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路線価でひもとく街の歴史

 
第34回 「静岡県静岡市」
 
歴史を活かしたコンパクトシティ
 
 
令和5年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公、徳川家康が豊臣政権の命で江戸に移封される前の居城が駿府城である。築城は天正13年(1585)に始まった。家康は将軍職を秀忠に相続して隠居の身となり、慶長12年(1607)に駿府城に戻ってきた。帰還後の大改築では新たな天守も構えたが寛永12(1635)年に火災で焼失。その後再建されなかった。
碁盤の目の城下町を貫く東海道は街中に5つの曲がり角を持つ。京都方面から上る旅人目線で説明すると、安倍川を渡河してすぐ城下町に入る。元々の街道筋は1筋西側だったが、城下町の造成にあたって現在の通りに付け替えられた。元の街道筋を「本通」というのに対し、付け替え後の街道筋を「新通」という。図1. 東海道から見た駿府城の景観はGoogle Earthの画像から建物の3D表示を外したものだ。新通に立って前を向くと視線の先に天守が位置する。いざ城下町に入らんとする旅人はこのような風景を見ていたのではないか。本丸を堀が三重に囲んでいるが、城下町のグリッドと並行する外堀の正中線に対し、1つ内側の中堀の正中線が若干斜めにずれており、中堀の坤(ひつじさる)櫓が天守に並んで見える。死角をつくらない防衛上の工夫だろうが、景観面の工夫でもあったのではないか。正面の天守と脇の櫓、程よく傾いた堀のライン。背後の身延山地、そして右奥に座す富士山の構図があまりにも絵になるからだ。
 
街の中心は本通~呉服町
 
碁盤の目は主に商人地である。道の両側で組織されたコミュニティを単位に「駿府九十六ヶ町」を構成していた。明治21年(1888)の市制公布と同時に誕生した初代静岡市の市域も駿府九十六ヶ町の範囲だった。今でこそ全国で5番目に広い静岡市だが、現在の中心市街地も基本的に駿府九十六ヶ町を継承している。さらに狭い中心街を指すこともあるが、地元の人々は親しみを込めて「おまち」と呼ぶ。
碁盤の目の中心が「札の辻」である。札の辻を通る南北軸が札ノ辻町、七間町の通りで東海道と重なる。東海道は新道からクランクし七間町を北上。札ノ辻で向きを変え呉服町に沿って進む。明治以降は南北軸のつきあたり、いわゆる「お誕生席」に静岡県庁が鎮座する。クラシカルな外観の県庁舎は昭和12年(1937)の竣工で鉄筋コンクリート造4階建。コンクリート造りのビルに瓦屋根を載せた帝冠様式が特徴の和洋折衷だ。浜松出身の建築家、中村與資平(よしへい)の設計で国の登録有形文化財である。
対して東西軸は呉服町通である。本通から江川町まで6つの節に分かれ1丁目から6丁目まであった。
宅地の最高地価の地点を静岡県統計書で調べると、記録のある年に限るものの、明治14年から17年および明治22年以降は呉服町4丁目あるいは5丁目だった。
ただし明治18年から21年までは本通1丁目だった。現在、呉服町と本通の交差点の角地に静岡の地域一番行の静岡銀行の本店がある。現存する建物は昭和6年(1931年)に完成した鉄筋コンクリート造3階建。4本のドリス式の列柱が特徴で、これも中村與資平の設計で、登録有形文化財である。完成時は三十五銀行の本店だった。源流を辿れば静岡銀行は明治10年(1877)に設立された第三十五国立銀行である。創業地は本通2丁目で、明治16年(1883)に現在地の向かい側の角地に移ってきた。三十五銀行に改称したのは国立銀行制度が満了したからだ。その後、昭和12年(1937)に旧静岡銀行(現存する静岡銀行とは別法人)と合併し静岡三十五銀行となった。戦中の昭和18年(1943)に遠州銀行と合併して静岡銀行となる。
遠州銀行は浜松の一番行で大正9年(1920)の設立。大正14年(1925)、呉服町3丁目に静岡支店を構えた。出店地は現在区画全体が静岡伊勢丹になっている。
大正に入ると最高地価は呉服町3丁目となる。呉服町3丁目には大正6年(1917)に進出した愛知銀行、その翌年に進出した名古屋銀行の静岡支店があった。いずれも本店は名古屋で、昭和16年(1941)に合併して東海銀行になった。今の三菱UFJ銀行で、再編前は札ノ辻の角地に店を構えていた。愛知銀行のあった場所で、元を辿れば愛知銀行が営業を譲り受けた掛川銀行が明治27年(1894)から営業していた。
札ノ辻の角地には不動貯金銀行もあった。大正9年(1920)に進出した安田貯蓄銀行と合併し、戦後、協和銀行となった。今のりそな銀行であるが静岡支店は駅前に移転し、その後撤退した。
現在のみずほ銀行静岡支店の場所には日本勧業銀行があった。前身は静岡県農工銀行で大正11年(1922)に合併された。戦後、第一勧業銀行の時代を経て現在に至る。沼津市に本店を構えるスルガ銀行は大正12年(1923)の進出。両替町の静岡実業銀行を合併した。当時は漢字で「駿河銀行」だった。
統計書によれば最高地価は昭和7年から11年まで札ノ辻町だった。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書によれば、静岡市の最高の賃貸価格は「札ノ辻角」である。現在、札ノ辻の角地の区画の1つを静岡伊勢丹が占めている。明治4年(1871)に創業した呉服店の田中屋が源流である。田中屋は静岡伊勢丹の本通に近いほう、遠州銀行の隣にあった。昭和6年(1931)に静岡初の百貨店を開業する。4階建の洋館だった。昭和10年(1935)刊行の百貨店事業研究会「百貨店の実相」(東洋経済新報社)によれば営業面積は2,940m2(原本は坪表記)だった。
 
駅前の攻勢
 
他の都市と同様、静岡の街も鉄道開通の影響を受ける。静岡駅は明治22年(1889)の開業。明治41年(1908)には静岡鉄道の新静岡駅が開業した。開業時は鷹匠町駅といった。茶葉を輸出するため、産地問屋が集積していた西郊の安西地区と積出港のある清水を結んでいた。新静岡駅の先は路面電車になっており、大正11年(1922)に新静岡駅から国鉄静岡駅前まで、昭和4年(1929)には同じく安西駅までの路線が開通した。昭和5年(1930)、駅前大通りの御幸通りが開通。昭和7年(1932)には御幸通りに面して、名古屋に本店を構える松坂屋百貨店が「東海髄一の実用百貨店」と銘打って開店した。鉄筋コンクリート造6階建で、「百貨店の実相」によれば営業面積は6,541m2。田中屋の倍を上回る規模だった。
戦後、静岡で最も地価が高い場所が札ノ辻から駅前に移った。最高路線価を調べると、記録に残る最初の地点名は昭和35年(1960)の「紺屋町八丁目内野百貨店前駅前通」だった。その後、特に昭和40年代、駅前には大型店の進出が相次いだ。昭和44年(1969)に丸井が進出。昭和45年(1970)、西武百貨店の静岡店が売場面積19,845m2で開店した。翌年には松坂屋が増床し売場面積が17,425m2となる。
影響を受けたのは札ノ辻の田中屋である。売場面積が9,063m2で駅前勢に水をあけられた。そこで共同仕入れでつながりがあった伊勢丹に支援を仰ぐ。昭和46年(1971)年、腕利き社員の派遣を受けるとともに、婦人服等を中心に品揃えを強化した。年末には伊勢丹から4000万円の出資を受け、翌年「田中屋伊勢丹」に改称。伊勢丹のイメージを前面に都市型百貨店に向けて舵を切る。包装紙や紙袋も伊勢丹と同じデザインに変えた。昭和51年(1976)には後に松屋の再建で知られる「ミスター百貨店」、山中鏆(かん)専務が出向。田中屋伊勢丹の代表取締役に就きらつ腕をふるった。並行して隣接地の買収を進め、昭和52年(1977)に22,968m2に増床し地域一番店になった。
その4年後、田中屋伊勢丹は現名称の静岡伊勢丹に改称する。前の年の昭和55年(1980)には伊勢丹から8億円を調達し伊勢丹の子会社となっていた。最高路線価地点が「紺屋町鈴や店前ゴールデン街通り」に移転したのもこの年だ。ここは駅前と札の辻の中間点である。田中屋の復活とともに呉服町界隈の吸引力も回復したようだった。
最高路線価地点の名称にある「ゴールデン街」は紺屋町の真下の地下街である。最高路線価地点がゴールデン街に移った昭和55年にガス爆発事故が起き、15人死亡223人負傷の大惨事となった。
 
中心街が賑わいを保つ理由
 
90年代以降も駅前は発展を続けている。平成8年(1996)、松坂屋が本館北側に北館を新築、売場面積25,452m2となり地域一番店に返り咲いた。同じ年、北館の隣に丸井のB館「けやきプラザ」が完成する。松坂屋の北館から静岡鉄道の新静岡駅に至るけやき通りに動線ができ、若者向けの街になってきた。昭和59年(1984)に竣工した再開発ビル、静岡伝馬町プラザビルにはユニー系の店舗が入っていたが、平成19年(2007)にSHIZUOKA109となる。同年、紺屋町の西武百貨店がパルコに転換した。その後SHIZUOKA109は平成29年(2017)に東急スクエアに転換し今に至る。
一方、札ノ辻を中心とする呉服町界隈も負けていない。令和4年の最高路線価は「紺屋町名店街呉服町通り」である。地点名は変わったが場所は40年前から変わっていない。価格は1m2当たり114万円で呉服町の一部もかぶっている。なお静岡伊勢丹前は同74万円で、駅前で大型店が集まるけやき通りが同99万円である。他の都市で空洞化が進む中での健闘の背景の1つは、90年代以降の車社会化の影響が他の都市に比べれば強くないことだ。例えば昭和52年(1977)、イトーヨーカドーが郊外に35,000m2のショッピングセンターを計画した。ところが昭和61年(1986)に出店したのは5,500m2だった。地元の商業活動調整協議会の活動が影響した。「静岡方式」と呼ばれた地元独自の規制があった。中心市街地活性化基本計画にある大規模店舗一覧を整理すると、店舗面積ベースで郊外店のシェアは約65%だが、10,000m2以上の大型店に絞れば50%となり、店舗数では市街地立地が郊外を上回る。平成17年(2005)に出店したセントラルスクエア静岡(核店舗:アピタ静岡店、店舗面積25,250m2)、平成25年(2013)のMARK IS(店舗面積30,000m2)はあるが、中心街には大型店だけでも12万m2を上回り、買い回りの魅力が残っていることがうかがえる。
もう1つは中心商店街の取り組みである。特に呉服町名店街が有名だ。石畳やアーケード等のハード整備は他都市と大きく違わない。特長はソフト面にある。例えば平成5年(1993)に一村一品運動ならぬ「一店逸品運動」を始めている。各店がわが店の逸品を定めあるいは開発しアピールする取り組みだ。郊外店にない個性的な逸品が商店街にあることを知らしめた。
「ランドオーナー会議」もある。そもそも商店街が郊外のショッピングモールに伍してなお魅力で上回るには、統一コンセプトを踏まえたテナントミックスが必要だ。中心商店街にふさわしい業種をバランスよく揃えなければならない。「呉服町街づくり協定」に実効性が伴うガバナンスも求められる。商店街振興組合は実際に営業する者が加入するケースが多いが、かつての店主が店を閉め、店舗所有者(あるいは地主)としてテナントに賃貸する「ランドオーナー」になったときが問題だ。商店街への関心を失い、不動産利回り優先でテナントの業種を顧みなくなるケースがある。そのうえテナントが商店街全体の集客に無関心だと状況はさらに悪化する。そうした事態に陥らないよう、ランドオーナーと隔月で会議を持ち、場をつくる共同体としての理解を得るようにした。テナントもしくはランドオーナーが商店街振興組合に必ず加入するルール、空き店舗が発生した場合はランドオーナーが商店街に賦課金を支払うルールも規約に定めている。
商店街の札ノ辻から本通にかけては再開発が進んでいる。静岡伊勢丹の向かい側には平成30年(2018)札ノ辻クロスがオープン。街の中心にふさわしく中層階にはホールがある。隣の街区には29階建の呉服町タワーがある。平成26年(2014)の竣工。道路に面した低層階は商標施設で8階以上がマンションだ。実際、中心市街地に住む人が増えており、「住まう街化」も進んでいる。居住者が増えれば商店街も潤う。これも静岡の中心街が比較的賑わいを保っている要因と考えられる。
 
公園と歴史のまちづくり
 
七間町に並行する青葉通りは戦後整備された都市軸である。昭和15年(1940)静岡大火の復興事業の一環だ。中央分離帯は都市公園(都市緑地)で南端の常磐公園と連続している。ここでは毎年11月に開催される「大道芸ワールドカップ」をはじめ様々なイベントが催されている。青葉通りの「お誕生席」には静岡市役所がある。奥の本館は鉄筋コンクリート造4階建、昭和9年(1934)竣工の近代建築で、「あおい塔」と呼ばれるドームが印象的だ。静岡銀行、県庁舎と同じく中村與資平の設計で国の登録有形文化財である。
今年3月、中心市街地が2040年に目指す姿と方針を示した「葵歴史のまちづくりグランドデザイン」が公表された。歴史文化と都市再生を2大テーマに定め、市民や事業者と一緒にまちづくりを進めるものだ。目指すべき将来像として「歴史とともに暮らす誇りを感じ、ワクワクする『おまち』」が掲げられている。
 
 
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)
 
 
図2. 市街図
図3. 呉服町名店街
図4. 青葉通り