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講師 日比野 克彦 氏(東京藝術大学学長)

演題 アートの力で社会課題の解決を図る

令和4年10月24日(月)開催


はじめに
皆さんこんにちは、日比野と申します。対面で参加の方々、オンライン参加の方々、よろしくお願いいたします。東京藝術大学では、現在第4期中期目標として掲げております内容に沿って「共創の場」というプロジェクトを始めております。本日はその取り組みについてお話させていただきます。このプロジェクトのリーダーである伊藤達矢特任教授も本日同席しており、伊藤先生からも後ほど皆様にプロジェクトの内容についてご説明させていただきます。
1.日本の西洋化と東京藝術大学
私は今年4月から学長になりました。それまでは美術学部の学部長を6年間、教員としては1995年から務めておりました。私は1978年に東京藝術大学美術学部のデザイン科に入学しました。デザイン科なので比較的美術の中では社会と接続するような仕事、作品発表をしてきております。
東京藝術大学というと、多くの方は絵画、日本画、彫刻、音楽ではピアノ、バイオリン、管楽器、声楽、オペラなどを想像されると思いますが、(東京藝術大学の前身である)東京音楽学校、東京美術学校が創設されてから140年ほどたちます。最近はまた150年ということがよく聞かれまして、鉄道が開業して150年、上野の東京国立博物館ができて150年という数字が出てきます。150年前から私共の生活様式が一気に西洋化して文明開化してきたわけです。そうした中で東京音楽学校も東京美術学校も設立されました。
東京藝術大学の数多くの先輩はヨーロッパに留学しました。絵画科ですとフランスで勉強してそれを日本に持ち帰り、後進の育成に役立てていき、現在に至るわけです。


2.東京藝術大学がSDGsに取り組む
(1)東京藝術大学がSDGsに取り組む理由
このように西洋をお手本にしているわけですが、最近よく耳にする「資本主義というものの次なるアップデートをしていかないといけないね」というのと同じように、芸術のアップデートも今迫られているのです。
SDGs(持続可能な開発目標)がここ5年ぐらいキーワードとして出てきておりますが、17の目標、169のターゲットの中には芸術とかアートは出てきません。しかしあえて東京藝術大学はSDGsに取り組むこととしました。
藝大、芸術というものが社会に役に立つのだ、機能しているのだ、ということを示すため、しっかりと伝えるために、SDGsと藝大を結び付けた展覧会、そしてキャンペーンを行いました。
それを創造するのがご覧いただいているマークです。
17の色があり、この17の色がマークの真ん中で滲んで混ざっております。17のゴールがそれぞれあり、関係し合っている、17の色が滲んで混ざっている、そこに芸術がある、ということを示すためにビジュアルとしてこのマークを制作したのです。

(2)芸術とSDGsとの関わり
芸術がどこでSDGsと関わっているのか、というと、真ん中の混ざっているところです。この混ざったものは何かというと、これは「人間の心」だと捉えていただきたいのです。心模様とか、気持ちが変化する、その気になる、その気にならない、昨日までやろうと思っていたけれど、今日は気分が違うな、人に会ったら急にやりたくなった、というように心は移ろうものですが、その心というものが日常の行動に大きく影響しています。
そして持続可能な17のゴールをすべて継続していくには、当然数値的な目標も必要になります。数値的な目標があることによって計画的なことができる、そして達成感も感じることができるのですが、数値とは関係なしに、こうした取り組みをしっかりと継続していくには、その気持ちに本当にならないといけないのです。「差別をなくしたい」「海をきれいにしたい」という気持ちにならないといけない。「会社から言われたから、ペットボトルを分別する、電気を消す」という強制的なものではなく、本当に地球のことをイメージしながら日常の行動が変容するようになるには、「心がその気になっているかどうか」が何より大切なことだと私は考えます。そして心に対して作用する力があるのが芸術であると考えていただくと、芸術が17のゴール、SDGsに関連してくるという見方もできるかと思います。
多くの表現者たちには観客がいます。美術館に行くと鑑賞者がいる、音楽ホールに行くとそこにお客さんがいる、その人たちに向けて発信していくわけです。そして発信する芸術家は、受信した人たち、見た人たち、聴いた人たちが自分の絵を見て、作品を見て、音楽を聴いて、この人たちが日常に帰った時にどのように行動変容するだろうか、ということを想像したうえで発信することを意識していきましょう、ということを表現者でもある藝大の先生たちに藝大SDGsの中で伝えていきました。


3.「芸術未来研究所」(仮称)構想
(1)芸術が社会に貢献できることを研究・実践
そのような展覧会、活動を行いながら、藝大は「芸術未来研究所」(仮称)という構想をもって動き始めようとしております。東京藝術大学が研究と教育を行っていく中で、様々な企業、他大学、団体と関連しながら、「芸術が社会に貢献できる」ことを研究して実践していこうということを掲げている研究所になります。
東京藝術大学では各研究室がそれぞれの研究分野をそれぞれの専門性ある学外の団体、研究所、自治体と共に研究しております。けれども全体として藝大の一つのブランディングといいますか、外から見た時に「東京藝術大学が新しい試みをしているのだ」というひとつの顔をしっかりつくっていこう、というのがこの「芸術未来研究所」(仮称)になります。

(2)イメージすることの大切さ
「芸術未来研究所」(仮称)が一番大事にしようとしていることは「イメージしてみよう」ということです。感覚をイメージしてみよう、時間をイメージしてみよう、自己を、自然を、風景を、感情を、関係を、他者を、質量を、生命をイメージしてみよう、ということです。
「想像する力は、人が生きる力。」それが「世界を変え、未来を創る力。」になっていくのではないか。イメージする力というものを音楽とか美術といった領域を飛び越えて、「芸術未来研究所」のコンセプトとして掲げていきたいと考えております。
「芸術未来研究所」(仮称)のミッション、アプローチなどはご覧いただいている画面に細かく書いてありますけれども、その実践を行う場として、若手や学生のアーティストが参加しながらアイディアを創出していくという「I LOVE YOU」プロジェクトがあります。学生たちも参加しながら若手アーティストの様々なアイディアを取り入れて活動しております。
「人が変わる」「大学が変わる」「社会が変わる」「育成期間のラップアップと、本格型に向けた意気込み」と資料にありますが、これらはSDGs×ウィズ/ポストコロナにかかるビジョンを共有していこう、多様なステークホルダーと共にビジョンを徹底的に深堀していく、ありたい社会像に向けて研究計画を更新し続ける拠点運営、等々を通じて人を変えていく、そしてそれによって大学が変わり、社会が変わっていく、ということをイメージしております。
藝大では「「共生社会」をつくるアートコミュニケーション共創拠点」というプロジェクトに取り組んでおります。具体的には超高齢化社会に向けての藝大の取り組みというものが一番大きな社会的な課題解決のテーマになっております。この中には「文化的処方」「文化リンクワーカー」など藝大が今取り組んでいる目新しい言葉もありますが、この件について伊藤先生からご説明いたします。


4.「「共生社会」をつくるアートコミュニケーション共創拠点」
(1)精神と関係性の貧困に対処
(伊藤達矢 特任教授が説明)
東京藝術大学の社会連携センターで教員をしております伊藤でございます。学長からご紹介のありました東京藝術大学の具体的な取り組みについてご説明させていただきます。
JST(国立研究開発法人 科学技術振興機構)の競争的資金にエントリーさせていただきながら、「「共生社会」をつくるアートコミュニケーション共創拠点」という事業を準備しております。先ほど学長からも申し上げましたように、東京藝術大学ではSDGsを積極的に進めております。SDGsは2030年までのゴールでございますが、本当にSDGsを進めていくということは同時に2030年以降の社会についても考えていくことであると私共は考えております。SDGsの17のゴールというのは、主に物質的な貧困であったり、環境であったり、数値で測れるもの、手で触れるもの、そういった足りなさに目が向けられています。
しかしながら、本当に人々の生活を豊かにしていくことを考えると、持続可能な社会というのは目で見たり、数字で測れたりするものだけではなくて、「人の心の貧困や関係性の貧困」というものに対してもきちんとアプローチしていく未来が必要なのではないか、と私共は考えております。
学長が描いた藝大SDGsのマーク、17個の色のドローイングを見てみますと、真ん中のところで様々なものが溶けております。このドローイングから読み取れることは、私たちの社会にとってこれから必要なこと、それは課題を分けて考えることではなくて、その課題に向かい合う人や取り組みの壁を溶かして考えていくことなのではないかと思います。よって2030年以降のSDGsでは心のつながりに目を向けて「精神と関係性の貧困」を解決することが大切であると私たちは考えています。
つまりは、あらゆる境界線が溶けていくことで、一人一人が新しい価値観と出会い、「ときめき」を感じながら生活できるような社会であって、多様性が認められ、そして、する側とされる側という二元性ではなくて、緩やかなつながりのもとにそれぞれの人たちが生きやすく、そして生きがいを持って生活できるような共生社会を作り出していかなければならないと考えます。しかしながらそうしたありたい社会像に向う上で大きな阻害要因となっているのが「望まない孤独や孤立」です。

(2)「望まない孤立孤独」の問題
2030年以降は、65歳の方が31.8%以上と、国民の3人に1人が65歳以上になる社会が必ずやってきます。すると、退職や身体的な健康の衰えが原因となって、望まない孤独や孤立になりやすくなります。孤立は一日にタバコを15本吸うよりも健康に悪いという研究データもあります。また人生百年時代においてはこういった孤独や孤立が原因となって、認知症などの様々な疾病疾患が起こることが考えられます。こうした孤独や孤立の課題は福祉制度や医療体制だけではフォローしていくことができません。社会的な総合知を作ってこの課題に取り組んでいくことが今の世の中に非常に必要なのではないかと私共は考えております。
先ほども申し上げたようにこれからは三分の一の方が65歳以上の社会になりますが、少し視点を変えると、人生百年と仮定して、人生を三つに分けますと、65歳からは、人生の残り3分の1の期間に相当します。つまり最初の約30年間、三分の一くらいは皆さん大学を出たり、就職したりして自分に生きる力をつけていく時代です。
真ん中の三分の一はその力を使って一生懸命働いたり、何かに貢献したり、活動的な時代になります。
そして65歳以上になると退職したり体力が若い時よりも衰えたりしますが、人生はまだ残り三分の一あります。しかし「この残り三分の一に対する幸せな生き方とは何か?」という問いに対する提案ないし考えというものは、まだこの社会において十分議論されていないというのが現実だと思います。経済的な豊かさだけが私たちの豊かさなのか? 決してそうではないだろうし、社会的ステータスを高めることが充実感をもたらすか? と言えば、決してそうではないでしょう。それをもう一度見つめ直さなければいけないのがこの残り三分の一の人生です。そうした岐路にいる65歳以上の国民が、人口の三分の一を占める、それが2030年以降の社会です。故に幸せとは何かという問いは高齢者の方々だけが考えていけばよいという問題ではなく、社会全体で考えていかなければならないのです。

(3)これからの社会を考える研究拠点づくり
そこで私共がこれから作ろうとしております拠点についてですが、学長が先程お話し申し上げた芸術という言葉が真ん中に溶けいるように、芸術だけではなくて、医療機関、福祉、テクノロジー、地域のコミュニティやネットワーク、自治体、海外の先進的な事例を研究している研究機関や市民NPO、こういった機関が集まって、垣根を溶かしてこれからの社会を考えて行くための研究拠点をつくろう、というのがこの「「共生社会」をつくるアートコミュニケーション共創拠点」です。様々な自治体やICTの分野の研究能力・開発能力を持つ企業、あるいはハブを持つ企業、或いは医療や福祉の研究機関になっている大学或いは研究機関等、病院等、あとは海外の先進的事例を持っている文化施設や研究機関等、こういった方々と具体的にコンタクトを取らせていただいて、実際にこのJSTの本格型に事業を進めることができれば、具体的な研究を開始する準備が概ね整っている状況です。

(4)イギリスでの取り組み:「社会的処方」
どのようにして私共は孤独や孤立というものを研究機関の総力を挙げて解決していけばよいのか、その重要なソリューションのひとつに「社会的処方」があります。
「社会的処方」についてご説明いたしますと、福祉大国、医療大国と呼ばれておりますイギリスでも、日本と同じように孤独や孤立の問題に直面しております。2つ前の政権において孤独担当大臣がイギリスにおいて設置されております。それに次いで我が国は孤独・孤立担当大臣を設置した2例目の国です。孤独や孤立というのはOECDの調査に当てはめますと、イギリスではだいたい320億ポンド、およそ4.9兆円の国家損失が孤独や孤立から生まれるという試算があります。
こうしたイギリスにおいて具体的に行われている取り組みで、今世界的に注目を浴びておりますのが「社会的処方」です。これは我が国の厚生労働省等の文書においても、「社会的処方」を推進しよう、という動きが実際にございます。
この「社会的処方」は何かと申しますと、例えば、眠れなくて病院に相談に来た患者さんに「睡眠導入剤を出しましょう」と医療的な処方をするのが今の医療ではスタンダードなのですが、よくよくこの患者の話を聞いてみると、10日間以上家族以外の人とほとんど話していない、外出する機会がほとんどない、つまりその方のQOL(Quality Of Life:生活の質)が非常に低い状態が結果的には身体的な疾病に繋がっていることが見て取れる。しかし、どうやったらその方を社会的にも精神的にも健康な状態にしてあげられるのか、という具体的なアプローチは今のところ十分ではありません。
そこで「社会的処方」というのは、睡眠導入剤もよいが、例えば地域の中で一緒に花を育てる活動に参加してみたらどうだ、とか、あるいはどこどこの美術館とか文化施設の中ではこういった活動があるから一緒にやってみるのはどうか、という形で、その人と地域を結び付けるリンクワーカーという人たちが仲介になりながら、その人のQOLを上げていく取り組みです。実際にイギリスで行われており、保険対象にもなっております。

(5)「文化的処方」とは
日本でも厚生労働省が中心になりながら、検討が進められているところですが、やはり国の仕組みの違い、すなわち医療と自治体或いは研究機関、企業とのスピード感の違いといったものが一つのハードルとなって、日本では大きくは進んでいない状況です。
しかしながら、これは自治体で進めよう、或いは医療の方から文化セクターに働きかけよう、というのは非常に難しいです。そうではなくて、例えば東京藝術大学のような文化セクターであり、研究機関であるようなところが中間に立って、先ほどお示ししたような様々な企業、自治体、或いは研究機関にお声をかけて、この「社会的処方」を文化でもって加速させていくことができないだろうか、と考えいます。そこで私共はそれを「文化的処方」と呼び、この言葉を推進力としまして、この取り組みをやっていこうと決意しております。
実際にこういったことをご説明していくことで、先ほどお示ししたような様々な企業、自治体、研究機関等からご賛同をいただいております。はじめは5つとか6つの研究機関から始まったのですが、今では30を超える機関の方々から同意をいただきながらJSTの申請を何としても通して、この「文化的処方」の取り組みを進めていきたいと考え、今準備をしている段階でございます。

(6)「文化的処方」の例
では具体的に「文化的処方」がどのような場所でどのように行われていくのかということにつきまして、ほんの少しの実例でございますが、ご紹介させていただきます。
最初の事例は、アーティストが福祉施設で入居者と一緒に暮らすというものです。藝大では、SOMPOホールディングスが運営している福祉施設にアーティストが1年間部屋を借りて一緒に住むという活動をしております。高齢者が福祉施設に入居すると、社会の中で誰かと会うということが非常に少なくなる、特に自分とは年代の違う人たちと話したりする機会がなくなるのです。人は常に他者との対話の中で生活を営み、いつまでも役割や出番を持つことで、心も健康でいられるのですから、こうした多様な人との触れ合いは心の健康には欠かせません。
次の事例です。長期入院のため病院から外に出ることができない人に対応した病院との連携です。現在、横浜市立大学や東京医科歯科大学の病院と連携し、病院内にメディアアートの導入を進めています。いつもの病院の景色をプロジェクションマッピングなどで変化させたり、インタラクティブなアニメーション作品を設置したりしながら、病院の中で人々のコミュニティをつくるためにどんな取り組みができるだろうか、ということを考えております。
またそうした取り組みは、商業施設や駅などの公共空間においても同様で、思わず誰もが参加して、知らない誰かとコミュニケーションが起こるようなメディアアート作品の設置も検討しています。例えば東京藝術大学先端芸術表現科古川聖研究室による「Bubbles」というメディアアート作品では、スクリーンに自分の影を写して映像の中のシャボン玉を弾くと、ポンと音が出てシャボン玉を弾き返すことができる仕組みになっています。見ているだけで、思わず自分もやってみたくなるそんな作品です。
こうした非日常的な場所を街の中に用意することで、普段は交わらない人々の接点を作っていく。更に、実はこの体験はただの参加できる遊具ということではなく、この体験を深く研究しますと、他者と共に音や光に合わせて反射的に体を動かすというのは身体的な機能を高めていく、或いは心と体の連動性を高める効果があるということが少しずつ研究の成果によって明らかになってきています。これを数値として検証したものを東京藝大では今年度の音楽療法学会にて発表しております。

(7)アートを介して人と繋がる
人生百年時代においては、認知症の方々も当然増えて行くわけですが、高齢にともなって現れる症状である認知症は、必ずしもそれを病気だと割り切ることはできません。
故に問題なのは、認知症であると診断されたその日から、財布を取り上げられたり、或いは外出を禁止されたり、様々なものが取り上げられてしまう、その人ができるはずのことまでとりあげられてしまう、料理もしないでください、火も使わないでください、となってしまうことです。そうなると、その人の出番や居場所が無くなっていってしまうのです。
ではもっとその人が誰かと話をしたり、その人がもっと誰かと繋がっていられたりするような状態をどうやって作っていったらよいのか。そうなると、そこは施設とか、あるいは何らかの専門の人たちだけが対応すれば良いとなりがちですが、そうではなく、本当はそうした人と一緒に居れる社会をつくってくれる多様な人の存在が大切なのだと思います。例えばアートを介して人と人がつながることもそうですし、そんな関係をつくれるコミュニケータ―の役割がしっかり社会の中に文化として根付いて行くと良いなと思います。それと同時に、どこからでもその方々が社会とコミュニケーションを取っていけるようなディバイスの開発、プログラムの開発も同時に進めていくことが考えられるかと思います。
ご覧いただいているのは東京都美術館が「いま何ができるか?」ということを考えて行ったプログラムです。ゴッホの展覧会に合わせて、オンラインで認知症の方とそのご家族とアートコミュニケーターとを結んで、一緒に作品を対話しながら鑑賞する機会をつくりました。「うちのおばあちゃんは家族以外の人と一生話せない」と思っていても、こういった機会があるだけで、家族の心もだいぶ違ってきます。また何より、当事者がイキイキと話し出すことに家族が驚きを隠せない様子でした。

(8)デジタル環境を心の豊かさにも利用
高齢になるにつれ、様々な身体的理由によって外出ができない、あるいは体が動かないということも同時に起こってまいります。そこで、これからの社会においては、メタバース(コンピュータの中に構築された、三次元の仮想空間やそのサービス)やデジタルツイン(現実世界の物体や環境から収集したデータを使い、仮想空間上に全く同じ環境をあたかも双子のように再現するテクノロジー)といった可能性について非常に注目していくべきことだと思います。
こういったこれから研究・開発されていく領域においてこそ、単純に経済的生産性のみでの活用を考えるのではなく、人々の心の豊かさも、こういう環境の中でどう実現させていくのかということを同時に考えていかなければならないと思います。

(9)達成目標としてKPIを設定
私共の達成目標KPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)についてご説明します。今の段階のものとしてご理解ください。まずはスモールサイズで考えてみることによって私共の考えに実装性があるだろうか、ということを検証しています。
ご覧いただいているKPIに関する表の一番下に「社会的コストの削減マイナス250億円以上/年」という数値があります。この試算の根拠ですが、例えば毎年1万人の人が認知症になることを一年間先送りすることができると、認知症の方にかかる社会的なコストは一人当たり月23万円ほどでありますから、これが1万人ですと年間では250億円ほどになります。人生百年時代なので最後の10年間をどういうふうにして過ごしていくのかが非常に重要になる社会の中で、認知症にいずれなっていくことは止められないかもしれません。しかし、1万人の人が認知症になることを1年後ろ倒しにすると250億円のコスト削減になるのです。例えば役割を持てる社会、或いは出番がある社会を実現することで、最後の10年間ではなく、最後の5年間だけ認知症になるという社会をつくっていけるようになると、非常に大きな社会的便益が考えられます。
また「芸術活動の活性化による経済効果プラス50億円/年」というものがございます。これにつきましては、イギリスなどで自分たち一人一人が自分の豊かさや楽しみのために使うお金の金額が平均して1回につき約4.64ポンド、円換算で500円ちょっとというデータがあります。例えば20万人の人が月4回(一週間に1回1時間として月4回4時間)、自分が幸福になるためにそうしたアプローチをすると50億円程度の経済効果があると試算することができます。
こうしたことはあくまで一つの事例ではありますが、心の豊かさということを考えて、何らかのアプローチをすることでこういった社会的便益というものを考えることができるのです。
さらに「KGI(Key Goal Indicator)」というところでは、こういったことをきちんと社会関係資本の指標としてそれを表していくことを研究の領域として進めていこうと考えております。
ただこの社会関係資本、ソーシャルキャピタルというのは、今のソーシャルキャピタルの測り方で本当にこれからの幸福を測っていけるのかどうかについては疑問が残ります。今の社会において必要な幸福度の測定の仕方、地域においてのいわゆる「つながり寿命」といったものを私共は考えております。こうした新しい指標の設定においてこれからの社会を考えていくということをこの研究の中で同時に進めてまいりたいと考えております。以上、全体像としてこのようなことを考えているということをご説明させていただきました。それでは学長と交代いたします。


5.アートの特性とは
(伊藤特任教授が日比野講師と交代)
ただいま伊藤先生から説明していただきました。「社会的処方手法」「文化的処方」、これはお薬で治すのではなくて文化で治すという考えです。
例えば、今のコロナで新しいワクチンの話があります。薬の場合はきちんと証明されてから広めていくのですが、「文化的処方」の場合というのは何をもって「これが正解ですね」ということはないのです。なので一人一人の違いに対して「文化的処方」を施していく、正解がないのでやりながら気付いていくということになるかと思います。
アートの特性をあらためて考えると、数学の問題が配られてそれに回答すると、点数が付いて正解とか不正解、100点とか95点といった結果が出ます。ですが美術の場合、ここにリンゴが置いてあって皆でお絵描きし、これが100点、これが95点、あるいはこれが正解、これが不正解というわけではありません。「それぞれがそれらしくていいよね」と受け取れるというのがアートの特性であります。好き嫌いはあっても否定はしない、そこにいていいよ、あっていいよ、これがアートの特性です。
これから多様性ある社会を築いていこうとするとき、だれ一人取り残さない社会をつくろうとするときに、「とは言っても、隣りのあの人苦手だな」とか、障害者施設がいろいろな町に出来てくると「それは良いことだね」とテレビのニュースを見ていながら思っていても、隣りのアパートに障害者の方が入居するとなると途端に「それは困る」という態度になってしまう。人間というのはそういうものだと思います。けれどもそこを否定するのではなく、そこにいてもいいよ、あなたは正しくない、私が正しい、という態度ではなく、互いの違いがあるからこそ社会なのだ、ということを理屈ではなく、体として受け入れられる。そのような意識づくりの中でアートが持っている特性をいち早く、それが教育ではなくて文化として地域の中で広まっていく、そういうところでアートというものが社会の中で機能していくのではないかと思います。
美術館に行ってアートの名画や名品を見ることによって目を肥やすとか、音楽ホールに行って有名な指揮者の演奏を聴いて文化的な知識を深めるということだけがアートの役割だと思われるかもしれませんが、それは違うのではないか。そのように思われてしまっているというのは私たち藝大の教員を含めて何か違う伝え方に偏重していたのではないかと考えております。
今、社会の中で言われている多様性とか、だれ一人取り残さない、という社会的課題に対してコミットできる部分がアートにはあると考えております。
最後に:ヤギの目を通じて社会を見る
皆様にはヤギの絵をご覧になっていただいておりますが、これは東京藝術大学の取手キャンパスの風景です。藝大が最近ヤギを飼い始めました。そうすると学生たちがヤギをスケッチするという風景もあるのですが、ヤギがいることによって近隣の人たちが世話を焼きに来てくれます。そしてヤギは雑草も食べてくれますし、ヤギの目を通して社会を見ることができるのです。私たちはヤギの目アートセンターという呼び方をしていますが、ここは様々な価値を教えてくれるのです。人間ではない動物から学ぶ、そうしたことも社会的な、それぞれらしくいいよね、ということを教えてくれる教材になっております。
以上、藝大の最近の活動についてお話させていただきました。まだまだやらなければならないことはたくさんありますが、アートの新しい試み、挑戦を知っていただければありがたいと思っております。
ご清聴ありがとうございました。
(以上)

講師略歴
日比野 克彦(ひびの かつひこ)
東京藝術大学長
1958年岐阜市生まれ。東京藝術大学美術研究科大学院修了。1982年第3回日本グラフィック展大賞、1983年第30回ADC賞最高賞、1986年シドニー・ビエンナーレ、1995年ヴェネチア・ビエンナーレ出品。1999年毎日デザイン賞グランプリ、2015年文化庁芸術選奨芸術振興部門文部科学大臣賞受賞。2007年より東京藝術大学教授。今年4月1日、東京藝術大学長に就任。他の主な要職として、岐阜県美術館長、熊本市現代美術館長、日本サッカー協会社会貢献委員長を務める。