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路線価でひもとく街の歴史

第19回 「神奈川県横浜市」近代レガシーを公園街路でむすぶ面的活性化

郊外に造成した新市街・横浜
横浜は郊外に造成した人口の街。これまで紹介した街道や河川を背景にした街とは性格を異にする。
当時の街道筋といえば東海道である。安政5年(1858)、米国はじめ5か国と修好通商条約が結ばれ、「神奈川」が開港場とされた。東海道五十三次の3番目、神奈川宿のことで港町でもあった。しかし背後の神奈川台と海岸の間の平野が狭かったのと、外国人を幹線道路から離したかったことから、本牧半島の付け根、神奈川湊の入り江を挟んで対岸の横浜村の砂洲に市街地を造成。こちらを実際の開港場とした。
現在の地形図の標高3m以上を着色すると元々の地勢が浮かんでくる(図1 標高3m以上を色付けした周辺地形図)。臨海工場地帯は別として、色が着いていないところはほぼ海だった。横浜駅しかり、今の関内・関外は入り江になっていて、港の見える丘公園の麓から本町通に沿って砂洲が伸びていた。横に長い浜なので「横浜」だ。中華街の北辺の開港道から太田町通が砂洲内側の海岸線だった。
砂洲を基盤に造成した新市街は4方を水に囲まれた「島」だった。元町側の中村川、桜木町側の大岡川そしてJR根岸線と首都高速のルートは運河が掘られていた。馬車道と伊勢佐木町通をつなぐ吉田橋のたもとに関所があって出入が管理され、島の内側を関内、外側を関外といった。まるで長崎の出島のようだ。図2 図2 市街図の市街図は島状の市街地をイメージするため首都高速を省略し代わりに当時の水路を書き込んだ。
関内の横長エリアは日本大通を軸に左右に分かれ桜木町駅側が日本人街、元町側が外国人居留地だった。海側の突き当りには運上所と波止場が置かれた。波よけのため湾曲した形から象の鼻と呼ばれた。

馬車道・本町の近代建築群
明治5年(1872)5月、新橋・横浜間にわが国初の鉄道が開通。ここで横浜駅とは今の桜木町駅である。神奈川宿から対岸の横浜まで築堤を渡し駅を整備した。1か月遅れて現・横浜駅の前身となる神奈川駅が開業。場所は現在地よりも北、宿場の街道筋の南面にあった。現在地に移転したのは昭和3年(1928)である。根岸線が延伸されるまで桜木町駅は大岡川に顔を向けた頭端式の駅だった。多数の線路が扇状に広がっており、その一部は今の汽車道を通って新港埠頭に、一部は関内に入り込み、生糸検査場に直結していた。
近代横浜の関内の縦軸が馬車道である。東海道から分岐した横浜道が吉田橋に着く。その吉田橋から続く街路で、外国人が馬車に乗って通ることからそう呼ばれた。対して横軸が海岸に並行する本町通だ。鉄道が開通し、駅から弁天橋を渡って関内に入り本町通に至るルートが発展した。近代以降、横浜は本町通と馬車道を中心に繁栄した。今に至るビジネス街で、銀行も多く集まった。関東大震災で被災し建替えたため昭和初期の建築が多いが状態よく残っている。
まずは馬車道から。南仲通の角に当地を代表する一番行、旧横浜正金銀行本店がある。明治13年(1880)の開設。貿易金融を専門とする銀行で、戦後は東京銀行になった。三菱UFJ銀行の前身のひとつ。建物は日本橋の装飾を担当した妻木頼黄の設計で明治37年(1904)に完成した。煉瓦・石造3階建で交差点角に向いたドームが威風を放つ。現在、建物は神奈川県立歴史博物館として使われている。
その隣、損保ジャパン日本興亜横浜馬車道ビルの下階に川崎銀行横浜支店の意匠が残る。妻木頼黄の元で働いた矢部又吉の設計で大正11年(1922)の建築だ。
本町通との交差点に旧安田銀行横浜支店がある(図3 旧安田銀行横浜支店(筆者撮影))。竣工は昭和4(1929)年。粗い石積みが特徴の古典主義様式で、武骨なドリス式の列柱、上部の半円窓が印象に残る。富士銀行に改称しみずほ銀行への再編を機に閉店。平成14年(2002)に横浜市が取得した。今は東京芸術大学大学院の校舎として使われている。安田銀行の進出は大正11年(1922)と案外遅い。横浜には安田系の第三銀行が明治10年(1877)に弁天町通に進出していたからと思われる。
この交差点には渋沢栄一ゆかりの第一銀行もあった。大阪、神戸と並び明治6年(1873)に本店と同時に開店した重要支店のひとつである。当地にはその翌年に移ってきた。震災で被災し昭和4(1929)年に建て替えた。円筒形のファサードが目立つ。昭和55年(1980)以来横浜銀行の本店別館として使用されていたが、再開発に伴って曳家方式で移転した。北仲通再開発でできた横浜アイランドタワーの低層床と一体化し、みなとみらい大通に面している。隣の真新しい高層ビルは昨年移ってきた横浜市庁舎だ。
本町通を居留地に向かって歩くと旧三菱銀行横浜支店が目に入る。矢部又吉の設計で昭和9年(1934)築。元は川﨑第百銀行だった。平成16年(2004)に高層マンションが建ち意匠が下階に残された。その向かいのみずほ銀行の傍らに「横浜為替会社設立の碑」がある。明治2年(1869)に発足し、明治7年(1874)に第二国立銀行に組織変更。第二銀行を経て昭和3年(1928)横浜興信銀行に営業譲渡した。
次いで三井住友銀行が見える。元の三井銀行で明治17年(1884)から現在地で営業をしている。横浜進出は明治9年(1876)と国立銀行以外で最も古い。列柱が梁を支える部分の渦を巻くイオニア式オーダーが珍しい建物は昭和6(1931)の竣工。4月号で紹介した三井本館と同じトロ―ブリッジ&リビングストン建築設計事務所の設計である。
一筋入ると神奈川県を地盤とする地方銀行、横浜銀行の発祥の地がある。大正9年(1920)、旧七十四銀行の店舗を継承し、横浜興信銀行が開業した。七十四銀行の前身は明治11(1878)の第七十四国立銀行である。「横浜興信銀行」設立の碑によれば、この場所に明治38年(1905)築の七十四銀行の本店があった。
日本大通に近づくと官庁街となる。このエリアの近代建築を語るに外せないのが横浜3塔だ。日本大通り近辺に塔屋を持つ建物が3つあり、それぞれ県庁舎がキング、横浜税関がクイーン、横浜市開港記念会館がジャックの塔として親しまれている。
日本大通に面する神奈川県庁舎。洋風建築に和風の屋根が載った「帝冠様式」である。昭和3年(1928)の完成。鉄筋コンクリート造5階建。次に、クイーンの塔を持つ横浜税関本館。昭和9年(1934)の建築で鉄骨鉄筋コンクリート造5階建。最後はジャックの塔を擁する横浜市開港記念会館(図4 開港記念会館のジャックの塔(筆者撮影))。大正6年(1917)、開港50周年の記念に建てられた市民会館である。白い花崗岩を挟んでアクセントにした赤レンガの外壁が特徴で、フリークラシック様式あるいは「辰野式」と呼ばれる。辰野金吾が設計した東京都の赤レンガ駅舎と同じ様式だ。

街の中心は伊勢佐木町から横浜駅前へ
他方、商業中心地は馬車道を吉田川を渡った向こう側の伊勢佐木町にあった。大正5年(1916)の土地宝典によればこの時点で地価等級が関内を上回っていた。
通りの地域一番店が野澤屋百貨店である。元治1年(1864)、茂木惣兵衛が関内弁天町で創業。明治43年(1910)、伊勢佐木町に支店を出し、大正10年(1921)に鉄筋コンクリート4階建の新館を建築した。
昭和6年(1931)、隣に越前屋百貨店ができた。後に横浜松屋となる。通りの2大百貨店で戦後も野澤屋と横浜松屋が並び立っていた。その後、野澤屋は松坂屋の傘下に入り、横浜松屋が撤退。昭和52年(1977)に横浜松坂屋の本館と西館になった。
さて、最も古い最高路線価地点は昭和34年の「長者町6丁目 秀竹食堂前伊勢佐木町通」である。秀竹食堂は、日本初の洋画封切館で知られるオデヲン座、今はドン・キホーテがある場所の向かい側だ。その後「野澤屋百貨店前」に移った。
一方で横浜駅西口が急速に発展していた。駅西口一帯は元々入り江だったところの埋め立て地で、戦前はスタンダード石油の油槽所予定地があった。昭和27年(1952)に相模鉄道が買収。販売、飲食、娯楽の3要素を備えた市街地の開発計画が始動した。昭和31年(1956)、アーケード商店街の横浜駅名品街、高島屋ストアが開店(図5 駅西口の横浜駅名品街と高島屋ストア(相鉄グループ提供))。昭和34年(1959)に横浜高島屋となった。鉄道の便に勝る駅前に人が集まり、ダイヤモンド地下街が開業した次の年、昭和40年(1965)に最高路線価地点が伊勢佐木町から「南幸1丁目横浜駅西口商店街」に移転。昭和44年(1969)に「横浜駅西口名品街」となった。昭和55年(1980)に「横浜高島屋前横浜駅西口バスターミナル前通」となり現在に至る。
90年代に入り、全国各地の地方都市で車社会化に伴い郊外のバイパス沿いへ大型モールの進出が相次いでいたが、横浜の場合、フロンティアは臨海工業地帯にあった。平成元年(1989)の横浜博覧会が鏑矢となった「みなとみらい21」である。ここでバイパス道は、北仲通再開発地区から横浜ポートサイド地区を結ぶみなとみらい大通だ。みなとみらい地区はグランモール公園が街を貫く大通となり、その外縁を車道が囲む街割りだ。平成5年(1993)、桜木町駅側にランドマークタワーが竣工。近くには横浜銀行の本店が関内から移転してきた。平成16年(2004)の地下鉄みなとみらい線の開業後も発展を続けている。

劇場型スポーツ施設と公園まちづくり
横浜松坂屋は建物の老朽化もあって平成20年(2008)に閉店。本館は解体され西館が残った。オデヲン座付近の映画館街も今はなく、伊勢佐木町は押しも押されぬ商業中心地というより各店の個性を生かした商店街になった。そして関内はビジネス街を保ちつつ、近代の遺産を生かした趣のある街になっている。
新たな役割の下の活性化において牽引役と期待されるのが関内駅周辺の改造計画だ。令和2年の関内駅周辺地区エリアコンセプトプランでは関内駅周辺を「国際的な産学連携」「観光・集客」の拠点と位置付けた。目玉のひとつが旧横浜市庁舎の再整備だ。庁舎は村野藤吾の設計で昭和34年(1959)竣工。モダニズム建築の傑作として知られる。その歴史的価値から保存されることとなり、行政棟をリノベーションのうえ、ホテルに生まれ変わることになった。区画内には33階建タワー棟を新築。低層棟にはライブビューイング施設や商業施設を置き、一大集客拠点となる。
市街図からもわかるように関内は横浜スタジアムと日本大通が街の背骨になっている。「観るスポーツ」施設が街の中心になる点、ローマのコロッセオを想起する。目下、横浜文化体育館の再整備事業が進んでおりサブアリーナ(武道館・3500席)は昨年7月に完成。3年後(2024年)にはメインアリーナ(5000席)が完成する。屋内外のスポーツ施設が街の集客装置となっている。
日本大通は明治3年(1870)にR・H・ブラントンが設計したわが国初の西洋式街路である。平成14年(2002年)に完成した再整備で車道を22mから9mに減幅し4車線から2車線に減らした。植樹帯に接する両側1車線分の歩道を拡げた。歩道にはオープンカフェが並んでいる。図6 旧横浜財務事務所と日本大通(筆者撮影)はイベントの開催で歩行者専用になった日本大通の風景だ。手前に見えるのが昭和3年(1928)に建てられた旧関東財務局横浜財務事務所だ。現在は横浜DeNAベイスターズのTHE BAYSで球団のコンセプトショップ等が入っている。
コンセプトプランの前提に2つの都市軸がある。ひとつは日本大通から横浜公園、園内の横浜スタジアムに整備されたペデストリアンデッキを渡り、数年後に変貌する旧市庁舎エリアを抜け、大通公園に至る軸である。「緑の軸線」という。もうひとつはみなと大通のシンボルロードである。みなと大通の南端は、新港の赤レンガ倉庫群と山下公園をつなぐ「象の鼻パーク」だ。みなと大通は税関、県庁、開港記念会館の横浜3塔をつなぐ通りでもある。象の鼻パークから横浜3塔を通り、横浜スタジアムと横浜市庁舎の間を抜け、横浜文化体育館に至る軸線となる。日本大通のように車道を減らし歩道を拡げ、歩行者中心のシンボルロードにすることで、横浜の近代遺産と新たな集客装置を点から線、そして面の脈絡にしようとするものだ。劇場型スポーツ施設を中心に公園化した街路が軸となり、エリアに散らばるコンテンツの輝きが星座のようにまとめ上がる。集客が回遊を生み、関内駅に隣接する伊勢佐木町を含め、関内周辺エリアの活性化が期待される。駅前、みなとみらいの経緯が横浜発祥の地でどのように生きるのか楽しみだ。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融