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路線価でひもとく街の歴史

第36回 「北海道函館市」

東北・北海道最大都市のレガシー


北海道の渡島半島が二股に分かれた東側が亀田半島。この亀田半島からさらに突き出た函館半島は、夜景スポットで有名な函館山を擁する陸繋島と、陸繋島と函館平野をつなぐ砂洲からできている。はじめに陸繋島の入り江に面した側の麓に街ができた。
函館の開港は安政元年(1854)の日米和親条約に遡る。安政の五か国条約に登場する5港で最も早い。隔離するのに都合がよいからか、幕府政権下で開港した横浜、長崎と同じく半島状の地勢なのが興味深い。開港時は「箱館」だったが、新政府の代に「函館」となった。函館の街の中心軸が基(もとい)坂である。基坂の頂上にある元町公園の区画に歴代の政庁があった。幕府政権下の箱館奉行所、次いで新政府の開拓使函館支庁、函館県庁、北海道函館支庁と行政組織に従って名称も変遷したが一貫して函館の行政中心地だった。現存する洋風建築は明治42年(1909)に建てられたもので、支庁庁舎としては昭和25年(1950)まで使われた。

末広町銀行街
経済の中心は坂の下の港にあった。明治4年(1871)、青函航路の発着点として東濱桟橋が設置された。現在は旧桟橋と呼ばれているが、明治41年(1908)に青函連絡船が就航し、明治43年に函館駅前に連絡船桟橋が整備されたことにちなむ。
明治44年(1911)の地価修正函館市街土地明細鑑によれば、地価を示す土地等級が最も高かったのは東濱町8、9番だった。東濱桟橋の向かい側である。東濱桟橋から山手に通じる道を日和坂という。坂の上にある邸宅が観光名所になっている。東濱町8、9番の所有者だった明治函館の財界人、相馬哲平の屋敷である。
東濱町の1筋内側の大通りである末広町には銀行が多かった。現存する近代建築に着眼して説明すると、まずは基坂の下に市の北方民族資料館がある。元を辿れば三井銀行があった場所だ。函館初の銀行で明治9年(1876)に開業した。明治26年(1893)に日本銀行が入り、三井銀行は別の場所に移転した。そして明治38年(1905)に撤退する。
現存する建物は日本銀行の3代目店舗で大正15年(1926)の建築。昭和63年(1988)に駅前地区に移転するまで営業していた。函館支店は大阪支店に次ぐ3番目の地方拠点で札幌、根室、小樽と同時の進出だった。当初は出張所だったが、明治28年(1895)に道内唯一の支店に昇格した。
八幡坂の角にある銀行建築は大正15年(1926)に建てられた百十三銀行の本店だ。同行は明治11年(1878)に設立された第百十三国立銀行を源流とする。函館いや北海道に本店を置いた初めての銀行でもある。
この場所の由来を辿ると、元は明治12年(1879)に設立された函館2つめの国立銀行、第百四十九国立銀行があった。閉店後、明治29年(1896)に開業した同じく地元行の函館銀行の本店が置かれた場所でもある。函館銀行は大正11年(1922)に百十三銀行に合併される。百十三銀行からみれば、合併相手の元本店の場所に合併行の本店を建てたかたちだ。百十三銀行は本店新築後まもなく金融恐慌に巻き込まれ、昭和3年(1928)に北海道拓殖銀行の前身行の北海道銀行(現在の北海道銀行とは別)に統合される。そして昭和19年(1944)には北海道拓殖銀行(以下「拓銀」)となる。これ以降、建物は拓銀函館支店となった。拓銀は明治38(1905)の進出で函館支店は別の場所にあったが、統合を機に旧百十三銀行本店に移ってきた。
旧百十三銀行本店の交差点筋向いの近代建築は大正15年築の旧函館貯蓄銀行である。既に述べた通り、百十三銀行の元の本店があった場所である。百十三銀行が本店を新築した年に函館貯蓄銀行の本店を建てた。
その向かいの建物が昭和7年(1932)築の旧安田銀行である。函館にはわが国3番目の国立銀行である第三国立銀行が明治20年(1887)に進出していた。元々安田銀行系列だったが、大正12年(1923)に統合して安田銀行となった。戦後は富士銀行に改称。再編を経てみずほ銀行に至る。昭和43年(1968)に駅前に移転した後、建物はホテルに改装された。途中で経営者は変わったが現在までホテル営業を続けている。
同じ並びにある函館市文学館は元は大正10年(1921)に第一銀行函館支店として建てられたものだ。元からあったのは東京が本店の第二十国立銀行で、明治18年(1885)函館に支店を出した。大正元年(1912)に合併され第一銀行になる。第一銀行は昭和39年(1964)に駅前に移転。現在みずほ銀行になっている。
函館には弘前が本店の五十九銀行、富山が本店の十二銀行もあった。五十九銀行は青森銀行の前身で大正4年(1915)の開店時には旧丸井今井百貨店の隣にあった。十二銀行は北陸銀行の前身である。北海道の昆布が富山を介して薩摩、琉球に流通していたエピソードを本連載の鹿児島の回で触れたが、北前船の交易ルートとして北陸地方と北海道のつながりがあった。このような縁で、十二銀行は明治32年(1899)の小樽支店を皮切りに北海道の各都市に支店を展開していた。函館は5番目で大正6年(1917)の開設。昭和2年(1927)築の建築だったが、一昨年取り壊された。

十字街と函館3大百貨店
国勢調査でいえば昭和10年(1935)に仙台市に抜かれるまで函館は東京以北で最大の都市だった。大正14年(1925)の第2回調査で函館市の人口は6大都市、広島市、長崎市に次ぐ9位だった。行政の中心は札幌だったが、全国展開する銀行の支店など地域拠点が函館に置かれるケースが多かった。山手のカトリック元町教会には明治24年(1891)から昭和11年(1936)まで地域ブロックを代表する司教座が置かれ明治期は東北・北海道すべてを管掌していた。
大正期を通じて函館の人口は倍増。街の拡大とともに新たな中心が十字街方面にできてきた。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書を参照すると、最高地価は「末廣町十字街角」だった。今に残る十字街角のランドマークが、大正12年(1923)築の鉄筋コンクリート造3階建、旧丸井今井百貨店函館支店だ(図3. 旧丸井今井百貨店(函館市地域交流まちづくりセンター))。現在は「函館市地域交流まちづくりセンター」となっている。
丸井今井の本拠は札幌、創業は明治5年(1872)で、明治25年(1892)に函館に今井呉服店を出した。百貨店に転換したのは大正5年(1916)である。戦前、函館には他に2つの百貨店があった。1つは末広町の金森森屋百貨店、もう1つが十字街と駅前の間にあった棒二荻野呉服店である。金森森屋百貨店の源流は、長崎出身の渡辺熊四郎(初代)が明治2年(1869)に開業した洋品店の「金森森屋洋物店」である。明治13年(1880)、舶来品を扱う店舗「金森洋物店」を出店した。今風にいえばセレクトショップだ。防火レンガ作りの和洋折衷の建物は現存し、函館市の郷土資料館として使われている。
3代目の渡辺熊四郎のとき、大正14年(1925)、末広町と日和坂の角地に鉄筋コンクリート造3階建の新店舗を建築。通り沿いに増えた金森の店舗をまとめて百貨店を開業した。昭和5年(1930)、隣地に7階建の新棟を増築する。
棒二荻野呉服店は明治22年(1889)の創業で、滋賀県出身の荻野儀平が立ち上げた。長男の清六の代に拡大を進め、昭和6年(1931)には建物をいったん解体して4階建の百貨店を新築した。シャンデリア付きの催事場や食堂、エレベーターを備えていた。

駅前の時代
函館の街は陸繋島の港から始まり、砂洲を渡って平野に至る歴史を辿っている。俯瞰すれば十字街の発展もこの流れに位置づけられる。主要交通手段が舟運から鉄道に変化するに従って街の中心も移り変わる。函館の場合、連絡船の乗り場に表れた。函館駅が現在地に開業したのは明治37年(1904)で、当初は北海道鉄道の駅だったが、明治40年(1907)に国有化される。その翌年に青函連絡船が就航した。ここで、函館の交通拠点が東濱桟橋から函館駅に代わった。
駅前には地域一番店の棒二森屋百貨店があった。昭和11年(1936)に、金森森屋と棒二荻野呉服店が合併し、翌年10月に5階建ての百貨店を立ち上げた。駅前は戦後急速に発展を遂げ、駅前通り周辺に昭和34年(1959)に彩華デパート、昭和43年(1968)に和光が開業した。筆者が調べた範囲で最も早い最高路線価は昭和44年(1969)で、そこには「松風町2-7富士銀行」とあった。元々末広町にあった富士銀行(安田銀行)が移転した先である。棒二森屋と同じ駅前通りだが、駅からやや離れており、向かいに彩華デパートがあった。周辺には映画館が多くあり今に至る大門繁華街を形成していた。昭和48年(1973)には「松風町渡辺時計店駅前通り」に移る。渡辺時計店は棒二森屋と同じブロックにあった。

五稜郭地区から産業道路へ
函館の場合、駅前から3kmほど離れた五稜郭地区に中心街が発生した。昭和44年(1969)10月、十字街のランドマークだった丸井今井百貨店が、函館市電の五稜郭公園前駅の角地に移転する。昭和45年(1970)には地元スーパーのホリタがデパート型の基幹店を向かい側に出店した。駅前勢の棒二森屋は昭和46年(1971)、三越との提携で差別化を図る。
1980年前後の変化はさらに大きかった。函館に隣接する旧亀田市は郊外拠点として発展の兆しを見せていたが、函館からみれば郊外流出を意味していた。この流れは昭和48年(1973)の両市合併を機に拍車がかかった。道外大手の進出も目立ってきた。ダイエーは昭和51年(1976)、ホリタを傘下に収め、市内にスーパーやコンビニの出店を進めていた。昭和54年(1979)、函館市街を遠巻きに走るバイパス道路「産業道路」の4車線化が完成する。翌年の8月、産業道路沿いに長崎屋、その1か月後にイトーヨーカドーが開店し、新たな郊外拠点の美原地区が起こった。さらに10月には五稜郭地区のテーオーデパートが増床している。その翌年の昭和56年(1981)3月には函館西武がテーオー向かいに開店した。
大型店の売場面積がこの2年間で倍増したことになる。棒二森屋は地域一番店の地位を保っていたが、数にして同クラスの店舗が一度に3つ増えた。戦略転換を考えた棒二森屋は三越との提携を破棄し、あらためてダイエー傘下に入ることを決断。ダイエーから資本と経営人材を受け入れた。新体制を整え、昭和57年(1982)、本館の隣に若年層をターゲットにした新館ボーニ・アネックスを開業する。流行に乗りDCブランドにも力を入れた。それでも駅前勢の挽回に至らず、平成4年(1992)には最高路線価地点の座を「本町丸井今井函館店前電車通り」に譲ることになる。
令和元年(2019)1月、棒二森屋が閉店した。既にさいか(元の「彩華」)デパートが平成10年(1998)7月、和光が平成25年(2013)10月に閉店しており、駅前の隆盛を支えた大型店は3店とも無くなった。都市型百貨店の一角を占めた西武函館店も平成15年(2003)8月に閉店している。市内の百貨店は丸井今井函館店を残すのみである。戦前末広町に店を構えた銀行もすべて移転あるいは撤退した。青森銀行が平成25年(2013)まであったが、店舗内店舗方式で五稜郭地区に移転している。

大都市のレガシーは観光資源に
中心街が郊外に移転して久しく、函館がかつて十指に入る拠点都市だった頃の喧騒は末広町・十字街にない。それでも銀行や百貨店など都市施設は残っており、街全体が近代建築をテーマとした立体美術館のようだ。かつてのオフィスが博物館やホテルにリノベーションされて観光資源になっている。
その典型が金森赤レンガ倉庫だ。昭和63年(1988)に「伝統的建造物」に指定されたのを契機に一部をホール・商業施設に改装し「函館ヒストリープラザ」となった。平成6年(1994)には隣の倉庫を改装し金森洋物館がオープン。平成15年(2003)には日本郵船から倉庫が譲渡され「BAYはこだて」となった。「金森赤レンガ倉庫」が総称となったのはこの頃である。屋号から想像できるように棒二森屋とルーツを同じくする。金森の事業は明治に2系統に分かれ本家が渡辺、分家は金森を社名とした。渡辺が百貨店の系譜なのに対して、金森が回漕業や倉庫業を継承。後に金森赤レンガ倉庫を経営する金森商船となる。
隣接して、明治44年(1911)建築の旧函館郵便局を改装したオルゴール・ガラス館「はこだて明治館」もあり、ベイエリアとしての一体感を構成している。
十字街のイベントとしては「バル街」が知られている。まずは前売りチケット制の綴りを購入。旧市街の街並みが残る界隈の飲食店をスペインはバスク地方のバル街に見立て、食べ歩き飲み歩きを楽しむ趣向だ。今や全国各地で開催されている「バル街」だが、これは平成16年(2004)に当地で開催したイベントが発祥である。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)

図1. 旧日本銀行函館支店(函館市北方民族資料館)
図2. 市街図
図4. 1980年前後の大型店出店状況