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信用補完制度の解説~主に信用保険制度の観点から~(Ⅰ)


大臣官房信用機構課地震再保険係長(前 政策金融課政策金融第2係長) 中川 忠明


1.はじめに
今般の新型コロナウイルス感染症(以下「新型コロナ」という。)に係る資金繰り支援において、「民間ゼロゼロ融資*1」という言葉を聞いた方は非常に多いだろう。その際、活用されたスキームの一つが「信用補完制度」であるが、「信用補完制度」がどういう制度か、と言われるとなかなか表現しづらい、という方は多いのではないだろうか。
では、少し言葉を変えて「信用保証協会」という機関はどうだろうか。中小企業者の方や金融機関職員の方にとっては、また各地域に即した、いわゆる制度融資を設計・運用する上で、地方公共団体職員の方にとっては、信用保証協会という存在は馴染みあるものであろうと思う*2。
一方で、信用保証協会は、現代日本における信用補完制度のあくまで一構成要素であり、どのような仕組みでその安定的な運用がなされているか、よく使う保証メニューが何によって決まっているのか、ということまで認識されていることは、殆どないのが実態ではなかろうか。ましてや、財務省が関係していること自体、殆ど知られていないであろう*3。
実際のところ、信用補完制度がどのようなスキームなのかについて、一般的に解説しているようなものは乏しいというのが率直な感想である。確かに、例えば金融機関職員の方にとっては、どのような保証メニューがあって、どう申請してということが実務上大事であり、地方公共団体職員の方にとっても、どういった保証メニューを活用して制度融資を運営しようかということが第一であろうから、そのような全体像の解説需要は乏しいのだろう。
しかしながら、先述の民間ゼロゼロ融資により、信用補完制度の運営環境は、新型コロナ対策以前と大きく異なってきている。そのことは、株式会社日本政策金融公庫の信用保険事業(以下「公庫保険」という。)の保険引受額が端的に示してくれている。
信用補完制度は、信用保証制度と信用保険制度の2つの制度から成立しており、端的に言えば、信用保証制度による民間金融機関の貸付債権に係る保証は、信用保険制度によってまとめて保険される仕組みとなっている。したがって、信用保険制度を実際に運営する公庫保険の保険引受額を見れば、その利用状況が把握できるところ、令和2年度を新型コロナ対策の初年度とするならば、令和2年度は前年度比で約4倍(399%)にまで拡大したのである。
過去に無い環境変化が明白に生じているならば、制度のパーツ・パーツでの部分最適化も勿論重要ではあるけれども、その制度全体像を認識・把握することも、中長期的視点に立てば、信用補完制度をより良くしていく上で非常に重要なことではないかと思われる。
また、上記に限らず、信用補完制度を担当する機会をいただく中で常々思っていたことであるが、そもそも信用補完制度について、ある大きな制度改正時の資料や、専門誌としての記載はあるとしても、全体像を解説したようなものは先述のように非常に少ないように思われ、その点、何かまとまった解説があってもよいのではないかとも思うのである。
現況では、仮に信用補完制度に何らかの形で新たに携わることとなった者、また官民の立場に関わらず制度について理解を深めたい者がいたとしても、まず制度改善等議論をする際の適正なスタートラインに立つだけで、非常に時間と労力を要するだろう。
とはいえ、信用補完制度について、本稿だけで網羅することは、困難であると言わざるを得ない。同制度は、経済産業省(中小企業庁)や財務省等に所管がまたがり、またその歴史的経緯等もあって、非常に複雑になっているからである。
一方、何らかがなければそういう理解・議論の端緒すら、現況では乏しいわけである。僅かながらも当該制度について興味を持っていただくこと、また、何らかの金融実務や政策にあたりご参考となるものが出来るならば、それに越したことは無いし、そういうものとなるよう、この機に書かせていただきたいと思う*4。
なお事前にお断りしておくと、財務省は信用補完制度のうち、信用保険制度(公庫保険)からのみ関与している状況にある。そのため、信用補完制度全体を捉えるにあたり、当該制度(事業)に軸足が寄りすぎているような部分があるかもしれない。そのような部分が仮にあったとすれば、何卒ご容赦いただきたい。
また、可能な限り包括的な情報量としながら、簡潔に述べるよう努めたものの、結果として文量はそれなりのものとなってしまっている。その代わり、歴史的経緯、法令、予算というように、テーマごとに切り分けているため、必要な箇所については、単独でご活用いただければ幸いである。
最後に、全部で4部にわたる本稿の執筆に当たり、公庫保険及び経済産業省(中小企業庁)の皆様には、様々な面でお力添えを頂いた。改めて御礼申し上げたい。なお、意見に亘る部分は筆者個人の私的見解であり、政府や財務省の公式見解ではない。また、ありうべき誤りは、全て執筆者個人に帰属するものである。
(注) 引用にあたり、原文は旧字体であるものについて、一部については、常用漢字に直している。なお、引用している条文等は、特段断りがない限り、令和5年4月1日時点のものとした。


2.そもそも「信用補完制度」とは何か
さて、具体的な解説は、今後述べていくとしても、中小企業者の方や金融機関職員の方、また、地方公共団体職員の方(特に中小企業政策を担当される方)ならばともかく、そもそも、この制度(信用補完制度)に限らず、信用保証協会すらどういうものか分からない、という方がおられるかもしれない。
そこで、ここでは、極めて概略的ながら、現行の信用補完制度というものが、どういうものかを説明させていただければと思う。
まず、この信用補完制度というものが、一般的にあまり知られていないのはなぜだろうか。その理由は、この制度が、民間金融機関が行う「貸付」とセットで運用される制度であるからに他ならない。いわゆる日常の預金や資産運用という取引では、まず接点すらないのである。また、その貸付も、信用保証協会法(昭和28年法律第196号)第1条が端的に示すように、中小企業者等を対象としている。したがって、上記の方々には非常に馴染み深い制度となるのである。
○信用保証協会法(抄)
(目的)
第一条 この法律は、中小企業者等が銀行その他の金融機関から貸付等を受けるについてその貸付金等の債務を保証することを主たる業務とする信用保証協会の制度を確立し、もつて中小企業者等に対する金融の円滑化を図ることを目的とする。
では、ここで出てきた信用保証協会が何かというと、これこそが実際に、民間金融機関が行う貸付について、万が一、借主が返済できない場合に、民間金融機関へ代位弁済を行うという「信用保証」を行う存在である。いわば、信用補完制度の最前線であり、全国に51協会ある。文字通り都道府県単位レベルで(横浜市、川崎市、名古屋市及び岐阜市には市単位でも)存在するため、まさに地域単位での資金繰り支援を行うことが可能となっている。そして、上記の保証を受けるにあたっては、信用保証協会による審査が行われるとともに、実際に保証承諾となった際には、民間金融機関への利払いとは別に、借主は信用保証協会に対し保証料を支払う、という仕組みになっている。この制度が、一般的に信用保証制度と呼ばれるものである。
次に、こうして保証料を得た信用保証協会は、あらかじめ公庫保険との間で保険契約を締結しており、必要な保険料を支払う。こうすることで、仮に上記のように借主が返済できず、信用保証協会が民間金融機関へ代位弁済した場合は、公庫保険から信用保証協会に対し、保険金が支払われるようになる。言い換えれば、信用保証協会がその自身の財務状況等により、過度に躊躇することなく、必要な信用保証を提供できるようになっているのである。この制度を、一般的に信用保険制度と呼んでいる。
とはいえ、いくら保険料を得ているとはいえ、このままでは公庫保険の財務基盤が脆弱となった場合、十分な信用保険が提供できなくなり、結果的に信用保証も提供が難しくなってしまいかねない。そこで、公庫保険に対しては、政府から国家予算に基づいて出資がなされている。有り体に言ってしまえば、信用保険制度は、国家資金をバックにすることで、制度の安定化を図っているわけである。
そして、このような信用保証制度と信用保険制度からなる制度の総体を「信用補完制度」と呼ぶ。また、ここまでの内容をイメージで示すと、図表1. 日本の信用補完制度スキームと役割のとおりである。実際は、様々なアクターが登場するためより複雑なのだが、上記の内容を踏まえつつこの図をご覧いただければ、大まかな制度構造はご理解いただけるのではないかと思う。
なお、この信用補完制度のうち、信用保険制度の部分から見た実績状況が図表2 信用保険業務の実績である。先述の通り、信用保証協会の行った信用保証は、結果的に公庫保険による保険契約との関係に集約されるため、公庫保険の業務実績を見ることで、その全体像を捉えることが容易となる。新型コロナに係る資金繰り支援において、信用補完制度が大いに活躍したことは冒頭で述べたところであるが、令和2年度の実績を見れば、いわゆる平成金融危機(金融安定化保証の時期とする場合、平成10年から12年の間)やリーマンショック(緊急保証の時期とする場合、平成20年から22年の間)といった危機時をも上回る活躍を求められたことがわかるであろう。
このようにして信用補完制度は、現在の日本において、危機時への対応を含めて、非常に重要な資金繰り支援ツールとして安定的に稼働・定着している。なかなか目には見えづらく、いかんせん複雑であるので理解されにくいものの、国民生活の安定と発展に寄与してきた重要な制度と言って過言ではないであろう。
では、このような制度は、何時、どのようにして成立してきたのか。また、その根源を辿るのであれば、どうしてこのような制度が必要とされたのか。まずはそこを明らかにしていきたいと思う。単なる歴史的記述と言ってしまえばそれまでかもしれないが、いわゆる「そもそも」を理解することが、結果的にその制度を理解する上で最短距離になると考えるからである。


3.信用補完制度が必要とされた背景
日本の信用補完制度は、先に結論から言ってしまうと、戦前の信用保証協会の創設から始まり、戦後に再保険機能が加わり、最終的に、中小企業信用保険公庫(現:公庫保険)の設立を以て、現在の信用補完制度が成立するという経緯を辿ってきた。
したがって、そもそもの議論を理解するには、戦前期の世界観を理解することが、結果的に最も早いのだろうと思う。現在では考えられないような論点が存在していたのか、それとも現在社会にも通底する問題がそのころから存在するのか、まずはその原点となる環境を確認することとしたい。
(1)戦前期までの日本の金融環境
専門的な金融史からすると極めて簡素なものではあるが、そもそもの日本における金融機関の誕生経緯を、まずは押さえておこうと思う。
日本が近代国家として歩み始める中で、明治初頭に銀行制度*5が導入されたことはそれなりに知られたことと思われるが、銀行制度が普及していく一方、いわゆる中小企業者をはじめ、多くの事業者等、より広く言えば借入を希望する者にとって、銀行は遠い存在であった。例えば、1932年に当時の商工省が行った調査において、「…代表的な八工業組合の組合員について調査した結果によれば、銀行からの借入金は総借入金の平均二四・五%であつた*6」とあるように、多くの中小企業者等は、銀行から融資を受けること自体困難であった。
本質的には今にも通じる論点であると思われるが、中小企業者等への金融(貸付)というものは、(1)少額、(2)不定期、(3)予測困難という3点の特色があると言えるかと思われる*7。率直に言えば、その貸付コストに見合わないことが多い顧客層ということであり、銀行にしてみれば貸付しようとならないわけである。それが不景気な時であれば、言うまでもない。
一方、だからといってそういった層になんら金融手段が無いとなると、そもそも生活が成り立たない。では、そういった層はどのような手段を取っていたかというと、簡単に言ってしまえば、インフォーマルな金融手段が機能していた。すなわち日本の場合、生計資金的な部分であれば、主に無尽・頼母子講といった手段が、商工業の事業資金的な部分であれば、いわゆる問屋金融等が機能していたわけである。勿論、戦前期の中小企業者等には、生計資金と事業資金の境目も曖昧な者が多くいたであろうから、はっきりと目的別に金融手段が分かれていたというよりは、あくまで代表的な金融手段として見るべきであろう。
ちなみに、無尽・頼母子講とは、今となっては殆ど知られていないように思われるが、これは、会員間で掛金を出し合い、その会員間で資金融通を行う方式である。対する問屋金融とは、文字通り問屋、買継商、原料商といった者から資金融通を受ける方式である。今となっては、こちらもなじみの薄い金融手法であるが、商工組合中央金庫二十年史の表現を借りれば「…問屋、買継商から開業資金の融通を受けたり、原材料購入資金、職工賃金等に充てるため製品販売代金の前貸を受けたり、また原料商から原材料の貸与を受け製品販売代金の回収をまつて返済を行うといつた方法…」であった。
しかしながら、現代の日本ではなかなか見ることのできないこのような金融手法は、内容を見ても容易に想像できるように、非常に不安定な金融手法であったし、敢えて文章化すると次のような問題があった。
まず、無尽・頼母子講の場合は、「…限られた友人・隣人関係に依存して構築せざるを得ず、結果として供給金額が過少になりがちとなる…」だけでなく、「…必要な時に資金を手に入れられないという資金需給時期のミスマッチの問題…」を克服することが出来ない。仮に、資金需給時期のミスマッチを解消しようとするならば、入札方式を導入することになるところ、それは「…より資金を必要とする者がよりディスカウントされた取り金を取得することになりかねず、事実上の高利払いとなってしまう…」*8。
そして問屋金融の場合、「…最も簡便な反面、高金利その他の悪条件を課せられ、更には経済的強者、弱者の関係から営業上種々の拘束を受ける事例が少なくなかつた。のみならず不況の深刻化に伴つて問屋自体に破綻を来たす者が続出したので問屋金融に依存していた中小商工業者もその親柱を失い困窮の果、質屋、金貸業の許に走らざるを得な…」*9くなるという問題が存在したのである。
上記の不況期の記載は、後述する昭和初期の恐慌を背景とした記載であるが、少なくともここから見えるのは、昭和初期の時点であっても、中小企業者等は現在の想像よりも非常に金融面で脆弱な存在であったし、社会が発展する中でフォーマルな金融手段が増えていったであろう中であっても、その脆弱性は容易に改善されない状況に置かれていたという事実であろう。

(2)信用組合の誕生
通常の銀行制度では資金融通を得られない者への資金融通をどう実現するか、これは上記の内容からも見えるように、社会の発展・安定という観点では非常に重要な問題であった。そして、これらの問題へのフォーマルな解決策として導入を企図されたものが、現在でいう信用組合であった。ここでは、信用組合制度の導入について、その背景や経緯を簡単に説明しておこう。
日本において信用組合という概念は、「…1870年代のドイツに留学していた品川弥二郎内務大臣以下の内務官僚や、法制局部長平田東助…」の主導によって、具体的に法制化が図られたものである。当時の経緯としては、「…地域政策・治安政策を担当する内務省で社会政策として構想・提案され」たものであり、その背景として「…階級対立を未然に防ごうとする防貧的社会政策の一つの実践形態として移入…」するという点があった。この内務省主導の信用組合構想は、当時の帝国議会において、政府が解散に追い込まれたことにより廃案となり、また1897年にも廃案となったものの、「…1900年にようやく農商務省主導で「産業組合法」…が成立し、産業組合の一形態としての「信用組合」が法認…」されることとなった*10。
ただ、実際に成立した法案が農商務省主導であったこともあり、日本において法認された信用組合は、「…農村振興事業としての性質が一層強くなり、市街地への浸透力を欠くもの…」になってしまい、「…その点は後々まで政策課題として長く残ることに…」なったのである*11。
そして、この上記の政策課題は、戦前日本がその近代化を推進する中でこそ、更に重要度を増していった。

(3)都市部のための金融手段の模索
農村部を主要対象とする産業組合制度では、都市部における中産層以下の資金需要に応えられていない、こうした実状を背景に、政府も各種手立ては打ち始めていた。例えば、当時の内務省は公益質屋を制度として創設し、また当時の大蔵省は1912年、「庶民銀行」を構想することとなった。
しかしながら、既に産業組合法を所管する当時の農林省は「庶民銀行」構想に対抗することとなり、妥協策として、1917年の法改正により、都市部に適した信用組合として「市街地信用組合」が創設されることとなる。この信用組合は、従来の産業組合としての信用組合と異なり、組合員以外の預金の吸収・手形割引などの金融機関的な広い業務を行うことで、都市の中小商工業者の共同組織金融機関として定着することが期待されていた*12。なお、この市街地信用組合は、戦前末期に産業組合法から分離し、単独法として成立、戦後の混乱期を経て、最終的に信用組合制度から完全に分離し、現在の「信用金庫」へと発展することとなる。では、こうした公益質屋や市街地信用組合の導入により、少しは中小企業者等の資金的困窮は解消されたのかというと、結果的に、それらの層の資金需要に応えているとの評は得られなかった。むしろ、昭和期の恐慌に突入する中で、中小企業者等の資金的困窮は、一層極まっていくのである。
結果的にこうした問題の表面化・社会問題化は、都市部の中小企業者等の資金需要を満たす金融機関・制度の必要性が叫ばれる要因となり、最終的には、中小企業者等の専門金融機関という点では、組合金融を行う商工組合中央金庫の創設に繋がっていく。さらに、国家総動員体制の強化を追い風に、通常の銀行等では対応が難しい層への金融手段の提供、社会的安定性の確保といった観点からは、恩給金庫及び庶民金庫が創設されていくこととなったのである*13。そして、今回の本題である信用補完制度の始まり、信用保証協会の創設も、先に結論だけ言ってしまえば、こういった社会状況の中で誕生することとなった。
そしてここから見えてくるのは、銀行制度では資金需要を満たせない層への資金供給手段を講じるという点は、戦前から議論されてきたものの、都市部の中小企業者等の資金需要に応えられるような機関・制度の整備を強力に推し進めたのは、大正末期から昭和初期にかけての社会状況にあったということであろう。
では、中小企業者等の資金需要を適切に満たし、また過度に不安定な状況に置くことを避けることの社会的必要性は、何故この時期において一層認識されることとなったのか。それを理解するためには、歴史の教科書的な内容にはなってしまうが、まさにその時期の社会状況そのものを理解することが最も近道であろう。

(4)大正末期から昭和初期にかけての社会状況と中小企業者等への金融支援
では、こうした中小企業者等の金融問題が噴出する背景はどこにあったのか。これについては、様々な分析・解釈があると思われるが、あくまで個人の理解としては、第一次世界大戦がそれらを生み出す境界線になっているように思う。以下、そのあたりの時間軸から、日本史の教科書のようなものになってしまうが、昭和初期までの社会状況を概説していきたい。
(恐慌・社会不安定化の芽(第一次世界大戦))
一般的な教科書でも述べられるように、元号を明治に改め、近代国家としての歩みを始めた日本は、富岡製糸場でも知られるように、紡績業等の軽工業から工業化の道を歩み始め、その後、日清・日露の両戦争での勝利を経る中で、徐々に重工業化の途を辿るようになった。
そして、そういった過程で発生した第一次世界大戦は、日本にとって空前の好景気をもたらすこととなった。すなわち「大戦の当初においては輸出入の杜絶と戦争の見通し困難のため、むしろ打撃と混乱の様相を呈したが、輸出の増大はまず軍需品から始まり、一年後にはそれまで欧州品に頼つていた東洋諸国等がその輸入難のため供給を我が国に求めるに至つて、綿糸布、同二次製品、各種雑貨、紙等の民需品の需要が殺到したため、大戦景気は本格化し大正五年から六年にかけて最高潮に達した*14」のである。また、こうした中で中小企業者等は「…新設転換が容易であるという特質を活かして、どしどしと輸出品工業に進出あるいは転換して行つた*15…」のであった。
しかしながら、そういった好景気の中では、いわゆる戦争成金が生まれる一方で、輸出過多による物資不足や物価高騰が始まり、いわゆる一般庶民の生活は困難になり始め、徐々に社会不安定化の芽が芽生えるようになる。

(戦後恐慌の発生)
こうした状況の下、第一次世界大戦が終結すると、当該大戦において大きな損失を受けなかった日本は、一時的な景気後退はありつつも、暫くは好景気を維持できていた。一方、徐々に欧州諸国の生産が正常化されていくと、第一次世界大戦中に構成された過剰な生産体制は、輸出用の生糸・綿糸の価格下落等の形で徐々に表面化してくることとなる。
そして最終的に、1920年3月15日に株式暴落、4月には大阪の増田ビルブローカー銀行の破綻、さらにその後、横浜の貿易商・茂木商店の機関銀行であった七十四銀行の休業により、ついに金融恐慌に発展してしまう。この過程で、いわゆる戦争成金の多くは没落し、結果的に財閥による大企業独占・寡占体制が強化されるようになるわけであるが、金融においても、預金が大銀行に集中するようになり、いわば中小銀行が淘汰され始める時代が始まったのであった。

(関東大震災の発生)
さらに、こうした戦後恐慌への対処を進めていた日本経済に大打撃を与えることとなったのが、1923年の関東大震災である。関東地域への甚大な物理的被害は勿論のこと、様々な社会混乱が巻き起こった。そしてこの混乱において、金融も当然の如く例外とはならず、こうした社会混乱の中で銀行が保有する多くの手形が決済不能となったのである。
こうした異常事態に対処するため、政府は1億円を限度に、いわゆる「震災手形割引損失補償令」(「日本銀行ノ手形ノ割引ニ因ル損失ノ補償ニ関スル財政上必要処分ノ件」(大正12年勅令第424号)。以下同じ。)を発し、銀行が保有する、いわゆる震災手形を買い取る形で緊急融資を実施することとなった。
加えて、このような中で、復興が本格化すると、それはそれで問題を引き起こすようになった。すなわち、「…大正八年以降連年入超を続けてきた貿易尻が復興資材輸入のため一段と悪化…在外正貨は枯渇し為替相場は暴落を演ずる等震災の影響は愈々深刻化*16…」し始めたのである。このような事情を背景に、「…為替不安解消、経済建直しのための金解禁即行論が漸く強大な意見となつて抬頭する…*17」こととなるのであった。
そして、こうした震災手形、金解禁といった論点は、最終的に昭和初期の恐慌問題そのものを発火させる導火線となるのである。

(昭和初期の恐慌~昭和金融恐慌と昭和5・6年恐慌~)
年号が昭和に変わって早速の1927年、まずは先述の震災手形が問題を生じさせることとなる。実は、震災手形割引損失補償令に基づく震災手形の決済期限は、当初は2年であったところ延長が繰り返され、最終的に1927年9月末がその期限となっていた。そういった中で当時の若槻内閣は、1927年1月、先述の金解禁議論も踏まえ、早期に日本を金本位制に復帰させるべく、震災手形を処理するための法案2本を帝国議会に提出する。しかし、この議会での質疑が、世間でもよく知られている、昭和金融恐慌の幕開けであった。
1927年3月14日、当時の野党は、この救済策を、言わば一部資本家への救済策として厳しく追及していた。そういった最中、野党から「銀行が破綻した場合に、政府はいかなる手段を取るのか」といった趣旨の質問を受けた、時の片岡蔵相は「今日正午頃に、渡辺銀行が破綻した」という内容の発言をしてしまう。よく知られているように、この時点で東京渡辺銀行(渡辺銀行)は、資金繰りに窮していたものの破綻はしていなかったのであるが、この発言を機に、東京渡辺銀行等が休業してしまうのである。
そして、一般的にこれが契機になって昭和金融恐慌が一気に始まったかのように思われがちであるが、実はこの東京渡辺銀行の件以上に問題であったのは、先述の法案2本が審議される過程で判明した、台湾銀行及び鈴木商店の財務状況の悪化であった。それらの事情が開陳されていく中で、鈴木商店への貸出は引き締めが始まり、最終的に同年4月5日、鈴木商店は内外新規取引の中止を発表。また、鈴木商店と密接な関係を有していた台湾銀行も最終的に休業へ追い込まれてしまう。
そして、こうした事態が進む中で、関西地方の有力銀行であった近江銀行、宮内省御用として絶対的信用のあった十五銀行までが休業する事態となり、ここに全国的な取り付け騒ぎが発生したのである。預金保険制度すらない当時、絶対的な信用があった銀行までが休業する、救済されないという事態となっては、民心としては当然の行動であり、最終的には郵便貯金にまで取り付け騒ぎが発生した*18。
そして、こうした昭和金融恐慌により、全国的に銀行が休業しはじめる中で大きく問題となったのは、中小企業者等の金融手段が絶たれていくという問題であった。銀行取引が可能な中小企業者等を主に取り扱っていたのは、いわゆる中小銀行であり、それらがこの金融恐慌の中で休業していったため、中小企業者等は金融の途を絶たれた上、銀行の整理によって預金の凍結あるいは切捨てを受けたのである。また、銀行側も主取引層たる中小企業者等から貸金回収を図ったため、一層状況は悪化した。さらに、銀行側の整理・強化のため、1928年に銀行法が施行されると、不安定な中小企業者等への資金融通は、一層困難なものとなっていった。
こうして、中小企業者等への資金繰りという問題は、昭和金融恐慌という全国的な信用収縮の過程で、銀行取引が出来ていた中小企業者等すらその融資対象から排除されていくことにより、喫緊の社会的課題として浮上したのである。
そして、こうした金融上の混乱の上に、中小企業者等への更なる経済的圧迫となったのが、1930(昭和5)年に行われた「金解禁」と、それに伴う不況であった。金本位制ではない今となってはよくわからない物事に見えてしまうが、表面的に経緯を述べておこうと思う。
第一次世界大戦が勃発して以降、主要国は、一時的に金の輸出を禁じていた。金本位制という環境下において、兌換紙幣としての裏付けである金が国外に流出することを防ぐためである。
その後、第一次世界大戦が終結すると、多くの主要国は金の輸出解禁(金解禁)を行い、金本位制へ復帰していった。一方、関東大震災のような巨大災害等もあり、輸入超過が続く日本は、主要国で唯一復帰できていない状況にあった。こういった状況が続くことは、国際的な信用にも関わる問題であった上に、産業界や金融界からも強い金解禁要求があったこともあって、時の政府は、金解禁の準備を進めることとなる。
この際、金解禁により復帰しようとした水準が、言わば実際の経済力に比べて円高であったため、政府としては、当該水準に見合うよう(円の価値が上がるよう)、国内物価の引下げ等、消費の圧縮を図っていった。そして、そのタイミングに偶々、米国発の世界恐慌(1929(昭和4)年)が重なったことが事態を重篤化させてしまった。すなわち、金解禁を予定通り行った結果、過度な円高状況となり輸出急減、さらに世界的な景気急減速の中で輸出不振は一層深刻となり、国内の購買力は縮小し、物価は大幅に下落したのである。そして、こうした要因だけではないが、その他複数の要因がこの時期に重なり、結果、1930・1931(昭和5・6)年あたりにかけて、日本は恐慌状態に陥ったのであった*19。
そしてこのような急速な景気悪化は、昭和金融恐慌によって大きなダメージを追っていた中小企業者等には、まさに追い打ちであった。今となってはなかなか想像・理解しがたい部分はあるだろうけれども、結果的にこうした不況・災害等の積み重なりが、金融的に脆弱な中小企業者等への金融支援の重要性を浮かび上がらせることになったのである。

(政策的な中小企業者等への金融支援の始まり)
さて、このようにして大正末期から昭和初期にかけての社会状況、とりわけ昭和金融恐慌を契機に、日本において中小企業者等への金融支援の必要性が、社会問題として急浮上していったわけであるが、一方で、全くもって中小企業者等への金融手段が未発達であったわけではないことは、ここまでに述べてきたとおりである。即ち、インフォーマルな金融手段でなく、信用組合制度を皮切りに、最終的には、商工組合中央金庫や庶民金庫といった現在まで至るフォーマルな金融手段が、その社会情勢等も背景にしつつ整備されていった。そして、暫く触れていなかったが、本稿の主題である信用補完制度、特にその始まりとなった信用保証協会は、まさにこうした時代の中で、その必要性から誕生したものであった。
とはいえ、上記のような中小企業者等への金融支援専門の機関が創設されることも、信用保証協会が創設されることも、結局は昭和10年代に入ってからであった。では、こうした機関や制度が講じられるまでの間は、如何にして対応していたのか。
これは結論から言えば、既存の金融機関や組合等を活用する形で、対応していた。具体的には、大蔵省預金部資金を、日本興業銀行をはじめとする既存の金融機関に融通し、これによって中小企業者等への金融支援を行ったほか、特定の条件下での民間金融機関による貸付について、政府や地方公共団体が損失補償するという仕組みが取られたのである。そして、この損失補償の仕組みは、当初は地方公共団体単独の事業として始められた*20のであるが、徐々に全国的に普及し、信用補完制度が導入されるまでの戦前・戦中・戦後暫くまで広く活用されていた。
そしてここから見えるのは、日本においては、民間金融機関自身の融資資金を活用するような形での中小企業者等への金融支援は、地方公共団体がその主体として始まってきたという側面ではないかと思われる。大量の政府資金を投入できる政府と異なり、地方公共団体が可能な範囲で出来る限りの金融支援を可能とするためには、民間金融機関自身の融資能力を活用することが最も効果的であったのだろう。
一方、こうした各種手立てを講じても「…金融機関の原則として確実な担保を徴求するという融資方針は緩和されなかつた*21…」し、また、こうした直接的な損失補償という仕組みは「…多額の財政資金を必要とし、手続も煩さて補償限度も低い…*22」ため、その改善も必要であった。地方公共団体にとって、どうすればより簡便で効果的な中小企業者等への金融支援が可能となるか、そういった検討・議論が繰り返される中で、漸く信用保証協会が誕生することとなるのである。


4.おわりに
さて、ここまでの内容を一旦纏めておきたい。
戦前期においては、第一次世界大戦後の恐慌・災害等により金融システムが破綻していく中で、中小企業者等への金融の途が、急速に閉ざされていった。
そして、そうした金融の途が閉ざされる問題に対して、信用組合制度の創設等の工夫は存在したものの、それらがすぐさま大きな効果を発揮することにはならず、最終的に昭和初期の金融恐慌等の中で、中小企業者等への金融支援は、社会問題として浮上した。
こうした問題に対し、政府としては、主に大蔵省預金部資金の融通、地方公共団体としては、主に民間金融機関自身の融資に対する損失補償制度を導入していったわけであるが、最終的に政府の方は、中小企業者等への金融支援を専門とした金融機関を設立するというような方向へ動いていく一方、地方公共団体の方は、民間金融機関自身の融資を活用しつつ、より簡便かつ効果的な制度を模索していくこととなった。それらが昭和10年代に入って一気に結実してくることとなる。そして、地方公共団体が主体となって創設した損失補償制度の改善を図る中で生まれたものが、信用保証協会であった。
しかしこれだけでは、何故今のような信用補完制度が整備されるに至るかまでは明らかではない。そこで次は、ここまでの背景を踏まえつつ、信用保証協会の創設、そして戦後の信用補完制度の成立までを追うこととしたい。
(以上)

*1) 新型コロナ対策の一環として導入された資金繰り支援策であるが、そのスキームを非常に単純化して述べると、セーフティネット保証4号等の保証メニューを以て、中小企業者等への民間金融機関の融資を「無担保」とし(当該保証メニューに必要な保証料も、別途補助される)、かつそこに、地方公共団体の制度融資を活用する形で利子分を補助することで「実質無利子化」としたものである。したがって、当該制度は、信用補完制度と密接な関係があるわけである。
*2) とはいえ、起業等の機会でもなければ、社会人になるまで関わる機会はないであろうし、社会人になっても、中小企業者の方や金融機関職員、あるいは地方公共団体において中小企業政策を担当する者でなければ、知らない、聞いたこともないということが大半ではないかと思われる。
*3) あくまで個人的な体験であるが、ある地方公共団体と信用補完制度について話をする機会があったところ、そもそも財務省が関係する制度であること自体、当該地方公共団体で認知していただけていなかったようである。実際、それは無理からぬことと思う。
*4) また、筆者が政策金融課に在籍していた際に、折角、信用補完制度を担当したのであれば、この機に一つ書いてみたらどうか、というご示唆をいただいたこともあった。確かに、問題意識があっても、何も形にすることができないままでは後世の役に立つことにもならない。それならば、このご示唆も踏まえて、可能な限りで一つ書いてみようと考えたところである。
*5) 日本で最初の銀行として、第一国立銀行が開業した。
*6) 商工組合中央金庫二十年史P.61。なお、同調査に基づけば、問屋は22.7%、金貸業は37.2%を占めており、今とは異なる金融環境・慣行が存在していたことが分かる。
*7) 「中小企業金融の経済学 金融機関の役割 政府の役割」(植杉威一郎)においては、中小企業金融の特性について、次のように述べられている。
「…中小企業にとって、金融はその存続を左右する重要な意味をもつ。中小企業は大企業に比して利益率が低くキャッシュフローに乏しく、外部からの資金調達により自らの事業活動を賄う必要があるためである。中小企業が資金を調達する際には、株式や社債を市場で発行することが難しく、貸出市場で銀行や信用金庫・信用組合からの借入に頼ることが多い。さらにその借入も、借り手側の中小企業と貸し手側の金融機関の情報の非対称性により、特に不況期に難しくなる。…」
*8) 「マイクロクレジットは金融格差を是正できるか」(佐藤順子)P.17
*9) 商工組合中央金庫二十年史P.62
*10) 佐藤P.21-22
*11) 佐藤P.22
*12) 「もう一度信用金庫史を顧みる~信用金庫の成立過程(信用金庫前史)について(後編)~」(村本孜)(信用金庫2022年10月号)P.41
*13) 井関孝雄(庶民金庫の参事・貸付課長。後に国民金融公庫発足時の副総裁。)は、自著「庶民金庫の解説」において、その創設までの経緯を次のように述べている。なお、この庶民金庫は、恩給金庫と共に、現在の株式会社日本政策金融公庫国民生活事業の前身である。
「前々の内閣の馬場蔵相の第七十議会の時、此の法律が議会に現はれやうとした時に、無尽会社や市街地信用組合、質屋等に従事して居る人々の中には『庶民金融は既に吾々でも充分之れをやつて居る。今更、庶民金融に対しては、庶民金庫等は何の用事があるのか、そんなものは既設金融機関の領域を攪乱するのみであつて何等の用に立たないものである』と云ふ反対議論さへ現はれて時の大蔵当局を悩ましたものである。
然るに時は移つて、二年後の近衛内閣の時代になると、此の反対した既設の金融機関までが逆に『庶民金庫』の設立を謳歌し、果ては其の代行機関の看板をまで争ふやうになつて来たのである。時代とは云へ大変な変り方である。」
ここから見えるのは、都市部において銀行が貸し出せない層への資金融通は、無尽会社や市街地信用組合、質屋等の既存の金融制度で十分対応できるという声が、従来は圧倒的に多かったものの、それらが時代的変化の中で変わってきたという事実である。
*14) 商工組合中央金庫二十年史P.1
*15) 商工組合中央金庫二十年史P.2
*16) 商工組合中央金庫二十年史P.4
*17) 商工組合中央金庫二十年史P.4
*18) 商工組合中央金庫二十年史P.15-16
*19) なお、この恐慌によるダメージは、都市部もさることながら農村部で顕著であり、身売り等も頻発した。そしてこうした惨状が、その後の日本社会を急速に不安定化させていく背景となったことは、一般的な歴史の教科書が記すとおりである。
*20) 中小企業信用保険公庫五年史によれば次の通り。
「損失補償制度は、昭和六年「愛知県中小商工業者等産業資金再補償制度」および「大阪府工業組合及び産業組合短期少額融通資金補償制度」に始まつた。これが刺激となつて、全国的には昭和七年「道府県又は六大都市の中小商工業資金融通損失補償制度」が生まれた。」
*21) 中小企業信用保険公庫五年史P.7
*22) 中小企業信用保険公庫五年史P.7