善が課題であった。
したがって、信用補完制度を構成する信用保証制度と信用保険制度は、お互いの課題をクリアするという観点では、当初から相互補完的な状況にあったというわけである。そのように捉えてみると、この両制度が信用補完制度という形で有機的に統合されることは、後世の者からすれば極めて合理的な結論に見えてくる。
とはいえ、こうした後世の者が結論だけを見てそうすればよかったではないか、というのはあまりに結果論からの乱暴な感想であろう。これまで述べてきたように、信用保証協会(信用保証制度)と信用保険制度は、その背景から成立の経緯まで全く以て異なる別制度であったからである。
では、当時としてはどのような議論・経緯の下で、有機的な統合という結論に至ったのか。現在に至る信用補完制度の成立までを、経緯面としては最後に追っておくこととしたい。

(信用保証制度への国家資金導入論)
信用保証協会(信用保証制度)は、これまで述べてきたとおり地方公共団体レベルの積み上げで作られてきた政策であるところ、その反面と言うべきか、財政面での安定性に欠けていた。そのため、信用保証協会法の制定時点(昭和28年)でもその論点は議論され、その際は「信用保証協会に対しては、更に中央及び地方自治体の財政援助等が行われ、協会の機能が強化せられるよう政府は格別の措置を講ずるよう善処されたい」と附帯決議がなされるに至っていた。
そうした中での昭和31年、事態が動き始めることとなる。この年に政府が設置した中小企業振興審議会*12は、当時の石橋湛山首相に、信用保証制度への国家資金の導入を促したのである。50年史の記載を引用したい。
「…政府は6月の閣議で中小企業対策の基本問題を金融等から研究する「中小企業振興審議会」を設置し、協会の強化改善を重要課題に数次に亘り審議した。そこで、「信用保証協会は、零細企業金融の円滑化に役立っているが、資金難のため代位弁済が遅延している、しかし地方財政の現状からみて更に多額の出えん等の援助を期待することは困難と考えられ国家資金の投入の必要性がある」旨の意見の下で、31年12月に藤山審議会長*13から石橋首相に次の答申がなされた。
「(1)零細事業者にとっては、特に金融面の困難が、その事業遂行にあたって最も大きな隘路となっており、高利資金に依存して経営の破綻をきたす等の事例が極めて多く、その金融促進については速やかに強力な対策を講じる必要がある。(2)零細事業者の信用組合、信用金庫、相互銀行等金融機関からの借入を容易にするため協会の保証機能を強化・改善することとし、協会に対する国家資金の投入、保証保険料率の引下げ等を図るべきである」。」
実は内容を単純化するためここまで述べていなかったものの、昭和26年12月に施行された信用保険法の一部改正により、信用保証協会の行った保証を、中小企業信用保険特別会計が保険するという「保証保険制度」が、信用保険制度上のメニューとして導入されていた。この中小企業振興審議会は、そうした既存の政策を念頭に、信用保証協会の保証業務を強化・改善して一層活用すべきと述べたわけである。
当時の通商産業省は、こうした答申と並行して、昭和32年度予算要求において、中小企業信用保険特別会計を廃止して、新たに中小企業信用保険公社を設置し、当該公社を通じて信用保証協会に資金援助を行うと要求したものの、この時点での議論・調整結果としては、新法人の設立には至らなかった。
しかしながら、こうした信用保証制度及び信用保険制度の有機的な統合に係る議論は、通商産業省だけの議論に留まることなく、「…一万田大蔵大臣も中小企業に対する新たな信用補完機関として「中小企業信用保険公社」の設立を表明し(32年7月)、前尾通商産業大臣、岸総理大臣も「中小企業信用保険事業団」構想を33年度中小企業対策の重点とすると言明…*14」するに至り、次第に、非常に大きな政策論点となっていった。

(中小企業信用保険公庫の創設と信用補完制度の成立)
さて、こうした経緯の中で、通商産業省は中小企業政策として、大蔵省は金融制度上の問題として、両省がそれぞれの立場から本件の解決に臨むこととなった。
では、この議論はどのように決着していったのかというと、先に結論から言えば、現在の信用補完制度は、両省の議論が合わせ技となるような形で成立することとなったのであった。以下、具体的に述べていきたい。
本件議論については、様々な論点が飛び交っていたところ、大蔵省は上記のように本件を金融制度上の問題として捉え、金融制度調査会に諮問、一方の通商産業省は、昭和33年度予算要求として上記の事業団構想*15を正式に提出した。
そして、この通商産業省案を検討すべく、大蔵省は、金融制度調査会にて小委員会を設置し議論した結果、現在の信用補完制度に繋がるスキームの答申を受けることとなったのである。その内容は、昭和財政史(昭和27~48年度 第5巻 特別会計・政府関係機関・国有財産。以下「昭和財政史」という。)について次のように述べられている。
「まず機能・業務分野の調整については、中小企業者に対する信用補完についてはすべて信用保証協会の保証によるものとし、中小企業信用保険特別会計は信用保証協会の債務保証に対する再保険機能を営むこととしている。次いで、両制度の関連性強化については、信用保証協会が中小企業者等の債務を保証した場合、当該保証債務をすべて中小企業信用保険特別会計の包括保証保険*16に付保する方針とするとし、中小企業信用保険特別会計の個別保証保険は廃止するとしている。
…そして機構については、中小企業信用保険特別会計を発展的に解消し、なんらかの新機構を設立することを政府において検討することが望ましい」との意見であった。
そして、上記の新機構については、通商産業省と大蔵省との間で調整が進められた結果、昭和財政史曰く「…大蔵省では新設機関が保険事業のみならず融資事業も行うため、国の強い監督下に置く必要性があると判断…」「…独立性の強い「事業団」の構想もあったが、財政投資額・予算規模から国の相当な監督下に置く必要があるという考え方により「公庫」という形態*17…」とすることとなった。
こうして、中小企業信用保険特別会計は廃止されることとなり、法改正を経て、同会計を承継する中小企業信用保険公庫が、昭和33年7月に設置された(中小企業信用保険公庫法(昭和33年法律第93号))。
ここに、信用保証協会が行った保証を公庫保険がバックファイナンスすることで、安定した保証業務を実現するという、現在まで続く日本の信用補完制度が成立したのである。
なお、その後の組織変遷も最後に簡単に述べておきたい。
中小企業信用保険公庫は、平成11年に発足した中小企業総合事業団に統合されたものの、平成16年に、同事業団が独立行政法人中小企業基盤整備機構に改組されることに併せて信用保険部門は分離し、当時の中小企業金融公庫へ統合された。
そして、政策金融改革の中で、信用保険部門を含む中小企業金融公庫は、国民生活金融公庫等と共に、平成20年に「株式会社日本政策金融公庫」として統合され、現在に至っている。

(4)まとめ
このように過去の経緯を紐解くと、日本の信用補完制度は、全くもってその源流を異にする、戦前からの信用保証制度と戦後の信用保険制度が、相互の制度的弱点を補完する形で統合されたものであった。そして、その実施機関に係る組織的な見直し等こそ、時代の趨勢等の中で行われてきたものの、その基本的スキームはこれまで大きく変わること無く、現代まで続いている。


3.おわりに
さて、ここまで2回に分ける形で述べさせていただいたが、文字通り戦前と戦後という、2つの大きく異なる潮流が結びつくことで、現在の信用補完制度が完成した。
では、信用補完制度の中身(制度運用)についても、創設以来大きな変化無くここまで続いているのかというと、当然そのようなことはない。ハードウェアとも言うべき基本的スキームが安定的に稼働する中で、ソフトウェアとも言うべき保証メニュー(そしてそのバックファイナンス実施に係る保険メニュー)は、政策的必要性等を反映し、柔軟に、拡充・見直しが繰り返されてきているのである。
では、実際に信用補完制度は、どのようにして運用されているのか。次回は、そういった制度運用の観点で述べることとしたい。
(以上)

*1) こうした戦時期の国家総動員体制が背景となって整備された代表的な機関としては、現在の株式会社日本政策金融公庫国民生活事業の前身でもある庶民金庫が挙げられよう。庶民金庫に係る詳細背景については、本稿第1回の脚注13を参照いただければ幸いである。また、従来からその政策的な必要性は認められつつも実現に時間を要していたものが、急速に実現した例としては、庶民金庫法のほかに、同法と同じ国会で成立した、恩給金庫法(昭和13年法律第57号)が挙げられる。こちらについては、拙稿「恩給担保貸付の原則廃止にあたって」を参照いただければ幸いである。
*2) 50年史によれば次のようにある。
「…中小商工業金融問題に最も関心の深かった日本興業銀行が、民間諸機関の中小商工業対策を研究するために、昭和10年に欧州へ視察団を派遣し、ドイツのベルリン、ハンブルグの保証機関を紹介した。」
*3) 50年史P.5
*4) 当時の民法上の規定は下記のとおり。
○民法(抄)
 (公益法人の設立)
第34条 学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他の公益に関する社団又は財団であって、営利を目的としないものは、主務官庁の許可を得て、法人とすることができる。
*5) 「公企業の成立と展開 戦時期・戦後復興期の営団・公団・公社」(𩵋住弘久)によれば、「GHQは、経済民主化の一環として、統制会など民間が持っていた独占的な配給統制の権限を取り除こう…」とし、その中で、「戦時期に設立された「営団」についても、国策会社と同様に私的独占禁止の文脈から大部分が閉鎖機関に指定されていった」という。
このうち、帝都高速度交通営団については「…GHQから戦時期の名称のまま存続を許された唯一の営団…」となったのであるが、この存続の経緯は、詳細なところこそ不明であるものの、「…帝都高速度交通営団の存続は、戦時期からその近似性が指摘されていたアメリカの「Government Corporation」、そのなかで最も著名なTVA(Tennessee Valley Authority)との類似性を強調することで実現を見た…」というものであった。
*6) 事業者団体法の具体的な条文は下記のとおり(事業者団体法制定時のもの)。
○事業者団体法(抄)
 (目的)
第一条 この法律は、事業者団体の正当な活動の範囲を定め、且つ、その公正取引委員会に対する届出制を実施することをもつて目的とする。
 (定義)
第二条 この法律において「事業者団体」とは、事業者としての共通の利益を増進することを目的に含む二以上の事業者の結合体又はその連合体をいい、それは、いかなる形態のものであるかを問わず、いかなる法令又は契約によつて設立されたものであるかを問わず、登記を要すると要しないとを問わず、法人であるとないとを問わず、営利を目的とするとしないとを問わず、その事業者の事業の規模の大小を問わず、且つ、左に掲げる形態のものを含むものとする。
 一 二以上の事業者が株主又は社員(社員に準ずるものを含む。)である会社、社団法人その他の社団
 二 二以上の事業者が理事又は管理人の任免、業務の執行又はその存立を支配している財団法人その他の財団
 三 二以上の事業者を組合員とする組合又は契約による二以上の事業者の結合体
2 この法律において「事業者」とは、商業、工業、金融業その他の事業を営む者及びこれらの者の利益のためにする行為を行う役員、従業員、代理人その他の者をいう。
3 この法律において「構成事業者」とは、事業者団体の構成員である事業者をいい、第一項各号の事業者を含むものとする。
 (許容活動)
第四条 事業者団体は、左に掲げる活動に限り、これを行うことができる。
 一 統計資料の自由意思による提供を受けること及び特定の事業者の事業に関する情報又は状態を明示することなくその資料を総括して公刊すること。
 二 (略)
 三 構成事業者の間に、公開的且つ無差別的に、研究又は技術若しくは科学に関する情報の自発的交換を促進すること。(第五条第三項の規定により、自然科学の研究を実施するための施設を所有し、又は経営することの認可を受けた場合において、当該施設の所有又は経営から生ずる諸利益を構成事業者に対し、公開的且つ無差別的な条件で利用させることを含む。)
 四~十 (略)
2・3 (略)
 (禁止行為)
第五条 事業者団体は、左の各号の一に該当する行為をしてはならない。
 一~十一 (略)
 十二 構成事業者その他の者のために融資をすること
 十三~十八 (略)
2 事業者団体はいかなる名義をもつてするかを問わず、前項の禁止又は制限を免れる行為をしてはならない。
3~5 (略)
*7) ドッジラインについては、「1940年体制 さらば戦時経済(増補版)」(野口悠紀雄)にてその目的・結果が端的に纏められている。
「四八年十二月に、占領軍は経済安定のための九原則を示し、それが四九年度予算において「ドッジ・ライン」として具体化された。これは、「竹馬の脚」(アメリカの援助と日本政府の補助金)を切って国内需要を圧縮させ、それによって一挙にインフレを収束させようとするものである。…ドッジ・ラインの直接の目的はインフレの収束であり、事実それは成功してインフレは四九年度中に一挙におさまることになった。…」
*8) なお、こういった状況下において、戦前からの庶民金庫の業務を、事業性資金の供給に事実上特化する形で引き継ぐべく設立されたものが、現在の株式会社日本政策金融公庫国民生活事業の前身の一つである、国民金融公庫である。
*9) 昭和財政史P.194
*10) 昭和33年3月25日の衆議院商工委員会においては、次のような質疑がなされている。
○松平委員(松平忠久議員)
 これは吉橋さんにお伺いしたい。先ほどの融資保険の事故率ですが、この融資保険の事故は、この制度が発足した当時とその後において、かなり相違がだんだん出ておるのではなかろうかと思う。私は、信用保険制度かできたとき、そのころは銀行が、とにかくこげつきのようなものをどんどん整理するために、頭がいいから、この制度を悪用したというか活用したというか、そういう向きがあったように思う。その後批判もだんだん出てきて、銀行自体も考えるようになったのではなかろうかと思いますが、その事故率の発生工合と申しますか、最近におけるそういうものを、もし御記憶でもあれば、ちょっと伺っておきたいと思います。
○吉橋参考人(全国地方銀行協会常務理事)
 融資保険の方の事故率が高いという点は、御指摘の通りでございまして、中小企業庁の方からも、御注意がございますし、また特に特殊な事故率が高いと思われるような金融機関には、融資保険のワクの割当を停止せられまして、内部でも、そういったことのないように注意をいたしております。現在、事故率はどの程度になっているかということは、ちょっと記憶がありませんが、中小企業庁の方からでも……。私、確かな記憶がございません。
*11) 昭和財政史P.276,282
*12) 中小企業振興審議会の設置背景等については、昭和31年9月10日の衆議院商工委員会中小企業に関する小委員会にて、川上為治中小企業庁長官が次のように述べている。
○川上説明員(中小企業庁長官)
 中小企業の状況につきましては特別に御説明申し上げるまでもなく、最近たとえば造船関係とかその他のいんしん産業の関係で、その下請関係が比較的よくなっておるというような状況もありますし、また全般的に日本の経済が最近におきましては非常によくなっておりますので、その関係から中小企業におきましてもある程度その恩恵なり余沢を受けておるというような状況になっておりますけれども、依然として中小企業の問題につきましては、あるいは金融の問題、税の問題、いろいろな点につきまして、一面におきましては非常に苦しい状況にございまして、何とかこの際中小企業に対しまして特別の措置を講ずべきではないかというような意見が、業者のみならず、各方面からほうはいとして起っておるような状況でございます。特に最近におきましては大企業関係が安定して参りまして、その反面におきまして中小企業は今申し上げましたように、なかなかまだ苦しいというような関係から、大企業と中小企業との経営その他についての較差がますます開いてくるというような状況になっております。従いましてそういう点からいいましても、中小企業の安定をこの際はかるということは非常に大事なことではないかというふうに考えております。私どもの方としましては、…いろいろな組織を通しまして事情を聞いておるのでありますけれども、中小企業の実態そのものにつきましてまだ正確に把握していないという点がございますので、早急にこの際実態を把握することが必要ではないかというふうに考えました…。…私どもの方としましては従来の調査は比較的概略の程度でありましたので、思い切って今後におきましてはもっと詳しい、ほんとうに中小企業の実態がどういう状態になっておるのか、どんな点に非常な問題があるのか、いろいろ業界の方からも訴え、あるいはいろいろな方面でいろいろ論議されているけれども、果してこまかいところでどういう点にほんとうの隘路があるのであるか、どうすればこれを除去することができるのかというような問題についてもっと詳しく調査したいというような気持で現在やっておるわけであります。そこで政府といたしましては、こういう状態になっておりますので、何とかこの際早急に中小企業の問題について解決点を見出したいということで、六月の末に内閣に中小企業振興審議会というのを設けました。…そうしていろいろな問題につきまして検討をしておりますけれども、まだ結論は得ておりません。大体この機関は臨時的な六カ月程度の機関ということにいたしまして、その間に当面の問題につきまして、あるいは根本的な問題につきましても早急に結論を得るものにつきましてはこの六カ月の間に結論を得るというようなことにいたしまして、先ほど申し上げましたように、今日まで相当回数を開きましていろいろ検討いたしておるわけでございます。
*13) 当時の日本商工会議所会頭の藤山愛一郎氏のこと。会頭期間は、昭和26年9月から昭和32年7月。
*14) 昭和財政史P.276
*15) 昭和財政史によれば、事業団構想は次のようなものであった。
「中小企業信用保険事業団の構想とは、中小企業信用保険特別会計を吸収し、新たに産業投資特別会計より176億円を繰り入れ、合計200億円の資本金(特別会計の資金30億円のうち6億円は保険会計の累積欠損の補塡に充当)をもって事業団を設置するというものであった。そして、その資金を信用保証協会の保証基金と商工中金への預金に充当してそれぞれの機関に資金を供給するとともに、利子収入を保険会計の赤字補填に充てるという運用が考えられていた。」
*16) 包括保証保険制度自体は、昭和31年の信用保険法改正により導入されていたところ、その仕組みを原則とするというものである。昭和財政史の解説が、非常に端的なので以下引用したい。なお、導入当時は、保険契約先が中小企業信用保険特別会計につき、契約先は政府となる。
「包括保証保険制度は、昭和31年の「中小企業信用保険法」の改正(昭和31年法律第30号、31年3月26日公布、4月1日施行)によって新設されたもので、信用保証協会が、債務の保証を行うと同時にその保証につき自動的に政府との間に保険関係が成立するものである。包括保険制度の実施以前は保証協会が債務を保証した場合、政府との間で保険関係を成立させるかどうかは保証協会の判断であり(逆選択制)、よりリスクの高い債務について保険関係が結ばれることになり、それが中小企業信用保険特別会計の赤字の原因の1つとされていた。」
ちなみに、当時の包括保証保険制度の内容は、昭和31年3月8日の衆議院商工委員会における質疑で確認できる。
○永井委員(永井勝次郎議員)
 包括保証保険、これは従来とどういうふうに違い、どういう効果があるのか、具体的に御説明を願いたい。
○佐久政府委員(中小企業庁長官)
 従来の小口保証保険というのは、いわゆる保険逆選択制と普通言っておりますが、非常に信用力の弱いものについて保険をかけていく、何と申しますか、悪い企業について保険をかけていくという、選択の方法に余地を残しておるのでありますが、今度の場合は、一定のワクを国と契約いたしますと、二十万円以下の金額の貸し出しを行なった場合には、自動的に保険がかかっていくという、こういう点で非常に手続が簡易でありますのと、一般的に広くその恩恵を受けるという点が有利であろう、こういうふうに思うわけであります。
*17) 戦後の国民金融公庫から以降、一般化する「公庫」という名称は、当時のGHQが、戦前の「金庫」という名称を嫌ったことを踏まえ、戦後新たに作られた用語である。具体的には、国民金融公庫法案の検討過程において、当初は「国民金融公団」が構想され、それが「国民金融公社」へと修正されていき、さらに公社案から修正する際、金融機関としての経営が求められる中で、公社制度とはなじみ難いとのことで、戦前の「金庫」と名称を統合し「公庫」という用語が誕生した。このあたりの経緯について、国民金融公庫五十年史は、下記のとおり記している。
「役職員の身分など、公社制度にはなじみ難い面がみられる一方で、金融機関という業務の特殊性を明確にすべきとの指摘もなされ、新たな名称が検討された。結局、名称については、公社と金庫を折衷した「公庫」に落ち着いた。」
この「公団」や「公社」という用語が、金融機関としての経営上なじみ難いのではないか、という意見が出た背景までは明示的に記した資料が見たらないものの、この新機関が検討された当時の「公団」及び「公社」がどのようなものとして位置づけられていたかは、𩵋住にて、次のように指摘されている。
○公団
「…公団は、国策会社や営団のような官民協力とは全く異なる、公的独占の論理を持つ行政手法として登場した…」
○公社
「…いかなる論理を持つ行政手法として「Public Corporation」を具体化するかではなく、「Public Corporation」として存在すること、そのこと自体に意味がおかれた…こうして公共性と企業性を併せ持つはずの「Public Corporation」は換骨奪胎され、現業官庁の実質を維持した(つまり企業性を軽視した)公社が誕生することになった(日本国有鉄道・日本専売公社)。…公団がGHQの指令に基づく公的独占の論理を持つ行政手法であったのに対し、公社は特定の論理を持たない状況対応的なものであった。」
中小企業信用保険公庫が成立する昭和33年時点において、上記のような「公団」「公社」という用語についてどこまで厳密な議論があったかは不透明であるものの、金融機関としての経営が求められる中で、中小企業信用保険特別会計を「公庫」という組織形態としたことは、合理性のある判断であったと言えるのではないかと思われる。