現在位置 : トップページ > 広報・報道 > 広報誌「ファイナンス」 > 令和3年4月号 > 路線価でひもとく街の歴史 第14回

路線価でひもとく街の歴史 第14回

「東京都中央区」水辺の街、銀行発祥の地と日本橋

令和6年度に刷新される1万円札の顏、渋沢栄一は今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公だ。大蔵省(現財務省)退官後、本邦初の銀行や証券取引所を立ち上げ、民間経済人として約500社もの創業や育成に関わった。後世わが国資本主義の父と称される偉人の足跡が日本橋界隈に多く残っている。

水路網の拠点だった日本橋

日本橋といえば江戸時代の五街道、近代以降の主要国道の起点である。そして舟運の拠点だった。ほとんど埋め立てられてしまったが、以前は市街の縦横に水路が張り巡らされていた。中でも日本橋界隈は密度が高かった。水路の河岸は物資の荷上場となり、魚河岸、米河岸、塩河岸など取扱商品によって名前が付けられた。河岸の背後には問屋街ができ、魚河岸を擁した本船町近辺が特に栄えた。日本橋とそのひとつ下流の江戸橋の間の日本橋川の北面に魚河岸があった。

江戸の城下町には屋敷の所有者と地価が記載された「沽券図」があった。沽券とは不動産の権利証のようなもので、地所の値打ちが転じて「沽券にかかわる」の語源になった。これを元に明治の地租改正を経て地券を発行し課税するための沽券地図が作られた。明治6年(1873)に東京府地券課が作成した沽券地図を見ると坪数、評価額、所有者名が屋敷の区画毎に記載されている。それで最も高かった屋敷地が本船町にあった。当時の一等地は日本橋魚河岸の後ろ側、言い換えれば三越前の中央通りを東に入った場所だった。

銀行発祥の地

近代の経済インフラは関東大震災で架け替える前の江戸橋近くに集まっている。当時は日本橋川の他に伊勢町堀、東堀留川そして楓川が流れており、ちょうど五差路になっていた。交通の要衝であったことは、明治4年(1871)、楓川の西側に駅逓司と郵便役所が置かれた事実からうかがえる。今は日本橋郵便局の入口に「郵便発祥の地」のパネルがある。

銀行発祥の地は楓川の東側にある。後に証券取引所も誕生するこの一帯は丹波田辺藩の上屋敷があった場所で、維新後は幕末の豪商の三井、小野および島田家が所有していた。震災後の区画整理まではこの区画を指して兜町といった。明治6年(1873)、その一角で第一国立銀行が誕生した。8割が三井と小野の出資で、頭取は両家から出され、渋沢翁は総監役だった。前年に完成した「三井組ハウス」を買収して本店とした。楓川に架かる海運橋を渡ったところに現れた和洋折衷の擬洋風建築は観光名所となり、当時の錦絵にも描かれた(図2.東京名所之内海運橋第一国立銀行(広重画)(出所)日本銀行貨幣博物館所蔵)。頭に天守閣を乗せたなんともジャパネスクな洋館は、清水建設創業者の清水喜助の養子、二代清水喜助の手によるわが国初の銀行建築である。錦絵に描かれた楓川は昭和40年(1965)に埋め立てられ今は首都高速環状線の高架が走る。石造りの海運橋は撤去され欄干の親柱が元々あった場所に残っている。店舗は建替えを繰り返し今は4代目の建物だ。跡地に建つみずほ銀行兜町支店の壁面に「銀行発祥の地」のレリーフが嵌め込まれている。第一国立銀行は第一銀行、第一勧業銀行を経てみずほ銀行となった。

第一国立銀行は全国の地方銀行の祖ともいえる。そもそも国立銀行とはいえ政府が設置した銀行という意味ではなく、米国のナショナル・バンク制度を直訳した「国立銀行条例」に基づく銀行のことだ。資産を裏打ちに独自の紙幣を発券できるのが特長である。条例改正で兌換義務がなくなったのを機に急増し153番目まで設立された。そのうち第四(第四北越銀行、本店新潟市)、十六(同・岐阜市)、十八(十八親和銀行、長崎市)、七十七(仙台市)、百五(津市)、百十四(高松市)が現存する。これまでの連載に登場した北陸銀行の第十二、鹿児島銀行の第百四十七など国立銀行を源流とする地方銀行も多い。国立銀行の中には、大蔵省時代に自ら銀行条例の起草に関わったこともあって渋沢翁が支援して立ち上げたケースも多かった。

兜町に証券取引所ができたのは明治11年(1878)。第一国立銀行の隣に東京証券取引所の前身、東京株式取引所が開業した。銀行と証券は企業の資金調達の両輪となる。投資家からみれば売却できる場があっての出資だ。渋沢翁は証券取引所の旗揚げにも関わった。

三井、安田の発祥と銀行街の形成

第一国立銀行とは別に、自前の銀行経営を目指した三井家は本拠の駿河町、今の三井本館の日銀よりの場所に三井銀行の前身となる「為替バンク三井組」を設立した。明治7年(1874)で、国立銀行以外の銀行では初めてのケースとなる。第一国立銀行と同じく二代清水喜助の設計・施工で、頂上に鯱が乗る擬洋風建築が耳目を集めた。ちなみに第一国立銀行は三井家の撤退を受け頭取が渋沢翁に交代。明治8年(1875)から大正5年(1916)まで約40年にわたる在任となった。

戦前の安田財閥の中核だった安田銀行も日本橋が発祥の地だ。明治13年(1880)に創業。今のみずほ銀行小舟町支店の場所に同行の本店があった(図3.安田銀行初代本店(出所)国立国会図書館デジタルコレクション)。植え込みに平成6年(1994)の銘で「富士銀行創業の地」の碑がある。安田銀行は戦後富士銀行に改称し、平成14年(2002)に第一銀行の系譜を継ぐ第一勧業銀行と合流しみずほ銀行になった。

日本銀行は明治29年(1896)に現在地に移ってきた。開業は明治15年(1882)で当時は日本橋箱崎町にあった。各行が独自紙幣を発行できる分権型の国立銀行制度から一行に紙幣発行権を集中させる中央銀行制度に転じる流れで設立したのが日本銀行だ。石積れんが造3階建の本館は後に東京駅を手掛けた辰野金吾の設計で、昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定された。他方、日本銀行の登場で国立銀行は発券銀行としての役割を終え、条例で定められた営業期間の満了をもって次々と普通銀行に転換していった。第一国立銀行は明治29年(1896)に第一銀行となった。

銀行発祥の地の日本橋界隈は全国各地を本拠とする銀行の支店が集まる場所でもあった。大正10年(1921)に東京府産業部商工課が編纂した銀行要覧によれば、東京以外を本拠とする銀行の支店のうち旧日本橋区にあるものが48あった。次に多かった旧京橋区でも7店で、日本橋への集中ぶりがうかがえる。

百貨店発祥の地

日本橋は百貨店発祥の地でもある。三越の源流である越後屋は延宝元年(1673)の創業。天和3年(1683)から現在地で呉服店を営んでいた。明治37年(1904)、その流れをくむ三井呉服店が株式会社化した際に「デパートメントストア宣言」を発信。これをもって百貨店の始まりとする考え方が一般的である。6か条からなる宣言のひとつに「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁なりますよう設備し」(文語体を一部修正)とある。ファッション中心の幅広い品揃えに座売りから陳列販売への転換が特長だ。三井の越後屋からとった「三越」の初出は明治5年(1872)。三井家の事業を統括していた三井大元方から独立した。背景には三井大元方の銀行業に注力する意向、いわば銀商分離の考え方があった。

宣言を機に建物の近代化も進んだ。当時は現在のように一区画まるごと店舗ではなく、図1.市街図のAつまり大通りと駿河町に面した4分の1区画ほどの建坪で店は土蔵造だった。その後おおむね図中BからDの順で増床を重ねた。明治41年(1908)、Bにできた仮店舗から洋館になった。大正3年(1914)に鉄筋地上5階・地下1階建の新館が完成。ルネサンス式の建物に採光天井の吹き抜け、日本初のエスカレーターが話題をさらった。正面玄関のライオン像はこの年からある。大正10年(1921)にBの仮店舗を建替え店舗面積が倍増。昭和2年(1927)、関東大震災で被災した店舗を改修しファザードが現在の姿となる。全館7階に建て増して三越劇場もできた。昭和10年(1935)には南側のCに増築。新しい中央ホールにパイプオルガンが設置された。そして昭和31年(1956)の増床で一区画すべて百貨店となった。平成28年に国の重要文化財に指定される。百貨店建築としては高島屋東京店に続き2例目だった。

図4.三越本店と三井本館(出所)筆者撮影

日本橋の近代建築

多くは関東大震災の後に建てられたものだが、日本橋界隈には日本銀行、三越本店の他にも往時を偲ぶ近代建築が残っている。銀行発祥の地のみずほ銀行兜町支店の通りを北に歩くと、旧・成瀬証券(現・フィリップ証券)と山二証券が並んでいる。それぞれ昭和10年(1935)、11年の竣工で、銀行建築を多く手掛けた西村好時の設計だ。向かい側には大正12年(1923)に第一銀行別館として建てられた郵船兜町ビル。突き当りに昭和3年(1928)築の日証館が現存している。三越本店も手掛けた横河民輔の設計。この場所には渋沢翁の私邸があった。

日証館と同じく川沿いに三菱倉庫の本社がある。本社が入る日本橋ダイヤビルディングの下層に昭和5年(1930)築の旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビルが保存されている。東京都選定歴史的建造物である。同じく川沿い、昭和通りの向こう側に野村證券の本社がある。日本橋から見える旧館は昭和5年(1930)の建築だ。大阪ガスビルで知られる安井武雄の設計。

最後に三越向かいの三井本館である。明治35年(1902)に建てた初代の三井本館が関東大震災で被災したため、鉄骨鉄筋コンクリート造地上7階・地下2階の2代目本館を再建した。三井銀行はじめ財閥中枢の本社を集約したオフィスビルである。コリント式の列柱が印象的なギリシャ・ローマ風の意匠で昭和4年(1929)に竣工。平成10年(1998)に国の重要文化財に指定された。

最高路線価の銀座、分散する中心地

金融、物流、郵便など多岐にわたる経済インフラの発祥の地となった日本橋界隈だが、交通手段が鉄道や高速道路に移るにつれ舟運と街道の優位性は低下していった。さらに業容拡大に伴い城下町由来の区画が手狭になったのか、拠点を日本橋から移すケースが散見された。大正12年(1923)、安田銀行が本店を創業地の小舟町から大手町に移した。第一銀行は昭和5年(1930)に新たな本店を丸の内に構え、元の本店を兜町支店にした。昭和10年(1935)、関東大震災による被災をきっかけに魚市場が築地に移転した。三井銀行は戦後も三井本館に本店を構えていたが、昭和35年(1960)に有楽町に新たに本店を建てて移転した。

路線価が確認できる範囲で最も古い昭和30年、東京で一番地価が高いのは「中央区銀座5丁目鳩居堂前銀座中央通り」、銀座4丁目交差点の南側である。日本橋税務署の管内に限っても、日本橋界隈で最も高い三越前の路線価を東京駅前が上回る。もっとも中心地が郊外に移転するケースが多い地方に対し、東京は都心内の移転に留まり郊外化の兆しは見られない。ひとつは、新しいスタイルの街をつくる白地のキャンバスが都心の別の場所に確保できたことだ。武士の街だった江戸城下町は幕府の瓦解で広い区画の武家屋敷が空いた。日本橋なら銀行発祥の地となった丹波田辺藩の上屋敷。丸の内や大手町のビジネス街や霞が関の官庁街もこの例のうちだ。現代も似たケースがみられる。工場跡地にできる新しい街はこの延長といえよう。もうひとつは人口が多く鉄道網が発達しており、マイカーが地方ほどには普及していないことだ。鉄道と徒歩がまちづくりの標準である。外に拡大する余地もないので旧市街に上書きするように新しい街ができてゆく。

図5.高架撤去後の日本橋イメージ(出所)首都高速道路提供。日本橋区間地下化事業webサイト掲載時点の再開発計画の情報を基に同社作成

水辺の街の再生

平成11年(1999)東京証券取引所から立会場がなくなった。株券の電子化やインターネット取引の拡大などもあって、兜町に事務所を構える証券会社が減少した。商業より先に、ネット化が街の風景を変えたケースだ。

とはいえ日本橋は今なお首都を代表する中心地のひとつである。伝統的な街にありがちな弱み、区画が狭く業容拡大に伴ってオフィスを拡張できないという課題も昨今はだいぶ解消された。再開発が進み、特に室町近辺に広い区画の高層ビル、複合商業施設が増えた。伝統的な街の強みは言うまでもない。元々、日本橋には歴史に根差したブランド、江戸時代から続く老舗の「なりわい」、歴史的建造物など有形無形の資産がある。書き出しで触れた渋沢栄一ブームも日本橋を大いに盛り上げる。

かつて市街に縦横に張り巡らされた水路は一般道や高速道路に置き変わった。経済インフラとして道路網が重要であることはこれからも変わらない。そのうえで、その街に住み、働く人が街に愛着を持てるまちづくりと折り合いをつけていく。折しも日本銀行の手前から東京証券取引所の辺りまでの高速道路の地下化事業が始まった。20年後、舟運で栄えた日本橋の水辺の風景がよみがえる。

プロフィール
大和総研主任研究員
鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融

財務省の政策