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路線価でひもとく街の歴史

第27回 「長野県長野市」

1周回って門前町から始まる街並み再生
長野市は善光寺の門前町である。善光寺といえば4月3日に御開帳が始まった。数え年7年おき(満6年おき)に「前立(まえだち)本尊」が公開される祭儀だ。今回は新型コロナウイルス感染症の影響で1年繰り延べられ、密集を避けるため通常より1か月長い6月29日までの開催となった。前立本尊とは本来の本尊を模した謁見用の像、一言でいえばレプリカである。御本尊の「一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)」は秘仏とされ誰の目にも触れることがない。毎日正午、本堂内々陣の瑠璃檀(るりだん)の戸帳が読経とともに上げられるが、その奥に見えるのは御本尊ではなく、御本尊が収められた厨子(ずし)である。
善光寺は無宗派の単立寺院である。伝承によれば御本尊がインドから朝鮮半島を経由して来日したのは聖徳太子の治世より前の西暦552年。わが国最古の仏像と言われる。崇仏論争のあおりで長野に移され、その翌々年の642年に善光寺本堂が創建された。善光寺の名称は御本尊を誘致した信濃国国司の従者、本田善光(よしみつ)に由来する。無宗派なのは日本仏教が各宗派に枝分かれする以前の創建だからである。もっとも運営は天台宗の寺院「大勧進」、浄土宗の尼僧寺院「大本願」による。資金調達と発起人を意味する役職名が寺の名前となった。各寺の住職(大勧進貫主、大本願上人)が善光寺の住職を兼任している。

坂の上の大門町
「遠くとも一度は詣れ善光寺」。全国各地から巡礼者が集い、宿坊が牽引するかたちで門前町に関連産業が発展した。中世由来の“町”は住所地であると同時に商工業を生業にする住民の自治組織でもある。長野の場合、大門町、後町(ごちょう)、横町、北之門町、東町、西町、岩石町、桜小路の8つが有力で「八町」と呼ばれた。八町を中心とする門前町が「長野町」である。合併を経て長野市域は拡大したが、古来の中心部は大字長野の地名で残っている。長野町は北国街道の宿場町でもあった。本陣が置かれたのは大門町だ。大蔵省による大正15年(1926)の土地賃貸価格調査で大門町の賃貸価格が最も高かったことから、少なくとも大正期までは大門町が長野町の中心だったとうかがえる。
大門町には八十二銀行の前身、第十九国立銀行の支店があった。本店は上田市で長野町には明治12年(1879)に進出。当初は西ノ門町にあった。明治30年(1897)第十九銀行に改称後、大正13年(1924)に現在地に移転した。今の八十二銀行大門町支店である。六十三銀行と合併し八十二銀行になったのは昭和6年(1931)だ。建物は平成9年(1997)に建て替えられたが外観は大正建築の意匠を継承している(図3 大門町の現在(令和4年3月8日に筆者撮影))。
大門町にはみずほ銀行の前身、安田銀行の支店もあった。由来を辿ると地元で創業した信濃銀行の本店に遡る。明治22年(1889)栄町で開業。西町を経て明治35年(1902)に大門町の新店舗に移転した。安田銀行に吸収されたのは大正12年(1923)である。大門町界隈には明治32年(1899)に創業した長野商業銀行もあった。後に六十三銀行横町支店となった。

ふもとの街の権堂エリア
善光寺を含め旧門前町は小高い丘にある。表参道の大門町から後町にかけてがひと目でわかる坂道で、坂のふもとの後町とその脇の権堂町が大門町の次世代の中心地となった。そもそも長野の街は、その中心が善光寺門前から表参道に沿って南下する歴史を辿る。引力源は明治21年(1888)開業の旧国鉄長野駅だ。
後町は東後町と西後町に分かれ、西後町には八十二銀行のもうひとつの前身の第六十三国立銀行があった。当行は明治11年(1878)、真田氏の城下町の松代町で創業。明治30年(1897)に改称して六十三銀行となった。長野に進出したのは明治26年(1893)で現在地に転じたのはその翌々年である。大正11年(1922)に本店に昇格。直前の本店は現在の千曲市の旧稲荷山町にあった。八十二銀行の発足後も新銀行の本店であり続け、昭和44年(1969)に本店が移転してから再び長野支店となる。昭和53年(1978)に新築し昇格後に建てられた旧本店は現存しない。
界隈には第六十九銀行の支店もあった。第四北越銀行の前身で新潟県の長岡が本店だった。大正3年(1914)に進出し昭和10年(1935)に撤退。昭和27年(1952)、安田銀行が戦後改称した富士銀行が同じ建物に入った。店舗は昭和47年(1972)に建て替えられ現存しない。他に日本勧業銀行と協和銀行があった。日本勧業銀行は明治31年(1898)設立の長野農工銀行が源流で今のみずほ銀行。協和銀行は戦後の進出で今のりそな銀行だが平成10年(1998)に撤退した。
昭和32年(1957)の長野市の最高路線価地点は「東後町吉野屋洋品店前権堂町通」だった。「権堂町」は大字長野ではなく大字鶴賀に属し、つまり狭義の門前町の外だった。元々善光寺参りの精進落としの場として栄え、明治11年(1878)権堂町通の先に遊郭街の鶴賀新地ができてますます賑わった。戦後は昭和36年(1961)にアーケードが設置され市内随一の商業中心地となった。住所上の東後町を含め、権堂アーケードとその付近が権堂と呼ばれる。ここは大正15年(1926)に開業した長野電鉄権堂駅の駅前でもある。昭和3年(1928)に路線が長野駅に延伸されるまで終着駅だった。権堂駅前には昭和53年(1978)、イトーヨーカドーが出店。昭和56年(1981)の地下駅化に伴う出来事である。

大型店が集まった新田町交差点
昭和40年(1965)、「問御所(といごしょ)町日本相互銀行前中央通」に最高路線価地点が移った。中央通とは善光寺表参道の別名で、東西幹線の昭和通りと交差する新田町交差点が次の中心になった。日本相互銀行は交差点の北東角にあった。元の信州無尽で、昭和21年(1946)に東京に本社を置く大日本無尽に買収された。昭和26年(1951)に日本相互銀行、昭和43年(1968)に普通銀行に転換し太陽銀行となった。その後再編を経て三井住友銀行に至る。
長野初の百貨店は日本相互銀行の隣にあった。明治26年(1893)に松代町で創業した呉服店が由来の「丸光百貨店」である。長野には昭和24年(1949)に出店した。当初は権堂町通にあったが、昭和32年(1957)、門御所町に4階建の百貨店を新築した。長野で2番目の百貨店はその翌年にできた。新田町交差点の南東角、今のみずほ銀行の場所にあった「丸善銀座屋」である。3年後に「ながの丸善百貨店」と改称する。昭和41年(1966)に駅前に転じた後は日本勧業銀行が移ってきた。南西角にはダイエー長野店が昭和51年(1976)に出店。商業地としては新興の駅前エリアを尻目に百貨店と覇を競っていた。
長野駅前に近づく街の賑わい
昭和45年(1970)、新田町交差点の南側の表参道に長崎屋が開店。昭和50年(1975)には最高路線価地点が「大字南長野字石堂町並台東食品前中央通り」に移った。10年後の昭和60年(1985)、長野駅に駅ビル「MIDORI」が開店し、その翌年の最高路線価が「大字南長野字石堂町東沖長門屋前長野駅前通り」となった。いよいよ駅前の時代になった。次の10年で街は郊外に拡散し、いずれにせよ新田町交差点界隈は下り坂の経緯を歩むのだが、それに対する表参道に開店した大型4店の戦略は異なっていた。まず2大百貨店についていえば、早々に見切りをつけ駅前に活路を見出したのがながの丸善百貨店である。丸光の後塵を拝していた当店は、親密先の東急百貨店の後押しもあって昭和41年(1966)に新店舗を駅前に新築し移転。あわせて東急百貨店と提携した。その後昭和50年(1975)には10,429m2に増築。昭和61年(1986)には新館も新築し16,875m2となる。売上も順調に伸ばし地域一番店の地位を固めていった。
他方、元々の地域一番店だった丸光百貨店は場所を変えずに増築し昭和41年(1966)に8階建となった。当初こそ堅調だったものの、ダイエーはじめ大手総合店の相次ぐ出店や駅前エリアの発展に圧され業績は下降傾向に転じる。そこで大手百貨店との提携を模索し、当初三越、次いでそごうの支援を仰いだ。昭和57年(1982)にそごうの資本を導入し、翌年「丸光そごう」に改称。昭和62年(1987)には創業者含む丸光時代の役員が退任し「長野そごう」になった。平成元年(1989)には店舗を改装。再建を期して高級路線に舵を切った。

長野五輪が牽引した郊外開発
90年代の街の変化において、平成3年(1991)に開催決定した1998年冬季五輪大会の影響が大きかった。駅前エリアの発展についていえば新幹線の開業だ。軽井沢から先の北陸新幹線が、在来線を活用するミニ新幹線からフル規格に変更された。開業は平成9年(1997)でその前年には駅舎が新しくなった。当時は長野駅が終点で長野新幹線と呼ばれた。
郊外化の背景には道路インフラの充実があった。高速道路の整備が前倒しで進められ、平成8年(1996)には上信越自動車道の小諸IC-更埴JCT間が暫定二車線で開通し東京と長野が繋がった。長野市街と須坂長野東ICを結ぶ道路が拡幅され、点在する五輪会場を結ぶ道路が新設された。例えば五輪大橋、三才大豆島中御所線から長野南バイパスに至る路線である。
表参道にあった長崎屋とダイエーの戦略は郊外出店である。両方とも平成10年(1998)に1万m2クラスの郊外大型店を出した。ダイエーハイパーマート長野若里店は五輪会場「ビッグハット」の隣、長野五輪のプレスセンターだったところだ。ダイエー撤退後はケーズタウン若里となった。長崎屋の新長野店はMEGAドン・キホーテに業態転換し現在に至る。

そして再び大門町
郊外化が進む一方、駅前は若者をターゲットにした業態が増えてきた。長崎屋は郊外出店と同時に旧店を閉店。跡地はファッションビル「ショッピングプラザagain(アゲイン)」となった。新田町交差点に目を向けると、長野そごうは100円ショップを導入するなどコンセプト転換を図ったが薬石効なく平成12年(2000)に破たん。同じ年にダイエー長野店が閉店した。かつて当地に出店した大型店4店が表参道から姿を消したことになる。ダイエー長野店はいったん空き店舗となったが平成14年(2002)に長野市が取得。平成15年(2003)に「もんぜんぷら座」として再オープンする。
ところで昨年秋(令和3年)、イオンモール須坂(仮称)が令和6年(2024)、須坂長野東ICの麓に開店する旨が公表された。158,000m2の敷地面積を踏まえれば相当大きな店舗になる見通しだ。逆にいえば、長野には、従来の中心商業地の合計を上回るレベルの超大型ショッピングモールがなかった。郊外化は進んでいるが、個々の店舗をみれば駅前の百貨店を上回る規模でさえなかったのだ。
だからといって権堂町や新田町交差点の商業集積の衰退が他の都市に比べ緩やかかといえばそうでもない。権堂町はシャッターを閉めたままの店が増え、唯一のイトーヨーカドー長野店も令和2年(2020)に撤退した。表参道のアゲインも今年7月(令和4年)に閉店予定だ。中心商店街の衰退の理由は広い駐車場を抱えた郊外大型店の出店だけではないと考えさせられる。
しかし視点を変えれば再生の兆しも見えてくる。明らかなのが大門町界隈だ。中心地の座を明け渡してから2世代以上の時間が経ったが、修景が進み、善光寺をコアとした観光の街、そして住まう街としての地ぐらいが向上している。図3は最近の大門交差点の写真である。中央に八十二銀行大門町支店がある。表参道に沿って向こう側にある洋館が御本陳藤屋旅館である。創業1648年で長らく宿場町の本陣を務めた。明治以降はホテルに転じ、大正14年(1925)築のアールデコ様式の建物は国の登録有形文化財である。今はTHE FUJIYA GOHONJINとしてレストラン、ウェディング事業を営んでいる。
写真の手前に見える和風建築は「ぱてぃお大門 蔵楽庭(くらにわ)」の一部だ。元々あった土蔵や町家をリノベーションした商業区画で、カフェ、レストランはじめ15店が出店している。長野商工会議所を中心に長野市、商店街、地元企業等の出資で設立された第三セクター「まちづくり長野」が仕掛人だ。もんぜんぷら座の1階、「TOMATO食品館」も運営している。
リノベーションが進み、表参道の大門町から後町の坂道に沿って町家、近代建築が織りなす独特のクラシカルな風景ができつつある。マンションの下層階が町家風なのもおもしろい。長野は大門町、権堂、新田町交差点から駅前そして郊外に賑わいが移転してきた歴史だが、一周回って最も古い街から再生が始まっている点、興味深い。最盛期に比べれば人通りは減ったのかもしれないが、観光そして住まう観点で街の魅力は高まっている。
プロフィール

大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。昨年12月に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版

図表.図1 市街図
図表.図2 広域図