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「天草宝島」
 
天草税務署 総務課長 藤田  武士
 
 
はじめに
天草税務署は、明治29年に町山口税務署として設置され、熊本県天草郡一円を管轄し、明治42年に天草税務署と改称されました。その後、市制施行や市町村合併等を経て、現在は天草市、上天草市及び苓北町を管轄しています。
熊本県の南西部に位置する天草は、東シナ海、有明海、八代海と周囲を三つの海に囲まれた大小約120の島々によって構成され、雲仙天草国立公園に指定されている自然景観をはじめ、キリシタンの歴史や南蛮文化、イルカウォッチングなどの数多くの観光資源に恵まれています。
写真:(自然豊かな天草諸島)
 
管内の歴史
天草の歴史の中で、最大の出来事は、天草・島原の乱です。天草・島原の乱は、天草と島原(長崎県)で始まったキリシタン農民による一揆です。当時天草は、肥前唐津藩(佐賀県)の支配下にあり、領主が、飛び地のような所領の天草を治める拠点として築城したのが富岡城(苓北町)です。乱の原因は、領主の苛政(過酷でひどい政治)で、農民への石高の2倍にも上る年貢(重税)とキリシタンへの迫害は過酷を極め、年貢米の未納者には極刑が課せられていたそうです。さらに追い打ちをかけるように、当時数年間にわたる日照り続きで凶作となり、飢饉が発生し、苛政は天草と島原で同様であったことから、両者の代表が有明海の中間の湯島で談合して一揆をおこしたと伝わっています。
乱の当時、キリシタンや農民たち一揆軍を率いた総大将が天草四郎で、出生地は天草の大矢野島(上天草市)との説もあり、カリスマ的な人気を背景に戦場では十字架を掲げて一揆軍を率いたとも言われています。管内には、天草四郎ミュージアムをはじめ天草キリシタン館など、天草・島原の乱を中心としたキリシタンの歴史がわかりやすく紹介された施設があります。
写真:(天草四郎像)
 
管内の名所
〔﨑津集落〕
2018年7月に世界文化遺産に認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。キリスト教の信仰が禁じられた近世日本で、厳しい弾圧の中、神道や仏教など日本伝統の宗教や地域社会と共生しながら独自の信仰形態を守り続けた潜伏キリシタンの歴史が、世界に類を見ないものと評価されました。構成資産には、天草四郎が天草・島原の乱で籠城したといわれる原城跡から、大浦天主堂、長崎県五島列島に点在する潜伏キリシタン集落などの12の資産があり、そこに熊本県から唯一登録されたのが「天草の﨑津集落」です。
当時﨑津の潜伏キリシタンで、漁業を生業としていた人たちは、デウスを豊漁の神として崇拝しており、アワビやタイラギの貝殻の内側の模様を、マリアに見立てて崇敬するなど漁村特有の信仰形態が形成され、そうした独特の信心具は大切に保存され、資料館に展示されています。
写真 (マリア像の夕陽)(写真提供:天草市)
〔イルカウォッチング〕
島原半島と天草諸島に挟まれた海域は「早崎海峡」と呼ばれています。この海域に生息しているのがミナミハンドウイルカ(水族館などでよく見るハンドウイルカより一回り小さい)です。イルカは本来餌を求めて広い海域を回遊しているそうですが、早崎海峡のイルカは、遠くへは行かず群れでこの海域を回遊しています。これは、世界的にも珍しいことだそうです。早崎海峡は早い潮流と海底が起伏に富んでおり餌となる小魚が多く生息していること、また、この地域の漁業が一本釣りと素潜り漁を主としていたことで、イルカとの共存が可能であったためと言われています。2019年には、天草市五和町に「道の駅 天草市イルカセンター」がオープンし、地元の漁船が1日5便出航しておりますので、野生のイルカたちにぜひ会いに来てください。
写真:(﨑津集落)
 
管内の特産品
〔天草陶石〕
天草地方は日本一の陶石の産地だということをご存じでしょうか? 天草下島の西海岸で採掘される陶石は「天草陶石」と呼ばれ、有田焼や波佐見焼、清水焼など全国の有名な焼き物をはじめ、スペースシャトルの耐熱材にも使われたことがあるそうです。こうした陶石の発見は、17世紀中頃から18世紀初頭のことと言われており、江戸時代の有名な発明家である平賀源内が天草陶石を「天下無双の上品」と絶賛したという記録も残っています。毎年、11月には「天草大陶磁器展」が開催され、天草全域の窯元が一堂に会するとともに、九州内外から多くの窯元が集まる、熊本県下最大級の陶磁器展となっています。
写真:(写真提供:天草市)
〔グルメ〕
天草は、温暖な気候に恵まれた食の宝庫です。周囲を三つの海に囲まれた漁場豊かな地域なので、車海老、ブリや鯛をはじめ、季節ごとに様々な魚介類が堪能できます。また、デコポンやあまくさ晩柑などの柑きつ類、日本最大級の地鶏・天草大王など食材も豊かです。
写真:(車海老)(写真提供:天草市)
写真:(天草さくら鯛)(写真提供:天草市)
 
 
おわりに
『のさり』とは、授かる、頂く、得をする、天の恵み、特別な…という意味を指す天草地方の方言です。近年、天草では『のさり』を活かし、コロナ禍を契機に人気が高まっているアウトドアやテレワークをベースに浸透したワーケーションなどの新しい旅や宿泊スタイルに対応した施設ができるなど開発が進んできています。ぜひ魅力あふれる天草宝島を堪能するためにワーケーションしてみませんか。
 
 
 
 
歴史と自然溢れるUSAと昭和ロマンの町
 
宇佐税務署 総務課長 田中  真一
 
 
はじめに
宇佐税務署は、大分県の北西部に位置する宇佐市及び国東半島の豊後高田市の2市を管轄しています。
全国に税務署が創設された明治29年11月に四日市税務署として設置された後、中津税務署等との統合・分離を経て、昭和23年12月に現在の名称となり、平成7年5月に現在の宇佐合同庁舎に移転しました。
管内の主要産業の一つとしては、広大な宇佐平野を中心とした県内随一の穀倉地帯において、米や麦などの生産が盛んであり、本格麦焼酎「いいちこ」で知られる三和酒類を含め10場の酒造場を有しています。
 
管内の名所
〔宇佐神宮〕
全国4万余の八幡宮の総本宮として知られる神舎で、西暦725年に創建され、1300年近くの歴史を誇っています。
また、境内には国宝の本殿のほか多くの社殿が点在しており、多数の重要文化財が保存されています。
ほかにもEXILE(エグザイル)のÜSA(うさ)さんが、アルバムのヒットを祈願して有名になった御神木の大楠などのパワースポットもあります。
〔富貴寺〕
富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。
中でも阿弥陀堂(富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂の一つに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝に指定されています。
〔昭和の町〕
豊後高田市にある「昭和の町」は、昭和30年代の町並みを再現した地区であり、温かくも懐かしい雰囲気に浸ることのできる街です。
レトロな看板や建物が並ぶ町並みは、まるで昭和時代にタイムスリップしたようです。
〔真玉(またま)海岸の夕陽〕
「日本の夕陽百選」にも選ばれた豊後高田市の夕陽絶景スポットです。遠浅の海岸には干潮時に広大な干潟が出来、春には潮干狩り、夏には海水浴と人が集まります。
また、縁結びスポットでもありますので、大分にお越しのご家族やカップルの方に大変お勧めです。
 
グルメ
〔麦焼酎〕
麦焼酎の出荷量が日本一の宇佐市。
「下町のナポレオン」で有名な「いいちこ」は世界30か国以上で飲まれているそうで、すっきりした味わいは様々な食事を引き立たせてくれます。
また、常圧蒸留で麦本来の香りと味を最大限に引き出している「兼八」も評判です。
〔ねぎしゃぶ〕
宇佐市をはじめとする県北地域で盛んに栽培されている小ねぎのブランド「大分味一ねぎ」。
熱を加えると香り高い味わいと甘みが広がり、弾ける食感は料理のメイン食材としても利用されます。豊後牛と一緒にポン酢で食べたら一口でねぎの虜になること請け合いです。
〔宇佐からあげ〕
「からあげ専門店発祥の地」宇佐市。多くのからあげ店が軒を連ね、それぞれに独自の味付けがあります。地元の方はもちろん、県外からも揚げたての宇佐からあげを求めて多くの方が訪れます。
 
おわりに
宇佐税務署管内の宇佐市・豊後高田市は、宇佐神宮や富貴寺をはじめとする歴史的建造物を多数有しながら、国道にはUSAと表記された看板が設置されるなど、おちゃめな面もあります。
また、豊かな自然に恵まれ、前記で紹介したほかにも安心院町のぶどうや豊後高田市のそば(春と秋の年2回栽培するという特徴あり)など、美味しいものが盛りだくさんの魅力的な場所です。
是非、一度足をお運びください。
(写真提供:宇佐市、豊後高田市)
 
 
 
 
ハブが守り続ける奄美の森、食と伝統文化、奄美黒糖焼酎
 
大島税務署 総務課長 川端  光
 
 
はじめに
大島税務署は、明治29年に大島郡を管轄区域として設置されました。戦後、米国軍政府、琉球政府の統括下に置かれ、昭和28年の奄美群島日本復帰に伴い熊本国税局の所管となり、奄美群島の1市9町2村を管轄しています。
年間平均気温が21℃の亜熱帯性・海洋性の優れた自然環境の下、エメラルドグリーンの海に囲まれた8つの有人島(奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)があります。
豊かな自然と人情にあふれ、大島紬をはじめ、語り継がれるシマ唄、集落ごとにリズムと振付けが異なる八月踊り、各島で醸される伝統の黒糖焼酎など、語り尽くせない産物、名所、伝統文化がここにはあります。
また、観光、釣り、マリンスポーツが盛んですが、都会の喧騒を離れ、じっと海を眺めるだけでも癒されます(個人差あり)。
更には、スギやヒノキが自生しておらず花粉が飛散しないことから花粉症の方にもおすすめです。
今回は、大島税務署が所在する奄美大島にスポットを当て、ご紹介します。
 
管内の名所(自然)
〔金作原原生林〕
奄美大島、徳之島、沖縄島及び西表島が令和3年7月に「世界自然遺産」に登録されました。
金作原原生林は奄美を代表する森であり、高さ10メートルを超える「ヒカゲヘゴ」をはじめ豊かな原生林が広がるとともに、アマミノクロウサギ、ルリカケスなど国の特別天然記念物や猛毒のハブなどが生息し「東洋のガラパゴス」と称されることもあります。
ハブは猛毒を持つため恐ろしいイメージがありますが、ハブが生息することで外敵の侵入が防がれ、奄美の森が守られているとも言われています。
写真:(金作原)(写真提供:奄美市)
写真:(ハブ)(写真提供:奄美市)
〔ハートロック〕
奄美空港から南に車を走らせると、東側の海岸に「ハートロック」と呼ばれるパワースポットがあります。
白い砂浜に干潮時にのみ姿を現す、自然が作り出したハート型の潮だまりであり、アオサの緑と潮だまりの透き通った青のコントラストが岩場のハートを際立たせています。
恋愛のパワースポットとして話題になり、写真を撮って待ち受け画面にしておくと恋愛運がアップすると観光客にも大人気です。
ハートロックを綺麗な形で見られるのは、潮位80cm以下の干潮時の前後1時間で、波が穏やかなときと言われており、潮の満ち引きは、季節や日によって大きく変わるため、観光に訪れる際は、あらかじめ干潮時間の確認をお勧めします。
なお、道中の林では、ハブにも要注意です。
 
伝統文化
〔本場奄美大島 大島紬〕
約1300年前に作られていたと言われ、我が国の染色織物の中でも長い伝統を持つ染色織物で、泥染め等のいくつもの行程を経て絹糸に独特の美しい光沢を与えていきます。
昭和55年に当時の通産省が定義した5条件全てを満たしたものだけが「大島紬」の名を冠することができ、最高級品では数百万円もの価格となり、日本の絹織物でも高級品として知られています。
近年では着物だけでなく、コースターや小銭入れといった小物の生産も盛んになっており、以前よりも気軽に大島紬を手に取ることができるようになっています。
写真:(写真提供:奄美市)
〔土俵〕
集落ごとに土俵があり、豊年祭などで奉納相撲が行われ、子供から大人まで力強く日頃の稽古の成果が競われており、大相撲の力士も輩出しています。
現在、瀬戸内町出身の明生(めいせい)関が幕内で活躍中です。
〔島口(しまぐち:方言)・シマ唄〕
奄美には、独特の島の方言があります。代表的なものとして「いもーれ(ようこそ)」、「ありがっさまりょた(ありがとう)」などがありますが、中には、「わん(私)」や「はげー(びっくり)」など驚く言葉もあります。
奄美で語り継がれるシマ唄は島口を独特の節回し(裏声)で歌い上げられ、集落や地域の仲間が集まり「唄あしび(あそび)」が始まり、次代へ語り継がれています。また、奄美民謡大賞を決める大会も開催される盛り上がりで、宴席においてもたびたびシマ唄が披露され、宴の最後は「六調(ろくちょう)」と呼ばれるノリの良いリズムのシマ唄に合わせて全員で踊り、宴が終わりを迎えます。
 
グルメ・地酒
〔鶏飯(けいはん)〕
島料理は様々ありますが、「鶏飯(けいはん)」は代表的な島料理の一つです。
薩摩藩の役人へのおもてなし料理として始まったと伝えられており、ご飯に「鶏のササミ、しいたけ、錦糸卵」などの具材を乗せ、鶏のガラスープをご飯にかけて召し上がります。具材は家庭で異なり、刻み海苔、ミカンの皮、パパイヤの漬物などのトッピングを楽しめます。
写真:(写真提供:奄美市)
〔奄美黒糖焼酎〕
国税庁は酒類業を所管しており、酒類業の健全な発達を使命として産業育成に取り組んでいます。
その中で、国内において、奄美群島のみ製造を許可しているのが黒糖焼酎です。
奄美における正確な焼酎製造の始まりは不明ですが、焼酎の製造技術は、琉球から奄美を経て16世紀に薩摩に入り、さらに北上し日向や球磨地方へ伝わったと言われています。
江戸時代、書物「南島雑話」によれば、シイの実や粟、ソテツを材料とした焼酎造りやサトウキビの搾り汁を使う「留汁焼酎」が作られたと記載がありますが、「黒糖」は、薩摩藩の管理により庶民が勝手に扱うことができないものであったため、黒糖焼酎は造られていませんでした。
その後、明治新政府による酒造の免許制度が始まった頃から戦後に入るまでは、自家用焼酎が造られていたようです。
戦後、奄美群島がアメリカ軍制下におかれ、本土と切り離されたことにより、売りたくても売り先が無くなった黒糖が焼酎造りに使用され、現在の奄美黒糖焼酎に繋がりました。
元々の黒糖焼酎は「スピリッツ」と呼ばれる蒸留酒に区分されるものでしたが、奄美群島が日本に復帰する際に米こうじを使用することを条件に、黒糖を使用した黒糖焼酎の製造が認められ、現在に至ります。
令和になった現在も奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島において製造され、単式蒸留機から蒸留仕立ての風味豊かな黒糖焼酎が溢れ出て、愛飲されています。
写真:(写真提供:奄美市)
 
おわりに
焼酎の歴史に触れましたので、最後に1908年(明治41年)11月に管内(沖永良部島)で起きた事件についてご紹介します。
大島税務署知名駐在の万膳重雄税務属(23歳)と大島警察署沖永良部分署の佐多義種巡査(25歳)は、知名町の海岸に停泊中の密売船(沖縄で密造された泡盛の密売)に乗り込み、犯人の検挙と密造酒の押収を行おうとしましたが、犯人グループの激しい抵抗により、両氏は危害を加えられ、滅多打ちにされたところで力尽き、手足を縛られ、海中に沈められるという、壮絶な死に至りました(犯人は逃走したものの、その後逮捕され、死刑あるいは無期懲役となったと伝えられています)。
時を経て、沖永良部島(知名町白浜)と奄美市名瀬(らんかん山)の2か所に慰霊碑が建立され、職員が沖永良部島を訪れた際には慰霊碑に手を合わせ、らんかん山では警察署と合同で慰霊祭と周辺の清掃作業を行っており、殉職した両氏の勇敢な行動と遺徳を後世に伝えていくこととしています。
写真:(沖永良部島(知名町)の慰霊碑)
写真:(奄美市(らんかん山)の慰霊碑)