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路線価でひもとく街の歴史

第28回 「新潟県新潟市」

ラグーン(潟)に浮かぶ新潟島の運河網の記憶

信濃川と阿賀野川でできたラグーン(潟)の砂州の先の新潟島。運河が縦横に走り舟が行き交う風景は、さだめしヴェネタ潟上に浮かぶヴェネツィア島のようだったろう。舟運と海運が交わる地の利を生かし、江戸期はわが国西回り航路の拠点として繁栄を謳歌した。
幕末、安政5年(1858)年の五か国条約で新潟港は横浜(神奈川)、神戸(兵庫)、長崎、函館(箱館)に並ぶ開港地になった。実際の開港は兵庫開港問題で慶応3年(1867)となった神戸のさらに後で、元号は明治に移っていた。明治2年(1869)に運上所が竣工。明治6年(1873)に新潟税関に改称され、昭和41年(1966)まで現役の庁舎だった。博物館を伴った史跡に改装され、現存する最古の税関庁舎である。

横浜や神戸、長崎のような外国人居留地は整備されず、外国人は市街に紛れて住んでいた。ただしイギリスの旅行家、イザベラ・バードによれば、彼女が新潟を訪れた明治11年(1878)で既に外国船の寄港はなく、常住する外国人は18人程だったようだ。

近代の経済中心地の本町通七番町
イザベラ・バードは新潟を次のように評している。「旧市街は、私が今まで見た町の中で最も整然として清潔であり、最も居心地の良さそうな町である。…(中略)…運河に沿って並木道があり、りっぱな公園もあり、街路は清潔で絵のように美しいので、町は実に魅力的である」(『日本奥地紀行』高橋健吉訳、平凡社)。
開港に伴い街を拡大しているので、ここでいう旧市街とはそれ以前からあった区画と思われる。現代でいえば南辺が白山公園、西辺が西堀通、東辺を上(かみ)大川前通(おおかわまえどおり)とするグリッドだ。江戸期は上大川前通が信濃川の河岸だった。グリッドの縦軸は堀2筋と道3筋の5筋で構成される。西から寺町堀(現・西堀通)、古町通、片原堀(現・東堀通)、本町通そして上大川前通である。イザベラ・バードも書いているが、堀といっても事実上の道路、正確には車道で、両脇の小径が歩道にあたる。
横軸も堀と道で構成されていた。新津屋堀、新堀、広小路堀など堀は5本。そして横軸の道を新潟では小路という。萬代橋が架けられてからは、橋につづく柾谷(まさや)小路がメインストリートになった。明治19年(1886)年に架けられた初代萬代橋は現在の橋の一筋南にあった。南新堀が埋め立てられ、橋と柾谷小路を結ぶ道となった。現代に連なる街の原型は明暦元年(1655)年に整備された。開港を機に街が他門川の外に拡がり、下大川前通が新たな岸壁となった。岸壁には長岡航路はじめ舟運の発着場が集まっていた。
近代新潟の中心は本町通七番町である。新潟県統計書には大正3年(1914)から大正11年(1922)まで宅地の最高地価が記載されているが、この間で最も高かった地名が本町通七番町だ。今も本町通と柾谷小路が交わる本町交差点に道路元標があり、7、8、17号線など合計8国道の起終点となっている。交差点の北西角には第四北越銀行の本店がある。令和3年に第四銀行と長岡市が本店の北越銀行が合併して発足した。ここは元の第四銀行の本店で、開業以来東堀通に面していたが、増築を経て本町通にも面するようになった。
第四銀行は明治6年(1873)末、県内屈指の大地主、市島徳治郎ら12名が発起人となって設立された。開業は翌年初である。制度発足時に認可された5つの国立銀行の4番目である。明治29年(1896)年、国立銀行の営業満期に伴って「新潟銀行」となった。第四銀行に戻したのは大正6年(1917)である。
もう一方、北越銀行の前身は六十九銀行と長岡銀行である。明治17年(1884)に進出した第一国立銀行新潟支店の営業を明治38年(1905)に譲り受けた。支店は上大川前通八番町にあった。長岡銀行の新潟支店は大正8年(1919)に古町通六番町にできた。
本町通七番町とその一筋東の上大川前通が当時の経済中心地で銀行も多かった。大正3年(1914)、日本銀行の10番目となる新潟支店は上大川前通に出店。また、この通りには前身の米商会所を含めれば明治21年(1888)から平成12年(2000)の廃止まで新潟証券取引所があった。昭和42年(1967)に同じ通りで移転したが、移転先の建物は元々新潟銀行の本店でギリシャ神殿風の列柱がシンボルだった。新潟銀行は新潟商業銀行を前身とし昭和18年(1943)に第四銀行に合併された(第四国立銀行が改称した新潟銀行とは別)。

図1.旧新潟税関(新潟市歴史博物館みなとぴあ)

図2.市街図

百貨店の隆盛と古町通
本町通に次ぐ地ぐらいの古町通だったが、両者の関係は大正末期に入れ替わる。大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書によれば、大正15年(1926)において市内で最も賃貸価格が高かったのが古町通六番町だった。時代を経て古町通は本町通を引き離す。昭和32年(1957)の路線価をみると、古町通六番町で坪145千円だったのに対し本町通は最も高い六番町で坪72千円だった。30年で古町通が本町通の倍になった。なお昭和35年(1960)における最高路線価地点は「北光社書店前古町六番町通」である。明治31年(1898)開店の、新潟を代表する老舗書店だ。
昭和41年(1966)、最高路線価が柾谷小路を挟んで向かい側、「大和百貨店前古町七番町通」に移転する。大和百貨店の本店は金沢で、最高路線価地点の店は新潟店だ。前身は昭和12年(1937)に創業した萬代百貨店である。昭和14年(1939)、金沢市に本店を構える丸越百貨店と合併し丸越新潟店となった。昭和18年(1943)、本社が同じく金沢市本店の宮市大丸と合併し大和百貨店となったため大和新潟店となった。
大和百貨店の積年のライバルが、交差点の対角にあった三越だった。こちらは明治40年(1907)に創業した小林呉服店を源流とする。萬代百貨店と同じ年に小林百貨店を開店した。大和を凌ぐ業況だったが、昭和30年(1955)の新潟大火を機に失速。増床等で対抗したが及ばず、後述する万代エリアの脅威もあり昭和51年(1976)、仙台が本店の藤崎百貨店と提携した。昭和53年(1978)には三越から資本を調達。役員はじめ人材を迎えるなどして再建を図る。2年後の昭和55年(1980)には店名を「新潟三越百貨店」に変えた。
2大百貨店につづき戦後も古町界隈に大型店が集まった。昭和35年(1960)、長岡市が本店の丸大が本町通六番町に出店。昭和39年(1964)に百貨店となる。昭和44年(1969)、古町通に緑屋、東堀通に長崎屋が進出。その翌年、長崎屋の隣に長岡市のイチムラ百貨店が出店した。昭和51年(1976)、地方都市には珍しい本格的な地下街の西堀ローサがオープン。西堀通の地下で大和や三越が連結した。
昭和を通じて新潟随一の中心地だった古町界隈だが、昭和50年代以降集客に陰りが差してきた。信濃川対岸の埋め立て地、万代エリアの台頭があった。小林百貨店が三越傘下に入ったのもその対抗策のひとつだった。新潟3店目の百貨店の丸大は昭和52年(1977)にイトーヨーカドーと業務提携、翌年増床し新潟丸大となった。撤退を選択した店もあり、昭和55年(1980)にイチムラ百貨店、その翌年に長崎屋が閉店した。平成2年(1990)に緑屋が閉店。新潟丸大は百貨店事業から撤退しイトーヨーカドー丸大となった。

図3.広域図

信濃川の対岸の万代エリアの開発
平成元年(1989)、昭和が終わると同時に最高路線価地点が古町通から「掘川ビル前新潟駅前通り」に移転した。舟運拠点から鉄道拠点に街の中心が移った点で他の地方都市と同じパターンだが、新潟に関していえばバスターミナルと再開発の影響も大きかった。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は川端康成「雪国」の書き出しだが、群馬県境の清水トンネルが開通したのは昭和6年(1931)で、それまでは長野を経由する信越本線が東京と新潟を結ぶ鉄道のメインルートだった。当初、官営の信越本線は直江津駅が北端で、そこから先は民間資本の北越鉄道が整備することになった。工事は難渋したが、明治32年(1899)に信濃川対岸の沼垂駅まで開通した。新潟駅の開業はそれから5年後の明治37年(1904)である。直江津から先、信越本線は長岡、三条を経由し、新津で新発田方面と新潟方面にY字に分岐する。新潟方面は沼垂駅まで北上し、Jターンする形で新潟駅に終着した。初代の新潟駅は行き止まり駅(頭端駅)だった。
万代エリアが埋め立てられる前、信濃川の川幅は今の3倍広かった。新潟の市街地からみれば当時の新潟駅は大河を隔てた向こう岸にあり、駅周辺は閑散としていた。現代の感覚でいえば空港のような立地ではなかったか。万代エリアの造成工事は3代目萬代橋が完成した昭和4年(1929)に着工。はじめは新潟交通の本社や整備工場その他諸々の施設があった。地盤沈下の問題もあって用途転換を迫られたこともあり商業開発が進んだ。バスターミナルと百貨店、GMSを核とした一帯は万代シテイと名付けられた。昭和48年(1973)に万代シテイバスセンタービルとダイエー新潟店が開業。2年後に新潟三越エレガンスが出店した。昭和59年(1984)には新潟伊勢丹が万代シテイに出店。ダイエーは平成17年(2005)に閉店したが改装を経て平成19年(2007)にラブラ万代となった。
亀田バイパス沿線の発展と柳都の再生
平成6年(1994)、三越と大和の西堀交差点に19階建の高層ビル「ネクスト21」が完成。下層の商業棟にラフォーレ原宿が開店した。その一方、古町界隈に万代エリアの次の新たな脅威が登場する。郊外の大型店である。平成6年に北陸自動車道が新潟亀田ICまで延伸。市街地と連絡する亀田バイパス沿いに郊外店が増えた。時代を経るほど店舗は巨大化し、平成12年(2000)にアピタ新潟亀田店(売場面積37,462m2)、平成14年(2002)にはアークプラザ新潟(同35,634m2)が開店した。平成19年(2007)には当地で最大のイオン新潟南ショッピングセンター(同41,699m2)が出店。3店合わせて11万m2となるが、これは古町に万代エリアを加えた大型6店に匹敵する。
亀田バイパス沿線以外にも平成15年(2003)にアピタ新潟西店(売場面積29,436m2)、河渡ショッピングセンター(同24,046m2)が開店している。以上5店が市内の売場面積5傑で、亀田バイパス沿線3店と合わせ10年足らずで郊外に売場面積が16万m2増えたことになる。古町界隈が受けた衝撃は大きかった。平成22年(2010)に大和百貨店が閉店。かつて最高路線価地点の目印ともなった北光社書店が112年の営業を終えた。ラフォーレ原宿は売場を縮小しつつ営業を続けていたが、平成28年(2016)に撤退。そして令和2年(2020)には新潟三越が閉店した。近代以来の商業中心地だった古町界隈から百貨店が姿を消した。
商業機能の郊外移転の背景には車社会とそれに合わせた道路開発の歴史があるが、思えばその流れは昭和30年代に遡る。古町界隈を中心とする新潟旧市街にイザベラ・バードが感嘆した運河網は既にない。昭和39年(1964)の新潟国体前までにすべて埋め立てられた。せめて西堀(寺町堀)は柳都新潟のシンボルに残そうという議論もあったが、当時ならではの事情があった。地盤沈下で水量が減り、水面のよどみが目についた。放置すれば伝染病のリスクがあるし、まずは見た目がよろしくない。それ以上の理由が旧市街の交通渋滞だった。舟運の時代が終焉し道路交通が取って代わった。
火災や震災の度に焼失したこともあって古き美しき新潟の街並みは失われている。もっとも旧市街の区画は比較的保たれており、古地図片手に運河跡や小道を探索するのが楽しい街だ。図1の旧新潟税関は現在、新潟市歴史博物館みなとぴあの一部になっている。税関敷地の正面が元々信濃川に面していたこと、脇に早川堀が走っていた史実を反映し、岸壁と荷上場そして堀が復元されている。水路脇は柳並木になっており、かつて柳都と呼ばれた新潟の街並みを、ほんの一端ではあるがイメージできるようになっている。平成26年(2014)には早川堀につづく道路が4車線から2車線に減幅され、旧流路にわたって堀が復活した。
商店街のシャッター化が進んだが、通りの端のほうから新たな店が増えてきた。古町通であれば白山神社に近い方、一番町から四番町の上古町商店街、通称「カミフル」がある。散在する老舗の間に個性的な雑貨店、アパレル店が増えてきた。もうひとつが信濃川対岸、沼垂地区の沼垂テラスである。昔ながらの長屋形式の商店街はいったんシャッター化したが、「大佐渡たむら」の若き支配人が「Ruruck Kitchen」を平成22年(2010)に開店。その後、空き店舗を長屋ごと買い取り、改装のうえ出店希望者を誘致する再生手法に取り組んだ。今では個性的な店が揃う注目スポットになっている。

図4.上古町商店街(令和元年12月19日筆者撮影)

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版