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路線価でひもとく街の歴史

第23回「滋賀県大津市」
連絡船で栄えた大津百町
政治的にも地理的にも京の都が日本の中心だった中世の時代、琵琶湖北端の塩津浜から峠を越えて敦賀に至る「塩の道」で京と日本海が結ばれていた。ここで大津は日本海を向いた京の外港の位置づけだった。逆に瀬戸内海を向いた京の港は伏見である。そして大津は街道の街でもある。江戸時代は東海道53番目、中山道69番目の宿場町だった。

連絡船の時代
鉄道の時代になっても交通の要衝であることに変わりない。明治5年(1872)、新橋-横浜間にわが国初の鉄道が開通したが、このとき神戸から大阪・京都を経由し中山道ルートで東京に向かう東西幹線、そして琵琶湖と日本海を鉄路で結ぶ計画も進められていた。琵琶湖は水路で行き来するため、神戸からの鉄路は大津駅、関ヶ原や敦賀港から来る鉄路は湖北の長浜駅がターミナルとなった。人や物は大津駅と長浜駅でそれぞれ連絡船に乗り換え往来する。
京都-大津間は明治13年(1880)開通。両都市を直線で結ぶには山が険しかったので、京都駅から今のJR奈良線に沿って稲荷山を迂回し、名神高速道路のコースを辿って大津に抜けた。市内に入ってもそこから港までの勾配が急なので、現在の膳所駅である馬場停車場まで下り、スイッチバックの要領で大津港に向かった(図1 鉄道開通当時のスイッチバック)。鉄道開通時の大津駅は今の京阪電鉄びわ湖浜大津駅の場所にあった。他の都市では煙害を避け街外れに駅が置かれるケースが多かったが、大津駅は水路と連絡する都合で琵琶湖の岸壁にできた。湖岸まで市街地が拡がっていたので、湖岸に沿って水面に築堤を築き線路を敷設した。水面を埋め立て築堤を築いた点は新橋-品川間、神奈川-横浜(現在の桜木町駅)間と同じである。

浜町通の金融街
大津は琵琶湖舟運の港町。湖岸に沿って浜町通、中町通、京町通の3本の道が走っていた。このうち山側の京町通が東海道筋である。東海道は北国海道と分岐する「札の辻」で直交して京の三条大橋に向かう。札の辻から山側へ京に向かう道は八丁通といい、琵琶湖の側に向かうと港に突きあたる。
岸壁に並行する3筋の道が市街地の東西軸を形成するといえば、10月号で紹介した青森もそうだった。青森は本州と北海道を結ぶ連絡船の街。大津と同じく港の後背地に街の中心があった。明治17年度滋賀県統計全書によれば、大津市街で最も地価が高かったのは「柳町」である。3本の東西軸の真ん中の中町通の町で、舟入堀の大橋堀を突きあたったところにある。琵琶湖の水路と街道の陸路が運河を通して出会う場所といえよう。当時のビジネス拠点として繁栄し界隈には銀行が集まった。
滋賀県で初めての銀行は明治9年(1876)の三井銀行大津出張所である。後に大橋堀は埋め立てられたが、その土地に店舗を新築し移転している。大正4年(1915)に撤退したが、建物は町に譲渡され大津町役場になった。今は京都信用金庫大津支店が建っている。
大津が本店の銀行で最も早かったのは明治11年(1878)に設立された第六十四国立銀行である。制度上の営業期間の満了をもって大津銀行に改称。その後、明治41年(1908)に近江銀行に統合された。近江銀行はその名の通り滋賀県各地に支店網を拡げていたが本店は大阪。金融恐慌に巻き込まれ昭和3年(1928)、昭和銀行に買収される。
他方、第六十四国立銀行は支店が彦根にあったが、創業の翌年に分離独立し第百卅三(1 3 3)国立銀行となっていた。彦根を本拠に地盤を築き、明治21年(1888)には大津に支店を出した。後に百卅三銀行と改称する。
国立銀行を出自としない地元行で初めてのものは明治14年(1881)に発足した八幡銀行である。近江商人発祥の地のひとつ八幡町、今の近江八幡市に本店を構えた。大津は八日市、日野につづく3番目の支店で明治29年(1896)、浜町通に店を構えた。
現在に至る地域一番行の滋賀銀行は、当時の有力行の百卅三銀行と八幡銀行が母体である。両行が合併して昭和8年(1933)に設立された。その翌年、現在地に本店を新築している。ここは元々百卅三銀行があった場所でもある。
他に、明治31年(1898)に発足した滋賀県農工銀行があった。昭和13年(1938)に日本勧業銀行に転換し、第一勧業銀行の時代を経てみずほ銀行となった。大橋堀跡の隣で今も営業している。浜町通には不動貯金銀行もあった。協和銀行の時代を経て支店は戦後大津に進出した大和銀行が継承。その後りそな銀行となったが平成16年(2004)の支店統合で現存しない。
滋賀銀行の発足後も旧八幡銀行のレンガ造の建物は残り、隣には塔が印象的な3代目市役所庁舎もあった。昭和の中頃までは日本勧業銀行や滋賀銀行本店も戦前の建物を使っており界隈は近代建築が軒を連ねていた。今に残る旧大津公会堂が往時を偲ばせる。

連絡船廃止という激震
銀行以前、その原型たる「為替会社」ができたのは地方では大津、敦賀、新潟の3つだった。国内有数の商流・物流の拠点だったとうかがえる。しかしながら、大津駅がターミナルだった時期は長くなかった。明治22年(1889)、長浜駅と大津駅が直接鉄路で結ばれ、わざわざスイッチバックで湖岸に着ける必然性がなくなった。日本海沿岸や東日本からやってくる人や物は大津駅を素通りし、東海道本線で京阪神に移動した。湖岸の大津駅に代わって馬場駅が本線の駅となり、馬場駅から大津駅に至る路線は本線に対する枝線となった。大津が琵琶湖舟運の港町であるには変わらないが、重要性はだいぶ低くなった。連絡船はじめ琵琶湖舟運の経営が受けた衝撃は想像に難くない。各社生き残りをかけて遊覧船に活路を求めた。
その後の大正2年(1913)、馬場-大津間の支線に重複する形で大津電車軌道(後の京阪電鉄石山坂本線)が開業。国鉄は支線の旅客営業を廃止し、初代大津駅を貨物線「浜大津駅」に、本線の馬場駅を大津駅(2代目)とした。名実ともに馬場駅が大津を代表する駅となったが、大正10年(1921)、現在地に3代目大津駅ができた際に駅名を返上。いったん馬場駅に戻り、昭和9年(1934)に現在に続く膳所駅となった。
におの浜ウォーターフロントの発展
大正元年(1912)、南北軸の八丁通に路面電車が開通した。今の京阪電鉄京津線である。当初は京津電気軌道が経営し、京都の三条大橋駅から札ノ辻駅までの路線だった。湖岸の浜大津駅まで延伸したのは大正14年(1925)である。その影響か、戦後の昭和35年(1960)の最高路線価地点は「菱屋町ニューヨークパチンコ前菱屋町商店街側通」だった。パチンコ店は電車通りと中町通の交差点、今の中央一丁目交差点の北西角にあった。菱屋町は明治期に最も地価が高かった柳町と同じく中町通にある。路面電車に引き寄せられたかのように、街の一等地が中町通に沿って西に動いた。
戦前には交差点の角に百貨店の源流といわれる「勧商場」があった。戦後は屋号に百貨店を称した複合店もあったが、これを含め他都市にあるような形式の百貨店は起こらなかった。菱屋町は県下一の商業地だったが、京都の繁華街の四条河原町から10kmも離れていない。少なくとも買回り品や専門品の商圏は京都と一体だった。
大津に初めて百貨店ができたのは昭和51年(1976)だ。それも菱屋町ではなく郊外で、今でいうウォーターフロントにできた。元々の湖岸線は鉄道路線の内側で、戦後に沿岸の埋め立てが本格化した。戦後早々、線路の外側に市街の東西を抜けるバイパス線「湖岸道路」の造成が始まった。昭和33年(1958)の暫定開通を経て、昭和41年(1966)に全面開通。バイパスの外側も陸地化が進み、様々な公共施設が建てられた。中でも西武百貨店ができた「におの浜」は大規模な半島状の区画だ。完成した昭和43年(1968)には街びらきを記念し「びわこ大博覧会」が開催された。神戸の人工島で開催されたポートピア81の13年前である。その後の跡地開発で高層マンション等が建つ住宅街や商業街ができた。来るべき車社会を先取りした新しい街だ。におの浜の顔でもあった西武百貨店だが、正確には百貨店を核店舗とするショッピングセンターで、大駐車場を備えた郊外モールのさきがけだった。界隈はその後も商業中心地でありつづけ平成8年(1996)には大津PARCOが開店した。
生活圏の拡大と草津の台頭
商業拠点としてにおの浜が発展する一方、菱屋町界隈の拠点性は弱まってきた。昭和62年(1987)には最高路線価地点が「末広町1丁目日本生命大津ビル前大津駅前通り」に移る。換言すれば菱屋町は大津駅前を下回る水準になってしまった。バブル経済が本格化し地価が急上昇を始める以前のことである。
底流に、京都あるいは大阪を中心とした都市圏レベルの郊外化があった。この場合、車社会化は言うまでもなく通勤電車網の充実もある。図5 滋賀県各税務署管内の最高路線価(千円/m2)の最高路線価でみた場合、昭和46年(1971)時点で県内第2の都市は彦根だった。城下町の彦根は百卅三銀行の発祥で滋賀大学の本部もある。それが昭和49年(1974)には草津に追い越され、平成19年(2007)には近江八幡にも抜かれた。90年代以降に一段と進んだ車社会化を追い風に草津市の台頭が目立つ。立命館大学びわこ・くさつキャンパスの開学を翌年に控えた平成5年(1993)、県内の最高路線価地点が「草津市大路1丁目草津駅東口広場」に移った。

大津百町の再生
都市圏の郊外都市として新たなポジションを得たにおの浜も盤石ではなかった。郊外とはいえ菱屋町界隈から2km弱は昭和の郊外である。平成20年(2008)、瀬田川の対岸に当時西日本最大級といわれたイオンモールが開店した。言うまでもなく滋賀県最大で店舗面積は79,000m2。におの浜の商業集積も影響を受けた。大津PARCOは平成29年(2017)、西武大津店も令和2年に閉店した。山形県、徳島県に次いで県庁所在地から百貨店がなくなったと報じられた。とはいえ百貨店がない県ではない。平成9年(1997)、草津駅前に近鉄百貨店が開店しているからだ。
大津初のアーケード商店街だった菱屋町界隈は人通りが減り、場所によってはシャッター街の様相さえ呈している。しかし、それは商業中心地としての尺度で見るからであって、歴史ある落ち着いた佇まいの街としてなら見方はまるで違ってくる。江戸期以来の市街地は通りに沿って町名が付されており、「大津百町」と呼ばれる。その大津百町エリアに残る町家は、平成16年(2004)に大津市が調べたところ1,600軒あるという。筆者の主観だが、街がコンパクトな分、京都に比べ町家の密集度が高く感じる。西と南を山に囲まれ、北東に琵琶湖の水面が広がる市街地は輪郭がハッキリしている。都市の灯が少ないほど星空がきれいなように、繁華街やビルが少ないことも景観面には有利にはたらく。
大津市で10年にわたり取り組まれてきた中心市街地活性化基本計画だが、目標の2番目に「町家等の活用による複合的都市機能の充実」があった。目指しているのは居住と商業機能が共存する街である。平成30年(2018)に終了したが、エッセンスは現在進められている「宿場町構想」に引き継がれている。
その象徴的な出来事としては町家ホテルが知られる。雑誌「自由人」を発行する株式会社自由人と、県内に本拠を構える株式会社木の家専門店 谷口工務店が始めた「宿場町HOTEL講 大津百町」の話だ。7つの町家をハイクラスのホテルに改装。フロントを1棟(近江屋)に集約し7棟13室構成の単体ホテルに見立てている。「メディア型ホテル」のコンセプトも特長だ。町家を改装した建物そのものの魅力に加え、商店街に残る老舗や町家が連なる街の魅力、いわば生業を含めた旧市街の「レガシー」を宿泊体験を通じて伝える意味合いが込められている。

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融。12月22日に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)出版

図1.鉄道開通当時のスイッチバック
図2.市街図
図3.広域図
図4.閉店前の西武大津ショッピングセンター
図5.滋賀県各税務署管内の最高路線価(千円/m2
図6.京町通の街なみ(旧東海道、左手前に「講」が見える)