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路線価でひもとく街の歴史

第33回 「愛知県名古屋市」
 
公園とともに生まれ変わる栄地区
 
 
堀川舟運と街道が交わる伝馬町
名古屋駅は東海道線だが東海道は名古屋を経由せず南方を通過する。最寄りの宿駅は7km南の宮宿で熱田にある。木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川がたいへんな難所で、次の宿駅の三重の桑名まで海路でショートカットするルートだ。熱田から名古屋までのアクセス道は美濃路と重なる。美濃路は宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ脇街道だ。名古屋城下の街割りは碁盤の目が基本で、江戸初期の絵図を見ると、熱田からのアクセス道が碁盤の目に直進する様が「甲」の字のようだ。「甲」の字の上辺が名古屋城外堀、左辺が堀川に接する。そして右辺が現在の久屋大通で下辺が広小路にあたる。名古屋の風景といえば広小路から久屋大通の名古屋テレビ塔を臨む構図が定番だが、城下町としては端に位置した。
そして「甲」の字の中心にあるのが「札の辻」だ。札の辻を中心に城下町を南北に貫く大通りを本町通といい大店が軒を連ねていた。中でも十一屋(じゅういちや)、下むら、桔梗屋そしていとう呉服店は4大呉服店と呼ばれていた。十一屋は丸栄、下むら呉服店は大丸、いとう呉服店は松坂屋の祖である。
美濃路は札の辻でクランクし、伝馬町を辿って碁盤の目から出る。伝馬橋を渡ったところで右折し、堀川に沿って北上する。堀川は開府の頃に開削された運河で、名古屋城下と熱田の港を結んでいた。熱田とのアクセスに関して美濃路は陸路、堀川は水路という分担だった。堀川沿いには米穀、味噌、塩などを扱う商家が集まった。
明治に入っても堀川河岸から本町通にかけての一帯が賑わった。特に銀行は本町通と堀川河岸の間の馬町で創業したケースが多かった。最も早い銀行は三井銀行で明治5年(1872)に伝馬町で開業。後に名古屋銀行(現在の第二地銀「名古屋銀行」とは別)、第一銀行、明治銀行が町内に店を開いた。名古屋銀行の開業は明治15年(1882)。戦後の地域一番行かつ大手行の一角を占めた東海銀行の前身3行の1つである。東海銀行は再編を経て三菱UFJ銀行となった。第一銀行の進出は明治21年(1888)だが当初は四日市支店の名古屋出張所だった。渋沢栄一が創業した銀行でみずほ銀行の源流の1つである。明治銀行は明治29年(1896)の設立で、昭和13年(1938)に破たんするが、当時は名古屋銀行、後述の愛知銀行と並び3大銀行と呼ばれるほどの勢いがあった。
 
広小路と玉屋町
愛知県統計書に掲載されている最高地価のうち最も古いのは明治16年(1883)で場所は「玉屋町」だった。本町通のうち札ノ辻から広小路までの区間の両側町である。街の重心は札の辻の南側にあった。
時代が下るにつれ重心は南に動いていく。玉屋町の南端に接する広小路は元々城下町の外縁で、排水路があったことから堀切筋と呼ばれていた。万治3年(1660)の大火事で城下町の半分が焼失。延焼防止策として堀切筋が15間(約27.3m)に拡幅され、その後、広小路と呼ばれるようになった。ただし拡幅されたのは本町通の1筋西の長者町筋まででそのから先は細道のままだった。西は久屋大通の公園部分を挟んで西側の旧久屋町筋が終点である。つきあたりには明治10年(1877)に愛知県庁ができた。
発展の契機が明治19年(1886)の名古屋駅の開業だ。線路は知多半島の付け根、衣浦(きぬうら)湾の武豊(たけとよ)港から岐阜を目指して北上し、清州駅(現在の枇杷島(びわじま)駅)に到達したところで名古屋駅ができた。当時、わが国の東西幹線は中山道ルートで整備が進められていた。岐阜-武豊間の路線は幹線整備のための資材搬入ルートを兼ねた東西幹線の枝線だった。ところが名古屋駅が開通した年に東西幹線計画は中山道ルートから東海道ルートに切り替わり、枝線として計画された路線の大部分が本線になった。工事は急ピッチで進められ、東海道本線は明治22年(1889)に全通する。
名古屋駅は広小路の軸線を東に伸ばした地点に計画された。桜通りのつきあたりにある現在の名古屋駅より200m程南である。駅の開業にあわせて広小路が延び、長者町筋から東の部分の道幅が拡がった。こうして広小路は駅から直進し県庁につきあたる駅前通りになった。明治31年(1898)には京都に次いで全国2番目の路面電車が広小路に通された。名古屋駅最寄りの笹島から県庁前まで5つの停留所ができた。
この頃から銀行街が広小路近辺に移ってくる。明治29年(1896)、玉屋町に愛知銀行(現在の第二地銀「愛知銀行」とは別)が開業した。東海銀行の前身3行の1つで、碁盤の目の北辺の京町筋に2つあった国立銀行が国立銀行制度の満了を機に統合してできた銀行である。国立銀行の1つが第十一国立銀行で明治10年(1877)の創業。いとう呉服店の14代伊藤次郎左衛門祐昌(すけまさ)が初代頭取を務めた。もう1つが第百三十四国立銀行で明治11年(1878)の設立である。なお伊藤祐昌は明治14年(1881)にも銀行を立ち上げている。いとう呉服店の隣で創業した伊藤銀行で、こちらも東海銀行の前身3行の1つである。昭和16年(1941)、一県一行主義の流れで名古屋銀行、愛知銀行と合併し東海銀行になる。
明治30年(1897)、日本銀行が名古屋支店の開設地に選んだのが広小路だった。三井銀行は大正4年(1915)に広小路に移転した。今に残る重厚な銀行建築は昭和10年(1935)の竣工である。イオニア式の円柱が特徴で、こちらも現存する横浜支店と同様だ。界隈には住友銀行が大正4年(1915)、三菱銀行は大正7年(1918)、三和銀行の前身の山口銀行が大正9年(1920)に支店を出した。昭和2年(1927)に第一銀行が今のみずほ銀行名古屋支店の場所に移転した。同じ年には名古屋銀行も広小路に移転している。建物は名古屋を拠点に活躍した建築家、鈴木禎次(ていじ)の設計で、東海銀行の本部や中央信託銀行だった時代を経て、平成30年(2018)にレストラン・結婚式場のTHE(ザ) CONDER(コンダー) HOUSE(ハウス)となった。昭和3年(1928)には愛知銀行が今の錦通に面する場所に店舗を新築のうえ移転した。ここは後に東海銀行の初代本店となった。
 
広小路から栄町へ
大正15年(1926)に出版された大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書によれば、名古屋市西区で最も賃貸価格が高かったのは「玉屋町四丁目」である。札ノ辻から広小路まで4分割したうち広小路に接する区間である。ここが60円なのに対し、中区で最も高い「栄町五丁目、同六丁目」は65円だった。この時点で既に栄町が玉屋町を上回っていた。栄町は長者町筋から久屋町筋までの広小路の両側町で、大津通を挟んで東側が五丁目、西側が六丁目だった。現在地でいえばそれぞれメルサ栄本店、名古屋三越の前面道路である。
栄町の発展のきっかけは路面電車の開通とそれに伴う道路拡幅である。中心街から熱田に至る南北幹線の検討にあたって、当初は本町通に沿って軌道を敷設する予定だった。しかし沿線住民の賛意を得られず、代わりに500m西の大津通を拡幅して線路を敷設することになった。明治41年(1908)に開通し、大津通りは広小路に次ぐ13間(23.6m)となった。前後して日銀が明治39年(1906)に栄町に移転。東京駅を手掛けた辰野金吾が設計する赤レンガの銀行建築だった。
栄町には集客を見込んで百貨店が集まってきた。明治43年(1910)、いとう呉服店が栄五丁目に移転し百貨店を開店。ルネサンス風の3階建洋館が耳目を集めた。繁盛し手狭になったので大正14年(1925)に南大津町の現在地に6階建2万m2の大型店を建て本店を移した。このとき屋号を「松坂屋」に統一する。十一屋が栄町に移転したのは大正4年(1915)だ。大正8年(1919)には4階建の洋風建築に改築し百貨店を開業した。大正10年(1921)、鉄筋コンクリート造り5階建に改築。昭和11年(1936)には7階建に増築し売場面積は9,900m2となった。
昭和14年(1939)、十一屋の広小路通を挟んだ向かいに3階建11,345m2の三星(みつぼし)が開店した。京都に本店を構える百貨店「丸物(まるぶつ)」を経営する中林仁一郎が地元と合弁で立ち上げた。戦時中の昭和18年(1943)に十一屋と合併し「丸栄」になった。その後、丸栄は丸物の系列百貨店に位置づけられるようになる。丸物は池袋に東京丸物を開業するなど全国展開を図ったが後に経営が悪化。近鉄グループの傘下に入り京都近鉄百貨店となった。東京丸物はパルコに引き継がれる。
昭和35年(1960)の最高路線価地点は「中区栄町五丁目松阪屋栄町店前広小路通」だった。後に名古屋の大手百貨店は4Mと称される。栄の松坂屋、丸栄、三越と駅前の名鉄百貨店のイニシャルだが、栄3店のうち最後に栄に移転したのが三越だ。当時はオリエンタル中村といった。母体の中村呉服店は明治2年(1869)の創業で、広小路と本町通の交差点北西角に店を構えていた。角地は本店用地として東海銀行が買収。中村呉服店は昭和29年(1954)、栄町のオリエンタルビルに入居し、オリエンタル中村百貨店となった。昭和31年(1956)には店舗を3階建から7階建に増築した。その後、昭和52年(1977)に三越の傘下に入り、昭和55年(1980)に名古屋三越百貨店に改称するに至る。平成5年(1993)には名古屋三越の前面に最高路線価地点が移った。
 
駅前の発展と栄の再生
栄地区は長らく商業中心地としての地位を維持していたが、しだいに勢いが駅前に移ってきた。名古屋駅前の開発が進み、平成12年(2000)には名古屋駅にジェイアール名古屋高島屋が開店。平成17年(2005)には最高路線価地点が「名駅1丁目名駅通り」に転じた。高島屋が入るJRセントラルタワーズに面した通りである。その後も駅前と栄地区の差は広がっていった。高島屋は平成27年(2015)に売上高で松坂屋を上回り地域一番店となる。平成30年(2018)に丸栄は百貨店の営業を終了した。令和4年の路線価は名駅通りが1,248万円で、2番手の栄3丁目大津通り846万円の約1.5倍となった。
他方、栄地区にも再生の兆しがうかがえる。名古屋国税局管内で最高路線価の前年比上昇率が最も高かったのは「久屋町8丁目久屋大通り」の8.7%だった。久屋大通公園の東に面する道(旧久屋町筋)のうち錦通と広小路の間の区間である。久屋大通りは戦後復興の象徴たる100m道路である。
中央を貫く久屋大通公園は元々中央分離帯だったが昭和45年(1970)に都市公園となった。名古屋テレビ塔は昭和29年(1954)の竣工だ。都市公園にテレビ塔や地下街が整備できるのは元が道路だったからだ。公園の錦通りから北は公民連携で再生されHisaya(ヒサヤ)-odori(オオドオリ) Park(パーク)となった。公園にオープンモールが溶け込んでいる。地上波デジタル放送への切り替えでテレビ塔は電波塔の役目を終えたが、観光名所として再生した。「遺跡」の扱いで公園施設となったが、先般、国の重要文化財に指定される見通しとなった。
前年比上昇率の最高地点に隣接する区画では中日ビルが建て替え中で、2年後には33階建の新中日ビルが竣工する予定だ。また、先ごろ、久屋大通を挟んで斜め向かい、元の「栄広場」の再開発が着工した。令和8年(2026)に41階建の高層ビルが建つ。上層階はラグジュアリーホテル「コンラッド名古屋」となる予定だ。久屋大通公園に次いでその両岸が変貌する。
最後に堀川河岸に目を転じる。堀川舟運は戦後しばらくまで現役の物流ルートであり続けた。近代は輸出入の拠点ともなり、河岸には今も建物が残る輸入商社加藤商会など貿易会社も多かった。明治44年(1911)には名鉄瀬戸線の前身の瀬戸電気鉄道が堀川駅まで開通。瀬戸焼の産地から陶器類が堀川駅で堀川舟運に積み替えられた。しかし「お堀電車」と呼ばれていた外堀区間は昭和51年(1976)に廃止。2年後に栄町を終点とする路線に切り替わる。
舟運は廃れてしまったが、近年は水辺と歴史を活かしたエリアに再生しつつある。円頓寺(えんどうじ)商店街には個性的なレストランやショップが増えた。江戸期の町家が残る四間道(しけみち)とその周辺は「町並み保存地区」に指定され貴重な観光資源にもなっている。納屋橋界隈には川沿いに「納屋橋ゆめ広場」ができた。堀川を遊覧するクルーズ船の船着き場もある。河岸の遊歩道では夜市などのイベントが催されるようになった。戦前、名古屋駅の南の旧笹島貨物駅から名古屋港までのルートで中川運河が開削された。貨物駅は昭和61年(1986)に廃止されたが、跡地を再開発してできた「ささじまライブ」は運河に連絡する船溜まりを活かした独特の景観となっている。他にも、ノリタケ本社工場の跡地にできた「ノリタケの森」、豊田自動織布工場だった「トヨタ産業歴史記念館」など、近代史を活かしたまちづくりの好例が名古屋に多い。
 
 
 
プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。単著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社、2022年)
 
図1. 広域図
図2. 市街図
図3. 久屋大通公園と名古屋テレビ塔
図4. 四間道の風景