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路線価でひもとく街の歴史 第17回

「福岡県大牟田市」
炭鉱都市の古きを転じて熟成の味わいへ

炭鉱で栄えた元・20万都市
令和3年6月1日現在、有明海に面し熊本県境と接する福岡県大牟田市の人口は111,093人。人口は昭和34年(1959)のピーク、208,887人に比べほぼ半減した。昭和30年代は20万都市で福岡市、昭和39年に北九州市となった八幡、小倉両市に次ぐ規模だった。当時は久留米市よりも人口が多かった。
もともと20万都市だったので、現在の人口規模に比べれば相当のインフラを備えている。例えば、令和2年3月末に県に業務移管したが独自の保健所を持っていた。昭和16年(1941)に九州で5番目に開園した市立動物園は今もあり、市の人口の倍以上が来園するほど人気を博している。もっとも、ピークに対する減少幅が大きいことが背景と考えられる課題もある。20万都市のインフラを整備したものの使う人がいなくなることだ。例えば空き家率が高い。図1 福岡県内市区町村の空き家率の分布から福岡県内の市区の空き家率をみると、人口10万人以上の市区で飯塚市に次いで高い。高い市区はいずれも旧産炭地だ。現役世代の流出が多かったからだろうが高齢化率も高い。一般的には人口規模が小さくなるにつれ高齢化率が高まる。その中で大牟田市は福岡県内における同水準の人口規模の市に比べて高い。
昭和30年代をピークに大牟田が栄え、その後急速に衰えたのも炭鉱の街だったからだ。繁栄を支えた三池炭鉱は平成9年(1997)に閉山。鉱坑、専用鉄道および積出港が「明治日本の産業革命遺産」として平成27年に世界文化遺産に登録された。
採炭は江戸期に始まり、明治新政府の所有の後、明治22年(1889)に民営化。三井グループの経営となった。MIT鉱山学科卒の團琢磨が工部省三池鉱山局からスカウトされ三井三池炭鉱社の経営を委ねられた。事業所トップの事務長に就任したのは30歳を過ぎた頃で後に三井財閥の総帥となる。
石炭は大牟田川の河口の大牟田港から有明海の湾口の口之津港まで艀船で運搬。さらに長崎港で積み替え海外に輸出していた。坑口から港までは専用鉄道で運搬。明治24年(1891)、専用鉄道が大牟田川に並走して七浦抗駅から河口の横須浜駅まで開通していた。その後路線網は拡大し、昭和39年(1964)から昭和48年(1973)までは旅客運送もしていた。閉山後も三井化学専用線として旭町支線が残っていたが、令和2年5月7日に廃止された。大牟田から直接輸出するようになったのは大牟田港から3キロ程南の三池港ができた明治41年(1908)からである。遠浅の有明海でも航行可能な満潮時を狙って出入港するための閘門が特徴だ。県の重要港湾だが、当初は炭鉱が私有する石炭積出港だった。
市内の公共インフラにも三井三池炭鉱に由来するものがある。例えば上水道の給水は市営水道より三池炭鉱専用水道が早かった。創設は明治42年(1909)。大牟田市営水道の「市水」に対し「社水」と呼ばれ、社宅周辺の一般家庭にも給水していた。大牟田市の資料によれば最盛期には市内給水人口の15%に及んだそうだ。市営水道に完全に一元化されたのは平成26年(2014)である。
学校もあった。県立三池工業高校の前身は明治41年(1908)設立の三井工業学校である。同じ頃に設立された三井三池尋常小学校は幾たびの再編を経て今の天の原小学校の系譜に連なる。また三井は炭鉱の創業に合わせ三井病院を開院している。平成14年(2002)に三井鉱山から福岡県社会保険医療協会へ経営を移管。社会保険大牟田天領病院となった。大牟田の中核病院のひとつで規模は国立病院機構大牟田病院に次ぐ。

図1 福岡県内市区町村の空き家率の分布
図2 福岡県内市町村の高齢化率
図3 市街図

五月橋、銀座通から私鉄ターミナルへ
一等地の変遷をみてみよう。明治以来の伝統的な中心は大牟田川と幹線道路が交差する五月橋である。現在、五月橋には三井住友銀行があるが、戦前は三池銀行の本店だった。明治19年(1886)の創業で、本店を大牟田に移したのは明治29年(1986)。その後、昭和18年(1943)に帝国銀行が営業を譲り受けた。帝国銀行は三井銀行と第一銀行が合併した銀行で、戦後再び分かれて三井銀行になった。
まず、大牟田の中心街は南側の駅に向かって広がった。明治24年(1891)、後に国鉄となる九州鉄道の大牟田駅が開業。現在地の不知火町に移転したのは明治44年(1911)で、開業当初は今より五月橋に近い築町にあった。築町界隈は戦前から銀行が多く、福岡銀行大牟田支店の前身行もあった。十七銀行が昭和7年(1932)に大牟田支店を築町に新築。進出自体は大正8年(1919)で当時は現存する銀行とは別の「福岡銀行」だった。大正12年(1923)に十七銀行に吸収された。もうひとつの前身行の筑邦銀行(現存する筑邦銀行とは別)が十七銀行の向かい側にあった。昭和6年(1931)に移転してきたときは柳河銀行といい、再編で昭和16年(1941)に筑邦銀行となった。昭和20年(1945)、福岡銀行の発足と同時に大牟田駅前の不知火町に移転した。
五月橋、築町を貫く幹線道路が当地のメインストリートで三井炭鉱の事務所もあった。昭和2年(1926)には路面電車が開通。昭和16年(1941)に吸収合併され西日本鉄道の大牟田市内線になる。移転後の大牟田駅に近い方は公共施設が多く立地した。市庁舎は昭和11年(1936)の竣工で近世式鉄筋コンクリート4階建。中央の塔屋がシンボルの近代建築である。戦災でほとんど焼失した中で貴重な歴史遺産となった。
戦後は銀座通が栄えた。確認できる最も古い昭和32年(1957)の最高路線価は松屋百貨店の前の道路だった。昭和47年(1972)の記録では「本町1丁目生眼堂前通」とある。松屋と生眼堂が向かい合う通りを「銀座通」といって当時の一等地だった。図4 最盛期の大牟田銀座通の写真からその賑わいぶりがうかがえる。奥に見えるビルが松屋百貨店で、開店は戦前の昭和12年(1937)。戦前戦後を通じた地域一番店だった。「めがねの生眼堂」は今も同じ場所で営業を続けている。
昭和40年代、伝統の銀座通にライバルが現れた。新栄町エリアである。西日本鉄道は大牟田駅が昭和14年(1939)に開業、そのひとつ手前に中心地の最寄り駅として栄町駅があった。その近くの工場跡地が再開発で商業エリアになった。戦前の三池紡績、鐘紡大牟田工場、戦後の三井化学だった場所だ。手狭だった栄町駅は移転され新栄町駅となった。
新駅とセットで新しい街ができた。まずは昭和43年(1968)にサンリブ大牟田が開店。昭和45年(1970)にはダイエー大牟田店、駅ビルのエマックス、そして北九州に本店を構える井筒屋百貨店が出店した。昭和46年(1971)には総合スーパー“さんえい”、昭和52年(1977)には大牟田パレスが出店。大型店だけで店舗面積24,000m2が一時に増えた。10,000m2を若干上回る松屋百貨店と銀座通界隈の商店街が受けたインパクトは相当なものだったろう。
新市街の開発を受け「大牟田井筒屋西側新栄町通」の路線価は上昇し、出店が一巡した昭和53年(1978)にはトップに並ぶ。その5年後の昭和58年(1983)には最高路線価の座を奪取した。

図4 最盛期の大牟田銀座通の写真
図5 路線価の推移
図6 平均乗降客数・世帯当たり乗用車保有台数の推移

車社会化とともに昭和の中心地は衰退
私鉄ターミナル立地の新栄町通のピークは平成6年(1994)。平成に入り、車社会化による商業スタイルの変化が姿を現しはじめてきた。自家用車の普及率が急上昇し、90年代後半には2台目を持つ世帯が増えてきた。商業も大きな駐車場を備えた郊外型が有利になる。従来型の不利は否めず、まずはダイエー大牟田店が平成7年(1995)に閉店。さんえいが平成11年(1999)に閉店した。そして平成13年(2001)、三井三池製作所の跡地にゆめタウンが進出。店舗面積は約38,000m2だった。新栄町駅前の大型店の面積をさらに上回る規模の商業施設が線路の向こう側にできた。新栄町の井筒屋大牟田店は閉店し、ゆめタウンのテナントになった。
新栄町駅前の路線価の下落に歯止めがかからず、大牟田パレスが撤退した平成14年(2002)、最高路線価の所在地が大牟田駅前に移った。所在地名は「不知火町1丁目国道208号通り」である。駅前が発展したというより、新栄町駅前に比べ下落テンポが緩かったからと解釈できよう。大牟田駅前は商業中心地というよりは遠距離移動の拠点としての意味合いが強い。車社会化から受ける影響は商業中心地ほどではない。
他方、銀座通勢にも対抗策があった。大正町一丁目の松屋百貨店を含む一帯を再開発し、同店を核店舗に2棟5万m2超の複合施設を建てる大プロジェクトだ。大牟田市が半分出資する第三セクター「株式会社タウンマネジメント大牟田」が保留床を取得する計画だった。再開発組合が平成11年(1999)に発足。しかし、採算面の課題を指摘され資金調達に難航した。大牟田市も財政支援する余裕がなかった。平成10年(1998)、臨海部の貯炭場跡地のテーマパーク「ネイブルランド」が開園3年で破たん。運営主体の第三セクターに損失補償をしていた負債を市が弁済することとなったのだ。その後紆余曲折を経て再開発はとん挫。補償金の支払も確定し、市は平成13年(2001)以降10年かけて約29億円を支払うこととなった。そして刀折れ矢尽きたかのように松屋百貨店が閉店。平成16年(2004)の出来事である。
2000年前後といえば、台頭する郊外大型店に対抗し駅前や中心市街地に再開発ビルを建てる動きが全国各地で見られた。平成11年(1999)、岡山県津山市に8階建の「アルネ津山」が開業。第三セクター「津山街づくり株式会社」の運営だった。平成13年(2001)には青森市に9階建の「アウガ」ができた。運営は第三セクター「青森駅前再開発ビル株式会社」である。意図に反して駅前の賑わいは戻らず、商業フロアは平成29年(2017)に終了。数度の再建そして精算を通じ青森市は多額の出費を余儀なくされた。
古きを転じて熟成の味わいに
平成14年以来最高路線価の所在地は変わらず現在に至る。令和2年の価格はm2当たり53,000円だった。昭和40年の水準に戻ったが当時はかけそば50円の時代だ。同じ価格でも一等地の値打ちは当時より低い。かつての最高路線価だった新栄町通は31,000円。銀座通は28,000円だった。ゆめタウン前はこれより高くm2当たり46,000円だ。
線路の東側の路線価が西側に比べ高くなったので、「一等地」が戦前に戻ったように見える。ただし以前と違って中心が明確ではない。駅前からゆめタウンまでの路線価が緩やかに高い。中心地の性格が以前と変わったようだ。市の活性化基本計画によれば、中心市街地をさらに絞り込んだ活性化エリアの人口が、平成20年(2008)の2,793人を底に増加に転じた。最近伸び悩んでいるが、それでも令和2年4月の3,044人は12年前の水準を1割弱上回っている。
平成28年(2016)の調査によれば、10階建以上のマンションが中心市街地に14あり、そのうち5つが新栄町駅とゆめタウンの間にある。以前は三井縫製の工場だったところだ。
他の地方都市と同じように、大牟田も街の中心が移転している。ただし互いに徒歩で行き来できるほどの距離なので街が拡散していない。広大な駐車場を備えたゆめタウンは明らかに郊外型モールだが中心市街地にある。車がなくとも買い物に支障ない。近隣にマンションが相次いで建ち、居住と買い物が一体のコンパクトな街になった。これも市街地内にまとまった工場用地があったからだ。他の都市で同じような開発をしようとしてもよほど都心から離れなければ難しい。
以前の中心地も少しずつ変化している。ただしかつての商業中心地としてではなく、個性的なショップやレストランが集まる街へだ。平成27年(2015)、大牟田市と商工会議所の「街なかストリートデザイン」事業が始まった。空き店舗オーナーと出店希望者をマッチングする取り組みだ。出店計画の磨き上げなど定番支援もあるが、興味深いのは店舗改装の住民参加型DIYイベントだ。床仕上げ等のDIY作業を通じ、開店に先立ち店のファンを増やすのが狙いで、ひいては街への愛着も深まる。地元まちづくり会社のリーダーシップも奏功し徐々に成果が現れてきた。十字路のイタリア料理店を皮切りに、事業の呼び水効果も含め13店舗が新たに出店。銀座通の空き店舗が埋まってきている。古いものも手を加え愛着を持てば熟成の味わいに転化する。かつての工場跡も空き店舗もやり方次第でまちづくりの弱みにも強みにもなるのだ。
一昨年、かつてメインストリートを往来していた路面電車の車両が大牟田駅の西口広場に設置された。路面電車は昭和27年(1952)に全廃されていた。今年、内装がリニューアルされカフェ営業が始まった。惜しまれつつ閉店した銀座通の老舗喫茶店の味を引き継いだコーヒーが看板メニューだ。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融