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路線価でひもとく街の歴史

第30回 ふりかえり編

街の発展史から将来の街づくりを考えること

連載30回の節目にこれまで紹介した27都市の歴史についてまとめてみる。筆者がこの論点で講演するとき必ず述べるのが、全体を貫く1つのテーマと4つの前提についてである(図1 連載を貫く1つのテーマと4つの前提)。テーマは目的と言い換えてもよい。具体的には「街の構造を発展史的に把握し将来の街づくりを考えること」である。テーマを支える前提が4つあり、中でも重要なのが、「街の中心はときの交通手段に伴って移転する」だ。

街の交通史観
筆者は「交通史観」と呼んでいるが、街の発展史の土台には交通手段の歴史がある。ここで交通手段とは徒歩・舟運、鉄道そして自動車である。中心地の場所、町割から風景までその時代で支配的な交通手段の影響を受けている。こうしたある種の法則を27都市にわたって示してきた。街の歴史とはいえ書き出しは明治時代なので具体的には街の近現代史だ。明治の街は城下町、港町、門前町など街の発祥形態を引き継いでいる。徒歩や舟運に適応しており、旧街道と河川が都市軸を形成する。河川から引き込まれた運河が縦横に張り巡らされ、その脇に道が通る。今の感覚でいえば車道と歩道が分かれた幹線道路のようなものだ。
この時代の街の中心は川湊または海の港の後背地、運河と街道が交わったところにあった。JRの前身となる幹線鉄道が明治半ばに開通し、これが街の構造を変える最初の動因となるが、駅前に街の中心が移るのはもう少し先の話だ。明治期は駅構内の入込運河で舟運に乗り換えるハイブリッド交通だった。地域にもよるが、人の流れはともかく物の流れにおいて舟運の現役時代は長かった。
街の構造を掴むのに地域の鉄道史は欠かせない。敷設時点で駅は街の“郊外”にある。幹線鉄道の敷設ルートから当時の街の外縁がうかがえる。街の外縁を辿る幹線鉄道に対し、市街電車は街の中心軸を貫く。先月紹介した東京馬車鉄道は東海道・奥州街道を辿って浅草と新橋を結んでいた。新橋駅は当時の東海道線の発着点である。街の外縁にあるターミナル駅をつなぐのも市街電車の役目だ。東京馬車鉄道の場合、東北方面のターミナルの上野駅も発着点だった。何らかの都合で市街電車がメインストリートと別のルートを取った場合、市街電車にあわせてメインストリートが移ることがある。連載では鹿児島、小田原、熊本の例がある。いずれも「電車通り」が新たなメインストリートになった。

街の辺境革命論
第2の前提が「新しい街は既存市街地の外側にできる」である。筆者は「街の辺境革命論」と呼んでいる。街が新しくなる経緯には、既存の街に新しい街が上書きするパターンと、既存の街の外側に新しい街ができるパターンがある。上書きパターンの典型は戦災含む災害復興の区画整理だ。街の外側に新たな街ができるパターンにも様々あって、最も古いのが明治初期の官庁街だ。連載では山形や宇都宮がその例で、どちらも三島通庸が県令の時代に城下町の外に造成された。城下町以外では長野や青森の官庁街がこの部類に入る。
大正昭和の再開発事業で新しい街ができ、後に中心街になった例もある。例えば盛岡の最高路線価地点は戦前から菜園だが、それ以前は中津川舟運の後背地、奥州街道の呉服町が一等地だった。呉服町からみて菜園は盛岡城の裏手にあたる。元々岩手農学校と実習田があったが区画整理で碁盤目状の新しい街ができた。
熊本の新市街地区には元々第6師団の施設があった。郊外移転した軍用地の跡地再開発でできた新しい街が「新市街」だ。新市街を南北に貫く幹線道路に市電が敷設され、唐人町界隈から銀行が移転してきた。昭和5年(1930)に銀丁百貨店が開店。その場所は、昭和35年(1960)に最高路線価地点が下通に移るまで熊本で最も地価が高かった。
市内を流れる川の幅を狭め、跡地に新しい街を造成したケースが富山と新潟だ。富山のケースは神通川跡地に県庁市役所や北陸電力が移転し昭和モダンの街ができた。新潟は信濃川の西岸を埋め立てた。今の万代地区で造成当初は新潟交通の拠点施設があったが、後に百貨店やGMSが集まる一大商業地域に転じた。
戦後、舟運が廃れて鉄道の時代となり、元々郊外だった駅前が発展する。俯瞰すれば交通手段の主役交代を反映した中心地の移転だが、それまで閑散としていた駅前の開発を伴うケースも多々みられた。連載した中では松本や横浜がその代表例で、横浜駅西口は昭和27年(1952)に相模鉄道が買収し開発に着手するまで広大な空き地だった。資材置き場に使われていたほどだがその後急速に発展し昭和40年(1965)には最高路線価地点が伊勢佐木町に取って代わる。

業態間競争が進める街の歴史
第3の前提は「街の歴史物語の主要キャストは地方銀行と百貨店」である。中心地とはいえ具体的には銀行街や商業街であり、実際、街の歴史を調べようと思えば地方銀行あるいは百貨店の社史に寄り頼む部分が大きいからである。仙台の回では芭蕉の辻から青葉通りに銀行街が移転した件について書いた。とりわけ中心部の栄枯盛衰を示すのが百貨店だ。大正・昭和に出現した百貨店は当時の街の一等地にあった。戦後、都市への人口集中に伴って増床を重ね、平成初めに全盛期を迎えた。
鉄道から自動車の時代になり街の中心が郊外に移る。これも鳥の目線で眺めれば交通手段の主役交代を反映した中心地の移転だが、蟻の目には別の景色が映る。移転の背後には、百貨店を盟主とする中心商店街と、バイパス沿いや高速道路のICの麓に進出したショッピングモールを盟主とする郊外集積との競争があった。一見すると立地間競争だが、その実は、伝統的なスタイルとスケール感の商業に対し、新しいスタイルとスケール感の商業が次世代の主流を巡って挑んだかたちだ。考えてみれば、新業態に挑戦するにあたって既存勢との軋轢をできるだけ避けるため郊外に進出するのは理に適った選択である。郊外はマーケティング戦略でいう「ブルーオーシャン」だったのだ。
バイパス沿いに店が出始めた80年代、ロードサイドはまだ普及品や最寄り品のまとめ買いニーズに応える場所だった。特に2000年代以降、中心商業地の総売場面積に匹敵する巨大店の進出が目立つ。買回り品に注力し棲み分けを図ってきた商店街のシャッター街化が進み、百貨店の撤退も相次いだ。

街の弁証法
第4の前提「旧市街は本来の住まう街として再生する」は大テーマ「街の構造を発展史的に把握し将来の街づくりを考えること」の回答でもある。再生の道筋は街の発展史にある。
そもそも水路と街道からなる旧市街は自動車の時代に不利だ。実際、交通渋滞や駐車場不足が問題となっていた。しかし、こうした弱みは「住まう街」のポジショニングで強みになる。重要な環境変化は高齢単身化、ネット通販の普及そしてインフラ老朽化の3つだ。まずは郊外住宅地でなく街なかの中高層住宅に住む人が増える。次に、ネット通販が買い物の主流になり、週末に家族でミニバンに乗って郊外大型店でまとめ買いするスタイルが潮目を迎る。10数年後にはネット通販に抵抗のない団塊ジュニア世代が高齢層になるのだ。最後に、街の拡大は水道はじめ都市インフラの制約がある。財政問題を考えれば街はコンパクトに回帰する。持続可能な、SDGs流にいえば目標11「住み続けられるまちづくり」だ。
「住まう街」に狙いを定めたまちづくりのカギになるのが歴史と公園だ。徒歩と舟運が土台の旧市街は山の稜線や水辺の景観を取り入れる工夫が施されている。元々の意図を汲んだうえで可能な限り再現するのも一考だ。観光目的とは限らない。一義には街に住む人が自分の街に誇りと愛着を持つことだ。シビックプライドあるいはシチズンシップといわれる。
連載で公園まちづくりに着眼したのは横浜、熊本、大宮そして浅草だ。拠点公園とシンボル街路は、時代を経て分散した街を一段上のレイヤーでひとつにまとめる都市軸となる。熊本は明治の古町界隈(唐人町)と戦後の下通界隈が熊本城公園・シンボルプロムナードを媒介に接するようになった。大宮は大宮駅前とさいたま新都心に分散した街が、氷川参道を媒介に大宮公園(氷川神社)・氷川参道を介して一体化する。
鉄道時代の郊外が自動車時代の中心地となり、元の街はまるで拠点間競争に敗北したかのように廃れてしまう。しかしこれは一面的な見方であり、発展史を経て拡大した市街地のひとつの要素として生き続ける。旧市街は「住まう街」という新たな役割を与えられ、徒歩と舟運の街としての出自を活かして再生する。連載27都市に多かれ少なかれあてはまる再生の経緯を、筆者は「街の弁証法」と呼んでいる。いったん否定された物事が一段上のレイヤーで再生する過程に掛けた。
連載は続くが、これまで書いた30回分は書籍に換算して300頁ほどになる。単行本化が将来の夢だが実現のあかつきに本稿はあとがきに充てるつもりでいる。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版

図2.連載27都市における最高宅地価・最高路線価地点の変遷
図3.最高宅地価・最高路線価地点の変遷の図