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令和3年度職員トップセミナー

講師 中田  英寿 氏(株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY 代表取締役)
演題「日本文化の可能性を世界へ、未来へ」
令和3年5月26日(水)開催

※今回の職員トップセミナーは、中田英寿講師と財務総合政策研究所 阪田渉所長(当時)との対談形式で行いました。

1.サッカーとの出会い
阪田所長(以下、阪田) 中田さんといえば、サッカー界のスーパースターですが、最近では、日本酒や伝統工芸など非常に幅広い分野の情報を発信されています。多分、何かに打ち込むということが、中田さんの大きなテーマになっているのではないかと思いますが、まずはサッカーとの出会いについて教えてください。
中田講師(以下、中田) 僕が小学校低学年の頃、野球の方が人気がありましたが、『キャプテン翼』という漫画に出会いサッカーを始めました。作者の高橋陽一さんとは今でも交流があります。当時、日本にはまだプロサッカーリーグはなかったので、サッカーでプロを目指すという目標もなく、ただサッカーが上手くなることが楽しくて続けていました。
ちなみに、ヨーロッパにも『キャプテン翼』を読んでプロを目指した有名な選手が多くいて、その選手たちを集めたら相当強いチームができると思います。それほど、日本だけでは無くて世界的に『キャプテン翼』の影響力は高かったと思います。イタリアでプレーしていた頃は、テレビで日本の漫画が数多く放映されているのを知って、漫画には国境を越えるすごい力があると感じました。
『キャプテン翼』を読んだことがある人は分かると思いますが、実際には不可能だと思うようなプレーが出てきます。でも、僕は「できる」と思って、公園の砂場でオーバーヘッドキックをずっと練習していた結果、イタリアでオーバヘッドキックを使って点を入れることができました。
何事も、「できる」と思って練習するからこそ実際にできるようになるわけです。「チャレンジすればできる」ということを、小学生の頃に漫画から教えてもらった気がします。
阪田 小学生でサッカーを始めて、すぐに「自分には才能がある」と気付いたのですか。
中田 いいえ。僕が通っていた小学校の少年団は、当時、県大会にも出られないレベルでした。中学校も、県大会でベスト4まで行けば御の字で、自分が全国大会に出るとか、その先にある社会人リーグに進むということは小学生、中学生の頃、一度も考えたことはありません。でも、なぜか中学生の時に関東選抜チームの山梨県選出に選ばれました。そこで初めて全国大会で戦うことになりましたが、僕は補欠で、特に結果も出せずに終わりました。
その後、何故かU-15という15歳以下の日本代表に選ばれ、そこからずっと年代別の代表に入り続けました。
でも、U-15、U-17、ユース、オリンピック、日本代表を含めて、入った当初からレギュラーだったことは一度もありません。最初は必ず補欠でした。小さい時から体が大きいわけでもなく、足も速くないし、技術が特にあるわけでもない。そんな中で、どうしたら他の選手よりも上手くなれるのかを考え続けたことが、今につながっていると思います。足が速くないし、体も強くない、技術もなかったら何ができるかというと、頭を使うしかありません。何手も先を読んで、こういうふうになるだろうからこういうポジショニングをしておけばいい、こういうところにパスを出せばいいということを常に考えていました。
グラウンド上の22人の中で自分が一番輝くためには、残りの21人をコントロールすることです。直接言葉ではコントロールすることができませんが、ポジショニングやパスを通じてコントロールすることができます。そういうことを中学生の頃から既に考えていたというのが僕の特徴だろうと思います。
僕のことを昔からサッカーではエリートだと思う方が多いのですが、最初からレギュラーだったことは一度もなくて、たまたま世界大会のあるときにレギュラーで出ていたというだけの話で、そこまでの何年間かは補欠であることが多かったんです。だからこそ、周りにいる選手の能力と自分の能力を考えて、自分はどうやったらそこで活躍できるのか、ということを常に考えていました。
水泳や100メートル走ならば違うと思いますが、ボールが介在するということが重要で、球技というのは本人の身体能力だけではなくて、頭を使えばいくらでもやりようがあります。そういうところが球技の面白いところで、駆け引きで自分の能力を生かすやり方や環境づくりができます。僕はイタリアに行っても、ワールドカップに出ても全く同じことを繰り返していました。また、よく「憧れの選手はいますか」と聞かれますが、僕にはいたことはありません。なぜかというと、完璧な選手は一人もいないからです。上手い選手はたくさんいますが、上手い選手も完璧ではないなら、その選手たちの良いところだけを手本にし、最も自分に合っているものを選択して、沢山の選手から学べば、総合的に自分がそれらの選手よりも上になることができます。あらゆる分析をして、きちんと自分ごととして考え、吸収していくことが、サッカー選手として僕の一番の能力だったのかなと思います。
フィジカル的な能力について言えば、例えば僕が普段100メートルを6秒5で走っていたとしたら、どんなに鍛えてもいきなり5秒では走れません。不可能なことを考えるのではなく、自分にとって可能なことを考え続けること。考える事に限界はないので、とことん可能性を突き詰めながらリアルでできることを考えます。イタリアでプレーしていた時も、175センチで73キロの僕よりもかなり大きい選手はたくさんいます。いくら鍛えても普通にぶつかり合ったら負けてしまうので、相手のポジショニングが良い場合は、体を当てられても相手のファールにしかならないように身体の角度などを考えます。少し専門的になりますが、相手を手で押さえた場合にはファールになります。でも、相手の顔の前に手を置いておくことはファールではないし、顔の前に手があったら突っ込める人はいません。そのようにして、相手のスピードを殺すことも一つのやり方です。
それから、プレー中にぱっと相手の目を見ることもあります。人間は目を見られると見返してしまいますが、そのときに手足に意識が届いている人はあまりいません。目を見られると両足に重心が乗るので、次の動きにはどうしてもワンテンポ遅れます。そこでパスを出せばいいわけです。こんなふうに人間の心理や癖も考えて、自分の能力を生かすために何ができるかを考え続けていました。
阪田 お話を伺っていると中田さんにとってサッカーはまだまだ探求する余地のある面白いものだったのではないかと思うのですが、なぜサッカーを辞めるという決断をされたのでしょうか。
中田 僕はサッカーが好きで、たまたまプロサッカーリーグができたのでプロサッカー選手になりましたが、お金をもらうためにサッカーを始めたわけではありません。お金はあったほうがいいけども、自分のやりたかったことは、単純にサッカーが上手くなること。でも、2000年初頭以降、イタリアを含めてサッカー界全体がビジネスとしてとても大きくなっていきました。すると、プレーの質に重きを置いてきた選手たちが、よりお金のことを考え自己中心的なプレーが多くなったり、選手以外にもお金を求めて、沢山の人達が入ってきました。そうした環境が僕は嫌でした。
自分が好きではない環境でサッカーをし続けることは、僕にとってそれまでの人生を裏切ることと同じです。だからこそ、イタリアのチームに契約を切ってくれと伝えました。
人生は好きなことをやるということが僕の考え方で、幸運なことにお金を稼ぐために働いたことがありません。だって、子供の頃から好きではじめたサッカーをやっていた人間がそのままたまたまプロになって、海外でサッカーをやっていただけなので。
重要なことは好きなことをやり続けることであって、それは仕事だからやるわけでも、お金が稼げるからやるわけでもないということです。だから、サッカーを辞めると決めた時に、次に何かしたいことがあったわけではありません。

2.好きなことをみつけるために世界の旅へ
阪田 2006年にサッカーを引退された後、なぜ世界の旅に出られたのでしょうか。
中田 お金を稼ぐために何かをするという選択肢は僕にはなかったので、サッカーと同じくらい好きになれることを探すために世界中を旅することにしました。それまでサッカーしかやってこなかったので、自分が知らないことを知り、自分が本当に好きなこと、興味あることを見つける旅をしました。そのときは、日本に年に1か月もいなかったと思います。
素晴らしいリゾートから貧困地域や紛争地域まで様々な国に行き、時には各地で活動している国連やNPO/NGOなどとも連携しながら、なかなかいけない地域にも行きました。サッカーは世界中で人気があり、サッカー選手が来るというと人が集まるので、そこでワクチンを打ったり、蚊帳を配布したりするような社会貢献を一緒にやったりしました。当時は、チャリティーマッチなどにもよく参加していました。
サッカーは自分の人生の中で大きな存在です。プレーするだけではなく、サッカーの力を生かして世界中、特に貧困地域、紛争地域を回ったことは、自分の人生の中でも大きな経験になりました。ビックリするような地域でも自分が知られていて、例えばチベットではたまたまホテルの部屋でテレビを観ていたら、偶然、僕のインタビューが30分くらい流れていたり、カザフスタンからウズベキスタンに抜けるときには、国境の兵士たちが「おい、ナカタが行くぞ。」と国を超えて話し合っていました。旅を通じてサッカーの力、スポーツの力を実感し、この力を生かして更にいろいろなことができるのではないかという思いから「TAKE ACTION FOUNDATION」という財団を2008年に設立しました。
FIFAには今も関わっていますが、サッカーの現場というよりも、社会貢献やルール改正など、世界を一つとして見る視野を養うためにやっているようなところがあります。
例えば、サッカーのルール。サッカーは世界で最も競技をしたり観たりする人口が多いので、サッカーのルールは、世界の法律を決めるのと何ら変わらないのではないかと思います。ヨーロッパのスタジアムだろうとアフリカの草原だろうと、どういう環境であっても、スポーツである以上同じルールでなくてはいけません。お金でも環境でもなく、すべての条件を考えた上で、ルールを話し合うのですが、これは非常に面白い。僕はどうしても自分の環境下での視点や常識で話をしてしまいますが、違う環境にいる人たちの話を聞くと、こういうものの見方があるのだと知ることができます。
あらゆる環境を想定して物事を決めていくということが非常に勉強になりますし、自分の事業をやるときにも世界を見ながら何をするべきか、という視点を常に持つことができます。

3.誰よりも日本のことを知ろうと全国を巡る
阪田 世界の旅を通じて次にやること、好きなことは浮かび上がってきたのですか。
中田 世界の旅の中で、発展途上国における社会貢献活動が僕にとってはとても興味深かったので、自分にどういうことができるのかを考えたり、また財団を立ち上げたりしました。一方で、世界中どこへ行っても、自分がサッカー選手として見られていると同時に「日本人」として見られていることが頭にひっかかっていました。皆さんも海外に行けば自分は外国人だ、という認識はあると思いますが、日本人として海外に行っているという強い認識はあまりないのではないでしょうか。でも、旅をする中で世界中の人々から日本のことを聞かれ続けることで、自分が日本人であることを強く意識させられました。当時の僕は日本について本当に何も知らなかったのですが、そのとき、日本人として日本を良く知っていることは、価値を持つということに気が付き、日本のことを知らなければいけないと思いました。また、日本でも、例えば初めて会った人と会話の中で出身地の話をする機会がよくありますが、自分の出身地のことを詳しく語れる人をあまり見たことがありません。自分の地元のことですら知らない人が多いのです。そうであれば、国内でも、海外でも、誰よりも日本のことを知っているということは素晴らしい価値があり、また多くの人と話をするきっけかになり楽しいのではないかと思い、日本の事、日本の文化を勉強しようと思いました。
阪田 それで2009年に日本各地を回ることを始められたわけですね。情熱が続かないとなかなかできない旅だったのではないですか。
中田 日本や文化を学ぶ上で何が重要か考えたとき、学校で学ぶことやインターネットに出て来る情報は、日本人でも外国人でも誰にでも出来る。自分にしか出来ない事は、インターネットにすら出てこない、そこに行かなければ知り得ない情報を沢山得ることだと思いました。また、文化の定義を考えたときに、文化とはある行動がある一定期間続いて、多くの人が「これはこういうことだよね。」と認識したときに文化になるのではないかと考えました。そうであれば、それぞれの地域において長く続いている生活が、文化と呼ぶものになるのではないかと。食べるものが決まれば食文化になりますし、着るものが決まれば洋服や和服の文化ができます。では、生活はどういうものに紐づくのかというと、それは自然環境です。どういう環境に住んでいるかによって、言葉も変わってくれば、食べるものも作るものも変わってくる。寒いのか暑いのか、海辺に住んでいるのか山に住んでいるのかによって、自然から採れるものが違うので、それが食生活や生活で使う道具にも影響を与えます。自然環境を理解しながら各地域の生活を見ていくことが文化を理解するということではないかと考え、結果として地域で長く続いている産業、農業や工芸、またそこに日本酒、焼酎、そして神道と仏教も生活に結びついているので見ていこうと思いました。そして、車一台で47都道府県を回ることにしました。最初は半年もあれば終わると思っていましたが、結果7年かかりました。
阪田 事前に完璧にリサーチして訪れる場所を決めるというよりは、辿っていくやり方でしょうか。
中田 それもあります。サッカー選手だった僕が突然日本酒のことを調べても、ホームページすら持っていない酒蔵もあるので調べても情報があまり出てきません。最初は地方に行って、宿に泊まりながら、そこで聞き取りをして蔵や農家などを訪ねていきました。宿の人達は、地域の人達をよく知っているので。今でこそ農業にしても工芸にしても専門家の知り合いがたくさんいますが、旅の最初の頃は知り合いが一人もいないので、聞き取りながら、訪問して、の繰り返しでした。その中で人が人をつなげてくれて、専門家も紹介してもらえるようになりました。
サッカーをやっていたことが有利に働いて快く受け入れてもらえることもありましたが、伝統産業に関わっておられる方の中には頑固な人も多く、なかなか受け入れてもらえないこともありました。「中田が来る?ウチはそんなの受け付けていない。」と言われたことも当初はありましたが、多くの時間をかけて学んでいく姿勢をみせていくことで、今では快く受け入れてくれます。

4.伝統産業に関する情報発信
阪田 中田さんは「にほんもの」というウェブサイトで47都道府県の様々な生産者、美しい場所などを紹介されています。今も旅を続けているのですか。
中田 2009年に始めた旅は現在も続けています。「にほんもの」には基本的に僕がこの10年以上回り続けて集めた様々な情報を載せています。皆さんもご存じのとおり、農業や工芸、日本酒などの伝統産業についてはインターネットに情報がなかなか出てきません。伝統産業とは、何百年も続いている地元の産業で、日本酒にしても味噌や醤油にしても昔は何千蔵もあって、生活圏ごとに必ず蔵がありました。顔見知りしか住んでいないのでPRする必要もないし、情報を伝える必要もない。それが流通の発達により生産者が淘汰されていき、今では日本酒も味噌も醤油も大体千蔵くらいになってしまいました。商品を造っている人間が流通を手掛けることが少ないので、運搬するコストやPRするコストを計算せずに値付けがされて、地元の値段がそのまま全国の値段、世界の値段になります。その結果、日本酒は安くて利益率が悪いということになってしまいました。
でも、生活に根付いている産業というのはとても面白くて、全国を巡る旅の中でそこに行かないと手に入らない情報や知識を得た結果、毎日行う食べること、飲むこと、器を愛でることなど、僕の生活のクオリティが一気に高くなりました。それを多くの人にシェアしてみると、皆が知っているようで誰も知らないことが多いことに気付きました。こういう情報をまとめたのが「にほんもの」です。僕がそこまでたどり着くのにとても苦労したし、それを多くの人に伝える場所が必要だと感じたからです。
10年以上全国を回ることで、地場にしか続いていないような産業だからこその面白さと素晴らしさとともに、抱えている問題点を知ることができました。こんなに素晴らしいものや人たちがいて、でも知られていないことによって斜陽産業になってしまっている、これをどうにか変えられないかと思ったことが会社(株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY)を始めるきっかけです。
それは単純に言うと、日本酒も含めた伝統産業を助けたいということではなくて、僕は「これはすごいぞ、これがきちんと国内や海外にちゃんと伝わっていけばすごい産業になるぞ。」と可能性を見ています。この素晴らしい業界に足りないシステムを考えることは、第三者にしかできないことだと思い、現在会社をやっています。

5.日本酒業界の課題
阪田 日本酒についてはどのようなところに強く問題を感じておられるのですか。
中田 まず、ラベルが読みにくく情報がわからないという問題があります。ラベルに書いてある表記も分からないし、どういう意味をなすのかも消費者にはわからない。読めない漢字も多く、バックラベルを見てもどんな味かわかりにくい。また海外でこれだけ日本酒需要が伸びているのに、外国人が全く読めないラベルが多いのです。
僕も、最初は知識がなく、銘柄もわからなかったのですが、いろいろな蔵元を回った結果、自分好みのお酒を選べるようになりました。
イタリアでの生活が長かったこともあり、それまではワイン9割、日本酒1割ぐらいの割合でお酒を飲んでいましたが、日本酒の選び方がわかってくると、これまでよりも和食屋さんに行く機会が増え、自然と日本酒を飲む機会が増えました。一緒に行く友達の多くは日本酒のことが分からないし、好きではないと言う人もいるのですが、僕が好みを聞いて選んだ日本酒を飲んでもらうと、日本酒を好きになる人が多くいます。つまり、日本酒のことがよく分からないから飲まない、嫌い、と思っているだけで、実はそうではない。非常に良いプロダクトがたくさんあるのですが、情報がきちんと伝わっていないために知られていないのです。
もう一つの問題は、おいしいものをおいしい状態で飲めていない、という流通と管理の問題です。蔵で飲むお酒と飲食店で飲むお酒の味が違ったり、海外で日本酒を飲むと「なんでこんなにまずいのだろう。」と思った経験が多々あります。そこで出来上がった商品の管理方法をみせてもらうと、自分がおいしいと思っている蔵元の多くは、出来た日本酒をマイナス温度で保管していることが多いのですが、酒販店やレストランでは日本酒を常温やそこまで低い温度で保管していないところが沢山ありました。結果、味が変わってしまっていたのです。ワインではどうかというと、例えばイタリア、フランスで造られたワインが国外に流通していくときにはきちんと温度管理されたコンテナで運ばれ、酒販店やレストランでも温度管理ができるワインセラーで保管されます。
ワイン業界では、生産者とそれを流通させている人、ワイン雑誌を作る人、ソムリエを育てる機関、ワインのアプリを作る人、ワインセラーを作る人、すべて違う人々がやっています。つまり、その産業が大きくなるためには、様々なプレーヤーが入ってプロダクトが最大限のパフォーマンスを発揮できる環境を用意することが必要ですが、日本酒でこのようなことができているかというと、まだまだできていません。だからこそ、そこに取り組んでいこうと考えました。
僕が個人のビジネスとして考えるのであれば、「中田ラベル」を立ち上げて売ったほうが早いと思うのですが、それでは業界全体を変えることにならないし、日本酒産業が伸びていくことにもなりません。産業が伸びていくためには構造的な改革が必要です。
このほかにも日本酒業界の成長を阻む問題がいくつかあります。一つはどのような地域のどんな消費者にどんな商品が消費されているか、そういったことが国内・海外ともデータとして蔵元が把握できていないため、戦略的な考えに基づく製造ができないという問題があります。
また、流通経路の問題もあります。日本酒業界には古くからの商習慣による流通経路があるため、消費者には自分が好きなお酒がどこで買えるか分からず、その結果、値段が高騰したり偽物が出てくるという問題もあります。
情報と物流が整ったときに物は売れていくと思いますが、現状、日本酒の場合には両方ともありません。

6.流通・販売管理システム SAKE BLOCKCHAIN
阪田 問題を解決するために、どのような取り組みをしておられるのですか。
中田 会社で何年も取り組んでいるが「SAKE BLOCKCHAIN」というものです。蔵元から最終消費者まですべてのサプライチェーンが持つ情報を共有・可視化するプラットフォームです。酒業界では、蔵元、流通、レストラン、最終消費者それぞれが持っている情報が共有されていません。蔵元が酒販店に販売したお酒が酒販店からどのレストランに流れているのか、そのレストランではどんな人たちに売れているのか、在庫状況がどうなのか、というような情報です。努力している酒販店やディストリビューターもいるのでしょうが、多くの場合、国内についても海外についてもほぼ分かりません。こうした情報をみんなでシェアできるようにしよう、というのが「SAKE BLOCKCHAIN」です。このシステムを国内外で広げていけば、先ほどの問題点は改善されます。蔵元から最終消費者までのサプライチェーンで情報の共有ができて、それが可視化されるので、蔵元もどのような商品がどういう地域により多く販売され、また酒販店や、例えば海外のディストリビューター、さらにレストランでの在庫状況も分かります。
この「SAKE BLOCKCHAIN」と「COLD CHAIN SYSTEM」(温度管理システム)を結びつけることで、何度の場所に何日間商品があるのかがわかることで、品質の保証ができます。また、どのような国のどのようなレストランでどういったお酒が売れているのか、どんな値段のもの、どんな味わいのものが売れているのか、というマーケット情報がわかるようになります。コロナの感染拡大が始まって、世界各国で日本酒が売れにくい状況ですが、「SAKE BLOCKCHAIN」のおかげで僕たちはほとんど影響を受けていません。それは、日々のデータからどの国、どのレストランがコロナの影響を受けているのか、どれくらいの在庫があり、商品が動いるのか動いていないのか、どの商品をいつ、どの国に出荷して、どこのレストランに販売していくことが最も効率的なのかが、蔵元もディストリビューターも瞬時に把握できるからです。逆に言うと、問題があるレストラン、問題があるディストリビューターをサポートすることもできます。
当然のことながら、販売動向からその国の趣向性も分かるので、どういった商品は、どの国のどのレストランに売りやすいとか、そういったマーケット情報も全て入ってきます。また、きちんとした流通を通ってきているのかが百パーセント分かり、その経路を通っていないお酒は、状態が悪い可能性、偽物である可能性があるということが消費者にも分かります。この仕組みによってお酒のブランド価値が高くなり、消費者は安心してお酒を飲むことができます。
現在、中国、韓国、台湾、香港にこのシステムを使って販売をしていますが、これを世界中に広げ、最終的には国内も網羅していくつもりです。そうすると、何となく考えて造って、何となく値付けをして、何となく販売していたものが、より明確に出来るようになります。料理にしても、日本料理であれば、お寿司なのか、焼き鳥なのか、懐石なのか、細かく切り分けてデータを取ることによって、より具体的なペアリング情報が得られます。蔵元が投資をしなくても、このシステムを利用するだけで棚卸情報も百パーセント分かり、どの国のディストリビューター、どの国のレストランがどのお酒を何本持っているのか日々分かり無駄がなくなります。
こういう仕組みをここ何年かやってきて、やっと効果が発揮され、コロナ禍でも取引先はむしろ販売を伸ばしています。
これはまだ試作段階なので、一つの蔵だけでやっていますが、今年中にはサービスとして提供できるようにしたいと思っています。そうすれば、蔵元がうちのシステムを使うことでより効果的にビジネスを行うことが出来ます。システム自体は簡単で、現在はQRコードを利用していますが、今後はRFID(ID情報を埋め込んだRFタグから、電波などを用いた近距離無線通信によって情報をやりとりする仕組み)など様々な仕組みを利用すれば更にいろいろなことができるようになるので、新しく導入するものを検討していきます。QRコードにしてもRFIDにしても温度管理まですべて記録できるものもありますので、そういうものを使えば、「COLD CHAIN SYSTEM」がさらに生きるのではないかと考えています。特にこれから市場が伸びていくであろう中国はQRコードが普及しているので、最も導入が簡単で拒否反応は少ないです。最終的には決済システムまでこの仕組みの中に組み込んでいけたらと考えています。

7.品質保証システム 
COLD CHAIN SYSTEM
中田 「SAKE BLOCKCHAIN」とともに必要になってくるのが、「COLD CHAIN SYSTEM」です。これは、国内・海外のどの場所であってもきちんとした温度管理を行うということで、国内輸送トラックから船や飛行機、海外ディストリビューターの倉庫、配送するトラック、そして飲食店の冷蔵庫にまで、徹底した温度管理を行ってもらいます。
最も難しい点は国内の港倉庫、海外の検疫の倉庫での温度管理です。ここだけは僕たちではどうにもできません。ここでの温度管理がきちんとできるようになれば、僕らが目指しているマイナス5度で日本酒を海外飲食店まで移送することが百パーセントできるようになります。「SAKE BLOCKCHAIN」と「COLD CHAIN SYSTEM」を使えば各物流の拠点に何日間何度で保管されているのかがわかるので、日本酒の状態を僕たちはつねに把握できます。そうなると状態が良いのが当たり前で、状態が悪いと、だれが何をしたのかも分かります。これがブロックチェーンの良さです。マイナス5度で保管されていると、通常1か月くらいといわれている消費期間は1年を超えてもちますし、むしろきちんと熟成させると出荷してからもおいしくなります。結果、商品を最高の状態で消費者に届けることができます。

8.情報提供・データ収集システム Sakenomy
中田 あとは何が足りないのかというと、消費者に対して、その商品が何であるのかという情報を提供する仕組みです。そこで僕は「Sakenomy」というアプリをつくりました。「Sakenomy」では、全国1000蔵以上が造る、何万という商品の情報が検索でき、日本語だけでなく多言語で情報提供することで世界中の人たちが自分の好みの商品情報や、どこで買えば良いのかが分かるようになります。
「Sakenomy」からは消費者データが、「SAKE BLOCKCHAIN」からは流通データが得られるので、両方のデータを照らし合わせれば、具体的に世界中のどのような場所でどういう味・商品が求められているのかが具体的に把握できるようになります。
まだ、すべての酒蔵ではないですが300以上の蔵元には、直接「Sakenomy」アプリに商品情報や、ペアリング情報などを入力してもらっています。多くの飲食店は、自分たちが提供する料理に合う日本酒がどれなのかがわからないので、蔵元からの情報でフードペアリング検索ができれば最も早い。こういった情報を多言語で提供することによって海外でも仕入れがしやすくなります。飲食店への販売が、多くの売上を生みますので、飲食店に分かりやすい情報、例えばお客様に提供するべき温度や、どういう器で飲むとおいしいですよ、ということをきちんと蔵元が飲食店に発信することが大切だと思います。
「Sakenomy」によって消費者には酒蔵やお酒の情報を、蔵には消費者データを渡すシステムを作り、「SAKE BLOCKCHAIN」によって流通管理と在庫管理のシステムを作り、「COLD CHAIN SYSTEM」によって日本酒の品質保証のシステムを作る。この3つを会社としてずっと取り組んでいます。
「SAKE BLOCKCHAIN」と「COLD CHAIN SYSTEM」によって、最高の状態で日本酒を世界中に届けられる。それによって、消費者が一番おいしい状態で飲める。棚卸状況も100%分かりますので日本酒を大量にストックさせる意味がなくなってくるわけです。製造や出荷のタイミングもわかってくるので、売上の最大化がしやすくなります。
ここから先、日本酒の輸出を伸ばしていくためには、美味しいものをいい状態で届けることが1番重要になってきます。
「Sakenomy」と「SAKE BLOCKCHAIN」が一緒になれば、世界中のマーケティングデータを得ることができますので、これらのシステムを組み合わることで、世界中にイノベーションを起こすことができると思います。これは日本酒だけではなくて、焼酎、味噌、醤油、お茶、伝統工芸、あらゆるもので全く同じシステムを使うことができます。
重要なことは製造の拠点が日本であることです。元のデータを押さえられるからこそ、これができるのです。そして、それが世界的に流通しているものであればあるほど効果を発揮します。今後は農産物も入ってくるでしょうし、日本から世界に出していくすべてのプロダクトをこのようなシステムにのせると、流通が発達して販売が伸びていくと思います。これが、僕が会社を通じて取り組んでいることです。改良しながら少しずつですが前に進んでいます。
阪田 日本酒の現場をまわりながら一方でワインの世界も知っている、中田さんではないと気が付かなかったかもしれないことですね。
中田 そうですね。僕は世界中でワインやシャンパンの作り手と交流して、彼らからこれまで直面してきた問題や、それをどう乗り越えてここまできているのかを学びました。彼らが直面してきた問題は、日本酒がこれから世界に出ていくときに直面する問題と全く同じだと思います。
サッカーもそうですが、僕は人生において、自分にしかできないこと、自分がやる意味があることをやりたいと思っています。だから、単純に自分の商品を作って売るようなことにはあまり興味がありません。言ってみれば、自動車会社になりたいのではなく、高速道路をつくる側になりたいのです。
阪田 有難うございます。せっかくの機会ですので、会場の皆さんからご質問をお願いします。
質問者1 中田さんが日本代表でプレーされていた当時、日本は世界の強豪国に比べ劣勢の試合が多かったと思います。そんな中で中田さんが90分間ピッチで常に走っておられて、一人奮闘しているという姿が、非常に強く印象に残っています。先程、フィジカルな面でディスアドバンテージがあっても、考えることによってカバーできるというお話がありましたが、不利な条件の中で、ただ一人中田さんが奮闘できたのはどうしてでしょうか。
もう一点、どう人材を育成したらよいのか、中田さんのお考えを聞かせていただければありがたいです。よろしくお願いします。
中田 フィジカルな能力について言えば、スピードに関しては、普段6秒5で走る人が突然5秒で走るようにはなりません。ただ持久力は別です。持久力は努力すれば伸びます。僕は足が速くないですが、持久力だけはとにかく練習しました。でも僕よりも速くて持久力のある選手もいますので、そんなときはスタミナの使い方を考えました。
どういうところで走り、どういうところで休むべきか。皆が疲れて動けないときに一番動くことができたら、チャンスが多く回ってくるわけです。
そして、考える能力も努力すれば伸びます。状況判断をする能力、ピッチ場の他の21人の選手がどういうポジションにいて、どういう距離になるかということを脳内に描くマッピングの練習など、努力できることは必ずあります。
努力をして変わるものに対しては、僕は妥協を許さないし、自分も努力します。能力に起因するものに関しては、仕方がないです。生まれつき違うから。これは、仕事にしても勉強にしてもスポーツにしても同じで、努力してできることはやればいいだけだからやるし要求します。そこはすごく厳しいですね。
今でもジムに行きますが、体を鍛えるためではなく意思を鍛えるために行きます。肉体トレーニングって、やればやっただけ体に結果が出ます。どれくらいの回数をやるのか、どの程度の強度でやるのか。それが前の自分よりも上回っていれば、よりしっかりした体になるし、下回っていれはだらっとする。視覚的に誰の目にも明確に結果が見えます。そういう意志を鍛える意味で一番分かりやすいので、身体のトレーニングを今も続けています。
もう一点、人材の育成についてですね。僕が小学生の頃、日本にプロサッカーリーグはなかったので、プロになるための努力は必要ありませんでした。その後、プロサッカーリーグが日本にできたので、プロになるという努力を始めました。
人材の育成は、個人個人を助けてあげようということではなくて、みんながより上を目指せる、その環境をつくってあげることだと思います。目指すところがあれば、目指す人は努力する。でも目指すところがないと、努力もしなくなります。
だからこそ僕は、仕組みづくりがいつも大切だと思っています。僕は蔵元の売上を助けるというつもりはなく、造る人間が販売までをやるというのが責任だと思います。ただ、売上を伸ばしたいと思っても出来ない環境もあります。頑張りたい人が頑張れば結果が出る環境をつくってあげることが、一番大事なことだと思います。
質問者2 中田さんのお話から、活路をとにかく見いだそうとする、あるいは結果を出そうとする執念のようなものを感じました。それがどこから湧き上がって来られるのかなというのを、ずっと思いながら聞いていました。
どうしてそのような考え方をするようになったのだと思われますか。
中田氏 まずはやはり好きであることですね。好きであるということは、どうやれば出来るかを考える。今は難しいことを理由に出来ないと思う人ってすごく多いと思います。可能性が少なくても、どうやったら出来るかを考える事が大事です。
例えばブロックチェーンやコールドチェーンも、サッカーも、僕はいつでもできると思ってやっています。だから世の中の常識的にこうであるということは、僕には関係のない話です。
むしろ世の中の常識って、僕には大体間違っているだろうなと思っています。なぜかというと、それは世の中の一般的な話であり、多くの人が思うことということです。僕が判断するべきは、自分の中での考え方やルール、そこでやれると思えばやればいいだけで、周りがどう思うかは関係ないのです。
だから、1%の可能性があり、99%は不可能の場合でも、僕には可能性しか見えていないので、やれない理由を考えることがまずないということだと思います。それは好きだからこそやっているので、好きでやるときに不可能を考える意味はありません。これは仕事でも通じることだと思います。
1998年のワールドカップに出る前の日本は、「ワールドカップに出る=夢」だとか、「ヨーロッパリーグでやる=不可能」でした。僕は初めから出られると思ってやっていました。オリンピックに出た時もイタリアへ移籍した時も同じです。
最初から自分ができないと思ったらできない。できると思うものはできます。だからそこはやはり自分の意識を変えるべきだと思います。
阪田 本日は、貴重なお話を拝聴させて頂き、誠に有難うございました。