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瀬戸内海今昔~神話の時代から瀬戸内国際芸術祭2022まで~(下)

 
元国際交流基金 吾郷 俊樹
 
 
神話の時代から現在までの瀬戸内海を巡る今昔のお話の続き。前回は今年5回目となる瀬戸内国際芸術祭から始まり、過去に遡り、古事記、日本書紀、万葉集、土佐日記、源氏物語の舞台などをご紹介。今回は源平合戦から。
 
(5)一の谷、屋島、壇ノ浦(1185年 源平の戦い)
今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半のヤマ場、お馴染みの源平の戦いの舞台は瀬戸内海。
一の谷の戦い。一の谷は今の神戸、光源氏も滞在したという須磨の辺り。平家物語によると、木曽義仲に追われて都落ちをした平家は、いったん九州に撤退するが、盛り返して、ここに陣を敷く。頼朝は範頼を総大将として平家を追討させるが、範頼軍は苦戦。義経にも平家追討を命ずる。海岸まで山が迫る神戸、義経は、地元の猟師に鹿が通ると聞いて、鹿が通るなら馬でも通るといって、別動隊で山側から鵯越えの坂落とし。山側から忽然と現れた源氏軍。慌てふためいた平家は海に逃れるが、多くの武将が討たれる。
清盛の命で奈良 東大寺の大仏殿を灰燼に帰した本位中将重衡は逃げるところを遠矢で馬を射られて生け捕りに。当時16才の平敦盛は逃げ遅れ、船に乗ろうとするが、熊谷次郎直実に見つかり、呼び止められ、組み伏せられる。いまだ幼く鉄漿を引いた美少年、敦盛を見て、助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、間が悪く梶原ら味方の軍勢がすぐそこに。「同じ事なら、直実が手にかけて、後のご供養をお約束します」と泣く泣く敦盛を討つ。首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づく。思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動。その笛を見た時、直実の心はいっそう締め付けられる。
敦盛の名が今に知られるのは、信長が好んだ能の演目でもあるからか。信長公記によると、桶狭間の戦いの出陣に際して信長は敦盛の舞を、「『人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか』と歌い舞って、『法螺貝を吹け、武具をよこせ』と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶってして出陣した」という。
現在、須磨寺には、敦盛の首塚が祀られ、敦盛愛用の笛「小枝」は、今も宝物館に展示。古来より全国から多くの人がこのお寺を訪れ、「須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇」と芭蕉も詠んだほか、蕪村、子規なども当寺を訪れて歌を詠む。
写真 平家物語 巻9鵯越の「坂落」の場面。平家物語.巻9 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
屋島の戦い。「屋島」は今の高松。一の谷の戦いで海に逃れた平家はここに陣を築く。追う源氏、船の上の戦の訓練をしていないと懸念の声に梶原景時は逆魯をつけて自由に動けるようにと提案。義経、初めから退却の準備をしてどうすると一蹴。攻撃一辺倒は猪武者だという梶原と同士討ちの危機。結局、追い風の強風の日に義経は船頭たちを脅して、通常、3日かかる海路を5艘の船で僅か3時間で四国に渡り、少人数で奇襲攻撃、内裏に火を放つと平家方はまたも海に逃げる。源氏方が少人数と分かると平家方随一の強弓、能登守教経が逆襲。義経を射殺そうとさんざんに射掛ける。武蔵坊弁慶らがガードし義経は無事だが、奥州以来の家臣を失う。義経は鵯越で乗った名馬を僧に贈り、弔うよう頼むと源氏の兵士、「この御大将のためなら命も惜しくない」と感動。那須与一が平家方の船上の扇を射たのもここが舞台。
平家物語によると、屋島の戦いの後、義経は部下を派遣。源氏方についた河野通信を討つために3千人を率いて伊予に遠征していた平家方の田内左衛門教能に、屋島の戦いで平家方は全滅し、父も生け捕りにし、息子の身を案じていると騙して降伏させ、味方につける。これが壇ノ浦の勝利を決定づける。梶原景時が着いた時には戦は終わっていて、「今頃来ても用はない」と人々は嘲笑ったという。平家物語ではいつも義経はヒーローで、梶原景時はヒールである。
現在、屋島は瀬戸内国際芸術祭の舞台、高松。新作として8月に山上に展望施設「やしまーる」が開業。設計者の1社SUOの主宰者周防貴之は、金沢21世紀美術館の設計者、SANAA(Sejima and Nishizawa and Associates妹島和世・西沢立衛)出身。曲がりくねったガラス張りの全長220m「高低差がある計画地の地形を生かし」、「蛇行する川の流れをイメージしたような平面形状」の回廊から瀬戸内海を一望。
壇之浦の戦い。屋島で敗れた平家は壇ノ浦、今の下関に。平家物語によると、源氏の船は三千余隻、平家の船は千余隻での海上での戦い。戦に先立ち、源氏方では義経が梶原景時と先陣争い。大将軍が部下と先陣争いをするなど「この殿は、生まれつき人の主にはなれぬものとみえるな」という景時と自ら「大将軍は鎌倉殿、わしは戦奉行を承ったまでのこと故、そなたたちと同じ」という義経、またも同士討ちの危機。決戦の朝、平家方では、戦いの朝、息子が源氏方に降伏した父阿波民部重能が裏切るのではと怪しみ斬ろうとする平知盛を総大将平宗盛がまさか裏切るまいと抑える。義経は、当時、非戦闘員とされ、攻撃されなかった船乗りを遠慮なく射殺し、平家方の船の自由を奪い、やがて、知盛の懸念とおり重能が裏切ると寝返りが続出。大勢は決し、もはやこれまでと平家方は次々と入水。平教経は、船から船へと乗り移り義経を探し回るが、義経、「八艘飛び」で逃げ、教経は源氏方二人の力自慢を道連れに海へ。
鎌倉幕府の公式文書、「吾妻鑑」によると、安徳天皇の入水、亡くなった人、生け捕られた人、三種の神器のうち草薙剣が失われたことなど壇ノ浦の合戦の結果の報告を受けた頼朝は、直ぐにその文書を取上げ、自分で巻いて持ち、鶴岡八幡宮の方に向かって座り、言葉を発することもなかったという。
下関は19世紀にも歴史に登場。1895年、日清戦争の講和条約は下関で締結。講和条約の舞台、春帆楼は河豚料理店、日本側全権の伊藤博文が河豚を解禁した店だという。秀吉の時代、河豚中毒死が続出したため禁止され、長州藩では禁を破ると家禄没収の厳罰。もっとも、禁令は表向きで、庶民は昔からふぐを食していたという。1887年、初代内閣総理大臣の伊藤博文が宿泊した折、「魚を食したい」という伊藤公に海は大時化でまったく漁がなく、困り果てた女将が打ち首覚悟でふぐを出したところ、「若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして『こりゃあ美味い』と賞賛」。知事に働きかけて山口県内ではフグが解禁。春帆楼の隣の「日清講和記念館」(日清講和記念館 SHIMOHAKU Web Site)には伊藤博文や李鴻章の座った椅子など講和会議場を再現。
現在の関門海峡。特に船舶が混雑し、地形や水路が複雑で、気象や潮流の状況が厳しい港や水域では海難事故の発生するおそれが高く、一定の船に対して水先人の乗船が義務づけられている11の強制水先区があり、関門もその一つ。
写真 吾妻鑑での壇ノ浦の報告の場面。「一 先帝没海底御 入海人々 二位尼上…」とあり、次頁に報告を受けたときの頼朝の様子。出典:新刊吾妻鏡.巻4-5 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
 
 
(6)嚴島(1555年 毛利元就、村上水軍の来援を得て、陶晴賢を嚴島で討つ)
壇ノ浦で滅んだ平家が崇拝したのが世界遺産、嚴島神社。安芸守となった平清盛が嚴島神社の社殿を修復し、崇拝したことで知られるが、源平の戦いには出てこない。この神聖な島が戦場となったのは、大内義隆に仕えていた毛利元就が、同じく大内配下で主君義隆を討った陶晴賢を破った「嚴島の戦い」。この「嚴島合戦を前にして、元就の謀略は最高度の威力を発揮」。北の脅威、尼子の「後門の狼の牙を抜」くため尼子軍団の最強兵力を尼子晴久への謀反の企てとの偽情報で誅殺させる。次いで、元就は晴賢の重臣を自己の陣営に入れようとしたが、「その態度が曖昧であったため、不安を感じ、…陶方の間者を逆用して…晴賢に密告させ」殺害させる。元就は、嚴島に囮城を築き、陶軍をおびき寄せ、渡海して陶軍に奇襲攻撃をかける戦略。ゆえに「毛利軍にとって最も必要としたのは水軍力の充実」。そこで、村上海賊集の来援を要請。晴賢も来援を要請していたが、「陶は何となく借りたり、元就はただ一日貸したまはれ、宮島に渡りて即ち戻すべしと言ひ送られければ、久留島(来島)道康聞きて、一言なれど思い入りたる所あり。毛利必ず勝つべき事疑うべからずとて、三百艘貸したりける」。決戦前夜、暴風雨の中、村上水軍の船も借りて渡海した毛利軍は夜のうちに山に登り、夜明けとともに鬨の声を上げ、晴賢の本陣めがけて一気に駆け降りる。狭い嚴島に布陣した2万の陶に対して、4,000人の毛利の奇襲攻撃で陶は大混乱。晴賢は脱出を図るが船がなく自害。
標高529メートルの宮島の瀰山、原生林が平成8年に厳島神社と共に世界遺産に登録。ロープウェーで険しい岩山を15分で一気に登り、そこから瀬戸内海を一望できる山頂まで40分、360度の絶景が広がる山頂の展望台は日経新聞NIKKEIプラス1の「『多島美』めでる展望台』10の3位。2014年に古い展望台を建て直した木造2階建ての宮島弥山展望休憩所は、広島原爆ドーム近くの「おりづるタワー」や前回ご紹介した「犬島精練所美術館」の設計者、三分一博志設計。
その瀰山からは、海軍兵学校で知られる江田島や戦艦大和を建造した呉も一望。江田島の海軍兵学校は今は海上自衛隊の第一術科学校(射撃、水雷、船務、航海、気象、通信、電子、掃海機雷、運用、応急、潜水、警備、体育等、多岐にわたる術科教育)で見学可能。その桟橋で「チヌ(黒鯛)がよく釣れるんですわ。」と昔、広島の人から聞いた。
海軍以来、乗組員に曜日感覚を保たせるため艦上では金曜日のメニューはカレーだというが、ここのお土産売店売れ筋商品No1はカレーだという。農水省のWebsiteによる海軍カレーの由来。明治3年以降、脚気が大流行、結核と並ぶ2大国民病と言われ、特に白米を食べられる軍隊で拡大。食事のメニューのせいではと考えた海軍軍医 高木兼寛が対照実験。9か月の航海で白米中心の食事を提供した艦では380人中約170人が脚気に罹り25人が亡くなったが、洋食を提供した艦では330人中、脚気患者は20人以下で死者0という劇的な効果。栄養バランスが良く、調理が簡単で大量に作れ、おいしいため、英国海軍で提供されていたカレーを導入。海軍内にカレーが普及し、海軍で脚気が克服されたという。
なお、農林水産省のWebsite「日本各地の郷土料理」で海軍カレーは江田島や呉のある広島県ではなく、横須賀のある神奈川県の郷土料理(海軍カレー…神奈川県:農林水産省(maff.go.jp))。農林水産省のWebsiteだと広島県の郷土料理はかき飯だが、宮島といえば、あなご飯も名物。宮島の対岸、宮島口のフェリー乗り場前にある日経新聞のNIKKEプラス1でも紹介された老舗、上野屋。創業明治34年、どのガイドブックにも載っている人気店、社長の生家を改装したという趣ある古民家のお店はいつも長蛇の列。
写真 標高530mとひときわ高い瀰山を擁し、古来より信仰の対象として周辺の人々が崇めてきた神の島、嚴島。古くは瀰山を中心とする島全体をご神体とし、創建は593年(推古元)と伝えられる世界遺産、嚴島神社。 嚴島神社蔵 写真提供:広島県
 
 
(7)村上水軍(1581年 ルイス・フロイスが瀬戸内海を航行)
厳島の戦いで、毛利についた村上水軍。環境省のサイトでは1434年に初めて「室町幕府、大島村上氏に遣明船の海上警固を命じる」と登場。幕府公認の存在。
村上海賊(村上水軍)は、14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した一族。能島・来島・因島に本拠をおいた三家は「それぞれに海城を築き、因島村上氏は本州側の航路、能島村上氏は中央の最短航路、来島村上氏は四国側の航路を押さえていた。海城を要衝に置くことで、海の戦いに備えるだけでなく、海の関所として瀬戸内海の東西交通を支配」したという。
その財力。村上水軍に関する文献は多いが、事業再生分野の権威として著名な園尾隆司元裁判官の担当の国際海運会社の民事再生案件でスポンサーに村上水軍の末裔が登場。それをきっかけに書かれたという「村上水軍 その真実の歴史との経営哲学」によると、平安時代の年貢の運賃は積荷の4割5分と高額。それでも、時期は異なるが陸路だと海路の4倍、10日も余計にかかったというから海路が合理的。「このように収益の大きい海運事業に携わる水軍は、その財力を持って組織と武力を整備し、武装した海運事業者として、各海域において独立した地位を占めることと」なり、源平の屋島・壇ノ浦の戦いでは源平の双方で水軍が活躍。源氏方についた水軍は中世に入って、大きく勢力を拡大したという。
その武力。海賊というと一攫千金を夢見て宝探しかと思いきや、ここではフック船長やジョニー・デップもデイヴィ・ジョーンズも出てこない。平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担い、戦時には「強大な母船安宅船、快速の関船、俊敏な小早船を駆使し、弓矢のほか『焙烙火矢』といわれる重火器を自在に使用して、抜きんでた攻撃力を有していた」という。
1581年、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが瀬戸内海を航行した際、能島殿という日本最大の海賊と交渉し、自由に通航できるよう、好意ある寛大な処遇を求め、能島殿は「怪しい敵に出会ったときに見せるがよいとて、自分の紋章が入った絹の旗と署名を渡した。」という。当時、「日本中で最高の海賊としてその座を競い合ってきたのはただ二人だけ」で、その一人は能島殿であり、他の一人は来島殿というから、いずれも村上水軍。
村上水軍は、厳島の戦いの後、毛利家と親しく、敵対する信長の本願寺攻めに対して本願寺に兵糧を搬入。「信長公記」によると、木津川の戦いで、織田方300余艘に対する村上水軍800艘ほどは「焙烙火矢というものを作り、味方の船を包囲して、これを次々に投げ込んで焼き崩し」、織田方の「歴々多数が討ち死に」。村上水軍は兵糧を補給して、西国に引き揚げて行ったという。その後、「1588年 豊臣秀吉、海賊禁止令を出す」。
現在。村上水軍の末裔について、園尾元裁判官は、「村上水軍各家には、卓抜した経営の技量を持つ方が多く、各家とも、多数の企業経営者を輩出」しており、そこには「1000年を超える歴史の中で鍛造された」経営哲学、「試練を乗り越える哲学」があるという。
来島村上氏の本拠地、来島海峡は今も水先人の乗船が義務づけられている11の強制水先区の一つ。
写真 村上水軍の分布図。安芸国から伊予国の間を通る船は村上水軍の支配水域を通る。環境省「せとうちネット」<3.瀬戸内海の歴史と文化[せとうちネット] (env.go.jp)>
 
 
(8)鞆の浦(1607年 朝鮮通信使が初めて来日)
古来、国内外を結ぶ海上交通の大動脈、瀬戸内海。東西を結ぶ船の行き交う瀬戸内海。潮待ち、風待ちの港町が繁栄。今も、鞆の浦、尾道など歴史情緒ある街並みが残る。
中でも瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦、万葉集にも「我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」(四四六 大伴旅人)など鞆の浦を詠んだ和歌が八首。徳川家康の時代、1607年に始まった朝鮮通信使もここで汐待ち。万葉の時代から既に港としての役割。江戸時代の港湾施設に必要な「常夜燈」(船の出入りを誘導する灯台)「雁木」(潮の干満に関係なく船を着けられ、荷揚げができる石階段)「波止」(高波被害から港湾を守るために造られた石積みの防波堤。)「焚場」(ドックのようなもの)「船番所」(港に出入りする船を見張ると同時に、安全も管理・監督)という5つの設備のほぼ完全な形で残っているのは全国でも鞆の浦だけという。鞆の浦の沖にある仙酔島は「仙人も酔うほど美しい」といわれる景勝地。福禅寺対潮楼の座敷からは,穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ鞆の浦の素晴らしい眺めを一望。1711年には,朝鮮通信使が対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と称賛。
現在、広島県福山市にある鞆の浦。対潮楼からの景色は,アニメ「サザエさん」のオープニングや,谷村新司の「いい日旅立ち」のCDジャケットにも使われ、また興行収入155億円、2008年に最も売れた映画、宮崎駿の「崖の上のポニョ」の町のモデルだとも言う。
写真 鞆の浦のシンボル、高さ11mの常夜灯と全長約150m、最大24段の円形劇場のような雁木。出典:鞆の浦(とものうら) - 福山市ホームページ(city.fukuyama.hiroshima.jp)
 
 
(9)赤穂(1701年 殿中刃傷事件、1748年仮名手本忠臣蔵)
元禄14年(1701年)3月、江戸城本丸松之廊下で播磨国赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる殿中刃傷事件、浅野内匠頭は即日切腹の処分。元禄15年12月14日、四十七士による吉良邸討ち入り。一連の事件が「忠臣蔵」として知られるのは、討入りから47年目の寛延元年(1748年)に最初は大阪で浄瑠璃として上演され人気を博した「歌舞伎演目の金字塔」と言われる「仮名手本忠臣蔵」の影響だという。当時、当代に起きた政治的事件をそのまま劇化することは禁じられていたため、「太平記」の世界に仮託して脚色。役名は、吉良上野介が高師直、浅野内匠頭が塩冶判官、大石内蔵助が大星由良助。浅野を塩冶判官に擬しているのは、浅野の領地の赤穂が塩田経営で知られる土地ゆえ。
万葉集、古今和歌集、新古今和歌集でも瀬戸内海での塩焼きに関する歌は多く、瀬戸内海では古来、海水から塩づくり。忠臣蔵の時代には海水を天日干して塩田で塩を生産したようだが、環境省のWebsiteによると、「1762年 このころから瀬戸内の塩田で石炭の使用が始まる」とあり、脱炭素の考えもない「1886年 このころ、石炭使用量の51%を塩田で占める」という。専売公社時代の1970年、電気を帯びた百万分の1mmくらいの塩分だけ通る孔が開いた膜を使い海水を一気に濃縮する、従来の1万分の1のスペースで足りるイオン交換樹脂膜法での製造に切り替わり、塩田はなくなったという。
 
 
 
3瀬戸内海を渡る
(1)大三島
村上水軍の氏神、大山祇神社で知られる大三島。愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶしまなみ海道の中心、芸予諸島最大の島。
樹齢2,600年、神話の時代から続く楠をご神木とする大山祇神社。甲冑、刀剣の国宝の八割が宝物館に納められているという。ここにはいずれも国宝の、白村江の戦いに際し、斎明天皇が勅願奉納された唐鏡、平家を京都から追い落とした木曽義仲奉納の鎧、三島水軍百五十艘の兵船を引連れて讃岐屋島の義経の麾下に参じ、壇ノ浦合戦に活躍した武将、河野通信が戦勝の御礼に奉納した鎧、源義経が源平合戦に大勝を収めた後、武将佐藤忠信をして代参奉納せしめた「八艘飛びの鎧」と呼ばれる鎧など素人が聞いてもタダ者ではないお宝がずらりと並ぶのは壮観。
しまなみ海道開通前に大三島に行ったら、島に3台しかないというタクシーの運転手はとても親切で、前を見て運転をしなさいと習った身としては、安全運転を祈りたくなるほど、後ろの席を振り返りっぱなしで観光案内してくれた。
大三島の現在。2011年にオープンした日本初の建築ミュージアム、今治市伊東豊雄建築ミュージアム。1970年の大阪万博の会場は丹下健三が設計し、岡本太郎の太陽の塔がそびえ立つが、2025年大阪万博で大催場の設計を担当するのは、プリツカー建築賞受賞者、伊東豊雄。ここでは、1970~80年代の日本の実験的な住宅建築を代表するシルバーハット(1986年に日本建築学会賞作品賞受賞)として知られる自邸を再現。2011年に私塾「伊東建築塾」を設立した伊東は、これからのまちや建築を考える場として様々な活動を行い、大三島では、地域の人々とともに継続的なまちづくりの活動に取り組む。
「建築のわかりやすさや、空間の楽しさを表現したい…。それは、見た目だけではなく、その空間に身を置いたときに自然と感じる楽しさのようなものです」と語る伊東。「もっと実践的に、若い人たちと一緒になってこれからの建築を考える場として、小さな建築塾をつくりたいということを、ずっと考えていた」伊東は、大三島で小さなアートミュージアムの設計を頼まれる。2004年に開館した現代彫刻の美術館に新たにアネックスを作り、それも今治市に寄贈する計画。初めて大三島を訪ねた伊東は、「いっぺんに、この島に魅せられ」たという。伊東が美術館の施主に私塾の構想を話すと「『あなたの建築ミュージアムにしたらいい』と言われ、私もびっくりしたのですが、ありがたいことに、それを今治市がオーソライズしてくれました」という。伊東は、「今治は巨匠丹下健三氏の出身地です。そのような土地に私の建築ミュージアムがつくられることには大きな躊躇いがありました。しかし…市の皆様方の温かいお勧めに甘え、お受けすることにしました」という。結果、2011年5月「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」がオープン。この間、彫刻家の岩田健の作品を集めた「今治市岩田健母と子のミュージアム」も設計し、すぐ近くに、ほとんど同じ時期にオープン。同時に、「伊東建築塾」の構想もスタート。「大三島は、じつに不思議な島です。…そこにたたずむだけで、何か神聖な気持ちを抱いてしまうに違いありません。…これまで開発らしい開発は行われず、島には昔ながらの人々の暮らしがそのまま息づいています。…塾生たちも、島に行くとすぐにその魅力に取り込まれてしまうようで、みんなが口々に『あそこに行くと、時間の流れ方が変わる』というのです。…いずれは私も、ここに自分の小屋を作りたいと考えているところです。」と語る伊東。大三島を「一つの回遊式庭園に見立てようと考え」、2012年から、塾生とともに「日本一美しい島・大三島を作ろうプロジェクト」をスタート。「ここで重要なのはこのプロジェクトを私たちだけで進めているわけではない、…島の人たちと一緒になって、むしろ島の人たちに教えを請いながら進めていこうとしています。瀬戸内海ではベネッセホールディングスが主体となって、アートを基軸にした島づくりを行っている直島や豊島、またトリエンナーレとして開催されている『瀬戸内国際芸術祭』といった活動が広く展開されていますが、大三島ではもう少し生活に寄り添ったかたちで『ライフスタイル』としての島づくりに取り組みたいと考えています。そして最終的には、島の人々が何かやりたいということに対して、私たちがお手伝いしていくというかたちになることが望ましいと思っています。」と語る。
伊東は、「大三島のような土地で物事を進めていくために必要なのは、やはり人と人との関係」だといい、都会の人間が大三島に行くと、「ある種の波風が立ちます。そこで起きる刺激を、都会の人間も、島の人間も、求めているような気がし始めたのです」と語る。「建築塾でみんなと話していても、常にいちばんの課題としてあがるのは新しいコミュニティのあり方について」だというが、「こうしたテーマは、頭で考えているよりも、現実のなかで面白いことが進行しているようです」という。「建築とは、一言にすれば『人の集まるところをつくる』ということ」だと言う伊東は、「いくら交流スペースをつくろう、コミュニティを形成する空間はここだと、大学での課題のように机上で考えていても人は集まりません。だからこそ、建築塾の塾生が大三島に行き、そこで実践的に、人間関係を少しずつつくろうとすることには大きな意義があります。…プロセスにこそ、交流が生じ、コミュニティが生まれるのです」と語る。
観光客として「『日本で一番行きたい島』よりも『住みたい島』にすることこそが、大三島の未来に繋がっていくものと信じています」という伊東は、しまなみ海道の開通により、ほとんどの人が参拝だけするとそのまま他へ移動し、すっかり廃れてしまった大山祇神社の参道エリアに注目。参道のほぼ中央にある魅力的な空き家に目をつける。昔は法務局として使われていたこの二階建ての木造家屋をリノベーションして、「島と私たちを繋ぐ『大三島みんなの家』」に。
映画のロケに使われたこともある小学校の教室や校長室がリノベーションされ、夏には家族連れの海水浴客にも人気の宿泊施設は、老朽化による耐震への不安などから、建物の所有者今治市が取壊しを検討していた。伊東は「この島の人たちが通った想い出が詰まった建物を壊してはいけない、問題があるならば耐震補強するなどの方法をとって、島の記憶として残さなければならない」と、建築家として再生案を提案する意義が認められ、伊東豊雄塾の監修でリニューアルしたのが「大三島 憩の家」。教室に泊まり、目の前のビーチで遊び、食は海鮮料理三昧。
「ここで行われていることは、これからの日本、その人と人との交流のあり方、経済のあり方、ひいてはグローバル経済に覆われた世界の今を問い直すことにもつながってくると思います。一つひとつの取り組みはとても小さいものですが、その射程はなかなか壮大であると、実感しています。」と伊東は語る。
大三島は伊予の国、現在、今治タオルで知られる愛媛県今治市。市庁舎、公会堂、市民会館はいずれも日本人で初めてプリツカー建築賞を受賞した巨匠、丹下健三設計。前述の園尾元裁判官によると、造船業など海事産業が集積する今治では、「海事産業に従事する多くの方々が村上水軍の末裔であることを自認し、今治の地元では村上水軍の末裔がこれを支えていると信じられている」という。
写真:大山祇神社宝物館収蔵の左、伊予守源義経奉納の国宝「八艘飛びの鎧」。右、頼朝奉納の国宝 紫綾威鎧・大袖付 大山祇神社蔵
写真:大三島のみかん畑に囲まれた傾斜地に建つ今治市伊東豊雄建築ミュージアム。手前の銀の丸屋根が建築学会賞を受賞した伊東の自邸を再現したワークショップスペース:シルバーハット、奥の黒い建物が展示スペース:スティールハット。撮影:中村絵
 
 
(2)大島
大三島からしまなみ海道を四国へ向かうと大島へ。四国と結ぶ来島大橋は大島、今治の間約4kmの来島海峡に架かる総延長4.1kmの3つの吊橋。来島海峡は昔から鳴門海峡、関門海峡と並んで海の難所として知られる。瀬戸内海の中央海域へ行き来する船舶には、避けられない航路であり、海上交通安全法に指定される航路。来島海峡大橋の橋梁計画では、自然環境の保全、船舶航行の安全性、車両の走行性などを考慮、瀬戸大橋での海中基礎の施工実績などによる建設技術の進歩が計画に反映され、合理的な設計で工事数量を減らし、大型作業船を使った効率的な施工で安全性と確実性を向上させ、工事期間を短縮。
来島大橋を見下ろす標高307.8mに新国立競技場の設計者、隈研吾の「亀老山展望台」。水平にカットされ公園として整備されていた山頂をもとの地形に戻し、「その地形にスリットをあけ、その中に一続きのシークエンスを持つ展望台を埋蔵」し、「建築を消そうという試みを行った」と隈がいうこの展望台。NIKKEIプラス1の「『多島美』めでる展望台」10の中で全体2位は瀬戸内No1。Trip Advisorでも「旅好きが選ぶ!日本の展望スポット ランキング 2017」で2位のパノラマ展望台ブリッジからは、世界初三連吊橋「来島海峡大橋」と日本三大急潮のひとつ「来島海峡」の潮流、晴れた日には西日本最高峰「石鎚山」を眺望。来島海峡大橋を渡れば四国である。
写真 しまなみ海道随一の展望スポット、亀老山展望台からの来島海峡大橋 (公社)今治地方観光協会 提供 第3回 四国・今治地方観光写真コンテスト入賞作品:入賞作品紹介:四国・今治地方観光写真コンテスト(oideya.gr.jp)
 
 
(3)讃岐 金毘羅
四国。万葉集に朝廷の使者として讃岐に赴いた歌聖、柿本人麻呂の「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ…」と長歌にうたわれた讃岐。
海賊だけでなく、瀬戸内海は、濃霧や強風がたびたび発生して船の行く手を阻み、多島海特有の浅瀬や暗礁、急潮流が原因で海難事故が多発。海路の安全祈願をしたくなるのも人情。現在も備讃瀬戸は水先人の乗船が義務づけられている11の強制水先区の一つ。金刀比羅宮は、香川県琴平町にある象頭山に鎮座。金毘羅神への信仰は近世に入ってからといわれ、その担い手は船頭をはじめとする船乗りが中心。宝暦3年(1753)には、大阪から金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船が造られ、定期航路が開かれ、これが日本最初の旅客船航路と言われる。
海の安全と言えば、本四架橋のきっかけは、濃霧で修学旅行生ら168人が犠牲となった国鉄宇高連絡船「紫雲丸」の沈没事故。世間に与えた衝撃は大きく、建設省と国鉄が架橋建設に向けて本格的に調査を開始。結果、3ルートで建設されることが決定。瀬戸大橋は、瀬戸内海の優美な多島海の真ん中を通る道路37.3km、鉄道32.4km、海峡部9.4kmに架かる6橋の総称。架ける場所の地形、地質、景観によって最適な構造を選択。道路だけでなく鉄道も通す2層構造の橋をこの規模でつくるのは世界初。乗り越えなければいけない課題が多く、新たな技術開発。なかでも難関は、橋を支えるための土台建設。瀬戸大橋には海中基礎が11基、最も深いところで50m、約14階建てビル相当の巨大な土台を「海の銀座」といわれる国際航路で、好漁場の海域に影響を与えずにどうやって海中に確実に頑丈な土台を築くことができるか、度重なる議論と調査、実験の結果、確信をもって採用されたのは、設置ケーソン工法。あらかじめ工場で組み立てた鋼製の箱(ケーソン)を船で引いて海中に沈め、そこに粗骨材を詰め、隙間にモルタルを注入して固める。モルタルの注入は何昼夜もかかり、途切れると継ぎ目ができて弱くなるため連続注入が必須。モルタルを供給する船の開発が工事を左右したという。瀬戸大橋を望む倉敷の鷲羽山展望台は、NIKKEIプラス1の「『多島美』めでる展望台』10の5位。
写真 海上でモルタルを製造する世界最大のモルタルプラント船「世紀」を開発。予期せぬトラブルも人々の熱い思いと団結力で対応し、瀬戸大橋が完成。本州四国連絡高速道路(株)提供 本州四国連絡橋公団発足50周年 夢の架け橋ヒストリー|瀬戸マーレ vol.45(jb-honshi.co.jp)
 
 
(4)淡路島
柿本人麻呂が「淡路の 野島の先の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す」(万葉集 二五一)と詠んだ淡路島。旅立つ夫の着物の紐を結ぶのは、自分の魂を半分結び夫を守るという当時の習俗だといい、人麻呂は淡路島の北に立ち、遥か故郷の妻を思いやっているという瀬戸内海の船旅の歌の中の一首。万葉集、古今和歌集、新古今和歌集でもたびたび詠まれる淡路島。
『古事記』の冒頭を飾る「国生み神話」、「イザナギ・イザナミの二柱の神様が、生まれたばかりの混沌とした大地を天沼矛で塩コオロコオロとかきまわし、矛先から滴り落ちた塩の雫が凝り固まった『おのころ島』で夫婦となって日本列島の島々を生んでいく。その中で、最初に生まれた“特別な島”が淡路島」だという。
昭和の作詞家・阿久悠の自身の淡路島での少年時代をつづった同名小説を篠田正浩監督が映画化した夏目雅子の遺作「瀬戸内少年野球団」の舞台。
その淡路島の現在。瀬戸内海沿いには、古くは厳島神社、現代では直島、豊島、大三島、今治、大島など各地に世界的建築家の作品。今年4月には紙の建築で知られるプリツカー建築賞受賞者の坂 茂設計の全長100mの杉材の木造建築の空中回廊の下に18室の客室が連なる「禅坊 靖寧」がオープン。木々の中に忽然と現れる巨大な木造テラス、建築雑誌でも紹介され「日本の絶景宿」の表紙を飾るこの宿、日帰りや1泊2日での空中禅体験ができる。ガラス張りの個室は空中に浮く。この部屋でどういう夢をみるのだろう。
淡路島に本社機能を分散したパソナグループの南部靖之代表から「空中座禅道場」を設計してほしいと依頼された坂は、「“空中で座禅を組む”とは、どんな空間を作ったらよいだろう?」と自問し、「周囲はうっそうとした木々に囲まれ、様々な鳥のさえずりが聞こえる素敵な場所であった。普段人は下から木々を見上げているが、建築の中にいる威圧感がなくなり宙に浮かぶように上から木々を見下ろすことができれば、鳥の囀りに囲まれることにより非日常的な場に身を置けるような空間が作れるのではないか」と思ったという。「デッキに座っても周囲の手摺りが視界に入らない工夫をした」というこの建物、「大階段を上り天井高が徐々に低くなり、デッキに座るともはや建物の存在感は消え、木と森と風、そして昼間は様々な鳥の囀りやカエルの鳴き声や、夜は虫の鳴き声に包まれ、味覚以外のすべての四感が自分を支配していることに気付かされる。」と坂は語る。
淡路島から明石海峡大橋を渡れば光源氏も滞在した明石である。
写真:淡路島のうっそうとした木々の中に忽然と現れる巨大な木造テラス、「禅坊 靖寧」パソナグループ提供
 
 
(5)小豆島
前回ご紹介した豊島から船で20分の小豆島、淡路島に次いで瀬戸内海で2番目に大きいこの島、再び瀬戸内国際芸術祭の舞台へ。
豊島からの船が到着する土生港に金色に光り輝く小豆島名物、オリーブの王冠、土庄港のシンボル的な作品「太陽の贈り物」。金色に光り輝く葉には、島の子ども達が寄せた「海へのメッセージ」が刻まれ、金色に光り輝く円環からは海が眺められる。
ファッションデザイナー、コシノジュンコの作品も。今回新作の「対極の美ー無限に続く円ー」瀬戸内国際芸術祭での3つ目のコシノの作品。コシノが1990年にデザインしたドレスをまとった女性をモデルに初めて3Dプリンターで制作。「見ると忘れらんないみたいなことって必要だと思うんですね。」と語るコシノ。宙に浮く等身大の女性、全体6メートル、土台は四角く、女性から広がる線は丸くすることで対極の美を表現したこの作品、これを見るときっと忘れられない。
夕日が映える青い海を見下ろす丘の上に高さ3.7m、幅2.4mの巨大な卵。今回の新作、「はじまりの刻」。植物を素材として組み込んだ有生彫刻(時と共に変化し続ける生のある彫刻)を作る三宅之功の作品。草花の種子を植え付けた「卵には草が生えて命を宿す」、「夕陽を浴びて島とともに生きる命の象徴」だというこの作品、ひびの入った卵を見ると確かに何か始まりそう。
「古事記」の国生み伝説では10番目に「小豆島(あづきじま)」を生んだとされる小豆島。大阪城の石垣には小豆島の石も使われたと言われ、秀吉によりキリシタン大名小西行長の領地に。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると行長は「その島の守りを自らの手で一層堅固にするために二つの城を作らせることに決め、同島のすべての家臣たちがキリシタンとなり、教会と大十字架が建てられて、我らの主なるデウスの名がその地で知られるにいたることを望み、…その島へ司祭の派遣を乞うことにし」、小豆島で布教が行われたという。江戸時代は天領。
木下惠介監督、高峰秀子主演の映画「二十四の瞳」の舞台として、またそうめんや日本におけるオリーブ発祥の地として知られるが、普通に御家庭にもありそうな小豆島製品はかどやのごま油。ごま油のシェアナンバー1の「かどや製油」は、安政5年(1858年)に小豆島で創業。豊島からの船が小豆島の土庄港に着くとごま油の香りが漂う。
写真 作家が「その場所と共に存在し、呼吸し続けるような物体を作りたいと考えている」という「はじまりの刻」。青い海を見下ろす高台に巨大な卵が立つ姿は壮観で、周囲の木々や芝生の緑とも絶妙にマッチ。三宅之功「はじまりの刻」Photo:Keizo Kioku 小豆島|瀬戸内国際芸術祭2022(setouchi-artfest.jp)
 
 
 
4終わりに
ドイツの地理学者、リヒトホーフェンは1860年に瀬戸内海に立ち寄り、その美しさを「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであらう。将来この地方は、世界で最も魅力のある場所のひとつとして高い評価をかち得、沢山の人を引き寄せるであらう。《中略》かくも長い間保たれて来たこの状態が今後も長く続かんことを私は祈る。」と記したという。
古来、我が国の政治・経済・社会・文化のいろいろな分野にわたって、いつも先進的な歩みを進めてきた瀬戸内海、その陰では今日も多くの人たちの往来の安全への尽力。古代から人々の行き交う瀬戸内海。これからも永く、魅力的で、国内外の多くの人々を惹き付け続けることを願うばかりである。
 
 
(主な参考文献)
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高松市の屋島山上交流拠点施設「やしまーる」、22年8月開業前に絶景単独取材|日経クロステック(xTECH)(nikkei.com)
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【下関春帆楼】日本のふぐ料理公許第一号の老舗ふぐ料理店|全国各地の店舗、下関本店でのご宿泊、ご婚礼、通販サイトをご案内します。(shunpanro.com)
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第1術科学校:トップページ(mod.go.jp)
江田島クラブお土産売店/人気ナンバーワン! 江田島海軍兵学校のカレー 2食入り(xsrv.jp)
脚気の発生:農林水産省(maff.go.jp)
見てみよう!日本各地の郷土料理:農林水産省(maff.go.jp)
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日本遺産 村上海賊(murakami-kaizoku.com)
園尾隆司、「村上水軍 その真実の歴史との経営哲学」2020年、一般社団法人 金融財政事情研究会
著者ルイス・フロイス、訳者 松田毅一、川﨑桃太、松田陽三、「完訳フロイス日本史(3)安土城と本能寺の変」、2020年、中央公論新社
瀬戸の夕凪が包む国内随一の近世港町|日本遺産ポータルサイト(bunka.go.jp)
鞆の浦(とものうら) - 福山市ホームページ(city.fukuyama.hiroshima.jp)
「ビギナーズ・クラシックス日本の古典 万葉集」、2002年、角川書店編
企画展「赤穂事件と忠臣蔵 事件はどう語りつがれてきたか」 墨田区公式ウェブサイト(sumida.lg.jp)
仮名手本忠臣蔵|歌舞伎演目案内 - Kabuki Play Guide -
日本の塩|一般社団法人日本塩工業会(sio.or.jp)
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【公式】大山祇神社|大三島宮(oomishimagu.jp)
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伊東豊雄、「日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む」、2016年、株式会社PHP研究所
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亀老山展望台|SETOUCHI ARCHI-TOURISM(setouchi-architourism.com)
亀老山展望台|隈研吾建築都市設計事務所(kkaa.co.jp)
公益社団法人 今治地方観光協会 –  瀬戸内しまなみ海道 おいでや!いまばり(oideya.gr.jp)
JB本四高速 -本州四国連絡高速道路株式会社-(jb-honshi.co.jp)
特集:本州四国連絡橋 座談会(kajima.co.jp)
『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」|日本遺産ポータルサイト(bunka.go.jp)
建築界の最高栄誉といわれる「プリツカー賞」授賞の坂茂氏による建築 座禅リトリート&レストラン『禅坊 靖寧』 淡路島に今春オープン! ~都会を離れた大自然の中で、優しい食事とマインドフルネス体験を提供~|株式会社パソナグループのプレスリリース(prtimes.jp)
「新建築 2022年6月号」、2022年、株式会社新建築社
「Brutus Casa特別編集 SETOUCHI CITY GUIDE」、2019、マガジンハウスムック
瀬戸内国際芸術祭2022(setouchi-artfest.jp)
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かどや製油 - 小豆島物語(npnp.jp)
小豆島観光協会【公式】(shodoshima.or.jp)