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新々 私の週末料理日記 その50

5月△日日曜日

今年のゴールデンウィークは久しぶりに行動制限のない連休であったけれども、結局はコロナ再蔓延の恐れを理由に出不精を決め込んで、自宅でごろごろして過ごした。
今朝はまあまあ早起きして、ヨーグルト、茹で卵、ハム、トマト、そして分厚くバターを塗ったトーストとコーヒーという平凡な朝食をしたためてからスーパーに買い出しに出かける。家に戻って買いこんだものを冷蔵庫に収納するのだが、その際に庫内の整理整頓もしないといけない。家の者が卵をパッケージから出さないまま突っ込んでいるのを、冷蔵庫内の卵ケースに並べ、無秩序に突っ込んである大量の納豆のパックを4個単位の包装を外して賞味期限順に積み上げて並べる。豆乳の1リットル容器の開栓されたものが二つあるのには舌打ちするしかない。
冷蔵庫の整理が終わると、今度は家の者が開封しないまま放置している過去一ヶ月分ほどもあろうかという各種郵便物の整理だ。封筒を開け、捨てていいものを捨て、残りを各人ごとに分類して大きな封筒に分ける。大半はクレジットカードの利用明細や各種の請求書だが、中には年金関係の書類や運転免許の更新の案内なんかもある。やれやれ。
午前中にゴルフの練習場にでも行こうかと思っていたのだが、郵便物の整理でいい加減疲れたので省略。今日の夕食は魚と鶏胸肉の粕漬けにするつもりなので、昼飯の前に粕床を用意して具を漬けこまないといけない。前回粕汁を紹介したが、このところ酒粕に凝っている。と言っても粕汁の季節が終われば、月に一度魚や肉を漬けるぐらいなので、本格的な粕床というわけにもいかず、一回限り使い捨ての粕床だ。水分多めのゆるゆるに作って少量の粕床に多めの具を漬ける。かなりいい加減な粕漬けであるが、これでも結構うまい。1袋数百円の冷凍のカラスガレイやら鶏の胸肉やらが予想外においしくなる。といってもそれだけでは晩飯の菜にはちょっと寂しいので、あと一品、何か考えよう。
粕床の作業が終わったら、昼飯だ。面倒になったので市販の焼きそばにした。豚小間を片面だけかりっと焼いて、キャベツ、もやし、ねぎと炒める。麺を蒸し焼きにしてソース味をつけ、紅しょうがを和えれば結構うまい。家内の分も含めて3玉作ったのだが、家内が食べないというので結局一人で全部食べたら、さすがに満腹である。食べ過ぎた。しばらく昼寝しよう。
小一時間して目が覚めたらそのままベッドで本を読む。例によって図書館から山のように本を借りてきたのだが、読了したのは2冊だけだ。いずれも戦前の我が国の対外関係に関するものである。連日のロシアのウクライナ侵攻をめぐる報道に触発されたようだ。
1930年代の戦間期、日本の経済外交は自由主義貿易を維持すべく苦戦した。こう述べると、違和感を持たれる方も多いと思う。通説では、世界恐慌下、英米の「持てる国」に対して「持たざる国」日本は、ブロック経済体制によって挑戦し、その結果が太平洋戦争とされている。しかし、「戦前日本の『グローバリズム』」(井上寿一著、新潮選書)によれば、この通説的理解は正確でない。1930年代の日本は、通商自由の原則を掲げて経済外交を展開していた。日本は経済ブロック間の対立を引き起こしたのではなく、自由主義貿易政策の成功、すなわち金本位制からの離脱に伴う円安下での輸出拡大が経済摩擦を招いたのであった。円安下の輸出ドライブを一因として日本は不況から回復したが、不況にあえぐ欧米各国並びにその植民地は、日本製品の急速な流入に強く反発した。しかし当時の日本の経済外交は、米、英、加、豪、蘭印などとの間の摩擦については、相手国からの輸入拡大の努力など現実的対応により一定の成果を挙げている。全く溝を埋めることができなかったのは、自給自足圏を追求する独伊との意見対立であった。当時既に独伊とは三国防共協定によって、防共の理念を共有していたにもかかわらずであった。日本の外交政策が英米側から独伊側に完全に軸足を移したのは、第二次大戦開戦後の1940年日独伊三国軍事同盟締結の時点であった。
「戦前日本の安全保障」(川田稔著、講談社現代新書)も興味深い本であった。同書によれば、山縣有朋は国際秩序をパワーポリティクスの世界と認識し、米国の圧力で日英同盟の更新が困難になると日露同盟を画策したが、ロシア革命により構想は頓挫した。
原敬も山縣同様パワーポリティクスで国際秩序を理解していた。彼は、「将来米国は『世界の牛耳』を取るようになるだろう。したがって今後『日米の関係』にはことに注意を払わなければならない。『日米関係の親密なると否と』は、日本の『将来の運命』にかかわる」、「『一朝米国と事ある』場合は、英仏露など欧州諸国は頼むに足りない」と考えていた。彼の安全保障構想は、{必要最小限の戦力の保持}+{米英との協調}というものだった。その上で原は、非対称的な国力差から「米国のなすがまま」になることを抑制する方策を模索しており、同書は、原は米国牽制の観点から国際連盟が集団的安全保障システムとして機能することを期待していたのではないかとする。
浜口雄幸は、原同様、対米英関係を悪化させれば日本は国際的な窮地に立つとの認識から、対米英協調と日中親善を外交の基本にした。ロンドン海軍軍縮条約を、「国際的平和親善」すなわちパワーポリティクスを超越する新しい国際秩序に向けての第一歩として極めて重要視するとともに、国際連盟を日本の長期発展の必須条件である東アジア平和維持のための国際機関として位置付けていた。そして連盟による集団的安全保障体制の不十分さを、中国に関する9ヵ国条約など多層的多重的条約網で補完しようとした。同書の著者は、9ヵ国条約が現代のNATOのような域外の仮想敵に対する集団安全保障システムと異なり、関係国が中国の主権の尊重、門戸開放、機会均等を約することにより、特定地域内の安全を相互に保障しあうシステムであるという点に注目する。そして、浜口の国際連盟を9ヵ国条約で補完する構想について、今後の東アジア太平洋地域の安全保障を考察する上で示唆するところ多いとする。傾聴に値する指摘ではあるが、昨今の国際情勢を見ると、軍事同盟でない多国間条約の実効性の確保は難事だと思う。ワシントン軍縮会議から100年、ベルリンの壁崩壊から30余年を経て、国際秩序はなおパワーポリティクスの世界だと考えざるをえない。
これらの本により、戦前日本において、外交や安全保障に関わる政官界や軍部の実力者たちは、総じて冷静かつ現実的に国際情勢を認識していて、各人なりの大局観を有していたことを知った。他方において昭和12年以降我が国は、支那事変の解決ができず、政治や社会が内向きに煮詰まっていく過程で、冷静な現実主義が薄れて建前主義的なものが強くなっていった感がある。言い換えれば、政党や役所の立場上のポジショントークだった主張が、いつの間にか譲れない一線になってしまったかのような気がするのだ。政治体制が求心力を失うと、国民感情や組織内部の批判に過度に敏感になってしまい、国際秩序や経済政策のリアリズムから目をそむけて、それぞれの組織の立場上の建前論に、頑なにこだわるようになっていくように思う。他方、求心力が強くなり過ぎれば専制の弊害が生ずるのだが、戦前昭和以降現代にいたるまでの日本政治では、どちらの弊害が大きかったであろうか。
永野護は、昭和20年9月の広島での講演の速記録「敗戦真相記」(バジリコ刊)の中で、日本が勝ち目のない不幸な戦争に進んでいったことについて、日本本位の自給自足主義という胚子を諸事情が戦争にまで育て上げたと指摘している。そしてその諸事情として、日本の指導者がドイツの物真似をしたこと、軍部が己を知らず敵を知らなかったこと、天下の世論を尊重する政治が行われなかったことを挙げ、最も不幸だったのは、これら諸事情が、日本有史以来の「大人物の端境期」に起こったということだと説いている。永野護は有名な永野六兄弟の長兄で、渋沢栄一の秘書を長く務め、財界の有力者となり、政治家に転じて戦後は岸内閣で運輸相となった。弟たちも皆政財界で成功した。
戦前昭和の時代に政治家・軍部に大人物が得られなかったとの永野の指摘については、前述の原敬や浜口雄幸などの安全保障に関する深い洞察を見るにつけ、同感の思いを深くする。しかして、翻って我が国史を通覧したとき、国の中枢に大人物がいたと思える時期がどれほどあっただろうか。維新明治大正期などは史上稀に見る大人物輩出期であって、鎌倉時代百数十年、室町時代、江戸時代のそれぞれ二百数十年などざっと見渡しても、大人物が見当たらない期間の方が長かったのではなかろうか。隋の煬帝やヒトラー、スターリンのような君主や指導者が出現しない一方、「大人物の端境期」が常態化しやすいのが我が国情なのであろう。そうであるならば、大人物を期待するにとどまらず、大人物がいなくとも決定的に国を誤ることを避ける工夫に努めるべきとの思いを深くする。それには迂遠なようでも、国民各人の意識を高めるほかないと思う。まず学校教育の中で、国際政治や経済社会の現実をしっかりと見る力を養うことが重要であるように思うのだが、筆者自身が受けた教育や筆者の子供たちが受けた教育に照らすと、正直なところ心もとない・・・。
陋屋の夕方に初老の男が唸りながら慷慨していても、ごまめの歯ぎしりか石亀の地団駄といったところである。血圧が上がる前に、夕食の用意に取り掛かろう。まずは、炊飯器をセットしてから、豚スライス肉とじゃが芋でカムジャタン風の煮物を作ることにする。そのあと、おもむろに白身魚と鶏の粕漬けを焼くことにしよう。


冷凍魚と鶏胸肉の粕漬けのレシピ(2人分)
〈材料〉 冷凍カラスガレイ4~6切れ、鶏胸肉小さめのもの1枚(皮を取り、斜めにそぐように4枚に切る)、酒粕100g(板状のもの)、味噌大匙1、酒大匙2、砂糖小匙1、塩小匙1
(1)ボウルに50℃ぐらいの湯100ccを入れ、そこに酒粕を細かくちぎって投入。大きなスプーンですりつぶすようによく混ぜ、滑らかにする。さらにみそ、酒、塩、砂糖を加えよく混ぜる。
(2)ボウルに魚と鶏肉を入れ、よく混ぜ合わせて、半日置く。時々混ぜて上下を返す。
(3)魚と鶏肉をボウルから取り出し、酒粕を手で拭ったら、クッキングシートを敷いたオーブンの天板に並べ、まず200℃で10分程度焼き、焼け具合を見ながら必要に応じて焼き足す。鶏肉は魚より多少長めに焼く。オーブンを使わずロースターで焼く場合は、焦げやすいので、はじめ数分アルミフォイルをのせて中火で焼き、フォイルをとって弱火で数分焼く。


カムジャタン風豚肉と野菜の煮込みのレシピ(4人分)
〈材料〉 豚ロース薄切り200g、じゃが芋中4個(4つに切る)、人参中1本(乱切り)、玉ねぎ中1個(1センチ幅に櫛切り)、長ねぎ10cm(5ミリ幅に小口切り)、コチュジャン大匙2、味噌大匙1、キムチの素小匙1、焼肉のたれ小匙1、麺つゆ小匙1、おろししょうが小匙1、おろしにんにく小匙1、ごま油小匙2、すりごま大匙1
(1)鍋に湯1000ccを沸かし、豚肉を投入。沸いたらあくを取り、じゃが芋と人参を入れ、さらにあくを取り、玉ねぎを投入。再度あくを取り、火を絞って15分煮る。
(2)長ねぎ、コチュジャン、味噌、キムチの素、焼肉のたれ、麺つゆ、おろししょうが、おろしにんにくを入れ、よく混ぜ、15分煮る。
(3)味見してコチュジャン、味噌、麵つゆなどで味を調え、ごま油、すりごまを加えたら完成。
*カムジャタンは、本来豚の背骨とジャガイモを煮込んだ鍋であり、韓国料理の本などでは豚のスペアリブで作るレシピが紹介されている。勿論それの方が本格的であるが、手軽に豚のスライス肉で作っても結構うまい。


【筆者から】
断続的ながら随分長きにわたり駄文を連載させていただきましたが、レシピが種切れになりました。今回で一区切りとさせていただきます。ご愛読ありがとうございました。