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情熱ある人生

翻訳家 戸田 奈津子


情熱を枯らすことなく、自分の選んだ道を突き進んでいく生き方は美しい。また周囲の人々にも大きな刺激の源となる。
私の周囲で、そういう1人を挙げるなら、俳優のトム・クルーズだ。
彼は昨年、『トップガン マーヴェリック』という世界的メガヒット作品を飛ばしたが、それだけでなく彼はこの作品で、映画館離れしていた観客に大画面・大音響で映画を観る醍醐味を知らしめた。
実はこの作品、コロナが猛威を振るう前にすでに完成していて、字幕を依頼された私の作業も終わっていたのだ。だが世界中の映画館が閉鎖され、公開が何度も先延ばしになるという思わぬ事態が発生。これだけ製作費をかけ、大ヒットが予想される映画を、無為に眠らせておいてよいのか... 映画会社を初め、資金主たちは「ネット配信で公開して、手っ取り早く資金を回収しよう」と、トムに猛烈な圧力をかけ始めた。
だがプロデューサーも兼ねるトムは、その圧力に屈しなかった。「僕はこの映画を大画面・大音響の映画館で楽しんでもらうために精根を込めて作ったのだ。家庭の小さな受信機で観てもらいたくない」と。
彼の一念は通じて、苛立つ3年という待ち時間を経て、昨年、陽の目を見たこの映画は世界中で大ヒット。日本でも劇場だけで131億円オーバーという成績を挙げ、世界的には映画史上、トップテンに入る勢いとなっている。
この映画のヒット現象で類がないのは、観客層の厚さだ。前作の「トップガン」が公開されたのは、何と36年前! 当時、青春の真っ只中で、この映画にシビれた年代の方は今や社会の重鎮層。最近はあまり縁がないであろうこの年令の方々が映画館に足を運び、若き日々を思い出しながら、涙目になっておられるのだ。
私がトム・クルーズを祝福したいのは、金銭的な成績ではなく、映画館で見知らぬ人々と肩を並べ、映画の楽しみを共有するという、本来あるべき姿を呼び戻してくれたことだ。
お客を楽しませるために、トムがどんな危険なアクションにもスタントマンを使わないことは広く知られている。「命を賭けてでも、観る人々を楽しませる映画をつくりたい」という情熱は常に彼の全身からほとばしり出ていて、もちろん、そのための努力と精進はハンパではない。
たとえば長時間、水中で素潜りをせねばならない場面があれば、「心拍数を自らコントロールする訓練(!)」を重ねて、ついには6分半も潜りつづけることを達成した。一事が万事、そこまで自分を追い込み、何よりも好きな映画作りに身を捧げる人なのだ。
昨今、自らを振り返って、「情熱ある生き方」をしていると自負できる人は100人中、何人いるだろうか。それも自分1人だけで何かに熱中しているのではなく、何らかの世の役に立つ、あるいは人を喜ばせる生き方をしている人の話だ。
「老婆心」という言葉があるが、まさに私の年令では的を射ていて、最近、「何となく生きている」ような若者を見ると、ついこの問いかけをしたくなる。残念ながら「イエス」という答えが戻ってくる確率は、あまり高くなさそうだ。情熱を燃やせるものを持ちつづけている人は敬服に価するし、少なくとも周囲にそういう友人、知人がいると言える私は幸せだと思っている。