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路線価でひもとく街の歴史

第40回 「岡山県倉敷市」

現代に受け継がれる大原孫三郎の情熱


倉敷湊と本町
慶長19年(1614)、大名茶人で知られる小堀遠州が大坂冬の陣の兵糧米を倉敷湊から積み出すため、倉敷川の傍に陣屋を構えたのが街の事始めという。児島湾が干拓されてできた平野が拡がる現代、倉敷には内陸の印象があるが、当時は児島湾に近く、倉敷湊は奥行き長めの堀込港のようだった。図1. 標高1.5m未満(白の部分)から標高1.5m未満の範囲をみると児島半島が島だった時代がうかがえる。なお遡れば倉敷も水面に鶴形(つるがた)山が浮かぶ島だった。山上に鎮座する阿智(あち)神社の主祭神が海上を司る宗像三女神であることにも港町の名残がある。
陣屋は幕府の代官所となり、明治21年(1888)には倉敷紡績の本社工場となった。現在の倉敷アイビースクエアである。明治以降も引き続き舟運の街で、倉敷紡績が原綿の荷揚や製品の積出に舟運を使っていた。鉄道輸送に押されつつも、岡山県統計書によれば昭和9年(1934)の時点で倉敷川岸は移出入取扱量の上から6番目。そして街の中心は倉敷川の後背地にあった。大正15年の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書には、倉敷で賃貸価格が最も高い場所として「本町(ほんまち)」とある。
本町には倉敷銀行の本店があった。倉敷紡績が創業して3年後の明治24年(1891)7月に設立される。倉敷紡績の資金調達が主な目的で、倉敷紡績の社長の大原孝四郎が初代頭取を務めた。大正8年(1919)9月、倉敷銀行は倉敷商業銀行その他5行と合併して第一合同銀行となる。倉敷銀行は第一合同銀行倉敷支店となった。預金、貸出金ともに倉敷支店が全体の4割を占めていたが、県域銀行を志向したことから第一合同銀行の本店は県都岡山市に置いた。頭取は大原孝四郎の長男、大原孫三郎である。合併を機に倉敷支店はルネサンス風建築に建て替えられた。岡山県出身の薬師寺主計(かずえ)が設計した。今も残る大正11年(1922)築の行舎は倉敷市指定の重要文化財だ。
昭和5年(1930)12月、第一合同銀行は山陽銀行と合併して中国銀行となった。頭取は大原孫三郎が務めた。第一合同銀行あらため中国銀行倉敷支店だが、支店網の再編で営業店舗としての役割を終え、平成27年(2015)に大原美術館に寄贈された。令和7年には美術館新館「児島虎次郎記念館」となる予定だ。

大原孫三郎の情熱
倉敷を語るに大原孫三郎は外せない。第一合同銀行、中国銀行の初代頭取で、倉敷紡績の2代目社長である。
大原孫三郎は東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する。在籍時は講義にほとんど出ず高利貸しから借財して大尽遊びに耽っていた。父親の孝四郎は激怒し孫三郎を倉敷に呼び戻す。無聊を託っていた18歳の夏、倉敷に来演した岡山孤児院主催のチャリティーコンサートに行った。幕間で登壇していたのが、15歳年長で岡山孤児院を主宰していた石井十次(じゅうじ)である。この、明治32年(1899)7月の出会いが後の改心のきっかけとなった。3ヵ月後、町内で薬種問屋を営む林源十郎のつてを辿り孫三郎は岡山孤児院を訪問する。林源十郎の尽力もあり孫三郎は石井への心服を深め、2年後の3月には岡山孤児院の基金管理者を引き受けるに至る。石井は孫三郎の縁談を進め、孫三郎は11月に林源十郎夫妻の媒酌で石井スエ(後に“寿恵子”。同性だが石井十次と縁戚関係なし)と所帯を持った。このとき21歳だった。
身持ちとともに行動指針が定まったのはこの頃だ。翌年3月の日記にこう記している。「この資産を与えられたのは、余のためにあらず、世界のためである。余はその世界に与えられた金をもって、神の御心に依り働くものである」。孫三郎は25歳のとき洗礼を受け正式にキリスト教の信徒となった。日本基督教団の倉敷教会が発足したのはその翌年の明治39年(1906)である。洗礼を授けた溝手文太郎が初代牧師で設立時の信徒は孫三郎を含む25名だった。孫三郎が倉敷紡績の社長と倉敷銀行の頭取を引き継いだ年でもある。このとき26歳、いよいよ孫三郎の活動が本格化する。

大原孫三郎が残した街のインフラ
大工場を経営する大原孫三郎が心血を注いだのは福祉・衛生事業だった。工場寄宿舎で腸チフスの集団感染が発生した件で先代が引責辞任した経緯もあり、工場内の労働衛生に取り組んだ。まずは今でいう貧困ビジネスの「飯場制度」を止め、採用や福利厚生を直営化した。万年床状態だった大部屋寄宿舎を廃止し、定員5人の戸建に分かれて住む「分散式家族的寄宿舎」を整備した。後年、倉敷駅北口の万寿(ます)工場内に倉敷労働科学研究所を立ち上げる。ここでは学術誌「労働科学研究」を発刊し研究成果を公表していた。現在は大原記念労働科学研究所に引き継がれている。
現在、倉敷市を中心とする県南西部の基幹病院は1,172床を擁する倉敷中央病院である。一見公立病院のようだがそうではない。公益財団法人の大原記念倉敷中央医療機構が経営する私立病院で、大原孫三郎が立ち上げた。大正12年(1923)6月の開院で当時は倉紡中央病院といった。倉紡従業員の福利厚生のための病院だったが、地元住民の診療も受け入れていた。昭和2年(1927)倉敷中央病院に改称する。
立ち上げにあたって大原孫三郎が挙げた方針の1つが「病院くさくない明るい病院」だ。まずはオレンジ色の瓦屋根が印象的な旧館のデザインに表れている(図4. 倉敷中央病院)。これも薬師寺主計が設計顧問として関わった名建築だ。中には温室が外来患者用、入院患者用に2つ設えられ、熱帯植物が患者の心と身体を癒していた。近代的な新館が林立する現在も、場所や形を変えながら同院のシンボルとして引き継がれている。
大原奨学会を設立し有為の若者を支援してきた大原孫三郎は市内に教育施設を残している。例えば県立倉敷商業高校は、孫三郎が夜間学校として始めた倉敷商業補習学校が前身だ。研究機関に目を転じれば、岡山大学資源植物科学研究所は大原奨農会農業研究所が起源である。大原家は2,500人の小作人を持つ地主だった。傘下小作人の所得向上ひいては家業でもある農業の生産性向上を目指し、研究所と試験農場を整備した。岡山名産の白桃やマスカットも研究成果の1つだ。
他にも大原家が始めた公共施設がある。まずは保育園、岡山県初の保育園「若竹の園」は孫三郎の妻の大原寿恵子(スエ)が発起人だ。次に公民館だが、大原美術館の隣の庭園「新渓園」は元々大原家の別邸だ。大正時代に倉敷町に寄附され、敷地の和風建築が公民館として使われていた。今でも倉敷市観光課が所管する公の施設だ。電燈事業を起こしたのも大原孫三郎である。孫三郎は「街」そのものも作っている。大正8年(1919)に倉敷住宅土地株式会社を設立。鶴形山の北の旭町一帯を買収し、新市街地を造成した。市役所その他の公共機関も誘致している。
大原孫三郎が残した街の遺産で最も知られているのは、昭和5年(1930)に開館した大原美術館だろう。所蔵作品ではエル・グレコ「受胎告知」が特に有名だ。大原奨学会で以前から支援していた1歳下の児島虎次郎の熱意に応え、彼に依頼して名画を集めさせた。児島は昭和4年(1929)に47歳で世を去る。崇敬する石井十次の長女を嫁がせるほどの親友でもあった児島の遺志を汲み、彼が集めた名画を展示する常設館を建てた。ギリシャ神殿風の本館も薬師寺主計の設計による。児島と同じく彼も大原奨学生だった。

駅前の発展とその後の郊外化
明治大正を通じて本町が倉敷の中心だったが、戦後は駅前に賑わいが移った。倉敷に鉄道が到達したのは明治24年(1891)4月である。現在の山陽本線は民間資金で敷設された。社名を山陽鉄道といった。
筆者の手元資料で確認できる最古の最高路線価は昭和44年(1969)のもので場所は倉敷駅前の「栄町スーパーみとう」である。同じ通りには岡山市に本店を構える百貨店「天満屋」の支店があった。天満屋の場所には昭和28年(1953)から地元資本のつるや百貨店があった。その後、菊屋百貨店に引き継がれ、昭和36年(1961)に天満屋が資本参加する。昭和39年(1964)に天満屋倉敷店となり、増築を経て昭和42年(1967)に新店舗がオープンした。昭和45年(1970)には駅の北側にダイエーが開店。昭和55年(1980)には駅前一帯が再開発され、駅前広場とその両側のビル2棟ができた。その1つに三越が入居した。
一方、市街地の外縁を迂回する南北のバイパスに沿って郊外店が増え、中心街の南の笹沖地区に新たな集積ができてきた。郊外流出はなお進み、とりわけ中心商業に大きな影響をもたらしたのが平成11年(1999)、クラレの工場跡地に店舗面積は59,351m2でオープンしたイオン倉敷ショッピングセンター、現在のイオンモール倉敷である。平成14年(2002)にダイエーが閉店。3年後の平成17年(2005)5月には三越倉敷店が撤退した。三越跡はしばらく空きビルになっていたが、平成20年(2008)3月、駅前の天満屋が移転してきた。他方、天満屋移転後の駅前商店街は集客の核を失い、シャッターを閉めた店が目立つようになった。
平成23年(2011)、倉敷駅北口にアリオ倉敷と三井アウトレットパーク倉敷が開業した。元は倉敷紡績万寿工場があった場所で、工場撤退後は平成9年(1997)7月から平成20年(2008)12月までテーマパーク「倉敷チボリ公園」があった。駅前には違いないが元の中心街のある南口の反対側であり、郊外立地に近い。

観光施設への再生
駅前や郊外の発展の一方で長らく時間が止まったかのように見えた本町界隈だが、その古い町なみが強みとなり、いまや屈指の観光名所になっている。
町なみ保存の源流を辿ると、「倉敷をドイツの歴史的都市ローテンブルグのようにしたい」が持論の大原總一郎に行きつく。大原總一郎は孫三郎の長男である。總一郎は倉敷で最も早い保存事業に関係している。昭和23年(1948)、大原家が所有していた江戸時代後期の米倉をリノベーションして倉敷民藝館を整備した。
昭和43年(1968)、倉敷市伝統美観保存条例が制定された。これを機に定められたのが「倉敷川畔美観地区」である。倉敷美観地区の登場だ。歴史的町なみ保存が制度化された。新幹線の岡山延伸もあいまって倉敷を訪れる観光客が増えてきた。特に若い女性の人気を集め、当時「アンノン族」と呼ばれた個人客が多く訪れた。宿泊ニーズの受け皿として期待されたのが倉敷アイビースクエアである。操業停止していた倉敷紡績の本社工場をリノベーションしたホテルで、昭和48年(1973)の開業だ。敷地内には体験工房やセレクトショップ、企業博物館の倉紡記念館がある。施設名の由来でもある赤レンガの建物を覆っている蔦(アイビー)は元々空調目的で植えられたものだ。平成19年(2007)には経済産業省から「近代化産業遺産」の認定を受けた。
「倉敷」といえば大原美術館や倉敷民芸館がある倉敷川沿いの風景を浮かべる人が多い。一方、本町を中心に旧街道の町なみ再生も着々と進んでいる(図6. 修景が進む本町の町なみ)。40年以上前から町家再生に取り組んできたのが、倉敷建築工房の楢村(ならむら)徹氏である。旧街道に沿って楢村氏が手掛けた案件がかなりの密度で点在する。はじめは点だった町家の再生が、その進捗につれ面的な歴史的町なみに育ってきた。再生案件の1つが「林源十郎商店」である。元は、大原孫三郎と石井十次を引き合わせた林源十郎が経営していた林薬品の店舗兼事務所だった。本館、旧住居、蔵および離れの4棟をリノベーションし、セレクトショップやカフェ、レストランが複数入居する「林源十郎商店 倉敷生活デザインマーケット」になった。屋上には展望テラスがあり美観地区の町なみが眺められる。
ふりかえると、近代のインフラから現代の観光コンテンツまで、倉敷のまちづくりに関する多くは大原孫三郎の取り組みに源流を見出せる。もっとも孫三郎自身はまったくの聖人君子というわけではなく、本業は多数の従業員を率いる経営者であり、大富豪なりの毀誉褒貶もあったようだ。ただ、筆者は孫三郎が日記に「すべての罪は金に依りて犯せるにあらずや」と書いていることに目を留めた。ルカ福音書の次の一節と結びついたからだ。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。今なお倉敷の人々の尊敬を集める大原孫三郎だが、この一節はその生涯を端的に示している。倉敷の街の歴史が興味深いのは、そうした孫三郎の情熱と後生への連鎖をうかがい知ることができるからだ。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図2. 旧第一合同銀行倉敷支店
図3. 市街図
図5. 広域図