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貿易都市として栄えた堺

大阪税関堺税関支署 統括監視官 川崎 勝俊


1.はじめに
堺市は、大阪府の中南部に位置する人口約83万人の政令指定都市です。
地名の由来は、摂津・河内・和泉という3国の境にあったからと言われています。
古くから西日本と海外をつなぐ主要港として栄え、現在は、堺・泉北臨海工業地帯を有する世界有数の経済規模を持つ大阪湾ベイエリアの一翼を担う総合港湾となっています。
本日は、堺市の繁栄を支えた堺港の歴史と堺税関支署の歴史、堺市のおすすめ観光スポットをご紹介します。

写真:堺税関支署 庁舎写真


2.堺港
堺港は、古くから漁港として栄え、国際貿易により発展してきました。
現在は、大阪湾ベイエリアの一翼を担う総合港湾となっています。
それでは、堺港の歴史を見ていきましょう。

(1)堺港
現在の堺港は、堺泉北港と呼ばれています。北は大和川を境に大阪港に隣接し、堺市・高石市・泉大津市の3市をまたぐ、南北14km、沖合10km、約9,000haの港湾区域を有する港です。
かつて日明貿易や南蛮貿易で栄えた「堺港」と昭和以降に整備された「泉北港」が前身となっています。
堺港は、古くから良好な漁港として発展し、南北朝時代には、南朝方の外港としての役割を果たしていました。

(2)環濠都市(かんごうとし)
室町時代の1469(文明元)年に遺明船が堺港に着岸したことがきっかけで国際貿易が盛んになりました。
貿易によって莫大な富を得た堺の商人(豪商)は、武士による支配を受けない自治都市を形成するため、海に面する西側以外の三方に濠(ほり)をめぐらせました。こうした都市を「環濠都市」といいます。
「環濠都市」堺は、堺商人「会合衆(えごうしゅう)」によって運営され、高い自衛力と経済力を持った自治都市として繁栄しました。
その繁栄ぶりはイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによって「東洋のベェネツィア」とヨーロッパに紹介されました。

写真:環濠都市の名残

(3)5年間だけ存在した「堺幕府」
1527(大永7)年、室町幕府は内紛により第12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)が京から追放されると、官領の細川晴元(ほそかわはるもと)や軍司令の三好元長(みよしもとなが)は弟の足利義維(あしかがよしつな)を傀儡(かいらい)とする新政権を樹立しました。このとき本拠地に選ばれたのが堺です。
堺幕府は晴元と元長の対立により崩壊しますが、5年間だけ追放中の将軍に代わって幕政を担いました。

(4)織田信長と堺
環濠都市として繁栄した堺の財力に目をつけた織田信長は、1568(永禄11)年、堺に対し軍資金二万貫(現在の約2億円)を要求しました。
堺商人「会合衆」は、その要求を一度は拒否し抵抗しましたが、信長の武力の前に屈服し、自治権を奪われました。

(5)戦火による衰退
戦国時代でも自治を貫いた都市ですが、1614(慶長18)年からはじまった「大坂の陣」に巻き込まれて焼失しました。
また1639(寛永16)年からの鎖国政策と1704(宝永元)年の大和川の付け替えによる土砂堆積で港の機能は低下し、最盛期のような経済力は失われてしまいました。

(6)天災等による衰退
明治以降、堺は、白浜青松の海辺を生かした近代的なアーバンリゾート地として発展しました。
1873(明治6)年には浜寺公園が開設され、幾つもの料理旅館や豪商の別荘が並び、1879(明治12)年には大浜公園が開設され、海水浴や海辺のレジャーが普及しました。
その後も大阪・なんばと堺(港前)をつなぐ鉄道の開通、本格的な水族館の開設、少女歌劇場の設立など、関西圏の身近なリゾート地として人気を集めました。
また、1922(大正11)年には、日本最初の民間航空輸送が大浜海岸を利用して始まり、水上機や飛行艇が四国・九州へ運航し、1939(昭和14)年の戦時国策で閉鎖されるまで定期的に運行し、遊覧飛行も行われました。
リゾート地として繁栄した堺ですが、1934(昭和9)年の室戸台風で海辺の多くの施設が手痛い被害を受け、続く戦時体制によりリゾート施設が次々に閉鎖されました。
1945(昭和20)年太平洋戦争末期にはアメリカ軍の5度にわたる空襲で、港と共に市街地の大半が焼け野原となり、明治から大正にかけて繁栄したアーバンリゾート地としての面影は失われました。

(7)工業港として再生
1958(昭和33)年に大阪府は産業構造の高度化と経済発展を図るため、堺泉北の沿海部に着目し、ここに360ヘクタールの埋立地の造成を含む「堺臨海工業地帯の造成及び譲渡の基本計画」を決定しました。
1958(昭和33)年から海岸一帯で、沖合6kmまでの埋立地が造成され、広大な堺・泉北臨海工業地帯に鉄鋼・電力・ガス・造船・石油精製・化学工場などを立地しました。
コンビナートの工場専用岸壁も造成され、10~20万トン級のタンカーや鉄鉱積載船などが着岸し、堺港は、重化学工業港として生まれ変わりました。


3.堺税関支署
堺税関支署は、大阪府堺市西区石津西町の堺港湾合同庁舎内にあります。
管轄区域は、大阪府のうち堺市、高石市、泉大津市、和泉市、富田林市、河内長野市、松原市、羽曳野市、藤井寺市、大阪狭山市、南河内郡(太子町、河南町、千早赤阪村)の10市1郡となっています。

写真:管轄図

(1)支署の特徴
堺税関支署は、近畿経済における重要な基幹産業である電力、ガス、石油精製・化学、金属工業等を中心とした企業約240社を擁する堺・泉北臨海工業地帯を管轄しています。
輸出入貨物はこれら産業の推移を反映しています。
輸入貨物は、アラブ首長国連邦の原油、オーストラリアの液化天然ガス等鉱物性燃料が大きな割合を占めています。
輸出貨物は、オーストラリア・韓国・米国向けの石油製品のほか、中古乗用車がアジア、大洋州を中心に全世界に向けて輸出されています。

(2)支署の歴史
堺税関支署の歴史は、1899(明治32)年に堺税関監視署が設置されたことに始まります。
1920(大正9)年には、大阪税関堺出張所が設置され通関業務が開始されました。
1943(昭和18)年、官制改正により海運局に統合されました。
戦後、1946(昭和21)年に大阪税関堺出張所として再開し、1971(昭和46)年に堺税関支署に昇格し、現在に至ります。
堺税関支署は、堺港と同様に一度は衰退(消滅)しましたが、出張所として再開し、その後、支署に昇格して以降、堺・泉北臨海工業地帯と共に成長を続けています。


4.堺市の見どころ
古くから外交で栄えた街、堺には、様々な観光スポットがあります。
堺市立町屋歴史館である「山口家住宅、清学院」、千利休と与謝野晶子の記念館である「さかい千晶の杜(千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館)」、「堺刃物伝統産業館」など、興味を惹かれる観光スポットが多く存在します。
本日は、堺に初めて来た方にお勧めの観光スポット2つとお勧めの和菓子1つを紹介します。

(1)お勧め観光スポットその1
「堺市役所から見る仁徳天皇陵古墳」
2019(令和元)年7月、「百舌鳥(もず)・古市古墳群」はユネスコの世界遺産に登録されました。その中で最大の古墳である仁徳天皇陵古墳は、堺市にあります。
仁徳天皇陵古墳(全長486m)は、クフ王のピラミッド(全長230m)、秦の始皇帝陵(全長350m)と共に世界三大墳墓の一つに数えられます。
その築構工事は1日最大2000人の人々が働いて16年もの歳月がかかったとされています。敷地面積は約47万平方メートル(濠を含む)で甲子園球場の12個分、ディズニーランドとほぼ同じ大きさです。
仁徳天皇陵古墳を見るのにお勧めの場所は、堺市役所(南海本線・堺東駅から徒歩5分)の展望ロビーです。最上階21階(地上80m)の展望ロビーは、360度見渡せる回廊式ロビーとなっています。
仁徳天皇陵古墳だけでなく、堺の街並み、あべのハルカス(日本一の高さを誇る超高層複合ビル)、六甲山(阪神タイガースの応援歌の六甲おろしで有名)なども見渡せます。
写真:【仁徳天皇陵古墳】

(2)お勧め観光スポットその2
「環濠クルーズで船上から見る旧堺燈台」
旧堺燈台は、1877(明治10)年に点灯した木造様式の六角灯台であり、現存する最古の灯台の一つです。
約1世紀の間、堺港の船舶の安全に寄与してきましたが、沖合に臨海工業地帯が出来たため、1968(昭和43)年に廃灯しました。
旧堺燈台は、陸上からも見ることができますが、お勧めは環濠クルーズで船上から見る旧堺燈台です。
環濠は、中世につくられた南北約3km、東西約1kmにも及ぶ広大な都市を囲んでいた濠(ほり)です。今でも一部川としてその姿を残しています。
環濠を遊覧船で巡る観光クルーズは、巨大壁画「浪漫やさかい」も船上から見ることができます。
ただし、新型コロナウイルス感染拡大の影響により令和4年春の運行は中止となりました。秋の運行は未定です。

写真:旧堺燈台

(3)お勧め和菓子
「豊臣秀吉命名かん袋のくるみ餅」
堺名物といえば「かん袋のくるみ餅」です。
「かん袋」は、鎌倉時代に創業された約700年続く和菓子の老舗です。
お店は、阪堺電車の寺地町駅から徒歩3分の場所にあります。
店名の「かん袋」は、豊臣秀吉によって名付けられました。
「くるみ餅」は、つやつやのお餅に綺麗な緑色の餡がたっぷりのった和菓子です。
「くるみ餅」には胡桃(くるみ)は使われていません。餡で餅を「くるむ」ことからその名前がつきました。
青大豆の皮を丁寧に取り、炊き上げた餡で作られるくるみ餅は、生菓子のため日持ちしません。持ち帰りも出来ますが、賞味期限は当日中です。
お勧めは、店内で食べる「氷くるみ餅」(かき氷を乗せたくるみ餅)です。季節を問わず、老若男女に人気です。
売り切れ次第、営業終了となるため、お土産として買う場合は、予約しておくことをお勧めします。お持ち帰り商品には、おしゃれな壺入りもあります。

写真:阪堺電車
写真:くるみ餅


5.結びに
有名観光スポットとは別に個人的お勧めスポットを紹介して本原稿を終了とさせていただきます。
個人的に、是非見ていただきたいのが、堺・泉北臨海工業地帯の工場夜景です。
堺泉北臨海工業地帯は、全国工場夜景サミットに加入しており、令和元(2019)年度第10回工場夜景サミットは堺市・高石市で共同開催されました。
みなさんは、工場夜景を見たことがありますか?
複雑な配管群が光を反射し、暗がりの中に浮かび上がるその光景は、幻想的で未来都市を思わせます。
今回紹介した仁徳天皇陵古墳、環濠クルーズ、工場夜景を観光すれば、堺市の過去から未来を感じることができるでしょう。
魅力あふれる街「堺」は、あなたのお越しをお待ちしております。

写真:幻想的な工場夜景



県都那覇市へ めんそーれ!

沖縄地区税関総務部総務課長 仲里 昌章


1.はじめに
(那覇市の名称)
那覇は「ナハ」と読み「ナーファ」、「ナファ」から転訛したものです。ナハの語源について、伊波普猷(沖縄学の創始者)はナバ(漁場)から発生したと説いています。読み方については、1934(昭和9)年3月、日本放送用語審査委員会でナハ(NAHA)と決定され、これにより従来一般にナハ、ナファ、ナバなどと呼称されていたものが統一されました。昭和の時代に“ナハ・ナハ・ナハ”というフレーズが確か流行っていましたね。

(那覇市のあゆみ)
・琉球王朝時代~海外貿易の窓口~
昔の那覇は、那覇川(現国場川)、安里川の注ぐ湾に浮かぶ島“浮島”でした。1451年尚金福が長虹堤を築いて那覇と崇元寺の前を結ぶに至って首里との交通の便が開け、泊や那覇港の繁栄につれて若狭町、泉崎を含めるようになり、那覇四町(西、東、若狭町、泉崎)と呼ばれる町を形成するようになりました。「唐、南蛮寄り合う那覇泊」と歌われた那覇は、海外貿易の窓口として発展し、商都としてにぎわいをみせました。
写真 奉使琉球図巻・入境登岸(那覇港)沖縄県立博物館蔵
・廃藩置県
19世紀に入ってからは西洋諸国の異国船が来航し、日本開国の前年の1853年にはペリー提督が那覇に上陸しました。1879年(明治12年)の廃藩置県により、那覇に県庁が置かれたことにより、首里に代わって沖縄県の政治・経済・文化の中心地となりました。同年、泊、久米、久茂地を編入し、近代那覇の行政区域の基盤ができ、1896年(明治29年)特別区制の施行により、那覇区となりました。1903年(明治36年)土地整理事業の完了にともなって真和志より牧志、小禄より垣花を編入し、さらに1914年(大正3年)には、壺屋を真和志村から、そして新たに、埋立てた旭町を加え、また町名を設定して24ケ町となりました。
・市制施行-沖縄戦
1921年(大正10年)5月20日、特別区制が廃され、他府県同様の一般市制が施行され、那覇は、市となりました。こうして沖縄県の県都として栄えた那覇市は、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月10日の大空襲で市域の90%を焼失、さらに続く沖縄戦によって完全な焦土となり、多年にわたって築いた町は灰じんに帰しました。
・米軍占領と復興~ゼロからの出発~
戦後那覇は、米軍の全面占領下にあり、立入禁止区域となっていましたが、1945年(昭和20年)11月産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊が壺屋一帯に入域し、1946年(昭和21年)1月3日付けで糸満地区管内壺屋区役所が設置され、那覇復興が始まりました。その後民政府などの中央機関が漸次那覇に移転し、1949年(昭和24年)12月9日、米軍政長官シーツ少将は、那覇を沖縄の首都とすると発表。その後、旧那覇市街が漸次開放されるようになり、那覇は再び繁栄を取り戻しました。1950年(昭和25年)8月1日みなと村を編入、さらに1954年(昭和29年)9月1日、首里市、小禄村を合併しました。1956年(昭和31年)には、立法院で首都建設法が制定され那覇は沖縄の首都として整備されることになり、1957年(昭和32年)12月17日には懸案の真和志市との合併を実現して一層の発展をとげました。
・沖縄の本土復帰-現在
1972年(昭和47年)5月15日、多年の要求であった祖国復帰が実現し、日本国憲法が適用される中で、那覇は沖縄の県都として都市基盤が一層整備され、今日人口32万、市域面積39.98平方キロメートルの近代都市となっています。現在、2018年(平成30年)に制定された第5次総合計画「なはで暮らし、働き、育てよう!笑顔広がる元気なまちNAHA~みんなでつなごう市民力~」に沿って、21世紀にふさわしい都市の実現に取り組んでいます。


2.那覇市所在の税関
沖縄地区税関は、昭和47年5月の沖縄の本土復帰に伴い琉球政府主税局税関部及び那覇税関、泊税関、那覇空港税関の3税関を統合して沖縄県のみを管轄する地区税関として発足し、現在に至っています。現在の機構は本関、2本関直轄出張所、3支署、2支署出張所、1支署監視署です。
那覇市には、本関総務部(壺川)、監視部、業務部、調査部(港町)、那覇空港税関支署(鏡水)、那覇外郵出張所及び非常駐官署の鏡水出張所(鏡水)があり、税関行政を担っています。
当関以外の8税関との大きな差異は総務部と監視部、業務部、調査部の所在地が異なり、本関機能が2か所に分散している点です。現在、総務部がある壺川は仮庁舎(民借)であり、移転前も総務部のみが通堂町で業務を執行していましたが、耐震性能の関係で平成28年に壺川へ移転しました。令和5年度には、おもろまちの那覇第2地方合同庁舎3号館へ集約移転する予定となっており、同移転により晴れて4部(総務部、監視部、業務部、調査部)が一体となり、より円滑な業務運営に注力できることが期待されます。本関の管轄区域は、那覇港のある那覇市、浦添市、その他西原町、座間味村を含む5市、5町、9村で、主要な取締機器として大型監視艇、麻薬探知犬、X線検査装置等を配備して、船舶、輸出入貨物の取締りを実施しています。ここ数年は職員数も大幅に増員され、更なる取締強化を図っています。


3.那覇市の見どころ
〈那覇の3大祭〉
(那覇ハーリー)
5月の3、4、5日のハーリー(爬竜船競漕)は600年以上前に中国から伝えられたといわれています。筆者住居近くの那覇新港で実施しており、中学生の頃は出店、花火と青春を謳歌しつつも野郎同士でしか訪れなかったという淡い思い出も。

(那覇大綱挽)
全長196m、重さ40tの綱を東西に分かれて大勢の人が挽きます。琉球王朝時代の慶賀行事として300年以上の歴史をもつといわれています。毎年10月の体育の日の前の日曜日に行われます。綱引きは、レクというレベルではなく、特に当県に在留する米国軍人等はWhyというぐらい、真剣そのもの、目も血走り、重心も低く、負けられない戦いがそこにはある的な姿勢には敬服するが、あそこまではやれないのが正直なところ。
しかし、残念ながら新型コロナウイルス感染症拡大のため、那覇ハーリーは3年連続中止、那覇大綱挽は執筆時点で2年連続の中止となっています。
写真提供:那覇市

(琉球王朝祭(首里城際))
11月3日に城下町・首里で行われる王朝時代の国王行列。他府県から出向している当関職員も沖縄での記念に毎年4~5名の方が参加していました。国王と王妃は一般公募の中から選出されます。
写真提供:那覇市

(首里城正殿(国指定史跡))
王の政務や様々な儀式が行われた、域内で最も重要な建物。先の大戦で焼失しましたが、1992年11月3日、復元・公開されました。首里城は14世紀中期以降幾度となく焼け、再建や改修工事が行われていたようです。今回の復元では、1712年から15年にかけて再建され、沖縄戦で焼失した正殿をモデルとしています。正殿は沖縄最大の木造建築というだけではなく、琉球建築を最もよく表現したもので、二重三層(二重屋根三階建)の造り。禅宗様式を採りつつも、随所に中国的意匠がみられ、琉球独自の様式も見受けられます。正殿は西面し、大龍柱一対が建つ。正面屋根は唐破風、上層屋根は入母屋造の本瓦葺、両端に龍頭の棟飾りがあります。国殿、百浦添「カラファーフ」とも呼ばれていました。建築面積637m2、最高棟高15.6m、延べ面積1,199m2。
2019年10月31日、県民(うちなーんちゅ)の心のよりどころであった首里城正殿が残念なことに全焼しました。筆者は首里城を横目に見つつのモノレール通勤でしたが、火災後は何とも言えない気持ちになったのを昨日のことのように覚えています。首里城の存在をそんなに意識していないと思っていたのですが、喪失感はかなり大きいものでした。那覇市は再建に向け、募金を開始、市民をはじめ、多くの人々からわずか一か月で10億円が集まったということからもいかに首里城が県民等にとって、重要なのかを計り知ることができます。

(国際通り・平和通り)
安里三叉路から、パレットくもじ前交差点までの1.6kmが、沖縄で一番賑やかな国際通り。戦前は湿地帯でしたが、米軍によって道が敷かれ急速に発展しました。奇跡の1マイルとも呼ばれています。

(壷屋やちむん通り)
終戦後の那覇の復興のシンボルとして陶芸店が軒を重ねています。かの有名な国の重要無形文化財「琉球陶器」技能保持者、沖縄県初の人間国宝である金城次郎氏も壺屋に工房を構えていました。焼物博物館で壷屋の歴史に触れるのもいとをかし。
写真提供:那覇市

(識名園(特別名勝))
シチナウドゥンと呼ばれる識名園は、琉球王家最大の別邸で、王家一家の保養と外国使臣をもてなすために造られました。廻遊式庭園では池の周りを散策しながら風景を楽しめるようになっていて、中国風東屋の六角堂や大小のアーチ門が池の小島に見事に配置されています。識名園は世界遺産に登録されています。
写真提供:那覇市

(その他イベント等)
太陽と海とジョガーの祭典をキャッチフレーズに開催されるNAHAマラソンには、毎年、約3万人のジョガーが参加します。筆者も第3回大会から参加し、完走20回を機になんで毎年こんなに苦しい思いをしなければいけないのかわからなくなり休止、ここ数年はコロナの影響で延期となっています。また、今年で12回目を迎える読売巨人軍の春季キャンプも沖縄セルラースタジアム那覇で開催されており、他のNPB球団8球団も沖縄へ集結しており、キャンプ後半は無料で練習試合を見学できるなどの特典も。オープン戦と違い、無料なので本来なら入場料として払わなければならない予算をチョット豪華な弁当にチェンジ、追加で麦ジュースも購入、天気がいいと最高デースと思わず心の声が漏れます。今年はコロナ感染対策として、球場内でのアルコール飲料の持ち込みは禁止でした、残念ですが仕方ない。

〈特産品〉
壷屋焼、琉球漆器、琉球びんがた、首里織、琉球泡盛、等

(筆者つぶやき)
2021年に那覇市制100周年を迎え、先述したとおり、本年は沖縄が本土復帰して50周年、沖縄地区税関発足50周年、税関150周年と記念すべき年である。昭和生まれの筆者は本土復帰の記念式典等の記憶は薄いものの、米国ドルを使用していたこと、また、本土復帰に伴い1978年7月30日午前6時から車が右側通行から左側通行へ変更したことは覚えています。他府県でいうところの駄菓子屋を沖縄では“イッセンマチヤー”と呼んでおり、いわゆる日本円の1銭ではなく、1セントからの呼び名が由来であり、5セント、10セントを握りしめ、駄菓子を買いに行ったのを懐かしく思います。チョット年上の先輩に聞くとお年玉は25セントだったとか。


4.最後に
那覇は、日本本土をはじめとして中国や東南アジアと交易した琉球王朝時代やその後の薩摩(島津氏)の統治、明治時代のいわゆる琉球処分に伴う琉球王国の崩壊、戦後米軍の統治、昭和47年5月15日の日本への本土復帰等を経て現在に至ります。それぞれの時代にそれぞれ関わりのあった地域の文化の良いところを取り入れ、融合させて独自の文化(チャンプルー文化という説も)を形成してきました。那覇の見どころを紹介させていただきましたが、紹介できなかった見どころや伝統行事等もまだまだたくさんあります。現状では訪問いただくのが難しい状況ですが、コロナが収束の折は、少し異なった歴史や文化をもつ見どころ一杯の“都市は人なり”の那覇市へメンソーレ(いらっしゃいませ)


写真:那覇市市制100周年記念ロゴマーク(2021年5月)
写真:沖縄地区税関発足50周年ロゴマーク(2022年5月)


【参考文献】
那覇市ホームページ
那覇市制100周年記念映像
那覇100年の物語
那覇市のあゆみ
画像提供:沖縄県立博物館、那覇市、那覇市観光協会

プロフィール
仲里 昌章(なかざと まさあき)
沖縄県立浦添高校卒。85年沖縄地区税関入関。那覇空港税関支署総務課長、財務省関税局管理課長補佐、沖縄地区税関人事課長を経て、21年7月から現職。