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PRI Open Campus ~財務総研の研究・交流活動紹介~ 9

・フィナンシャル・レビュー「過剰医療と過少医療の実態:財政への影響」の見所 責任編集者 井伊雅子教授に聞く

財務総合政策研究所総務研究部研究員 網谷 理沙

/京都大学経済研究所特定准教授
財務総合政策研究所コンサルティング・フェロー 古村 典洋

・2022年度 財政・経済セミナーの実施
財務総合政策研究所 総務研究部 国際交流課 企画調整係長 赤嶺 彰一/同 研究員 田中 祥司/同 係員 岩嵜 智亮(肩書は2022年6月30日現在)

フィナンシャル・レビュー「過剰医療と過少医療の実態:財政への影響」の見所 責任編集者 井伊雅子教授に聞く

財務総合政策研究所(以下、「財務総研」)では、年4回程度、「フィナンシャル・レビュー」(以下、「FR」)という学術論文誌を編集・発行しています。今月のPRI Open Campusでは、本年3月に刊行された「過剰医療と過少医療の実態:財政への影響」をテーマとしたFRについて、責任編集者を務めていただいた井伊雅子教授にインタビューを行い、過剰医療と過少医療からみる日本の課題や、その解決のために求められる取組みなどについて、「ファイナンス」の読者の皆様に分かりやすく紹介していきます。

コラム フィナンシャル・レビューとは
フィナンシャル・レビューは、財政・経済の諸問題について、第一線の研究者や専門家の参加の下に、分析・研究した論文をとりまとめたものです。1986年から刊行を続けています。


[プロフィール]
井伊 雅子
一橋大学経済学研究科/国際・公共政策大学院教授
国際基督教大学教養学部卒業後、1993年にウィスコンシン大学マディソン校で、経済学のPh.D.を取得しました。世界銀行調査局、横浜国立大学経済学部を経て、2004年から現職です。政府税制調査会委員、日本放送協会経営委員、東京都医療審議会委員なども務めています。

[聞き手]
網谷 理沙
財務総合政策研究所総務研究部研究員
2017年3月に上智大学総合人間科学部社会学科を卒業し、同年4月に第一生命保険株式会社に入社。京都での支社経験、人事部での新卒採用担当を経て2020年7月より財務総研の研究員を務めています。

古村 典洋
京都大学経済研究所特定准教授/財務総合政策研究所コンサルティング・フェロー
2010年に財務省に入省。主計局、主税局、高松国税局、IMFでの勤務を経て、2019年から現職に就いています。


1.はじめに
網谷:本特集号では「過剰医療と過少医療の実態:財政への影響」をテーマとしていますが、井伊先生が「医療経済学」を研究しようと志したきっかけなどがあれば教えてください。

井伊教授(以下、井伊):高校生の時から国際機関で働くことを希望していました。欧米の大学院のPh.D.が必要ということで、ICU(国際基督教大学)からアメリカのウィスコンシン大学の大学院に進みました。当時は途上国の貧困問題に関心があり、大学院生の時に、ワシントンDCの世界銀行の調査局で働く機会がありました。当時、Princeton大学のAngus Deatonなどが中心となり、途上国の家計調査のミクロデータを集めて分析するプロジェクトを世界銀行が始めていました。私はボリビアの家計調査のデータ分析を担当しました。ボリビアは平均寿命や乳幼児死亡率といった公衆衛生の指標がとても悪く、特にミクロの分析をしている人がいなかったこともあり、その分野で博士論文を書きました。
その後、1995年に横浜国立大学の経済学部で教えることになったのですが、日本に帰る前に伊藤隆敏先生や八田達夫先生が、「日本に戻るのであれば、日本の失敗例も含めて日本のことをしっかり学んだうえで途上国にもアドバイスする方が途上国にとってもありがたいので、もっと日本のことを勉強しなさい」とアドバイスしてくださいました。ちょうど1990年代半ばから後半頃にかけて、医療制度に関してもデータに基づいて分析しようという動向になってきたところでした。そこで日本の制度について研究を始めてみたら課題がたくさんあって、それが専門になりました。国際比較にはずっと関心がありますが、最近では途上国というより、もっぱら日本の医療問題を研究しています。


2.本特集号のねらい、執筆者について
網谷:続いて、今回の特集号についての質問をさせていただきたいと思います。井伊先生の特集号の特徴は、各論文に加えて討論者の方のコメントも掲載されており、コメントとあわせて読むことでより議論のポイントが明確になる点であると感じております。今回の各論文について、どのようなお考えで執筆を依頼されたのか、加えて、執筆者はどのような方々なのか、簡単にご紹介いただけますでしょうか。

井伊:まず、医療と経済とをバランスよく考察できる研究者であることと、日本の医療の現場をきちんと理解したうえで国際的な視野を持って研究したり分析している人にお願いしました。これは討論者も同様です。
医療の分野では(言い方が悪いですが)利用できるデータが沢山あるので、現場の関心というよりは計量分析ができてトップジャーナルに載ればそれでいいといった研究が少なくありませんが、私が求めていたのは現場の重要なリサーチクエスチョンを設定できる人でした。そこで、国際的なベンチマーキングやEBM(Evidence-based medicine)に詳しい葛西先生にお願いしました。
統計学や計量経済学の専門家ということで以前から一緒に研究をしている縄田先生にも入っていただきました。
伊藤先生は、若手の医療経済学者を代表するお一人です。元々伊藤元重先生と国際貿易の研究をされていて、広い視野をお持ちだし、医療の政策と理論と実証分析とをバランス良くできる方です。政府の様々な政策議論にも関わっていて発信力もあります。池田先生・村上先生は伊藤先生の研究仲間で、今回参画いただきました。
菅家先生は福島県立医大におられるので、山形の地域の病院間の連携について現場からの視点で考察していただけるということでお願いをしました。
森山先生も長くお付き合いのある研究仲間です。前回のFRで討論者をお願いしていますし、財務総研の「医療・介護に関する研究会」*1では論文を執筆してくださいました。私と問題意識が似ていて、また、レセプトデータを分析されているので、DPCのデータ*2とレセプト分析とで補完ができると思いお願いしました。
渡辺さんは、研究者ではないですが、分析能力も高く、志の高いコンサルタントです。この2年間コロナに関する研究会でご一緒していて、昨年10月の財政審では有識者としてデータ分析をもとに報告しました。貴重なデータも多いので、財務省の議事録としてだけでなく、データを最新のものにアップデートして論文として残すと良いのではということで急遽執筆しました。結果として、井伊・森山・渡辺論文*3はコロナについてということもあり、外部からの関心が高いです。
討論者としては、同僚でもある中医協会長の小塩先生、中医協の元メンバーで医療政策がご専門である印南先生、井深先生は一橋で同僚だった時期もあり、加えて伊藤先生と同年代でこれから医療経済を担っていく世代代表ということでお願いしました。


3.「過剰」「過少」医療から見る日本の課題
網谷:続きまして、過剰医療と過少医療からみる日本の課題についてお伺いしたいと思います。本特集号では海外の医療制度と日本の医療制度との比較を行い、日本の医療制度の下で生じる「過剰」と「過少」を指摘しておられますが、なぜ日本において「過剰」と「過少」が是正されにくいのか、諸外国との比較において、ガバナンス構造や国民のリスクに対する意識など、どのような理由が考えられるでしょうか。

井伊:葛西・井伊論文*4でも述べているように、日本だけでなく海外でも難しい課題だと思いますが、日本では地域住民の健康に責任を持つという意味でのかかりつけ医の制度を導入しなかったことが大きいと思います。検査すればするほど良いとか、高度技術イコール良い医療ではない、ということをまずは地域住民に伝えなければなりません。もちろん高度技術が必要な場合もあり、それを患者自身で判断することは難しいので、医療提供者や行政の役割が(その判断を行う際に)とても重要です。しかし日本は制度が整っていません。情報が適切に提供されていれば、患者も賢く使えると思うのですが…。

網谷:そういった意味では、患者自身が自ら手に入れることができる情報は膨大だけれども、実際何が正しい情報でどの治療が適切かという判断は、専門的な知見を持っている方でないと難しい領域ということですね。

井伊:一橋大学で一緒に研究している中村良太先生は、イギリスでのご経験から「イギリスだと何かあれば自分のGP(general practitioner,家庭医)*5に聞けばいい。インターネットで調べる時もNHS(英国の国民保健サービス:National Health Service)が運営している情報サイトがわかりやすい」と言っていました。
日本では体調に異変を感じたとき、まずインターネット等で症状や医療機関を調べて、どの病院の何科に行けばいいのか自分で判断してから病院にアクセスするという流れが一般的かと思います。自分で判断しないといけないので、自己責任になってしまうんですよね。
かかりつけ医をイギリスのように登録制にするのが良いのかはいろいろな意見がありますが、皆保険の国は登録制の所が多いです。医療へのフリーアクセスが制限されることの懸念はありますが、登録した所にまずかかり、そこの医師なり診療所が責任をもってその患者をケアするため、安心感の方が大きいのではないでしょうか。
今回のコロナでいえば、例えばPCR検査が必要なのか、自宅療養を継続していて本当に大丈夫なのかといった判断や説明を全部担ってくれるのが本来のかかりつけ医の在り方ですよね。ですから、制限されるというのではなくて、情報を提供して適切に医療機関にかかるための仕組みとして整備する必要がありますし、利用者サイドにその利点を理解してもらうことも重要だと思います。
今回の特集号では過剰医療だけでなく過少医療についても焦点をあてています。要するに現在の医療提供体制は効率的でない、資源配分がうまくいっていないということです。これは前回FRを書いた際、アンケート調査に基づいた分析から気が付いたのですが、日本は受診回数が世界一といっても、医療機関に行く人は頻回に受診しますが、全く行かない人も結構多いのです。混んでいるから行かないとか、子どもの予防接種は行くけれど自分は二の次とか。そういう時にGPがいればワンストップサービスのように子どもの受診のついでに婦人科のがん検診などできるのですが、日本はそうした制度でないので、必要な医療やケアを受けないもしくは受けられない(過少医療)ことが少なくないのです。
皆保険といっても(縄田・井伊・葛西論文*6でも述べていますが)制度の谷間に落ちてしまう人が存在しています。健康診断と医療が連携しておらず、健康診断で問題が見つかっても医療につながっていません。そもそも健康診断とかがん検診の定義そのものが日本ではあやふやで、葛西・井伊論文で述べているように、スクリーニングの定義を再考して臨床現場の在り方を考えないと、単に自己負担を増やして無駄な医療をなくしましょうというだけでは必要な人に必要な医療やケアが届かないことになります。

古村:自分は子どもを持った時に、タイムリーに専門家に相談できることの重要性を強く感じました。イギリスではGPに聞けばいいという一方でGPの受診が2週間待ちなどと聞きますが…。

井伊:受診の内容によります。GPは24時間働いているわけではないので、例えば夜の救急では時間外診療や電話などで対応してもらえます。この点はイギリスのGPの方達からも日本人からよく聞かれる質問だと聞きます。
ただし、優先順位を付けられるので、例えばCTを撮りたいと言っても必要ないと判断されれば、日本のようにすぐには撮ってくれないとか、白内障の手術なども民間保険に入っているとすぐ手術してもらえるけれど、そうでないとGPを通して1年待ちといったこともあります。このように、緊急度が低いものについては後に回されるという意味での差別化はあります。これはすぐ病院、これは自宅療養で良いなど、トリアージをしっかりやるので、コロナでも力を発揮したのではないでしょうか。日本はそれがなかなかできていなくて、みんなとりあえず入院しましょうとなってしまい、病床が軽症患者で埋まってしまったというようなことも起きました。

網谷:かかりつけ医の定義について、利用者サイドの認識もあいまいだと感じました。かかりつけ医の運営に関する課題も含め、医療提供体制の質を確保するためには制度設計にあたってどのような部分が重要になってくるとお考えですか。

井伊:コロナで明らかになったことでもありますが、日本は中小の病院がとても多く、病床当たりの医師や看護師の数が非常に少ない低密度の医療提供体制になっています。また、医療機関の機能分化ができていません。平時から患者の奪い合いが起きていて、その一つの大きな問題は外来が出来高払いであることだと思います。薄利多売で、一点でも多く稼ぐために検査数を増やして薬を出すことが優先され、診療現場では経営安定化のため、少しでも外来を増やして必要以上に入院させるという状況になっています。
制度設計にあたって、井伊・森山・渡辺論文でも書きましたが、支払制度(報酬制度)を変える必要があります。例えば外来には人頭払い(診療所に登録している患者の数に応じて収入が決まる)とか、入院だと1疾病の定額払い(現在のDPCは1日当たりの定額)を一部導入するといった方法があります。加えて医療機関を集約化させていくことも重要です。地域医療構想は少しずつ進んでいますが、日本の場合民間病院が多いため話し合いで進めるのは難しいと感じます。
日本の医療は機能分化できていないという問題もあります。特徴として、大きな病院も中小の病院も同じような患者を診ており、診療所の役割が不明確です。多くの国では診療所は保健所が持つ公衆衛生の機能を持っています。そういう公的な役割を担っているという責任感が日本の診療所ではあまり意識されていません。予防も含めて公衆衛生の機能も持つのが診療所であり、そこで働くのが海外だとGP(家庭医)、日本では総合診療専門医と呼ばれている人たちです。海外では普段からかかっている診療所でPCR検査、自宅療養のケア、退院後のケアなども受けられますが、日本ではそうはなっていません。

網谷:葛西・井伊論文に対する印南先生のコメント*7にあるように「過剰」「過少」を線引きして最適量を1点でとらえるのは難しく、適正といわれるであろう範囲があるといった議論もあったと思います。「過剰」「過少」の定義を考える際の視点についてはどのようにお考えですか。

井伊:序文*8にも書きましたが、印南先生の指摘はとても重要です。過剰でも過少でもない医療をRight care(適正な医療)と定義していますが、Right careは一つの値として最適な量が一点で定まるものではありません。最適な医療は研究のエビデンスから導くこともできますが、エビデンスがあるからといって完璧でも確実でもないですし、新しい研究が出てくるたびにたえずアップデートされていくものです。
そのため、現在得られる最良の研究エビデンスを参考にして、医師の専門性と経験、個々の患者の状況と環境も考慮したうえで医師と患者がともに決めていくという共同意思決定が重要です(葛西・井伊論文)。特に医療のエビデンスは過去の研究の平均であり、サンプルが異なれば変わる可能性もあります。当然過去のサンプルが対象になるので、目の前の患者はエビデンス(過去の研究)に入っていません。その人の場合はどうなのかというと、こういうエビデンスはあるけれど自分はやはりこの薬は飲みたくないなど、医師と患者が相談しながら共同意思決定をしないといけない、というのが世界の標準になっています。
Evidence-basedでも環境などを考慮していくことで、ある人にとっては適正医療だとしても、同じ病気を持つ別の人にとっては過剰や過少になることもあり、個々人によって異なります。そのような判断や伝え方を本来かかりつけ医が勉強しないといけないのですが、日本は専門トレーニングを受けたGPにあたる医師がほぼ皆無です。一方OECDのデータなどを見ると全医師の2~4割程度がGPや家庭医なので(表1 医療提供体制の国際比較)、この差は驚きですよね。
GPの仕事は不確実性との闘いです。例えば肺がんの専門医は検査の結果肺がんと診断された患者に対してどういう治療をするかという話になりますが、かかりつけ医の仕事はそもそも病気かどうかわからない、検査結果で異常は見られないけれど「すごくつらいんです」という患者をどうケアするか、という不確実性の中で患者と一緒に闘ってくれる存在です。
日本にはそういう医師がいなくて、患者がインターネットで調べたりいくつもドクターショッピングをしたりしています。日本の受診回数の多さはそれだけ医師にケアされているわけではなく、もしかすると迷って色々な所に右往左往して受診回数が増えているのかもしれません。

網谷:ここまで課題の部分についてお伺いしておりましたが、日本の医療制度の下で、「過剰」や「過少」の発生を抑えることができていると考えられる点はありますか。

井伊:日本でも、海外のエビデンスも学び、それを参考にしながら診療している医師はいますが、残念ながら現時点で過剰・過少の発生を抑える制度にはなっていません。
出来高払いのため、検査すれば収入が増えるとなれば、必要がなくてもとりあえず検査をするといった過剰医療が発生してしまいます。また、日本の診療所は公衆衛生的な役割を担っていないので、受診に来た人しか診ないということで過少医療も発生しています。完璧な医療体制はありませんが、GP制度がある国では、登録している住民に適切にリーチしないと診療所への報酬が減額される仕組みになっています。日本ではどの医療機関に行くかが患者の自由なので、責任の所在がはっきりしていません。今後移民や貧困者といったリスクの高い人が増えてきたときに、現状のように医療者側からリーチする仕組みがないと適切に医療を届けるのは難しいのではないでしょうか。

古村:フリーアクセスなのに医療にアクセスしない人の問題はデータでも把握しにくいですよね。

井伊:今回のワクチン接種は、普段医療にアクセスしない人にリーチする良いきっかけのはずなのにうまく活用されていませんよね。それは電子化をしたからといってできるわけではなく、本来はかかりつけ医が保健所の役割を担う必要があります(図1 期待されるプライマリ・ケアの役割,図2 COVID-19 パンデミックに当てはめると)。


4.医療関係者・行政担当者・利用者に求められる気づきと行動
網谷:本特集号で、「適正医療を多く実現するためには、保健医療サービス提供者、利用者、行政担当者などの気づきと行動が必須」*9とされていますが、それぞれの立場に求められる気づきと行動とはどのようなものでしょうか。まず、医療関係者の立場からについてですが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、医療の逼迫や医師等の医療従事者の不足も指摘される一方、病院経営が悪化したり、診療所が倒産したりといったニュースを目にします。新型コロナウイルスの感染拡大によって浮き彫りになった日本の医療の課題と、医療関係者が今後取り組むべきことは何だと思われますか。

井伊:問題点として、人口当たりの病院数や病床数が多く、病床当たりの医師看護師が少ないという低密度な医療提供体制、また、医療機関の機能分化ができておらず、診療所でいいのに大学病院に通うということなどを指摘できます。
また、コロナで経営が大変になったと言っても、診療報酬で加算されるなどして、受診の件数は整形外科を除いて減っているのにレセプトの点数(収入)は軒並みプラスになっています(井伊・森山・渡辺論文の表12)。これに加えてさまざまな補助金が出ています。その効果を測るためにも補助金に関する分析をできるようにすることも必要です。公立病院の事業報告書(財務諸表に当たるもの)は、「地方公営企業年鑑」で電子的に公開されています。本来であれば医療法人はもちろんのこと、法人登録をしていない小規模病院や診療所など全ての医療機関が電子的に事業報告書を開示するべきでしょう。また、現状では補助金は事業収益に含まれてしまい、補助金のデータだけを取り出して分析することが出来ません。分析できるデータを開示するようにしていくことも必要です。

網谷:データについてのお話が出たところで、少々脱線しますが、医療に関しては、エビデンスに基づいた議論をすることが重要であるところ、その大前提となるマイクロ(個票)データについて、今後研究を進めていくにあたり、どのようなデータや取組が必要でしょうか。効率的な医療政策の検証に加え、財政へ与えるインパクトの試算の視点から教えて頂けますと幸いです。

井伊:最近利用できるデータが増えてきましたが、例えば伊藤・葛西論文*10で議論している「少数事例のマスキング」について、10未満の症例だとマスキングがかかってしまい、0なのか1~9なのかもわからない、ということが発生しています。1入院当たりの定額払いの導入は過少医療につながるという意見がありますが、この点を検証するうえでも医療の質の評価は重要になってきます。日本は急性期病院の数が多く病院単位の症例数が少なくなる傾向があるため少数事例に関するデータはとても大切です。質の評価をする際に、それらがマスキングされるのは問題です。そういった点でも伊藤他論文*11の分析や問題提起は重要です。
また、財政への影響についてですが、特集タイトルに含んでいるにもかかわらずあまり財政への影響に関する分析ができていない点は序文でより詳しく説明するべきでした。
その理由として、マイクロのデータは以前と比べて入手できるようになってきましたが、財政への影響をマクロで語りたいと思ってもHealth expenditure(保健医療支出)についてはデータが不十分なのです。Health expenditureを考えるうえでSHA(system of health accounts)の整備が不可欠です*12。「日本の医療費がGDPに占める割合は世界一の高齢化の割には高くない、だからコストパフォーマンスが良い」などといわれることがありますが、これはhealth expenditureの推計が捉えていないさまざまな漏れがあるためだと考えられます。

網谷:過剰医療や過少医療の実態を把握し、それらを実際に是正していくためには、今後行政によるどのような取組みが必要とされるでしょうか。また、財務総研のような研究機関の果たすべき役割は何でしょうか。

井伊:財務総研には今回のようなちょっと変わったテーマの特集を責任編集する機会をいただき感謝しています。
行政の役割ですが、日本の医療制度は公的なお金で運営されているので、医療界は公的な任務をもっと自覚するべきだと思います。イギリスの診療所も民間医療機関なので運営体系に関してはかなり自由ですが、税金で運営されているので診療内容や財務状況など厳しく監督されています。日本も民間医療機関であろうと公的な役割を担っているという責任を自覚し、質のチェックや財務諸表の開示など、行政が医療界に対しもう少しガバナンスをきかせることも重要です。

網谷:今まで医療関係者サイド、行政サイドの観点からお話をお伺いしておりましたが、最後に利用者サイドの観点についてもお伺いしたく存じます。今後医療提供体制の改革を進めていく中で、従来は各自治体が実施する検診でカバーされており、一方で過剰といわれるものについて、仮に削減の方向に動いたとき、どのような問題が生まれると考えられますか。

井伊:葛西・井伊論文で肺がん検診を例にとりましたが、イギリスの場合、肺がん検診が有効であるというエビデンスがないという理由で肺がん検診をなくしました。ただ、なくしたからといって放っておかれているわけではなく、NICE(National Institute for Health and Care Excellence)という第三者機関が『がんが疑われる場合:発見と紹介(Suspected cancer:recognition and referral)』*13というガイドラインを作成し、推奨事項を具体的に示しています(例えば、葛西・井伊論文の図1)。
日本では一度公的医療保険に導入されると、有用性があるというエビデンスがないのに、なかなか公的保険から外せません。しかし一方で「エビデンスがないので検診をやめます」として対象から外してしまうと、検診する事が望ましい場合でも検査がされず放っておかれる可能性があります。NICEのようなガイドラインがなく、医師と患者が共同意思決定をする仕組みもない中でただ検診を導入するとか、削減する、というだけではうまくいかないでしょう。
支払制度を変える、医療機関を機能分化させる、診療所に公的役割を担わせる、総合診療専門医を育てる日本専門医機構での議論*14をしっかり監視するなどで大きく変わるのではないでしょうか。地域住民にとっても診療現場で働く医療者にとってもその方が利点が多いと思います。
かかりつけ医については、標準化した教育を受けた人によって、適切な支払制度の下で診療を受けられるという制度にしていくと同時に、利用者サイドにもメリットを理解してもらえるようアプローチしないといけません。

網谷:日本の医療制度は民間の保険に加入する必要がないほど手厚いと聞くこともあり、利用者サイドとしては海外に誇れる充実した制度であると感じていましたが、医療提供者側の立場で考えたときに、我々が当たり前のように享受している制度の裏に実は過剰・過少の問題が発生しているということを今回の特集号を見て気づかされました。

井伊:日本の公的医療保険は、民間保険に入る必要がないくらい寛容すぎる保険内容ですが、PCR検査を受けたくても受けられないとか自宅療養中に亡くなってしまうという状況は、完全に制度の谷間に落ちていますよね。情報にアクセスできる人は良いですが、例えばシングルマザーは子どもの医療費が無料といってもそもそもそのことを知らないとか、無料といってもどこを受診すれば良いのかわからない、小児科なのか皮膚科なのかわからないとか、全部自分で決めないといけないのが日本の医療制度です。運良く良い先生に巡り会えればいいですが、医療サービスに手厚くお金をかけているのに、制度の隙間に落ちてしまう人がいるというのは、かかりつけ医が機能していないということの表れだと思います。
また、コロナの混乱は保健所の予算を少なくしたことが要因だとも言われていますが、実は保健師の数はコロナの前から増えています。井伊・森山・渡辺論文でも議論していますが、根本的な問題の1つは日本の診療所が公的な役割を担っていないことで、単に保健所の予算を増やせば良いということではないと思います。


コラム かかりつけ医制度のメリット:データの蓄積
コロナに関する検証について、日本ではデジタル化の遅れがよく指摘されています。改めて、今までデジタル化に多額の予算を投じてきたのに、うまく機能していない理由を考えるべきだと思います。
登録制のかかりつけ医制度の良い点として、患者に関するデータを一元化して蓄積することができるという点があります。オランダでは1970年代初めから、GP(家庭医)の診療内容が継続して蓄積されています。コンピューターが普及する以前から紙の分類カードで始まりました。私が2011年にオランダを訪ねた時、オランダ全国各地での疾患の発生率や有病率、そしてそのトレンドなどを、GPのパソコンからオンラインで簡単に参照できることを目の前で見せてもらいました。そうしたデータベースを元に、オランダではGPによる臨床研究へと発展させることを容易にしています。
登録制のある国はどこも同様です。今回のCOVID-19でも、ワクチン接種をした人と接種しなかった人が、その後どうなったのか、イギリスなどでも、こうしたデータに基づいて自治体や国がワクチンの種類や接種時期を決めることができます。デジタル化が注目されていますが、かかりつけ医(GP)の登録制により、地域住民のデータが一元化されているのが大きいでしょう。


5.最後に
網谷:フィナンシャル・レビューの特集をまとめたご経験から、何か伝えたいこと等があれば教えてください。

井伊:ここに書いてあることが絶対正しいというわけではなく、例えば他の地域で見たら違うストーリーも見えてくると思います。本特集号を広く読んでもらって、批判するべきところは批判していただき、これをきっかけに各方面の方達と色々と議論ができたら嬉しいです。


2022年度 
財政・経済セミナーの実施

財務総合政策研究所(以下「財務総研」)では、開発途上国に対する知的支援の一環として、1992年から財政・経済セミナー*15を実施しております。当セミナーは、東南アジア諸国の他、南アジアや太平洋地域を中心とした財務省等の若手幹部候補生を対象としており、これまでに、約500人を日本に招聘し研修を行ってきました。
2022年は、5月23日~6月1日の期間で、昨年に引き続き新型コロナウイルスの影響を鑑み、オンライン方式にて実施し、当セミナーに関心を示した、バングラディシュ、ブータン、カンボジア、フィジー、タイ、ベトナムの計6か国の財務省等職員が参加しました。
今回のセミナーでは、研究者や専門家、財務省内部部局の実務担当者等による、財政・金融・税制の各分野の講義に加え、国際機関からゲストスピーカーを招いた講義も実施しました。また各政策講義に続いて、参加者出身国の経済・財政状況に関する発表の機会も設け、各参加者から現地の政府職員としての視点を交えて解説してもらいました。なお、このプレゼンテーション資料は財務総研HPにおいて公開しております*16。
参加者からは、「様々な分野から、財政政策策定において有益な知見を得ることができた」「(参加者のプレゼンテーションより)各国のCOVID-19への対処について非常に有益な情報を得ることができた」と全体を通して評価も高く、本セミナーの企画担当としては大変喜ばしく感じています。
財務総研ではコロナ禍においても、オンライン技術等を駆使した国際交流活動を実施してきました。今後の社会・経済情勢の変化にも柔軟に対応し知的支援業務を進めていきます。
〈財政・経済セミナー講義内容〉(順不同)
〈政策講義〉
・新型コロナ危機とアジア経済の課題
  講師:河合 正弘
     東京大学 名誉教授
     環日本海経済研究所 代表理事・所長
・国際課税の最近の動向
  講師:本田 光宏
     筑波大学 大学院ビジネス科学研究群 教授
・日本経済について:概観
  講師:上田 衛門
     慶應義塾大学 商学研究科 教授
・公共支出管理:日本の経験と国際比較
  講師:田中 秀明
     明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科 教授
・日本の金融財政政策
  講師:吉野 直行
     金融庁 金融研究センター センター長
     慶應義塾大学 経済学部 名誉教授
・財務総合政策研究所の役割と研究活動
  講師:小枝 淳子
     財務総合政策研究所 特別研究官
     早稲田大学 政治経済学術院 政治経済学部 教授
・Managing shocks through transformative DRM reforms
  講師:Lesley Jeanne Yu Cordero
     Senior Disaster Risk Management Specialist, World Bank
・日本の財政の現状と財政健全化の取組
  講師:片野 幹
     主計局 調査課 調査第七係長
・日本国債の発展と国債管理政策について
  講師:山崎 寛一
     理財局 国債企画課 課長補佐
・高齢化と税
  講師:長谷川 悠
     主税局 調査課 課長補佐

写真:所長挨拶の模様
写真:参加者の経済・財政状況に関する発表(カンボジア)
写真:財政・経済セミナー参加国


プロフィール
財務総合政策研究所 前国際交流課企画調整係長 赤嶺 彰一
2009年に熊本国税局に入局。2014年から財務省で勤務しています。財務省では、主にG7等の先進国のマクロ経済情勢や金融政策動向についての調査などに従事してきました。2020年7月から財務総研で勤務しています。

財務総合政策研究所 国際交流課研究員 田中 祥司
2017年にリベラ株式会社へ入社し、総務部へ配属。2020年より財務総研の研究員としてインドの経済情勢等の調査・研究を行っています。

財務総合政策研究所 国際交流課係員 岩崎 智亮
2018年に東京税関に入関。2021年7月から財務総研で勤務しています。

財務総合政策研究所
POLICY RESEARCH INSTITUTE, Ministry Of Finance, JAPAN
過去の「PRI Open Campus」については、
財務総合政策研究所ホームページに掲載しています。
https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/index.html



*1) https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11565338/www.mof.go.jp/pri/research/conference/fy2015/zk104_mokuji.htm
*2) DPC/PDPS(Diagnosis Procedure Combination/Per-Diem Payment System)という支払制度を導入している病院のデータ。
*3) 「COVID-19パンデミックでの患者の受療行動と医療機関の収益への影響」https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_14.pdf
*4) 「ケアの現場で陥りやすい過剰・過少医療を減らすために:EBM 教育と患者中心の医療の役割」https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_05.pdf
*5) イギリス国民は、救急医療の場合を除き、あらかじめ登録したGPの診察を受けた上で、必要に応じ、GPの紹介により病院の専門医を受診する仕組みとなっています。(出典:厚生労働省https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kaigai/21/dl/t1-07.pdf)
*6) 「糖尿病健診における過剰と過少―医療資源の効率利用に関する研究―」https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_02.pdf
*7) 「葛西・井伊論文に対するコメント」https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_07.pdf
*8) https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_01.pdf
*9) 葛西・井伊論文の要約を参照。
*10) 「地域の医療機関の治療アウトカム評価の指標」https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_08.pdf
*11) 「山形県置賜二次保健医療圏における急性期病院の治療アウトカムの比較」https://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list8/r148/r148_11.pdf
*12) 参考:西沢和彦「『総保健医療支出』推計の問題点」(FR第123号)http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11457096/www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list7/r123/r123_14.pdf
西沢和彦「健康支出(Health expenditure)における予防支出推計の改善に向けて─『社会保障施策に要する経費』を用いた再推計─」https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/jrireview/pdf/13437.pdf
*13) 本特集号の葛西・井伊論文による日本語訳を使用。
*14) https://jbgm.org
*15) 1992年に、現在の財政・経済セミナーの前身である財政金融長期セミナーが開始。2001年に財政経済長期セミナーへ改称。その後、2011年に現在の名称に改称。
*16) https://www.mof.go.jp/pri/international_exchange/technical_cooperation/sep2022.html