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各地の話題/「ファイナンス」令和3年7月号

小松市

「節目の年、小松空港と地元企業」

前 大阪税関金沢税関支署小松空港出張所長 中川  信一

1.はじめに

大阪税関金沢税関支署小松空港出張所は、日本海に面した石川県南部に位置する小松市「小松飛行場」に所在する空港官署です。小松飛行場は、航空自衛隊小松基地と民間航空との共用空港であり、民間航空では一般的には「小松空港」という呼び名が浸透しています。
小松飛行場は、昭和54年12月に全国11番目の税関空港として指定され、当初は七尾税関支署小松分室が設置されました。昭和55年4月に、七尾税関支署小松空港出張所となり、その後、平成2年7月、七尾税関支署管内と同金沢出張所管内の業務量(行政需要)の比較、行政効率等を総合的に勘案して、支署と出張所の振替があり、当出張所も金沢税関支署小松空港出張所に名称変更、以降、現在に至ります。
近年は、中国、台湾からの旅客便数が増加しており、それにあわせて職員数も増え、シフト勤務も導入されるなど、体制の強化が図られています。

写真:小松空港東側入口のモニュメント「安宅の関 弁慶」(左)、西側入口の「安宅の関 富樫」(右)

2.小松飛行場の歴史

小松飛行場の歴史を紐解いてみますと、太平洋戦争中の昭和18年4月に海軍飛行場として建設開始、昭和19年11月に完成、現在の原型となる小松飛行場が誕生しました。当時の滑走路は東西1,500メートル×100メートル、南北1,700メートル×100メートルの十字型で面積は196万平方メートルでした。完成途上の昭和19年9月から96式攻撃機30機が九州への発進に備え、完成後の昭和20年6月には、大分県の宇佐基地から小松飛行場に特攻部隊「第721海軍航空隊(神雷(じんらい)部隊)」が移動しました。特攻部隊は、終戦までの間、合計9回、60機が深夜零時きっかりに出撃し、そのほとんどが還らぬ人となりました。
小松飛行場は終戦後、米軍に接収されましたが、昭和33年2月に返還され、日本の小松飛行場となりました。返還セレモニーは、同月19日、運輸省小松航空保安事務所で開かれ、米軍横田基地副司令官W・ジェフリー少佐、日本側から田中名古屋調達局長、勢一北陸財務局長、金沢営林署長、金沢調達事務所長らが出席し、田中局長が「今、小松飛行場を米軍から私の手に受け取った。そして、改めて北陸財務局に移管する。」と勢一財務局長に、金色の返還の鍵を手渡したそうです。
その後、昭和36年6月に航空自衛隊小松基地が開設、同年12月に航空自衛隊と民間航空の共用飛行場となりました。今年は共用開始から60周年となりますが、この60年という長い期間をかけて、国内路線の充実、税関空港に指定されてからは、国際路線の充実、各施設の拡充・整備が行われ、今では、総面積約438万平方メートル、北陸地方では唯一、大型ジェット機が就航可能な2,700メートルの滑走路を有する空港となり、名実ともに、国内外を結ぶ北陸の高速交通の玄関口としての地位を確立するとともに、官民一体となって、新規路線の誘致活動などを活発に行っており、今後の更なる発展が期待されています。
しかしながら、言うまでもなく、新型コロナウィルスの影響を大きく受け、令和2年3月11日を最後に、国際旅客便はゼロが続いており、国内線においても主要羽田路線の減便が長期化しています(令和3年5月末時点)。本稿が掲載される頃も厳しい状況が予想されますが、一日でも早く国内外すべての路線において復便の見込みが立つことを祈るばかりです。
3.安宅住吉神社と摘発?
空港入口の「安宅の関 弁慶」のモニュメント、もう一つある入口には「安宅の関 富樫」のモニュメントが配されています。「安宅(あたか)の関」には、源義経が兄頼朝に追われ、安宅の関を通過する際、関守富樫の尋問に弁慶が偽の巻物「勧進帳」を読み上げ、さらに嫌疑を抱かれると、主君義経を打ち据え、その姿に感動した富樫が通行を許可したという伝説があり、歌舞伎十八番・勧進帳でも有名です。ここには安宅住吉神社もあり、先の伝説と相まって、「難関突破の神」として崇められています。
令和2年1月に小松空港では11年ぶり開港以来2例目となる覚醒剤密輸の摘発があり、まさに「関」としての業務を遂行したわけですが、ある職員は、「正月に安宅の住吉さんにお参りに行ったから」と、さっそくその御利益を授かったといかにも日本人らしいことを言っておりましたが…真実はいかに…といったところでしょうか。

写真:令和2年2月17日の報道発表の様子

4.乗りもののまち

小松空港が所在する小松市は、「乗りもののまち」としてPRをしています。空港の乗りものといえば航空機ですが、その他乗りもの関連施設等をご紹介したいと思います。

(1)航空祭
航空自衛隊小松基地が、年に一度9月に催す「航空祭」は、小松市民約10万人を超える観客が訪れるほどの人気のイベントで、特にアクロバット飛行専門チームの「ブルーインパルス」の展示飛行は有名です。

(2)航空プラザ
小松空港に隣接する航空博物館です。
航空機の展示のほか、子供向けの大型遊具なども設置されており、夏休みなどは多くの家族連れで人気があります。
令和4年4月迄は、2019年3月に運航終了したB-747政府専用機の貴賓室が展示されています。

(3)北陸新幹線
現在、福井県敦賀まで北陸新幹線の延伸工事が進められており、2024年に北陸新幹線小松駅の開業が予定されています。将来的には大阪までの延伸が計画されていますので、これが実現すれば、関西圏へ交通利便が高まり、陸・空の高速交通の充実により大きな経済効果が期待されるところです。

(4)日本自動車博物館
展示台数500台を誇る日本一の自動車博物館です。
国内外の名車だけでなく、ここに来なければ知ることができない車が展示されています。
ダイアナ妃が来日された際、実際にお乗りになられた「ロールスロイスシルバースパーⅡ」、アニメ・ルパン三世が乗り回した「フィアット500」、珍しいものでは「ダッジ消防自動車」、実際展示されているものは旧大蔵省の自衛消防として配備されていたもので、ボンネットに「大蔵省印刷局」のロゴがあります。

(5)世界の「KOMATSU」小松製作所
小松市で創業し、今年の5月に100周年を迎えた世界の建設機械メーカーです。小松工場跡地には「こまつの杜」(展示施設)があり、日本に1台しかない世界最大級大型ダンプトラックなどが展示されています。

写真:ダッジ消防自動車・1936年(昭和11年)製・アメリカ 実際に、大蔵省の自衛消防として配備されていた個体
写真:ボンネットの「大蔵省印刷局」の文字

5.世界の「KOMATSU」小松製作所発祥の地「遊泉寺銅山(ゆうせんじどうざん)」跡「遊泉寺銅山ものがたりパーク」
現在の小松市鵜川町にあった遊泉寺銅山は江戸時代から採掘されていましたが、明治35年(1902)に土佐出身の実業家竹内綱が銅山を買収し、その経営にあたったのが後の小松製作所の創業者となる長男の竹内明太郎(吉田茂元首相の兄)です。その銅山経営は、当時の最先端をゆくもので、採掘を人力より機械化するために、神子清水発電所を建設、精錬方法を溶鉱炉にし、電気分銅所を設置するなど、規模を拡大、純銅を生産する鉱山となりました(里山みらい館(後述)の方のお話では当時の採掘量、年6トン程度から年600トン程度まで大幅に増加したとのこと)。付近には、従業員約1,600人、家族も合わせて約5,000人が住み、病院、学校等がある鉱山町として栄えました。こうした中、竹内明太郎は、機械工業の重要性に鑑み、先進諸外国を視察した結果、遅れている機械工業の役割を認識し、大正6年(1917)に、遊泉寺銅山私設鉄工所として小松鉄工所を設立しました。この目的は「農村地域に工業を興す考えを織り込み、地方産業の発展に資すること」でした。その後の大正9年(1920)、鉱脈不足等により遊泉寺銅山は閉鎖となりますが、大正10年(1921)5月に小松鉄工所を分離独立し、株式会社小松製作所を設立しました。
令和3年(2021)5月に100周年を迎えた小松製作所ですが、100周年を迎えるにあたり、小松の「ものづくり」の発展と「ひとづくり」の精神の礎を築いた遺産として、遊泉寺銅山を次世代に引き継ぐため小松製作所を中心に5年の歳月をかけたプロジェクトにより整備され、本年5月に「遊泉寺銅山ものがたりパーク」が完成しました。パーク入口には里山みらい館(解説パネルなどの展示、休憩所)が設置され、竹内明太郎氏の遺訓として、
一、事業の施設はすべからく無駄なきものに。
一、製品は欠点なき完全なものに。
一、研究は一時も怠ってはならぬ。
一、人の養成は将来を考えて努めて多く。
一、なるべく人の手を下さぬものを。
一、将来国産化の見込みをつけて輸出の方途を見極めよ。
一、儲けはその次でよい。
竹内明太郎氏の掲げた小松製作所の経営理念として、
一、他の同業者が製作することを欲しないもの、製作困難でわが国にはいまだに経験のないものを製作すること。
一、他の同業者よりも、良いものを安く作ること。
一、先進国工業国の新知識の導入に努め、国家を益する有意義な仕事をすること。
一、一日も早く、現在の輸入機械の国産化に努めること。
一、真の国産化とは、独創の製品を海外に輸出することにある。インドや中国の上海まで進出した欧米製品と競争して初めて独立国としての製品国産化が実現する。
と展示されていますが、今でも十分に通じる訓と感じます。
パーク全体としては、路が舗装整備(一部未舗装)されており、季節の草花を楽しみつつ、歴史も感じながらのノスタルジックトレッキングが楽しめるようになっています。標高170Mの頂上からは小松市街を一望でき、良い眺めも楽しめます。

写真:パーク入口の竹内明太郎顕彰碑 昭和10年(1935)に建立されたが、銅像部分は第二次世界大戦中に供出され、台座だけが残された。平成8年(1996)に再建された。
写真:精錬所のレンガ造りの巨大煙突
写真:頂上からは小松市街を一望(パーク入口から約1,800メートル、時間にして約30分から40分)

6.おわりに
紹介させていただいたもののほかにも、小松にはたくさんの文化や名所があります。本年11月には「日本遺産サミットin小松」の開催が予定されており、日本遺産に認定されている小松の「石の文化」(国会議事堂に使われている「観音下(かながそ)の石」は小松で採れたもの)を知ることができます。この石の文化と歴史を感じることができる「那谷寺」、北陸最古の温泉「粟津温泉」。食では、日本酒(東酒造の「神泉大吟醸」は前政府専用機機内酒、加越の「加賀ノ月」は酒類総合研究所、日本酒造組合中央会共催全国新酒鑑評会(2020酒造年度)金賞受賞)、平成26年11月秋篠宮様御来県時にお召し上がりになられたソウルフード「小松うどん」など。
また、こうした場所のほとんどが、空港から車で30分から1時間程度で行ける距離にあります。小松に来られる機会があれば、是非、いろいろなところを巡っていただければと思います。
参考;北陸エアターミナルビル株式会社設立50周年記念誌翼広げて50年
イメージイラスト提供;石川県企画振興部空港企画課

長崎市
長崎開港450年~長崎港と税関の歴史に出逢う~
前 長崎税関総務部 税関広報広聴官 森﨑  克朗
1.はじめに
長崎港はポルトガル船が入港した1571年(元亀2年)に開港し、2021年(令和3年)に開港450年を迎えました。長崎市内では今年4月から来年3月までの1年間、各所で長崎港に関連した様々なイベントが行われています。長崎税関もこれに合わせ1階の資料展示室で「長崎開港450周年記念 税関特別展」を開催中です。本稿では長崎港の歴史と長崎税関について紹介します。

2.長崎港の歴史について

(1)長崎港の開港(ポルトガル船入港)

戦国時代、日本にキリスト教の布教に来ていたイエズス会は、彼らのポルトガル船が安全に停泊できる港を探していたところ、長崎港は奥深く周りを山に囲まれ波が静かだと分かりました。そして、ここを治めていたキリシタン大名の大村純忠と協議し港の測量や町造りを進め、1571年(元亀2年)ポルトガル船が初めて入港しました。大村純忠は長崎県大村市周辺や西彼杵(にしそのぎ)半島を治めた戦国大名で日本初のキリシタン大名でした。ポルトガルとの貿易を行い、領民にキリスト教の洗礼を受けさせるなど積極的に西洋の文化を受け入れ、周りの戦国大名との争いを勝ち抜こうとしました。この当時、マカオから来たポルトガル船は貿易品として中国製生糸や武器を日本に持ち込み、日本からは銀を持ち帰っていました。長崎港が開港されると、各地から貿易商人やキリシタンが移住し新しい町が次々と出来ていきました。

写真:1600年頃の長崎港を描いたとされる「南蛮人来朝之図」(長崎歴史文化博物館収蔵)

(2)出島(西洋との唯一の窓口)
鎖国時代、日本で唯一ヨーロッパと貿易ができる場所が出島でした。元々出島はポルトガル人がキリスト教を布教することを防ぐため、そこに居住させることを目的に築造されました。そのため最初に出島に住んだのはポルトガル人でしたが、1639年にポルトガル人の日本渡航が禁止されると出島は無人の島となりました。
出島の築造は幕府の命により長崎の商人25人が出資し行いました。扇形の人工の島ですが、その形がなぜ扇形をしているのかよく分かっておらず、三代将軍徳川家光が扇を出して「これを見本にせよ」と言ったとの説や海側のカーブに高波の影響を少なくする効果があったとの説があります。
写真:出島が描かれた「阿蘭陀屋敷図」(長崎歴史文化博物館収蔵)
1641年、無人となった出島に平戸で貿易をしていたオランダ商館が移され、安政の開国までの218年間、出島ではオランダとの貿易が続けられました。オランダとの貿易ではヨーロッパの商品(毛織物、ガラス製品など)やアジア各地の商品(生糸や砂糖など)が輸入されました。日本からの輸出品は江戸初期には主に銀でしたが、その後は金、17世紀後半から幕末までは銅が主な輸出品でした。その他、樟脳(しょうのう)、陶磁器なども輸出されました。
明治期、開国によりその役割を終えた出島の周囲は次第に埋め立てが進み、扇状の島は姿を消しました。現在、長崎市が出島を江戸時代の姿に戻す復元整備事業を進めており、出島表門橋の架橋や鎖国時代の建物の復元が行われています。

写真:復元整備事業が進む現在の出島

(3)唐貿易(オランダ船を上回る唐船の入港)
江戸時代になると長崎港には多くの唐(中国)船が来航しました。唐人は長崎市中に住んでいましたが、密貿易が多発したため、幕府は1689年に唐人屋敷を建設し、そこに唐人を居住させました。長崎港への外国船の入港隻数は1641年から1859年までの約220年間で唐船が5,431隻に対しオランダ船は617隻と、オランダ船の9倍もの唐船が入港しました。唐からは生糸や織物、砂糖などが輸入され、長崎からは銀や銅を輸出しました。唐船が運んできた貿易品は長崎市内の町人の土蔵におかれていましたが、火災から守るため1702年に出島近くの海を埋め立てた「新地蔵所」を造り、そこに置かれるようになりました。オランダ貿易では「出島」に人も住み、貿易品も置かれましたが、唐貿易では人は「唐人屋敷」、貿易品は「新地蔵所」と別々の場所でした。

写真:長崎港之図(長崎歴史文化博物館収蔵)

(4)上海航路(下駄履きで上海へ)
明治維新後の長崎港は江戸時代のような貿易独占という特権はなくなりましたが、中国大陸に一番近い拠点港として賑わいは続きました。1923年(大正12年)、日華連絡船の「長崎丸」と「上海丸」が長崎・上海間の運航を開始しました。両船とも速力が21ノットと当時としては高速の貨客船で、毎週2航海運行、上海までの所要時間は26時間、運賃は当時のお金で18円(3等)でした。長崎にとっては東京へ行くよりも上海が距離的にも時間的にも近く「下駄履きで上海へ」と言われるほど身近で、上海航路の名で親しまれました。
写真:長崎港に停泊する長崎丸(長崎歴史文化博物館収蔵)
太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)5月、長崎丸が長崎港への入港直前に港口付近で機雷に触れ沈没、同年11月には神戸丸(1941年上海航路に就航)が上海東方海上において衝突沈没しました。更に翌年には上海丸が揚子江東方海上で衝突沈没し、就航以来20年にわたり200万人の旅客を運んだ上海航路は途絶えました。
衝突沈没した神戸丸には、長崎税関の職員が乗船して勤務しており、沈没により4名の職員が殉職しました。長崎税関敷地内には殉職者の慰霊碑が建立されており、毎年11月には慰霊式を行っています。

写真:長崎税関敷地内に建つ慰霊碑

(5)クルーズ船の寄港増加(国際観光港)
長崎港は、1958年(昭和33年)にカロニア号(キュナード社)がクルーズ客船として初入港して以来、多数のクルーズ船が寄港する日本有数の国際観光港となりました。クルーズ船の寄港増加に伴い、岸壁の整備も進みました。1985年(昭和60年)には5万トン級のクルーズ船が接岸できる「松が枝岸壁」の供用が開始されました。その後、クルーズ船の大型化に合わせ、2009年(平成21年)に10万トン級、2018年(平成30年)に16万トン級のクルーズ船が接岸できるよう岸壁が整備されました。
近年、東アジアにおけるクルーズ需要の拡大に伴い、長崎港への寄港は急増し、2014年以降は全国上位5位に入る寄港地となっています。新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、2020年2月を最後に旅客が乗船したクルーズ船は寄港していませんが、現在、大型クルーズ船が2隻同時に接岸できるよう松が枝岸壁の2バース化に向けた整備が進められています。

写真:松が枝岸壁に停泊するクルーズ船

3.長崎税関について

(1)長崎税関の歴史(始まりは長崎会所)
税関は1872年(明治5年)11月28日に運上所が名称を改め発足しましたが、長崎では税関の前身ともいうべき長崎会所が1698年に外国貿易を総括する役所として誕生しました。安政の開国(1856年)に伴い、長崎会所の一部に湊会所が設置され、その後、運上所、税関と改称されました。第2次世界大戦によって外国貿易が中断されると税関は海運局へ吸収統合されましたが、1946年(昭和21年)の税関再開とともに門司税関長崎支署として再開し、1953年(昭和28年)8月長崎税関として独立し今日に至っています。
ここで少し長崎税関の前身とも言える「長崎会所」についてご紹介します。長崎会所は徳川幕府がオランダ貿易や唐貿易から生じる利益を運上金(税金)として上納させることを目的に設置した役所です。主な業務は貿易品の値決め、入札、決済などの貿易業務や長崎町民への貿易利益の分配、幕府への運上金の事務などでした。この当時、外国貿易から生じる利益は莫大だったようです。安政の開国時には長崎会所の一部に湊会所が設置され、貿易業務が引き継がれました。

写真:長崎会所跡、湊会所跡、運上所跡の石碑

長崎会所、湊会所、運上所がかつてあった場所には、現在石碑が建てられ観光スポットの一つとなっています。

(2)旧庁舎

ア 長崎税関下り松派出所(国指定重要文化財)
明治時代に建造された唯一残っている長崎税関関連の建物が1898年(明治31)に竣工した「長崎税関下り松派出所庁舎」です。当時この庁舎は税関の「荷改所」として輸入貨物の検査に使用されていました。1990年(平成2年)に国の重要文化財に指定され、保存修理工事が行われた後、現在は長崎市べっ甲工芸館として、べっ甲工芸品や税関資料の展示に使用されています。建物はレンガ造り、平屋建てで小規模な建物ですが、検査場・倉庫・事務室など当時の税関施設の状況をよく伝えており、海岸通りの景観形成にも重要な役割を担っています。

写真:長崎税関下り松派出所(現 長崎市べっ甲工芸館)

イ 長崎税関本関旧庁舎(ライオンの塔)
1928年(昭和3年)から1943年(昭和43年)まで使用された本関庁舎は、玄関は御影石の柱、壁や階段の手摺は大理石が使われた英国調のクラッシックな建物でした。2階建ての庁舎の上に建つ塔屋には見張り台があり、ライオンが首を真っ直ぐに立て港を監視するようにデザインされていたことから「ライオンの塔」とも呼ばれていました。
この建物は1945年(昭和20年)8月の原爆投下により甚大な被害を受けましたが、同年9月長崎港に上陸した連合国軍に接収され司令部が置かれました。この時、連合国軍は9月11日午前11時頃庁舎に来て内部を検分し、同日正午頃長崎県を通じ、翌12日午前8時までに庁舎を明け渡すよう通告してきたそうで、接収の通告後に職員は夜を徹し、事務に必要な机や椅子等を運び出しましたが、退去時間が非常に短く、多くの書類、書籍、備品等が散逸したとの記録が残っています。

写真:旧本関庁舎上部の塔屋が「ライオンの塔」

(3)税関資料展示室(税関特別展)
長崎税関1階には資料展示室があり、長崎税関の歴史や仕事をパネルや展示物で紹介しています。今年4月27日から来年3月31日までは、常設展示に加え長崎開港450周年を記念した特別展を行っており、税関監視艇の元祖ともいえる長崎奉行用船のコーナーや「長崎港と長崎税関の歴史」をまとめたパネルの展示も行っています。このパネルは開港450周年記念事業に合わせ税関の若手職員が長崎の歴史や貿易を調査し分かりやすくまとめたものです。その他、今回初公開となる「税関官吏執務提要その1(明治44年)」には、明治時代の税関職員が密輸入を発見した場合の事務手順などが記載されています。

写真:税関特別展のPR用チラシ(表面と裏面)

4.おわりに
長崎市内には歴史を楽しむ観光地がたくさんあります。現在、コロナ禍で県をまたぐ移動や旅行が難しい時期ですが、長崎開港450周年記念事業は来年3月末まで行われています。コロナ禍が収まった際は450年の歴史を感じに長崎を訪れてみてはいかがでしょうか。その時は長崎税関資料展示室にも是非お立ち寄りください。
長崎開港450周年記念事業は、開港450周年を過去から未来へ歴史を伝え、次の50年に向けたスタートの機会と位置付け、長崎のまちが港とそこから広がる海洋とともに発展していくことを長崎県民市民が認識し、行動を起こす契機とするため実施しています。
長崎税関は本事業の実行委員として連携事業をはじめ各種イベントに参加しています。

(画像提供)
・長崎歴史文化博物館
・長崎開港450周年記念事業実行委員会

(参考資料)
・長崎開港450周年記念事業公式ホームページ
・長崎県ホームページ
・長崎市ホームページ
・国土交通省「訪日クルーズ旅客数及びクルーズ船の寄港回数(2020年速報値)」
・広報ながさき(長崎県広報誌)2021年3月号
・長崎開港記念碑(長崎市役所横)
・長崎税関沿革史
・長崎税関のあゆみ