このページの本文へ移動

路線価でひもとく街の歴史

第29回 「東京都浅草・上野」

浅草公園から水辺のまちづくりへ

東北本線のターミナルの上野駅。井沢八郎「あゝ上野駅」ではないが、東北生まれの筆者にとって特別な駅であるには違いない。他方、奥州街道(日光街道)は浅草である。日光街道を並走する東武鉄道は浅草駅がターミナルだ。浅草と上野、両方とも東北方面の玄関口である。浅草寺と浅草公園、寛永寺と上野恩賜公園という具合に、シンボルとなる寺と公園がある点も共通している。どちらも門前の「広小路」を中心に街が発展した。大通りから横丁に入ると、道端に席がはみ出した大衆酒場が独特の雰囲気を醸している。


川と街道と浅草


繁華街としての歴史は浅草が古い。街道に沿った隣町の蔵前に幕府の米蔵「浅草御蔵」があったのが大きい。年貢米が浅草御蔵に収納されると預かり証(米切手)が発行され、幕府役人の給料となった。都市住民が現物米でもらっても仕方ないので、米切手を換金する必要があった。換金を業にしたのが「札差」という業種である。実際のところ役人は米切手の支給を待たず札差から生活費を前借りしていた。つまり札差は消費者金融業でもあった。江戸の富裕層の典型である。
浅草は札差や商家の旦那衆の社交場として賑わった。旦那衆といえば江戸の商工業は街道に沿って発展している。日本橋を起点とする日光街道は本町通から浅草橋を渡って蔵前に至る。業種の変遷はあるが現代も街道沿いに問屋街が形成されている。本町の薬品、横山町・馬喰町の衣料。浅草橋から蔵前、駒形にかけての人形や玩具などだ。
江戸が終わっても日光街道の地位に変わりはなかった。明治15年(1882)、東京初の市内鉄道「東京馬車鉄道」が開通した。新橋から日本橋を経由し浅草に至る旧街道沿いのルートと、日本橋から分岐し上野経由で浅草に至るルートからなるP字型の路線網だった。上野は翌年に東北本線上野駅の開業を控えていた。駅は寛永寺の脇寺群があった場所にできた。当時の上野は市街地の辺縁で、日光街道からみれば西に外れた場所だった。
明治15年の東京府統計書によれば、戦前15区の最高地価のうち最も高かったのは日本橋区で場所は按針町だった。按針町は今の中央通を横に入った按針通の辺りにあり百坪平均地価は2,116.87円だった。以下、京橋区南伝馬町三丁目(現在の京橋)、神田区須田町と続き、4番目が浅草区茶屋町で789.31円。雷門の前である。1つ置いて6番目が下谷区上野元黒門町で422.37円。上野恩賜公園の南端の広場と不忍池の間の住所である。馬車鉄道のルートが当時の一等地を結んでいることがわかる。また、地価でみれば浅草は上野に2倍弱の差をつけていた。


浅草六区と大衆文化


浅草の街の歴史は浅草公園の歴史でもある。浅草公園は、明治6年(1873)の太政官布達を経緯とする都市公園の第1期生である。布達によって古来の景勝地かつ人が集まる遊覧地が選ばれ、「万人偕楽ノ地」たる公園に指定された。東京では浅草、上野、芝、深川、飛鳥山の5つあり、このうち4つは浅草寺、寛永寺、増上寺、富岡八幡神社のそれぞれ境内地だった。
浅草公園の範囲は図2 浅草公園の図の通りだが、浅草寺の境内のみならずその外縁の広い部分が公園地に指定されていた。外縁部から得られる地代家賃を都市公園の維持管理費の財源にする目論見があった。公園を所管する当時の東京府は、公園経営にあたって東京商工会議所の前身の営繕会議所から提言を受けていた。「公園地域の半分は真の公園地とし、残りの半分は免税地として貸座敷、飲食店を許可し、その地代・家屋税を徴して公園入費に充てる」というものである。これが基本方針となり、戦前まで東京の都市公園は独立採算制の下で運営されていた。特に浅草公園の貢献度は高く、その公園使用料は他の公園の財源にもなっていた。一時期は使用料全体の8割を占めていたほどだ。
浅草公園の整備にあたって新しく造成された土地もある。歓楽街で有名な「浅草六区」もその1つだ。明治16年(1883)、浅草寺西側の火除け地、通称「浅草田んぼ」が公園に加えられた。空き地を開削して水を張り、瓢箪池を拵えた。池の外側の土地を区画整理し、浅草寺観音堂の裏手の奥山という場所に元々あった見世物小屋を集めて歓楽街をつくった。その後、浅草公園は6つの“区”に分けられた。一区は狭義の浅草寺境内、二区は仲見世、三区は伝法院周辺、四区は瓢箪池を擁する庭園一帯。五区は現在の花やしきから観音堂裏手にかけて。六区が現在の六区ブロードウェイを縦軸とする歓楽街で、区割制が無くなっても「浅草六区」というエリア名が現代に残った。大通りの北半分は瓢箪池に面していた。瓢箪池は戦後に埋め立てられて現存しない。かつて瓢箪池があった区画には現在、ご当地ショップ「まるごとにっぽん」が入る東京楽天地浅草ビル、ウィンズ浅草が建っている。
明治20年(1887)、今のROX-3Gの場所に常磐座ができた。後に「浅草オペラ」の発祥地と呼ばれる常磐座を嚆矢として六区に活動写真館や演芸場が集まってきた。明治36年(1903)には日本初の映画館「電気館」が開業。現在、跡地には名前が引き継がれた「浅草電気館ビル」が建つ。現代の六区のシンボルといえばエリア中心の五差路にある浅草演芸ホールである。都内4つの常設寄席の1つだ。造成当初にできたのは明治期のショッピングセンター、勧工場の開進館だった。その後、映画館「三友館」となり、戦後のフランス座、東洋劇場となる。浅草演芸ホールが開場するのは昭和39年(1964)である。
五区の花やしき、四区の浅草水族館など六区以外にも浅草公園内にレクリエーション施設が多々あった。六区の外側になるが、大通りの北のつきあたりにはその高さにちなみ「浅草十二階」と呼ばれた凌雲閣があった。公園地の外側なのは高さ制限の都合による。明治23年(1890)に建てられ大正12年(1923)に関東大震災で倒壊するまで有数の東京名所だった。


鉄道の時代と上野の発展


浅草公園が大衆文化の殿堂なら、上野恩賜公園はわが国クラシック文化の源流といえる。開設4年目の明治10年(1877)に内国勧業博覧会の会場となった。今でいう展示会で、臥雲辰致のガラ紡などが出品された。勧業博の展示品を仕入れて販売する「勧工場」という業態が現れたことを考えれば見本市ともいえる。第2回、第3回も上野恩賜公園で開催された。
明治15年(1882)、第2回勧業博の展示館を転用し国立博物館が開館した。博物館には、後の上野動物園となる付属動物園が併設されていた。その他、戦前まで東京府美術館や東京科学博物館が園内に整備された。
繁華街は南側の黒門口から上野広小路にかけて広がっていた。当地の一番店が松坂屋上野店である。上野広小路にあった呉服店「松坂屋」を明和5年(1768)に名古屋の伊藤屋が買収。それを機に改称した「いとう松坂屋」が発端である。明治40年(1907)、ショーケースで陳列する百貨店形式の店に改装。大正6年(1917)、幕末以来の土蔵造り店舗の北側にあった洋館3店舗を整理し4階建の新本館に建て替えた。
大正も半ばになると上野と浅草との地価の差が少しずつ縮まってきた。大正15年(1926)の大蔵省の調査によればこの年、上野広小路と浅草区茶屋町の1坪当たり賃貸価格が両者ともに80円で並んだ。街道と舟運の浅草から鉄道の上野へ、交通手段の重みづけの変化が背景になったというのが本連載の仮説だ。この間、上野駅の交通拠点としての価値が高まった。例えば大正14年(1925)、秋葉原・神田間が開通し山手線が環状運転を始めた。昭和2年(1927)にはわが国初めての地下鉄が浅草駅・上野駅間で開通した。現在の東京メトロ銀座線である。昭和4年(1929)、上野広小路の松坂屋は関東大震災で被災した店舗を再建。土蔵造店舗も整理し区画いっぱいに建てた本館は地上7階地下1階、延床面積25,000m2と全国屈指の大型店だった。後に地階売場が銀座線と直結された。
一方、浅草にターミナル駅ができたのは昭和6年(1931)である。東武鉄道が今の浅草駅である浅草雷門駅への延伸を果たす。駅ビルには百貨店「松屋浅草」が入った。駅では後発だが、ターミナル百貨店としては浅草が東京初である。延伸前は1つ手前の業平橋駅が「浅草駅」で東武鉄道のターミナルだった。現在のとうきょうスカイツリー駅で、明治35年(1902)に北千住駅から延伸開業。最初は吾妻橋駅といった。いったん閉鎖し、東武亀戸線を経由して今の両国駅に乗り入れるルートを取るも、両国駅の国有化に伴って撤退。明治43年(1910)に吾妻橋駅を再開し浅草駅と改称した経緯がある。有数の貨物駅でもあり、駅構内に運河を引き込み北十間川の舟運に連絡していた。
東武鉄道が浅草に延伸を果たした2年後、上野に新たなターミナルができた。昭和8年(1933)、上野恩賜公園の地下に京成電鉄が京成上野駅を開業。当時は上野公園駅といい、地下道を渡って道路向かい側に駅舎があった。今のヨドバシカメラの場所である。


最高路線価地点でなくなった浅草


戦後、上野の地価が浅草を上回り現在に至る。昭和34年(1959)の最高路線価は、雷門二丁目「舟和」の坪当たり69万2,500円に対し、上野広小路「東京堂靴店」は73万5,000円だった。日本橋や銀座以外で上野を上回る場所が表れたのも戦後の特徴だ。昭和34年、渋谷区上通り「峰岸ビル」(現在のQフロント)112万850円、新宿区角筈一丁目「洋菓子山和売場」(新宿駅東口)99万3,600円、池袋一丁目「明治屋」75万円の3地点が上野を上回っていた。3つとも山手線沿線で郊外電車のターミナルとなっている。
上野の戦後史は闇市から始まる。アメ横はじめ新たな商業集積が駅前にできた。ビルでいえば3階建の高さの上野恩賜公園の法面に西郷会館含め3つの商業施設が張り付いている。ここ10年前後で建て替えられ新しくなったが、いずれも戦後まもなくの開業である。都の設置許可を得て民間が建てた上野恩賜公園の公園施設だ。昭和47年(1972)には松坂屋上野店に続く当地2店目の百貨店、京成百貨店上野店が開店した。現在は丸井になっている建物である。
時代が下るにしたがって上野と浅草の差は開いていき、京成百貨店の開店の翌年、昭和48年(1973)で上野の最高路線価は浅草の約1.5倍となっていた。その翌年には浅草税務署管内の最高路線価地点が浅草橋に交代する。浅草の低迷は交通手段の変遷によるものだけではない。テレビの普及とともに地方都市の映画街が軒並み姿を消したのと同じことが浅草にもあった。離れた客を呼び戻すため、大通りに場外馬券売り場を設置するなど工夫したが客層は広がらなかった。


再生した水辺の街に浅草公園を重ねる


鉄道網が密で乗用車普及率が低い東京の場合、地方都市ほどの空洞化はうかがえない。とはいえ、少なくとも物流分野に車社会の影響が表れている。東京は貨物鉄道と舟運のハイブリッドの時代が比較的長く続いた。それでも昭和を通じてトラック輸送に置き換わっていき、長らく貨物鉄道の拠点だった汐留、秋葉原、飯田橋、両国、錦糸町の再開発が進む。
その1つ、舟運とのハイブリッド運用をしていた業平橋駅だが平成5年(1993)には貨物営業を終了。旧貨物ヤードの跡地に60,000m2を上回る広大な用地ができた。平成16年(2004)、押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業が始まる。ここで浮上したのが新タワー計画である。その後当地に東京スカイツリータウンを開発することが決定した。東京スカイツリーを中心に、階下の商業施設「東京ソラマチ」、オフィスビル、水族館やプラネタリウムを擁する複合施設である。東京スカイツリーは平成20年(2008)から3年半かけて平成24年(2012)に竣工。業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅に改称された。
今年は東京スカイツリー開業10周年。ふりかえれば周辺の街も大きく変わった。東京スカイツリータウンから浅草寺まで緑地帯が連続し、まちレベルで公園化したように見える。入込運河を通じて業平橋駅に連絡していた北十間川は街を緑で彩る公園になった。河岸に並行する高架下には令和2年(2020)、商業施設「東京ミズマチ」がオープンした。河岸に沿ってしばらく歩くと高架の北側に隅田公園が広がるのが見える。公園に面した高架下に東京ミズマチのベーカリーやカフェがあり、テイクアウトして公園で楽しめる。隅田公園は隅田川の両岸が公園区域で、関東大震災の復興事業の一環で整備された。桜と隅田川花火大会で有名だ。歩行者専用橋のすみだリバーウォークで浅草側に渡ると、河岸にタリーズコーヒーがある。平成25年(2013)台東区との連携事業でできた都内初めての河岸オープンカフェだ。
浅草は江戸情緒を楽しめるわが国屈指の観光地として活気を取り戻している。浅草駅は駅開業当時のアール・デコ様式に復元された。台東区の計数だが、新型コロナウイルス感染症が流行する前の平成30年(2018)の年間観光客数は5,583万人と、10年で1.4倍になった。うち外国人は5倍増の953万人となった。平成25年(2013)、浅草一丁目雷門通りが浅草税務署管内の最高路線価地点に返り咲く。当時は上野の26%水準だったが観光客の伸びに従って令和2年(2020)には45%まで縮まった。
思えば浅草公園もそれ自体が街だった。緑のオープンスペースと周辺の商業施設、アトラクションの組み合わせが互いに好循環をもたらしている。新・旧浅草駅から見方によっては上野を含め、エリア単位で浅草公園が復活したかのようだ。



プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版


図1.市街図
図3.北十間川の水辺