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ファイナンスライブラリー

 
評者 渡部  晶
 
與那覇  潤 著
過剰可視化社会~「見えすぎる」時代をどう生きるか
株式会社PHP研究所 2022年5月 定価 本体960円+税
 
 
本誌2021年12月号で紹介した『平成史』が歴史学者として最後の著作としている與那覇潤氏の、「評論家」としての肩書で刊行する最初の書籍が本書になる。
月刊文藝春秋2021年11月号は、財務省関係者には、『財務次官、モノ申す「このままでは国家財政が破たんする」』が掲載されたことから記憶に新しいところだと思うが、同号146頁以下に與那覇氏の「口下手は災いの元か~菅が引きずり下ろされ、ひろゆきが持てはやされるなんとも浅はかな『コミュ力』の時代」と題する論稿も掲載されていた。当該論稿では、「論破社会」を卒業すること、すなわち、「味方」を何人動員したかよりも、どれだけ幅広い「敵」と、対立はしても殴り合わずに議論できたか。そのためには雄弁であるよりも、口下手な方がよいことだってある、と主張していた。本書にも通じる「通奏低音」と思う。
去る9月25日に、『ABEMA Prime』(略称「アベプラ」)の「【可視化】見えすぎると困る?ひろゆき&與那覇潤と考える」という企画に與那覇氏が出演し、アウェイ感漂う中で、上記のように「対立はしても殴り合わず」にひろゆき氏らと議論することを実践していたことには驚くとともに正直感服した。
本書の構成は、まえがき、第1章 社会編―日本を壊した2010年代の「視覚偏重」、第2章 個人編―「視覚依存症」からはこうしてリハビリしよう、第3章以下は対談で、第3章 「みえる化」された心と消えない孤独―心理学との対話(東畑開人×與那覇潤)、第4章 「新たなるノーマル主義」を超克せよー哲学/文学との対話(千葉雅也×與那覇潤)、第5章 健康な「不可視の信頼」を取り戻すためにー人類学との対話(磯野真穂×與那覇潤)、あとがきにかえて、となっている。
「まえがき」では、本書の狙いを明らかにしているが、まず、コロナ禍の隠れた犯人として、「過剰可視化」社会という視点を提起する。すなわち、SNSで自らプライバシーを発信し、政治信条や病気・障害までを社会に公開しても、最後は安易なルッキズム(見た目偏重)ばかりが横行する「すべてが見えてしまう社会」である。そして、この「過剰可視化」社会の形成過程と問題点とを検討し、あるべき対案を提示することを目的としている。與那覇氏は、本書の前半で、氏自身が考えるビジョンを読者に示した上で、後半は、日本のコロナ禍における「自粛優先」の風潮に強い違和を感じ、それぞれの専門を活かして異議申し立てをしてきた3名との対話を収録している。
この「まえがき」の中では、帚木蓬生著『ネガティブ・ケイパビリティ』を参照し、「なんらかの『答えを出す』タイプのポジティブ(積極的)な能力は、その存在を具体的な結果や実績、保有者のプロフィールなどで目に見える形にしやすい。しかし『何が正解なのかわからない』状態を、むしろ安易な答えに飛びつかないことによって、自身と違う考えの持ち主とも相互に尊重しあいながら乗り切るネガティブ(消極的)な能力は、視覚化には向かないのです。」という指摘がとくに印象的だ。
與那覇氏が常々目指しているのが、「人文学」の再生、リハビリである。対話した3名のうち、東畑氏と磯野氏は大学を自ら離職する道を選び、千葉氏は大学での研究と並行して創作(小説)にも乗り出していて、いずれも既存の人文学の機能不全を意識し、従来とは異なる新しい「読者への伝え方」を模索しているとする。このような信頼に基づいた対話が近年乏しいことを再認識させられる充実した対話になっている。評者は常々與那覇氏が丸山眞男氏を継ぐ座談の名手ではないかと勝手に思っているが、その名手ぶりがいかんなく発揮されている。
この夏に出た、與那覇氏と池田信夫氏との対話本『長い江戸時代のおわり』(ビジネス社)も、「知の基盤」全体が地すべりを起こす状況を鋭く批判し、現代社会の諸相を自在に論じ、出口を模索している。また、歴史学者時代の「まわり道の所産」とする『帝国の残影―兵士・小津安二郎の昭和史』も文春学藝ライブラリーとして古市憲寿氏の秀逸な解説(「忘れたことを忘れないために」)を付して10月に文庫化された。ぜひ併読をお勧めしたい。