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講師 ロバート キャンベル 氏(日本文学研究者 早稲田大学特命教授 早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問)

演題 その春、世の中いみじうさはがしうて~感染症と日本古典の結びつきについて~ 令和4年2月28日(月)開催

はじめに
来日以来この1年間を除き、私はずっと国立大学に奉職し、特に昨年3月までは大学共同利用機関の国文学研究資料館の館長を4年間務めました。まだ全世界的に収束を見通すことができないコロナ感染に関して、日本古来の、日本固有の歴史的経験から私たちはどのようなことを学べるのか、その知見をどのように生きた学問として人々の生活の中での心の支えにしていくことができるのか、そのことを国文学研究資料館の館長として、一人の研究者として、私はずっと考えてきました。
本日は感染症について日本古典を通じた学び、日本列島の歴史的経験に基づきながら、それを超えるかたちでの普遍的な学びについてお話ししたいと思います。

1.「更級日記」と感染症
まずは義務教育の中で学んだ、なじみの深い古典から具体的な事例を挙げてお話しします。
日本最古の歌集である万葉集以降、感染症がそれぞれの作品や作者、あるいはそれを受け止める当時の社会に深く刻み込まれていることが、この2、3年、我々の研究で明らかになってきました。
例えば、上総国の国府(現在の千葉県市原市の付近)に中央から派遣された役人の娘である菅原孝標女が11世紀に記した「更級日記」というものがあります。この「更級日記」が書かれることになった原動力が感染症であった、ということが、コロナ発生以来、研究者の間でかなり話題になっています。
「更級日記」の冒頭の箇所を読み上げますと、「その春、世の中いみじうさはがしうて、まつさとの渡りの月かげあわれに見し乳母も、三月ついたちに亡くなりぬ。せむかたなく思ひ嘆くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。」とあります。
50代に差し掛かり、みちのくの入り口である今の関東地方から京都に帰った女性が、自分の人生を振り返って書いたのが「更級日記」ですが、この日記をなぜしたためるのかについて最初に「世の中いみじうさはがしうて」と書いてあります。
作者である50代の女性が自分の人生を振り返り、自分にとって最も大切な支えであった乳母が感染症で亡くなったことを書いていますが、ここで注目していただきたいのは、「いみじうさはがしうて」という言葉が出てくるところです。
源氏物語においても和泉式部日記においても、9世紀から11世紀における王朝文学時代の日本のかな文学において「いみじうさはがしうて」という言葉が一つのキーワードになっていて、世の中が感染症で大変騒がしくなっている、ということです。
「更級日記」の作者である菅原孝標女は大変ふさぎ込み、何もできない状況で京都に帰るわけですが、彼女の母が物語などを方々からかき集めて菅原孝標女に見せると、自然と心が平らかになっていく。そこで源氏物語を見つけて読んで、自分も紫の上の話をはじめ、源氏物語に描かれているその人物の生き様に触れて生き続ける勇気を見出す、ということになるのです。
紫式部が書いた源氏物語においても、光源氏が瘧病(わらはやみ)、今でいうマラリアを患って京都の北山にいる大変徳の高い僧侶のところに祈祷に出向く場面が描かれています。その途中で見つけた少女、それがのちに最愛のパートナーとなる紫の上でした。

2.日本古典文学の中に感染症が現れるパターン
日本古典文学の中に感染症が現れる際にはいくつかのパターンがあります。
1つ目は、物語を描く原動力が作者に生じる場合です。一つの出来事としての感染症が、文学的な記述を生み出す力になることがあります。
2つ目は、源氏物語のような虚構の中で、人物の出会いや別れ、あるいは戦の突破口になる、つまり小説の中の筋、ストーリーを運んでいくうえで感染症が重要なものとして描かれている場合です。
3つ目は、人々に感染症のリアルを伝える場合です。平安時代や鎌倉時代においては、印刷技法が確立しておらず、すべて作品は手書きで人から人へと伝わっていく世界でしたが、17世紀の初めから中ごろ、寛永年間あたりから商業ベースで木版による出版物が日本で普及し始めます。
さらに18世紀初め、享保の改革あたりから津々浦々に本屋、貸本屋、印刷業者が現れ、人々の間で一種の読書熱、読書欲が盛んになります。人々の識字能力が上がっていくと、感染症についての情報が出版物の中に、特に私たちが文学と呼んでいる著作の中に多分に書き込まれるようになりました。
今の言葉で言うと自然災害、その災害に対してどのような備えをすればよいのかを人々に伝える、あるいはそれを記録として次の世代に継承させる、そうした明らかな意図があって、情報として感染症を文学の中に書き込むということがなされました。

3.コロナ禍と国文学研究資料館
東京都立川市にある国文学研究資料館は、重要文化財を複数保有し、たくさんの原資料や非常に貴重な複製、研究情報を収蔵していますので、全世界から研究者が訪れます。
しかし、コロナ感染拡大に伴い、2020年3月、ギャラリーや図書館あるいは共同研究、出張などを停止する決断をせざるを得ませんでした。その時に、私たちは「古典籍」、つまり明治以前の時代に手で書かれたり、あるいは木版技術によって印刷され流布した著作物を電子化して、様々な研究資源あるいは文化資源として活用できないかと考えました。コロナ禍で人々の学習機会が極めて限られ、奪われてしまった状況下で、私たちが半世紀の間に蓄積してきた情報を、日本語で、そして多言語化させて供給することを考えました。

4.古典籍とは
「古典籍」とは、9世紀から19世紀に積み上げられた日本列島の「古典知」を大量に含んだありとあらゆる書物のことですが、一枚一枚の村の文書もあれば、大福帳のような町方の商人の記録もありますし、様々な歴史記録、歴史資料があります。本としてとじたものや巻物など様々な装丁がありますが、読むもの、つまり備忘録や記録としてとどめ置く役割だけではありません。当時は音読が基本でしたので、声に出して読んで周囲の人々に情報や情緒、笑いを伝えるもので、江戸時代以前の日本においては、それは文学と言えます。

(1)図像の要素が非常に多い
18世紀や19世紀に京都や江戸で出版された本は、中国、朝鮮半島あるいはヨーロッパの同時代の書籍と比べて、図像の要素が非常に多いことが特徴です。また、図像と文字が分節されておらず、文字が図像を解説し、図像が文字を補う相関性が認められることが日本の古典籍の大きな特徴の一つです。

(2)大きさ、外形と中身の間の高い相関性
もう一つ、古典籍は大きさ、外形と中身との間に高い相関性があるという特徴があります。大本とか半紙本といった大きい書型になるほど、中身が時代とともに生き続ける、継承されるべきもの、今の言葉で言うなら古典、すなわち生き続ける知識や内容になるわけです。
逆に本の書型が小さくなるにつれて、通俗的な際物的な、その時その場の必要な情報が含まれています。
横に長いものは武鑑、すなわち各藩の家紋や、指物の模様、大名行列がやって来た時にどの家中の武士なのかを江戸の町の人々が識別できるような情報が描かれているなど、非常に実用的な内容になっています。
士農工商といった当時の身分制度が日常の物質的な文化に色濃く投影される中で人々が生きていたということが基本的な状況としてあります。

(3)様々な説を並存させて残しておく
江戸時代あるいはそれ以前の時代の書物を扱う時に、あるいは役立つかもしれない情報を私たちがそこから取り出す時に知っておかなければならないことは、スクラップ・アンド・ビルドで知識を更新していくのではなくて、様々な説を併存させて残しておくということです。
国文学研究資料館に、17世紀の前半に京都で出版された万葉集20冊が所蔵されています。江戸時代の人々が万葉集を読むときには基本的にこのテキストを使っていました。寛永二十年の本が幕末までずっと同じ版木を使って増し刷りされ、配られ、売られ、読まれていたわけです。
これを詳しく見ていくと、行間あるいは上欄に、手書きでたくさんの書き込みがあります。17世紀の契沖や幕府に仕えた学者の北村季吟、上方の小説家で国学者の上田秋成などが行ったそれぞれの書き込みを、後の読者が丁寧にそれを写して併存させています。令和という年号の由来となった「梅花歌三十二首并序」という漢文の序文では、様々な人が説を唱えています。「令」という文字は「今」ではないか、「月」という文字は「日」ではないか、つまり「今日」ではないか、というように様々な説が書き込まれていて、その中から世代ごとに学問、知識が堆積され、伝わっているという興味深い特徴があります。

5.飢饉と日本古典

(1)貝原益軒「大和本草」
福岡藩の藩医である貝原益軒が書いた「大和本草」は江戸時代においてロングセラーでしたが、これは中国の「本草綱目」に基づきながら、日本固有の様々な自然物、動植物、ミネラルなどを実際に調べて、貝原益軒やその一門が写実的な絵とともにそれぞれの性質を漢文或いはカタカナ交じりの文章で書いています。
「大和本草」が書かれた後に、天明の大飢饉、天保の大飢饉が全国的に起きるわけですが、飢饉のとき、人々は「大和本草」をまずひも解きました。どういう植物が代替食物として使えるのか、という非常に実践的な応用が見込めるものとしてこの本が注目されました。

(2)阿部檪斎「豊年教種」
天保の大飢饉の最中に江戸で出版され、無料で配布された救荒書、つまり飢饉のときのサバイバルマニュアルとでもいうべき「豊年教種」という本があります。これは阿部檪斎という本草学者が出版して身銭を切って配ったものです。中身を見ていきますと、先ほどお話しした「大和本草」から引用した植物の図を入れて、江戸周辺の里山や空き地に生えている、食べても大丈夫な植物、食べるための灰汁抜き方法、絶対食べてはいけない植物、といった様々なことを紹介しています。
例えば、「ハシリドコロ」というどこにでも生えている植物がありますが、これには向精神作用があって、食べ過ぎると意識障害をきたす危険なものであると注意を促しています。
「豊年教種」は、お米や生鮮食品が買えない大都市の住人が生き抜くための生きた知識を、ほぼ百数十年前に描かれた「大和本草」を参考にして紹介しています。歴史から学ぶことを江戸時代において実践しているのです。

6.国文学研究者と他分野研究者との共同研究
国文学研究資料館では、このように江戸時代に積み上げられた様々な知見を活用して他分野の研究者やあるいは業者たちと共同研究を行うことによって、資源活用を推進しようとしています。

(1)江戸時代の料理の再現
2017年9月、ちょうど私が館長になって数か月後に、銀座三越と日本橋三越本店に入っている老舗料理店約17件の料理人と味の素食の文化センターと共同研究を行い、デパートの地下で江戸料理のフェアを行いました。崩し字で書かれていて、だれも今では読み解けない江戸時代の料理本を読み解き、200年、300年前に日本人の食卓にのぼっていた大変おいしい献立を再現しました。
例えば、ホシザメではんぺんを作るとか、あるいは江戸時代にうなぎを串焼きにして売っていたという記録があります。作り方も料理本の中にありましたので、ウナギ屋さんにこれを伝えたところ、ぜひこれを作りたい、と言って再現することになったり、現在は展開していないたくさんの新しい商品につなげることができました。
18世紀の終わりに、京都で「豆腐百珍」という非常に有名で面白い料理本が出版されています。これは豆腐だけを使って百種類のレシピを描いたもので、豆腐好きにはたまらない書物です。江戸料理のフェアでは、その中から2つほど献立を作っていただきました。
このイベントは、大学共同利用機関である国文学研究資料館が百貨店と共同してこのように直接的に一般市民に研究成果を発信するという、非常に稀有で有難い機会でした。

(2)「明月記」が低緯度オーロラを記録
今月の初め、太陽活動の大きなイベントが起きたことによって米スペースXが人工衛星40基を喪失し、大きな損失を被ったことが報じられました。太陽活動が私たちの情報インフラに大きな影響を及ぼすことは以前から知られていましたが、米スペースXの件は大きなニュースになりました。
太陽系あるいは太陽活動の記録は様々な国において歴史的に記録されていますが、ほかの地域や国に比べて宇宙のイベント、気象イベントの緻密な記録が取られていることが日本の文学資料の一つの特徴です。
例えば、国宝に指定されている藤原定家の「明月記」の中において、定家が「京都の北山に夜な夜な赤い明りが見えて、それがカーテンのようになびいていて、まがまがしい光景である」と記述している箇所があります。
これはそれこそ末法思想、この世の終わりを思わせるような記述ですが、それが具体的にどういうことだったのか、江戸時代からの謎でした。
それが3年ほど前に国文学研究資料館と国立極地研究所という機構が異なる機関が共同研究を行うことによって、実はこれが日本における「低緯度オーロラ」の最古の記録であることを突き止めることができました。
つまり、鎌倉時代に太陽活動が激しくなって地球に大きな磁気嵐が発生したため、緯度が高くない京都あたりでも赤味がかったオーロラを観察することができて、それを「明月記」が記録していた。このことを地質学、天文学の先生達と我々の解読チームが突き止めたのです。
この研究はアメリカの「Space Weather」という専門誌に発表され、歴史の中でどういうスパンで太陽活動が生じ、また休眠状態になるのか、ということについての非常に重要な一つのメルクマールになると注目されています。文理融合的な研究がこういうところで行われるということなのです。

7.「新日本古典籍総合データベース」
飢饉が起きると、当時の学者たちは知恵と資金を集め、あるいはスポンサーのような人を募って、生き抜くための様々な知恵をできるだけ広く庶民に流布させるよう努力しました。米沢藩のように公費を使って庶民に一枚刷りを渡すなど、わかりやすく情報を伝えている藩もあります。そして、飢饉から2か月、3か月の時差で感染症が必ずついてきます。栄養失調で免疫力が弱まり、麻疹や天然痘、幕末にはコレラがやってくるわけですが、感染症が必ず飢饉とダブルで襲ってきます。
本日お話した古典籍は、2017年10月から公開している国文学研究資料館の「新日本古典籍総合データベース」に掲載されています。もちろん無料ですので、ぜひ興味のある検索ワードを入れてみてください。様々な絵と画像、挿絵、原文、あるいはそれにまつわる情報にアクセスすることができます。
この事業は国の「大規模学術フロンティア促進事業」によるもので、今年で9年目になります。「学術研究の大型プロジェクトの推進に関する基本構想ロードマップ」に文系のフロンティア促進事業として唯一採択され、進めています。

8.古典に描かれた感染症をユーチューブで発信
コロナウイルス感染拡大に対処するため、2020年4月、私は国文学研究資料館の全職員に在宅勤務を指示しました。施設のこともあったので、私は管理部の何人かの人たちとほぼ毎日研究所に出勤していました。
ガランとした収蔵庫の中で、私は、古典に感染症のことがたくさん書かれていることを伝えなければならないと思い、信頼している映像作成ユニット会社に発注して、台本なしで25分ほどの動画を日本語と英語で作りました。
そして、その日のうちに国文学研究資料館のユーチューブチャンネルから発信すると、すぐに出版社から「これを本にしてください」という依頼が来たのです。そこから約10か月かけて14人の研究者に声をかけ、「日本古典と感染症」という本を角川書店のソフィア文庫から出版しました。非常にたくさんの、特に若い方に読んでもらっているようです。
この本は、時間をかけて万葉集から夏目漱石まで、研究者たちと共同研究を行い、その成果を一冊の本としてまとめたものです。

9.江戸時代の人々と感染症

(1)感染症に対する生きた経験値
江戸時代の人々の生活は文字通り病と隣り合わせでした。19世紀前半当時、人口が世界一であった江戸では、障子一枚、一枚の座布団と言われるように「隣り合わせの生活」が生活様式の基本で、麻疹や天然痘、コレラなどの感染症が周期的に流行して、その恐怖が人生の中で数回訪れることがありました。
これは非常に重要なことで、感染症の歴史を研究しているある研究者の発表によれば、江戸時代、平均して24年ごとに麻疹が大変大きな流行になっていたことが解明されています。平均寿命が仮に50歳程度だとすれば、一人の人間が一生のうちに数回麻疹の流行を経験することになりますので、麻疹という感染症に対してどのような備えをしなければいけないのか、何が起きるのか、生きた経験値のようなものがあるわけです。これは現代の、特に先進国で暮らす我々との大きな違いです。災害に対するリアルの、アクチュアルな記憶と備えが社会の中にシステムとしてありました。
当時、感染症が町を襲うと、人々は俊敏に流行を察知して行動を変容させていました。劇場も「夜の街」も客がいなくなって閑散とするのです。つまり奉行所などの行政機関から営業停止を命じられるのではなく、それぞれの仲間、業界の中で様々なガイドラインのようなものを作って、客がそのことを知って行かなくなるという社会がありました。芝居に足を運べないときは、一人或いは少人数で「芸で遊ぶ」ということも江戸時代の人々は知っていました。

(2)葛飾北斎「須佐之男命厄神退治之図」
数年前に開館したすみだ北斎美術館を訪れると、最初に出会うのが、見上げるような大きな絵です。これは、近所に暮らしていたよしみもあって葛飾北斎が86歳の時に描いた絵を複製したもので、関東大震災で焼失してしまう前に墨田区の牛嶋神社に掛けられていました。牛嶋神社には須佐之男命が祭られていて、これは感染症から守ってくれる神様だということで、江戸では感染症が起きると、多くの人がそこに祈願に訪れます。
絵馬には数十人の疫鬼が描かれていて、須佐之男命とその眷属が鬼たちを抑えている姿が描かれています。ここで注目していただきたいのは、撲滅するとか徹底的にやっつけるというのではなく、絵の右側に描かれた、杖にもたれて立っている須佐之男命が、一番左下に描かれた鬼に「これ以上暴れない」という約束をさせているところです。つまり共存するのです。病原というものは完全にはなくすことができないので、いかにそれと共存するのか、「With病原」という一つの世界観を一枚の絵から読み取ることができます。

(3)式亭三馬「麻疹戯言」
江戸で麻疹が流行した最中に出版された戯作、「麻疹戯言」をご紹介します。
文字面を見ると「麻疹の戯れごと」と読めるわけで、コロナ禍にいる我々からすると、ぞっとする、こんなふざけたタイトルはないと思いますが、「浮世床」「浮世風呂」という有名な小説を書いた式亭三馬が、いわば流行に当て込んで際物的に享和3年(1803年)に江戸で出版したものです。この作品はほとんど知られていませんが、2020年4月に紐解いてみたところ我々の感覚と異なるところがあって面白いので、私が動画などで紹介した作品です。
その年に江戸を襲った麻疹の状況が、一種の世相を批評すると言いましょうか、江戸で何が起きているのか、平賀源内の文体を模倣したといわれる軽妙なリズムで描かれています。不況にあえぐ人々の姿をコミカルに描く、それは日本橋あたりの大富豪、両替屋といった財政や金融にかかわる人たち、あるいは町方、町の中で富を築いた人たちが、不況になってどうすればよいかと右往左往する姿を非常に冷静に描いています。
江戸時代、感染症が流行している時に出版された文学作品の大きな特徴は、滑稽味と言いましょうか、諧謔性と言いましょうか、つまり笑いをそこに向けるということがあります。現代のわれわれのメンタリティとはかなり違うところですが、この笑いを見ながら緊張の糸を緩めたり、或いは理解をする、それに乗せて人々に情報を伝えていくという方法で表現していきます。冒頭の部分を私が口語訳してみましたので、お聞きください。
「今年の夏あたりから男も女も関係なく、三十歳ばかりの人々が次々とこういう歌を歌っている。

寝るのはもったいない。
早く医者の薬が効いてほしい。
昨日も今日も麻疹に悩ませられるばかり。

うめきながら、彼らが飲むもの、食べるもの、まるで味がしない。ひとりぼっちで体調が回復するまで12日間を、指を折って布団の中で待つ以外ないのである。
その状況は偉い、偉くないの区別もなく、一番上の方は玉の御簾の内、その隙間から漢方薬の匂いが炊き込められた伽羅の香りと共にぷんぷんと匂ってくるし、下々では馬の世話をする下男まで、咳でハスキーな声を作って、それは似合うといえば似合うけれど、止めても止まらない咳でだいぶ苦しんでいる様子。」
原文では、これは七五調で書かれており、非常にリズミカルな、ちょっとヒップホップのラップのような、すぐに覚えられて、耳に入りやすい調子で描かれているわけですが、この作品から読み取れることがいくつかあります。
1つ目は、体調が回復するまでに12日間とあることです。私たちも職場や公共空間からの隔離、療養期間を設けていますが、江戸時代も全く同じ仕組み、あるいは世間知というものがあって、10日間から12日間、熱が下がってから3回くらいそれをチェックして、大体10日間ぐらい、社会に復帰するまでの時間の隔たりを作るということです。
2つ目は、感染症は貴賤を問わない、ということです。偉い人もそうでない人も患ってしまうことが書かれています。

(4)仮名垣魯文「安政午秋/箇労痢流行記」
幕末1857年にコレラが江戸に入ってきます。冒頭お話した日本古典文学の中に感染症が現れる3つのパターンの3つ目、情報を発信する媒体としての文学があるわけですが、このコレラの情報を人々に伝えるべく、仮名垣魯文という有名な戯作者であり明治初期に日本の新聞を盛り立てるジャーナリストにもなった人物が「安政午秋/箇労痢流行記」を書いています。
コレラは3日間でコロリと死んでしまう、ということで「箇労痢」と呼ばれました。この作品では、江戸の中で何が起きているのかということを様々な地域のエピソードを織り込みながら、コレラからどうやって身を守るかという情報、アドバイスが書かれています。
本を開きますと、錦絵の技術で印刷された大変鮮やかな口絵が描かれています。この口絵に描かれているのは隅田川の向こうにある、江戸の3つあった焼場の一つです。そこでは男たちがコレラで亡くなった方々の遺体を粗末な板で作った桶で次々と焼場に運び、焼場の役人が、だれがどこの寺から来たのかを必死になって書き込んでいる、つまり遺体処理が間に合わないという状況が描かれています。壁の向こうには濛々と荼毘の煙が上がっています。

まとめ
このように、感染症は江戸時代、或いはそれ以前から日本の文学そのものの発生、様々な作品、名作が生み出される原動力、契機として働いたのです。それと同時に、一般の庶民の中に出版物、つまり文字媒体で情報が行き渡る18世紀、19世紀にまで下ってきますと、私たちが現在文学として読んでいるものが、非常に重要な社会インフラ、社会資本としての役割を果たしていたことが古典から読み取れるように思います。

講師略歴
ロバート キャンベル
日本文学研究者 早稲田大学特命教授
早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問
近世・近代日本文学が専門で、とくに19世紀(江戸後期~明治前半)の漢文学と、それに繋がる文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組企画・出演など、さまざまなメディアで活躍中。
ニューヨーク市生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業(B.A. 1981年)。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了、文学博士(M.A. 1984, Ph.D. 1992年)。
1985年に九州大学文学部研究生として来日。同学部専任講師(1987年、国語国文学研究室)、国立・国文学研究資料館助教授(1995年)を経て、2000年に東京大学大学院総合文化研究科助教授に就任(比較文学比較文化コース〔大学院〕、学際日本文化論〔教養学部後期課程〕、国文・漢文学部会(同学部前期課程)担当)。2007年から同研究科教授。2017年4月に国文学研究資料館館長就任。2021年4月から早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)顧問。
主な著書に『井上陽水英訳詞集』(講談社)、編著に『日本古典と感染症』(角川ソフィア文庫)、『東京百年物語』(岩波文庫)など。