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危機対応と財政(番外編-最終回)

民主政治の原点…受益と負担

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇

筆者が、米国のスタンフォード大学に入学する直前の1978年6月、カリフォルニアで市町村の固定資産税率を1%に制限するという住民投票が行われ、大差で認められた(プロポジション・サーティーン)。それは、日本でも納税者の反乱と報道され、それによる税収減はたちまちに地域の公的サービスの大幅な低下となって現れた。それは、受益と負担が裏表で、有権者が税を通して政治と結びついていることを示す米国の財政民主主義の姿だった。

1.梶山静六元官房長官の話

菅首相が師と仰ぐ梶山静六*1は、橋本内閣の財政構造改革を官房長官として取り仕切った政治家だったが、著書*2の中で我が国の財政民主主義に関して以下のように述べていた。「民主主義社会における代議制の基本は、税*3を通じて有権者と政治家が結びついていることだろう。英国の市民革命も、米国の独立運動も、発端は国民の権利と、その代償となる税との関係からだった。…ところが(我が国の)地方自治体において、首長や地方議員と有権者との関係は、必ずしも税によって結びついていない。税を徴収するのは主として国であり、自治体の「必要経費」を算出するのも国だ。…自治体に求められるのは、国の財源からいかに多くの分配を引き出すかであり、国会議員の地元への貢献度も、これによって計られる。」

梶山氏の指摘にある、我が国では首長や地方議員と有権者が「必ずしも税によって結びついていない」ことを筆者が印象付けられたのは、農水の主計官の時だった。当時、新聞に「100人の島に100億円の農道橋」という記事が出た。農水予算への批判が強かった時代で、農水の補助金を批判する記事だった。そこで、筆者は農水省の担当者とともに現地視察に行くことにした。鹿児島県の伊唐島である。島の山影から橋が見えてくると、橋のたもとに数十人の人々が集まり、何と「歓迎松元主計官、伊唐大橋有難う」の大断幕がかけられていた。橋は過疎の島を本土とつなぐ島民にとって念願の橋だったのである*4。そして、橋が出来たからといって島民の負担が増えることはなかった*5。財源が乏しい過疎の島のインフラが整備されたからといって、住民に新たな負担を求めるような仕組みにはなっていないからである。前回、大野伴睦が「多くの人の頼みごとを政治の上でどんどん反映さそうと努力する」と述べていたことをご紹介したが、「温かい」「心の通った」形で、それを可能にしているのがこのシステムである*6。それは、戦後の経済成長の下、我が国で国土の均衡ある発展と分厚い中間層の形成を可能にしてきた優れた仕組みなのである。

2.受益と負担が裏表でないことの問題点

このように述べてくるといいことづくめのようだが、ここにはその負担がどこに行っているかという視点が抜けている。本稿の問題意識からまず指摘されるのは、国会議員の地元への貢献度が「国の財源からいかに多くの分配を引き出すか」によって図られるシステムは、首相のリーダーシップの発揮を難しくすることである。それは、前回ご紹介した、佐々木毅教授が「地元民主主義」と呼んで、批判していたところからのものである。英国の選挙では、党の公約(マニフェスト)以外に候補者独自の公約はないが、「地元民主主義」の我が国では、それぞれの候補者が地元に直結する独自の公約を掲げる。それは、選挙が与野党が掲げる政策をめぐって政権党を選ぶ選挙ではなく、地元利益の観点から人を選ぶ選挙になることを意味している。ジェラルド・L・カーティス教授によれば、我が国の自民党と候補者の関係はフランチャイズ制のようなもので、「政党は公認した候補に知名度の高い暖簾を貸し」「候補者たちは事実上、独立した政治事業家として自分の地元組織をもち、自分で市場戦略を立てる」のだという。選挙がそのようなものであれば、首相が政策面でリーダーシップを発揮するのは難しくなろう。

次に指摘される問題点は、地方自治の民主主義の学校としての機能の形骸化である。それは、宇野重規東大教授が最近出された著書*7の中でトクヴィルを紹介して指摘しているところのものである。トクヴィル(「アメリカのデモクラシー」)は、アメリカにおいては、市民が地域の共通問題を解決するために集まり、目的に応じてお金を出し合い、事業を行っている様子に感銘を受けた。日ごろから、日々の目的で組織を作ることに習熟して、ようやく政治的な主張を行うための組織を作ったり、社会運動に参加することも可能になるとしていた。この点は、今日なお傾聴に値するトクヴィルの教えだと、宇野教授は指摘している。「目的に応じてお金を出し合い」というところが、我が国の「地元民主主義」には欠けていることから、民主主義の学校としての機能が形骸化してしまうのである。

筆者が財政制度等審議会でお世話になった神野直彦教授は、スウェーデンの中学校の教科書には、新たな住民サービスを実施するのには増税が必要になるが、地方議会はどうすべきかといったケースが登場すると指摘しておられた*8。それは、受益と負担が表裏の関係にある、民主主義の学校の本来の姿を教える理想的な教育というわけである。しかしながら、実際の話として、日本の教科書にそのような話を登場させるかといえば、おそらく無理だろう。そのようなことが日本では起こりえないからだ。梶山氏の指摘にあるように、我が国では、必要になった増税の責任を負うのは主として国だからだ。では、その増税の責任を国会議員が果たしているかといえば、選挙の現実を考えると難しいので、結局借金という形でほとんどが後世代へ先送りされている。借金というその場しのぎで将来世代に「代表なきところの課税」をするという、民主主義の学校とは到底言えないことが行われているのが、今日のわが国の姿なのである*9。

受益と負担が結びついていないことは、身近なレベルで政策論争が行われず、地域の選挙での選択肢が有権者に与えられないという問題も生じさせている。山口二郎法政大学法学部教授が、著書*10の中で指摘していることである。戦後、戦前の官選知事を住民の直接選挙にしたことによって地方政治の民主化が行われたとされているが、地方議会が税を通じて有権者と結びついていないことから、知事に対する財政責任の追及がほとんど行われず、知事選挙では、多くの政党が相乗りする無風選挙での多選が当たり前になった。「形の上で選挙が行われても、有権者は意思表示をすることが出来ない」ことになったというのである。山口教授は、受益と負担が結びついていないことから、腐敗や無駄が生まれるとも指摘している。ある事業が「タダ」なら、何らかの効用がある限りその事業に対する需要は無限大になる。そこから、その事業を配分する国の役所に絶大な権限が生まれ、そこに腐敗をもたらすインセンティブが生じるというのである。また、ある事業が「タダ」なら、そこにコスト意識を求めるのは無理ということになり、行政の無駄をチェックすべき議会の役割が空洞化する*11。ワイズ・スペンディングが担保されなくなる。そこから、大きな政府が生まれてしまうことにもなるのである*12。

受益と負担が結びついていない仕組みは、考えてみれば変な仕組みだ。おそらく世界中でも、今日の日本にだけある仕組みだ*13。元自治事務次官で内閣官房副長官を長く務められた石原信夫氏は、2006年に行った講演の中で、あるべき地方財政の仕組みについて、地方税を基本として必要な財政調整を行うべきだとされていた*14。それによると、「地方の財源として一番良いのが地方税です。」「交付税も地方自治の見地からは本来は望ましい姿ではありません」「歴史的に言えば、平衡交付金制度が出来る前の姿に戻ることになります」というのである。その「平衡交付金制度が出来る前の姿」を調べてファイナンスに連載したのが、筆者の2008年からの「明治憲法下の地方財政制度」で、それを取りまとめたのが『山縣有朋の挫折』*15である。同書に対しては、石原氏から、「本書は、戦後の地方自治に関する固定観念を覆す啓蒙の書である」との推薦の言葉をいただいた。山縣には、軍閥の親分というイメージが強いが、実は、わが国の地方自治の父ともされている政治家である。約1年間、欧米の地方自治制度を自ら実地調査した上で、日本伝来の自治をも踏まえながら、日本に近代的な地方自治制度を導入した*16。それが、日露戦争後の社会・経済の発展・変遷の中で義務教育費の地方負担問題などをめぐって行き詰まり、その立て直しのために、高橋是清が国の基幹税だった地租を地方に移して地方財源を充実させようと試みたりしたのだが、うまくいかなかった*17。そして最終的に、昭和15年に地方の財政力格差を是正する地方分与税制度が出来あがった。それが、石原氏の指摘する「平衡交付金制度が出来る前の姿」だった。それは、地方にも応分の増税責任を求めるもので、受益と負担が結びついているものだった。戦後すぐのその姿は、柴田護氏(元自治省事務次官)が著書*18の中で述べている。それによると、「かつては、地方自治体は赤字を出すことを恥とし、増税をしてもバランスをという精神は、戦い破れたりとはいえ、第一線市町村に脈々として残っていた」。各自治体では、ラジオ税、ミシン税、アイスキャンデー税等、様々な課税が行われていた。その精神が失われたのは「昭和27年ごろから(中略)…やはり、地方財政平衡交付金制度の醸し出した弊といっては言い過ぎであろうか」ということだったのである。

3.財政出動を「タダ」だと思い込ませてきた日本のケインズ経済学

今日の地方財政制度が、大きな利点とともに問題点を抱えていることを述べてきたが、わが国の財政赤字について最大の責任があるのは、我が国におけるケインズ経済学への誤解である。それは、「政府がケインズ理論に基づいて正しい経済政策を行えば、どこまでも経済を成長させられる」との思い込みだ。ケインズ自身が、ケインズ理論は景気変動をならすための理論で、経済成長をもたらす理論ではないと明言していたにもかかわらず、多くの日本の経済学者やエコノミストはそのように主張してきた。そして、「成長」が実現すれば、税収増が期待できるので、そのような財政政策は「タダ」だと国民に思い込ませてきたのである。

2019年にノーベル経済学賞を受賞したアビジット・バナジーとエステル・デュフロは、その「絶望を希望に変える経済学」において、「富裕国の成長要因がわからないのと同じく、貧困国についても誰もが納得する決定的な成長の処方箋は見当たらない。今日では、専門家もこの事実を認めている」と指摘している*19。財務総合研究所名誉所長の吉川洋教授は、最近の著書*20において、今日の経済学が世界経済に何ら有効な処方箋を提供できていないとして、新たな経済学の再構築が必要だとされている。筆者が、今日の経済学に経済成長を実現させる処方箋が「見当たらない」ことを認識したのは、内閣府で経済政策を担当した時であった。失われた90年代以降の巨額な財政出動が、全く我が国の経済成長をもたらさなかったことは明らかだった*21。それでも多くのエコノミストは、低成長の責任を財務省の財政至上主義に転嫁し、十分な財政出動がなかったからだと言い続けているのだ。そして、そのように国民が思い込まされてきた結果が、今日までのとめどもない財政赤字の拡大なのである。とんでもないことだと思う。

そんな筆者が考えているのは、結局のところ、経済成長をもたらすのは人だということである。人がより良い生活を求めてチャレンジするのを助けるような仕組みにしていくこと、そこからイノベーションが生まれ、経済成長につながっていくということである*22。そのために、人々が人生を通じて必要なら何度でもチャレンジすることを支援する全世代型の社会保障制度や教育制度にしていく必要があると考えている*23。成長をもたらすのは人だということは、高橋是清や石橋湛山*24も主張していたことだ。GDPと言っても、抽象的なGDPがあるわけではなく、一人一人が作り出す付加価値を足し上げたものが一国のGDPなのだから、当たり前のことといえよう。それは、現在の社会保障制度や教育制度*25を、「弱者」や「未熟な者」を主として支えるものから、働き盛りという「強者」をも支えるものに変えていくことによって、日本経済を再び「強者」にしていくということだ。転職が当たり前になった今日の社会では、働き盛りの者もいつまでも強者というわけではない。そこで求められる社会保障や教育の制度は、今日のすべての国民が尊厳をもって一生を過ごしていけるようにするための国民全体のインフラである*26。したがって、その負担は、今日の国民全体ですべきものだ。将来世代へ先送りするなど、とんでもないということになろう。

4.受益と負担を啓蒙するリーダーの必要性

筆者は、全世代型の社会保障制度や再チャレンジを支える教育制度の財源として、国民全体でその負担を分かち合うのに最も有望なのは消費税だと考えている。その導入に強力なリーダーシップを発揮したのが竹下元総理だった。その竹下元総理の支持率は、消費税導入後、一桁台にまで下がっていった。竹下元総理は、10年たったら良かったと言ってもらえるはずだとおっしゃっておられたが、残念ながらそうはなっていない。選挙になるたびに消費税反対や消費税引き下げを主張する候補者に多くの支持が集まるのが現状だ。消費税は今や社会保障を支える大きな柱に育っているのに、消費税反対というのが相変わらず政権批判のステレオタイプになっている。その背景には、負担感なしに高い成長を実現して豊かな社会を実現してきた戦後のわが国の成功体験があるといえよう。実は、消費税は、そんな中で、我が国で初めて国民が税負担を実感する、それも買い物という日常生活の中で老若男女を問わずに日々感じる税になっている*27。これまで負担感がなかっただけに、負担なしでは受益がないことを当然のこととして受け入れる米国の「納税者の反乱」やスウェーデンの教科書に登場するケースとは異なり、とにかく負担を否定するという「納税者の反乱」が我が国の政治ではステレオタイプになってしまっているのである。

ここで、我が国の政治におけるリーダーシップについて考えてみたい。戦後のわが国のシステムは、地域の均衡ある発展と分厚い中間層を生み出してきた優れたシステムだった。しかしながら、それは戦後の高成長によって配分すべき果実がふんだんに生み出された時代に支えられたものだった。今日、それが失われ、30年にもわたる低成長が続くと、行き詰まりが明らかになってきている。配分すべき果実が少なくなる中、地元利益を実感できない無党派層が増えてポピュリズムの時代になり、政党の党首には政策面でのリーダーシップよりも選挙の顔の役割が重視されるようになってきている。しかしながら、実は、ポピュリズムの時代だからこそ、党首の政策面でのリーダーシップが重要になってきているはずだ。これは、草の根民主主義を唱えているH・ルービンが著書*28の中で、述べていることだ。それによると、「個人生活では、短期的な犠牲を払えば、長期的な利益を得られることを人々は理解しています。将来大学教育を受けたり新しい家を買うために、今貯金します。(中略)長期的にみた時の健康改善のために、食事を変え、禁煙するわけです。しかし、同時にそうした人々が、貧乏な人々や不利な立場にいる人々が職を得、税金を払い、社会に貢献できるように、教育や訓練を施すのに公的資金を投資するのを妨げることがあるのも現実です。(中略)問題解決に必要な政府行動や長期的利益のためには個人や集団の犠牲が必要であることなどを、市民に正当化し啓蒙しなくてはなりません。(中略)解決を見出すためには、市民とそのリ―ダーが公共の利益のために、喜んで協力し合うことこそ必要なのです」と述べている。それは、ポピュリズムの時代だからこそ、市民とともにリーダーが重要だということを述べたものだ。日本が成長を取り戻し、豊かな社会を築いていくために、「個人や集団の犠牲が必要であることを」啓蒙するリーダーが必要なのだ*29。

本稿でいうリーダーには、野党のリーダーも含まれている。英国の議会制民主主義の下における「健全な独裁者」たる首相の反対側には、いざという時には政権交代を担うしっかりとした野党のリーダーが予定されている。しっかりとした野党のリーダーがいない状態で与党が国民に負担を求めてそれを実現させたとしても、いつまでも政治は安定しない。ポピュリズムの時代に国民を啓蒙する責任は、与党だけでなく野党のリーダーにもあるということである*30。その観点からは、民主党の野田政権時代に、野党だった自民党の谷垣総裁*31と公明党の山口代表が与野党間で社会保障と税の一体改革についての合意(三党合意)を行ったことは画期的なことであった。

5.民主政治への信頼

ここまでお読みいただいて、何やら前途多難という印象を受けられたかもしれないが、それは筆者の本意ではない。筆者は、日本の財政民主主義は、それでも進歩していくと考えている。本稿第5回にご紹介したチャーチルの言葉「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」が、財政民主主義にも当てはまると考えるからだ。この点に関しては、この翻訳で「民主主義」とされているものが「政治体制」(制度)としての「民主制」だということを指摘しておきたい。民主制(Democracy)は、貴族制(Aristocracy)や君主制(Monarchy)などと対置される政治体制で、「制度」なのだから、臨機応変に工夫していけばいいのだ。最悪の政治といえるが、試行錯誤しながらよりましなものに変えていけばいいのだ。「民主制」におけるリーダーシップも同じことだ。それを、「主義」と考えるから、何か本来あるべきところからずれてしまっているとして悲観的になってしまうのだ。「主義」というなら注目すべきなのは、今日の「民主制」の根底にある「自由主義」(Liberalism)*32であろう。それは社会主義(Socialism)や共産主義(Communism)、帝国主義(Imperialism)などに対置されるもので、その「自由主義」を保証しているのは、言論の自由や独立した司法権による令状がなければ身体を拘束されないといった基本的人権*33である。

そもそも、政治体制としての民主制は暴走しやすいもので、近代にいたるまで、一般的に暴力的で混沌とした状態から、民衆の扇動、そして専制へと転じやすいものだと考えられてきた*34。だから、チャーチルは「民主制*35は最悪の政治といえる」と言ったのだ。そのように、暴走しやすい不完全な政治制度を守り育てていくのが政治家のリーダーシップであり、マスコミの役割のはずだ。草の根民主主義という観点からしても、市民とそのリーダーが公共の利益のために、喜んで協力し合うためにどうすればいいかを考えて臨機応変に工夫していくことが求められるのだ。かつて、わが国で1990年代に政治学者が主張していた小選挙区制などの政治改革が、今日ほとんど実現されているのに、それが政治不信の払しょくにつながっていないと嘆く向きがあるが、それも民主制を試行錯誤の過程と考えれば嘆くようなことではない。財政民主主義についても同じことで、今日、巨額の財政赤字という「最悪」の事態を招いているが、試行錯誤しながら直していけばいいのだ。いろいろと批判されるが、わが国の明治維新以来の財政民主主義の歴史には、西欧諸国と比べても、けして見劣りしないものがある。かつての戦争に至る一時の不幸な時期を除けば、高橋是清をはじめとした多くの人々の努力で、着実な歩みを進めてきたのだ。そもそもの日本の民主制も、江戸の自治以来のしっかりとした歴史を持っている*36。前回ご紹介したように、第1回の帝国議会議員選挙では、「われから進んで候補者として名乗りを上げる人間などは、品性劣等、士人のともに遇すべからざる者として排斥され、かえって選挙されることを迷惑がるような立派な人物を、無理やりに選挙民が担ぎ上げるという有様」だったのである。

民主制は試行錯誤の過程だということに関して、ここで政治とは何かについての筆者の考えを述べておくこととしたい。それは、アリストテレスがニコマコス倫理学で言っていることである。アリストテレスのニコマコス倫理学は、何が人間にとって善であるかを探求した書物だ。人間にとって最高の善とは幸福だとしている。富や快楽ではなく、幸福だというのだ。そして、善を目的する活動が政治だとしている。ちなみに、アリストテレスは、若き日のアレクサンダー大王の家庭教師をしていた人物で、単なる学者ではなかった*37。筆者が官房審議官の時に受けた人事院の3泊4日の合宿研修(日本アスペン研究所による)で指導教官だった今道友信先生は、国際形而上学会の会長も務めた方だったが、哲学とは魂の世話だとされていた。人間の魂が、どうやったら幸せになれるかを探求するのが哲学だというのである。今日、IT技術などが飛躍的に進歩していく中で、新たな人間の魂の世話が求められるようになってきている。それを、エコエティカ(生圏倫理学)という考え方でとらえようとしておられた。日本の哲学は、これまで西欧や中国から入ってきたものばかりだったが、今日、日本からの哲学が求められているとしておられた*38。先に紹介した「絶望を希望に変える経済学」の中では、経済学者は手段や効用という概念をひどく狭く定義する傾向があるが、豊かな人生を送るために私たちが必要とするのは、それだけではないはずだ。家族や友人が幸せに暮らしているといったことなどが必要なのだとしている*39。何が人間にとっての善であるかを探求したニコマコス倫理学の問題意識に通じるものと言えよう。それを、試行錯誤しながら実現しようとするのが政治であり、多くの政治家がそれを目指しているのである。

6.コモン・センス

以上、いろいろと述べてきたが、最後に筆者が述べておきたいのは、コモン・センスを大切にするということである*40。受益と負担が表裏の関係にあるというのはコモン・センスだ。「稼ぐに追いつく貧乏なし」や、「よく学び、よく遊べ」、「嘘つきは泥棒の始まり」「信なくば立たず」などもコモン・センスといえよう。

「絶望を希望に変える経済学」では、昨今、官僚や政治家は無能だとか金に汚いと決めつけるのが大流行だが、こうした風潮は百害あって一利無しだとしている*41。そのようなイメージが定着すると、人々は政府の介入があきらかに必要な場合であっても、いかなる政府介入にも反射的に猛反対するようになる。政府で働こうと志す優秀な人が減ってしまい、政府はますます非効率になる。政府は腐っていて無能だと言い続けていると、市民はそのうち政府の行動に無感覚になり、注意を払うことさえしなくなる。メディアが小さな腐敗探しに熱中していると、大規模な汚職の余地を生むことになりかねないとしている。「官僚や政治家は無能だ」と決めつけることは、「人は褒めて使え」というコモン・センスに反することだ。社長が「うちの社員はダメだ」と決めつけているような会社で社員が育つはずはない。「信なくば立たず」なのである。主権者である国民が、コモン・センスを大切に、政治や行政の場で人材を生かして使えるようになれば、日本が今日の低成長を脱却して豊かな社会を築いていくことは難しいことではないと思う。明治維新期の経済成長も、戦後の焼け野原からの経済復興も、とんでもないところから始まった。世の中、希望がなくなることはない。そして、そのような希望の実現を目指す政治家やそれを手助けをする官僚は素晴らしい仕事なのだ。

*1)梶山官房長官は「俺の目が黒いうちに財政再建の道筋だけでもつけておきたい」と語っておられた。梶山氏が頼りにしていたのが、筆者も直接ご指導いただいた与謝野馨官房副長官。与謝野氏の人となりは、「亀井静香の政界交差点」(週刊現代、2021.3.26)に描かれている。

*2)「破壊と創造」梶山静六、講談社、2000、p166

*3)「税は国の基」ということを言っておられたのが、筆者が入省して配属された主税局調査課の佐藤光夫課長だった。世界の4大文明が、灌漑による農業から始まったと言われるが、灌漑の大土木工事を行うためには、その財源を税として徴収しなければならない。税は文明の基ともいえる。

*4)公共事業の採択にあたっては、コスト・ベネフィット分析が行われる。伊唐島の農道橋についても、島でとれる生食用のジャガイモの運搬で十分なベネフィットが見込まれていた。

*5)補助事業のいわゆる裏負担は、過疎地域にはかからないようになっている。ちなみに、補助事業の地域負担は、自らの負担のはずである。それが「裏」負担と言われるのは、地域で政治家と有権者が税によって結び付いていないことを象徴している言葉と言えよう。

*6)このシステムの下では、知恵さえ出せば、地域の独自施策が、ほとんど地元負担なしに実施できる。筆者が企画開発部長を勤めた熊本県の小国町の宮崎町長(当時)は、地域づくりは3人いればできますよ。国も知恵のある所には金を出したいと思っているのですからと語っていた。小国町では、地熱発電を利用した人工スキー場づくりや、小国杉を使った世界一の木造体育館の建設などが手掛けられていた。

*7)「民主主義とは何か」宇野重規、講談社現代新書、2021、p154-155

*8)筆者は、神野教授に啓発されてスウェーデンの研究を行った。その一端は、内閣府でご一緒した湯元健治氏が佐藤吉宗氏と著した「スウェーデン・パラドックス」(日本経済新聞出版社、2010)に、盛り込まれている。

*9)筆者が主計局の調査課長を務めていたころまであった「赤字公債からの脱却」という財政再建目標には、将来世代へのツケ送りが許されないという財政民主主義の理念が含まれていた。今日、それが、すっかりプライマリー・バランス論に代わられてしまっているのは問題と言えよう。

*10)「政治改革」山口二郎、岩波書店、1993

*11)かつて、大規模な港湾整備をしたのに船がほとんど入らないことから「巨大な釣堀」と批判された事業があったが、その事業に対しても地元議会からの厳しい批判はなかった。どんなに無駄に見える事業でも、地元に雇用をもたらすという効用はあるのである。

*12)林宜嗣関西学院大学経済学部教授は、経済企画庁経済研究所地方分権ユニットの研究報告(平成9年5月)で「各地方団体内において受益と負担の不一致が依然として残されたままであるのなら、『大きな政府』への圧力はなくならないだろう」と指摘している。

*13)この仕組みの根拠規定について、筆者は、故山口光秀氏(元大蔵省事務次官、地方財政担当主計官)に、伺ってみたことがある。地方交付税法第6条の3第2項が根拠規定とされているが、そうなのかということだ。それに対する山口氏の答えは、同条項は地方の財源に過不足があった場合の手続きを定める規定で、財源を国が保障するといった実体法上の大原則を定めているものではない。そんなことは条文を読めば明らかだということであった。このことを伺った当時、筆者は、主計局次長として地方財政を担当していた。

*14)「国と地方」言論ブックレット、2006、「地方自治に何が求められていたのか」石原信雄、p71-80。

*15)「山縣有朋の挫折」松元崇、日本経済新聞出版社、2011

*16)「山縣有朋の挫折」p13-22、p300-302。山縣の導入した地方自治には、有権者を納税者に限り、納税者でない国民を視野に入れていないという問題があった。ただ、当時は、それがグローバルスタンダードで、平民宰相と言われた原敬も山縣と並んで普通選挙の早期導入には反対だった。

*17)「国と地方」p64-66、「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、p230―232。

*18)「自治の流れの中で」柴田護、ぎょうせい、1975

*19)「絶望を希望に変える経済学」アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ、日本経済新聞出版社、2020、p270。

*20)「マクロ経済学の再構築」岩波書店、2020.8。吉川教授は、今日の経済学は、いかにも精緻化されているが、実際には存在しない代表的消費者や企業を前提とした「砂上の楼閣」の理論となっている。統計物理学的方法論に立った経済学の再構築が必要だとされている(同書、第1章、第2章)。

*21)その問題意識からの著作が、「リスクオン経済の衝撃」松元崇、日本経済出版社、2014、である。

*22)吉川教授も、イノベーションが経済成長をもたらすとしている。同教授は、ケインズとシュンペータを結び付けて、「需要の飽和」と、それを打破する「需要創出型のイノベーション」が経済成長をもたらすとしている(「マクロ経済学の再構築」第5章)。ちなみに、ケインズは、経済成長をもたらすのは、アニマル・スピリットだとしていた。

*23)その問題意識からの著作が、「日本経済低成長からの脱却」松元崇、NTT出版、2019である。かつては、そんな仕組みがなくても人々はチャレンジしていたが、今や状況が変わってしまったのである。

*24)「石橋湛山の財政思想」松元崇、日本財政学会2020、報告、参照。

*25)教育制度に関して、宇野重規教授は、ロールズの主張する「教育を通じての人的資本の所有の確保」が必要だとしている(「民主主義とは何か」p218)。

*26)「絶望を希望に変える経済学」p461

*27)わが国の所得税は、源泉徴収されることから、直接的な負担感はあまりない。

*28)「アメリカに学ぶ市民が政治を動かす方法」日本評論社、2002、p291-300

*29)「絶望を希望に変える経済学」p186。今日、SNSが一般化しエコー・チェンバー現象(ツイッターやインターネット掲示板によって、人々の偏った意見が増幅・強化されること)が生じるようになってきている中で、新しい形のリーダーが求められるようになっている。

*30)野党の政治家のリーダーシップという場合に気になるのが、我が国の小選挙区比例代表並立制の下、最近の選挙では与野党の政策に飽き足らない無党派層にエッジの利いた政策をアピールする中小政党が一定程度の議席を確保するようになってきていることである。そのような中小政党は、野党でいる選択肢と、連立与党に参画して政策に影響力を及ぼす選択肢を持つことになるが、それは野党第一党の立ち位置を難しいものにしている。かつて「民主党は党内がバラバラで支持率も低いが、選挙になると、自民党に投票したくない層の票を集める『第二党効果』で支持率が上がり、いつも勝つ『ミラクル民主党』だ(読売新聞2002.12.29)」と言われていた状況がなくなっているのである。

*31)谷垣禎一氏を総理にしたいと語っていたのが、筆者が熊本時代からお世話になった園田博之代議士であった。園田氏の人となりは、「亀井静香の政界交差点」(週刊現代、2021.4.10,17)に描かれている。社会保障と税の一体改革については、「民主主義のための社会保障」香取照幸、東洋経済新報社、2021.2、p54-65参照。

*32)今日の香港で失われつつあるのが、この「自由主義」である。「中国流の民主主義」は、「自由主義」を尊重しないのである。

*33)基本的人権は、西欧諸国において、血なまぐさい宗教戦争などの歴史を通じて確立されてきたものである。想像を絶するように犠牲の上に確立されてきただけに、それを守ることに対する西欧諸国の人々の姿勢には、日本では見られない厳しさがある。それは、この後に見るアリストテレスの「ニコマコス倫理学」が言うところの「善」であり、人間の魂の問題だと認識されているといえよう。

*34)「民主主義の非西洋起源について」デヴィット・グレーバー、以文社、2020.4、p55-59。19世紀の終わりに民主主義が蹂躙されていたことについて、「民主主義の壊れ方」デイビッド・ランシマン、白水社、2020、p79-82参照。

*35)ここでは、前掲の翻訳の「民主主義」を「民主制」と読みかえている。

*36)「山縣有朋の挫折」p2-22、p169-170,175参照。

*37)ソクラテスは、ペロポネソス戦争で重装歩兵として戦った勇壮な戦士だった。ソクラテスの人となりが分かるのが、プラトンの「饗宴」(岩波文庫、2008)である。ちなみに、ギリシャの民主制での負担は兵役で、兵役に服する市民に参政権が認められていた。

*38)本稿の範囲を超えるのでここでは述べないが、筆者が、日本からの哲学の基本ではないかと考えているのは、山折哲雄氏の「われ信ず、ゆえにわれあり」(読売新聞、2002.5.22)である。それは、戦乱のアフガニスタンで用水路掘削事業に取り組み命を落とした中村哲氏の信条であった「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」(「墨子よみがえる」半藤一利、平凡社、2011、p180)に通じるものである。その背景には、日本語に体現される日本の自然がはぐくんできた日本文化があると考えている。

*39)「絶望を希望に変える経済学」p19

*40)筆者は、主計局の主査時代、ある上司から、どうして主査に査定権限があるのかわかるか、それは主査が「偉大なる素人」だからだと言われた。コモン・センスを大切にしろということだったと考えられる。コモン・センスに気付かせてくれる卓越したコラムニストとしては山本夏彦氏をあげることが出来よう。同氏の著作には「愚図の大忙し」(文春文庫、1996)などがある。

*41)「絶望を希望に変える経済学」p390―92