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路線価でひもとく街の歴史

第31回 「千葉県千葉市」

参道に見立てた公園でまとまる新旧市街


舟運と街道の街の本町
千葉といえば、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した千葉常胤(つねたね)の騎馬像が亥鼻(いのはな)城址にある。千葉が城下町だったのには違いないが鎌倉時代の話。近世の政治拠点は総武本線で千葉から5駅内陸の佐倉にあり、千葉は佐倉藩の外港だった。佐倉藩の年貢米は佐倉道で千葉に運ばれ、江戸行きの五大力船(ごだいりきせん)に積み替えられた。千葉の街は城下町というより港町、かつ寒川港を拠点とする物資の集散地として発展した。
佐倉道から江戸に向かうルートは広小路交差点で2手に分かれる。片方が本町(ほんちょう)~市場町(いちばちょう)を通り寒川港に至る道、もう片方が通町を通り登戸港をかすめ、海岸線に沿って走る千葉街道である。千葉の街はこの2つの道に沿ってできた。寒川港に繋がる水路が都川(みやこがわ)で、都川と本町・市場町の南北軸が交差するところに大和(やまと)橋(ばし)があった。橋の近辺には荷上場があり、近代以前は市場が開かれ賑わった。市場町の名はこれに由来する。
明治期の街の中心は本町である。千葉県統計書の地価最高価格で本町が初めて登場するのは昭和2年(1927)。後述の通りこの頃は1筋西の吾妻町も賑わっていたが、少なくとも昭和2年までは本町が千葉の一等地だったとうかがえる。
本町は今の千葉市美術館の場所に川崎銀行があった。今の三菱UFJ銀行の源流の1つである。千葉に進出したのは明治8年(1875)である。銀行制度が発足する前で当時は「川崎組」といった。現存する店舗は昭和2年(1927)に建てられたネオ・ルネサンス建築で矢部又吉の設計。千葉空襲による焼失を免れた貴重な近代建築である。保存方法がおもしろい。中尊寺金色堂の「鞘堂」のように、歴史的建造物をすっぽり覆うかたちで地上12階鉄骨造のビルを建てた。旧川崎銀行は新ビルの1、2階部分にあり「さや堂ホール」として使われている。
本町には三井銀行もあった。前身の三井組を含め明治9年(1876)に出張店を出し、明治27年(1894)に撤退した。旧川崎銀行の並びに京葉銀行本町支店があるが、昭和40年(1965)に駅前に移転するまではここが本店だった。旧本店を構えたのは昭和19年(1944)で当時は千葉合同無尽といった。千葉合同銀行の本店を譲り受けたもので、元は大正14年(1925)に建てられた総武銀行の本店だ。当時の建物は既に建て替えられ現存しない。
千葉合同銀行は地元地銀の千葉銀行の源流の1つである。千葉銀行は昭和18年(1943)、千葉合同銀行、小見川農商銀行、第九十八銀行が合併して発足した。前身3行のうち元々千葉に本店を構えていていたのが第九十八国立銀行で通町にあった。明治11年(1878)に士族と地元の地主によって設立。国立銀行制度の満了に伴い第九十八銀行に改称した。みずほ銀行の前身行の1つである安田銀行との関係が深く、3行合併時点で安田保善社(今風にいえば安田銀行グループ本社)の出資比率が36%を超えていた。

戦後の中心は千葉銀座へ
千葉駅は明治27年(1894)に開業した。当時は総武鉄道の駅で、現在地より約600m東側、今の市民会館の場所にあった(図2 市街図)。開業時の開通区間は市川駅-佐倉駅で、その年のうちに本所駅(現・錦糸町駅)まで延伸した。千葉駅は終点ではなく途中駅だった。途中駅は船橋駅と千葉駅のみで今の一般的な特急のような駅間距離だ。
明治29年(1896)には房総鉄道が開通。千葉駅からスイッチバックして大網方面に向かう線形だった。町内には本千葉駅も設置された(明治35年(1902)まで「寒川駅」)。今の京成電鉄千葉中央駅の約100m南にあった。本千葉駅からは都川に沿って専用線が分岐し水路と連絡していた。総武鉄道、房総鉄道ともに鉄道国有法で明治40年(1907)に国有化され、総武本線、房総線となった。房総線は現在の外房線である。鉄道の開通で千葉の物流は水路から陸路にシェアを移していったが、人の流れや街の中心を変えるのはもう少し先の話である。
街の構造に影響を与えたのは京成線の乗り入れだ。大正10年(1921)、京成千葉駅が開業した。当時は今の中央公園の場所にあり、昭和6年(1931)までは単に「千葉駅」という駅名だった。京成本線は名前の通り東京と成田を結ぶ路線だが、京成津田沼駅から分岐する千葉線が先に整備された。
京成線の開業で中心街は本町から次第に東に広がっていった。大正14年(1925)、第九十八銀行が駅の向かい側、今の千葉中央ツインビル1号館の場所へ本店を新築し移転する。3行合併後は千葉銀行の本店となった。
戦後になって、街の中心が千葉銀座に移ったことが地価で確認できる。昭和34年(1959)の最高路線価は「吾妻町2丁目奈良屋デパート前銀座通」だった。銀座通は戦後の名称で元は新通町といった。明治の時分は区画の最東端だったが、戦後はこちらがメインストリートになった。通りの南側には裁判所や県庁など、明治以降に新築された施設が建っている。まとまった土地が必要な施設が集まった経緯からも、銀座通が旧市街地の外縁だったことがうかがえる。
千葉には銀座通がもうひとつある。南北軸の千葉銀座に対する東西軸の中央銀座である。この2軸が戦後の商業中心地といえる。奈良屋デパートは両銀座が交差する角地にあった。
奈良屋デパートは昭和を代表する地域一番店である。祖を辿れば伊勢生まれの初代杉本新右衛門が寛保3年(1743)年、京都四条烏丸に仕入店を開き、常総地方に行商する他国店持京商人(たこくたなもちきょうあきんど)を始めたことに遡る。奈良屋は独立前に奉公した呉服商の屋号である。小売店舗を構えたのは明治42年(1909)。七代目が佐倉店の出張店を横町に開設したのが始まりである。大正3年(1914)、川崎銀行から借地し吾妻町通に面した千葉店を開業。昭和5年(1930)に新築して百貨店業態となった。翌年に株式会社に組織改正するが、このとき本店を京都から千葉に移している。本店に昇格した旧千葉店は空襲で全焼。戦後は昭和21年(1946)に千葉銀座にあった別館の場所に本店を再建した。
地場百貨店は奈良屋の他に2つあった。昭和34年(1959)に開店した扇屋百貨店と昭和39年(1964)の田畑百貨店である。扇屋百貨店は中央銀座に、田畑百貨店は千葉銀座の北端にあった。戦後の人口急増期には、地元3店は増床を繰り返しつつしのぎを削っていた。3店の周りには全国チェーンの出店も相次いだ。早いのは昭和26年(1951)の十字屋で、その後昭和39年(1964)に丸井、昭和42年(1967)には緑屋が開店した。

千葉銀座と駅前新市街の攻防
昭和41年(1966)、千葉市の最高路線価地点が「新町三井銀行千葉支店前千葉駅側通り」に移転した。
伏線は戦災復興に絡む市街地開発である。まずは昭和33年(1958)、外房線の本千葉駅が600mほど南に動き県庁近くの現在地に移る。元の本千葉駅の場所には京成千葉駅が来た。現在の千葉中央駅である。昭和38年(1963)には国鉄千葉駅が現在地に移転。元の京成千葉駅の場所は中央公園となった。新生千葉駅と中央公園の間は新市街のシンボルともなる駅前大通りで結ばれた。最高路線価地点の目印の三井銀行千葉支店は駅前大通りの駅前広場に面する場所にあった。今も同じ場所に三井住友銀行がある。昭和40年(1965)には、今の京葉銀行である千葉相互銀行が駅前大通りに新たな本店を新築し本町から移ってきた。
昭和42年(1967)、駅前大通りに千葉そごうが開店。翌年増床し店舗面積2万3000m2となる。昭和47年(1972)に別館を増設し地域一番店の地位を固めた。関西を本拠とする都市型百貨店の進出に、千葉銀座界隈の商業界は少なからぬ影響を受けた。まずは昭和43年(1968)、田畑百貨店は伊勢丹の共同仕入れ機構に参加した。ところが昭和46年(1971)火災で店舗が全焼。伊勢丹との提携を解消し西武百貨店から資本を受け入れる。それでも百貨店業態の継続は厳しく昭和51年(1976)に千葉パルコに転換した。
扇屋百貨店は昭和46年(1971)に松坂屋と業務提携したものの昭和50年(1975)に解消。百貨店の他に21店あった総合スーパー部門の拡充を目指していたところ、関東進出の足掛かりを探していたジャスコの戦略と一致し合併に至る。昭和51年(1976)に扇屋ジャスコとなった。
奈良屋は昭和47年(1972)、三越と新会社を設立し、千葉そごうの隣に新たな百貨店「ニューナラヤ」を立ち上げた。千葉銀座の本店はファッションビルに転換しセントラルプラザとなった。当時の杉本家八代目の郁太郎氏が若かりしころ三越大阪店に修業していた縁があった。千葉そごうに対抗すべく三越提携百貨店をうたっていたが押され気味で、昭和59年(1984)に三越の全面支援を受け入れ千葉三越となった。

モノレールの開通とベイエリアの発展
駅前の発展は外房線の西側の開発で次の段階に進んだ。千葉市の政令指定都市昇格を翌年に控えた平成3年(1991)、千葉都市モノレールの千葉駅が開業した。2年後の平成5年(1993)にはモノレール計画と一体の新町地区市街地再開発事業の目玉として、店舗面積約6万1000m2の巨艦店「新千葉そごう」が開店。元々の本館と別館、そして前年に先行開業した専門店街(兼駐車場)と合わせ4館体制となった。4館合わせた店舗面積は8万9000m2で当時は全国最大だった。
街の構造に影響を与えたもう1つの動きがベイエリア開発である(図3 市街図)。戦前の海岸線は千葉街道(国道14号線)をなぞっており、街道から南側に延々と干潟が続いていた。戦後埋め立てが進み、戦前からあった総武本線と並行するかたちで湾岸の埋め立て地に京葉線が走った。昭和61年(1986)に西船橋駅-千葉港駅(現・千葉みなと駅)、平成2年(1990)には東京駅-蘇我駅の全線が開通した。拠点機能のベイエリアへの移転は70年代から見受けられ、例えば千葉市役所が昭和45年(1970)、千葉銀行本店が昭和48年(1973)に、造成して間もない千葉みなと駅前に移った。稲毛海浜ニュータウンなど住宅地の拡大もあって、特に80~90年代は郊外店が増えていった。その後、沿線の幕張新都心と蘇我副都心の開発が本格化する。平成12年(2000)にはカルフール幕張店やコストコホールセール幕張店など大型店の出店が相次いだ。平成17年(2005)にはアリオ蘇我を核とするハーバーシティ蘇我がオープン。平成25年(2013)には店舗面積12万8000m2と全国トップクラスの巨艦郊外店、イオンモール幕張新都心が開業した。

公園を軸とする門前町構想
駅前新市街やベイエリアの発展の一方、中央銀座界隈の衰勢否めず、かつてしのぎを削った地場3店は苦戦を余儀なくされた。早々に撤退したのは扇屋で、新千葉そごうが開店する前の平成4年(1992)、百貨店から業態転換していたジャスコ千葉店を閉店。本社は京葉線稲毛海岸駅前にあった基幹店「マリンピア」の隣に移った。奈良屋は平成13年(2001)にセントラルプラザの営業が終了。田畑百貨店から転換した千葉パルコは最後まで残っていたが平成28年(2016)に閉店した。十字屋、緑屋、丸井は平成以前に撤退しており、ピークに6店あった千葉銀座界隈の大型店はすべて消滅している。
平成29年(2017)に三越が閉店したように駅前も盤石ではない。ベイエリアの発展で買い回り商圏が分散したこと、総武本線、京葉線の開通で東京都心の吸引力が強まり、県都商業の求心力が相対的に弱くなったこともある。実は、千葉県の税務署管内別の最高路線価で最も高いのは千葉市ではない。平成24年(2012)から船橋市である。
かつての商業中心地の住宅地化が進んでいる。ジャスコ千葉店の跡地は平成19年(2007)に千葉市が取得し、再開発のうえ地上15階建ての複合施設「きぼーる」となった。千葉市科学館や中央区役所が入る。戦後の最高路線価地点だった奈良屋デパートの跡地は平成21年(2009)に地上43階建てのマンションが建った。千葉パルコの跡地は31階建て、三越の跡地は23階建てのマンションになる予定だ。
そうした中、興味深いのは平成27年(2015)に千葉市が策定した「千葉駅周辺の活性化グランドデザイン」だ。中央公園と通町公園を繋ぎ、千葉神社の参道に見立てた公園街路をつくる構想がある。千葉駅から駅前大通りを抜け中央公園・通町公園を経て千葉神社に至る導線ができる。新たにできる公園街路が、本町・千葉銀座の旧市街と、駅前の新市街を包含した一段高いレイヤーの街の「広場」となり、もって新旧市街地が有機的に一体化することが期待される。
図2の市街図にイオンモール幕張新都心のシルエットを敷いてみた。中央銀座の扇屋跡からJR千葉駅前までイオンモール全長とほぼ同じだ。ここから2つのヒントが浮かぶ。レイアウトが街そのものでもあるショッピングモールは旧来の中心市街地をまるごと置き換えるほどのインパクトがあること。そして、近現代を通じて変遷した新旧の市街を合わせてもショッピングモールの全長とそれほど変わらないことだ。ショッピングモールのレイアウト設計やテナントミックスにも似た工夫によってコンパクトな街づくりが可能であることを示唆している。


プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。単著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社、2022年)

図1.旧川崎銀行千葉支店(千葉市美術館さや堂ホール)