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パンデミック下の途上国支援~其壱:マニラの最貧地区でコロナ禍を生きる人々の苦悩と挑戦~

アジア開発銀行総裁首席補佐官 池田 洋一郎

1.はじめに

2020年3月11日にWHOが新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を宣言してから早1年が経過したが、パンデミック終息の兆しは見えない。ここフィリピンでも、2021年3月末までの累計感染者数は約75万人、死者数は約13,300人*1に上り、日々の感染者数はなお増加傾向にある。過去10年、平均6%の経済成長を記録してきたフィリピン経済だったが、コロナ感染拡大を食い止め、医療崩壊を防ぐために経済・社会活動が厳しく制約されるなか、2020年の成長率はマイナス9.5%に沈んだ*2。失業率は2020年4月には17.6%に達し、約一年を経た今年2月でも8.8%、418万7千人の人々が職を求めている。これ以外に約100万人が職探しを辞め、労働市場から退出した*3。そして、こうしたマクロの数字の裏には、一人一人の悲しみ、怒り、そして絶望がある。

「パンデミック下の途上国支援」と題する本シリーズは、昨年初に新型コロナウィルスの蔓延が始まって以降、今年3月末までの1年3か月間、筆者が、アジア開発銀行の職員として、そして、一人のマニラ市民として体験し、あるいは見聞きした問題と、その解決のため様々な人たちとの協働を通じて取り組んできたことをミクロとマクロ、双方の視点をもって振り返りながら、今後の開発課題について考えていく。第一回となる本稿では、BASECO(バセコ)と呼ばれるマニラの最貧地区でコロナ禍を生きる人々に焦点を当て、筆者がこの一年間、直接、時間と空間を共にしてきた彼らの苦悩と挑戦について紹介していく。

2.途方に暮れる人々

~トライシクルドライバー、ロニー~
2020年4月末。30歳になったロニーは年初めに3000ペソ(約6000円)かけて取得した業務用免許証を握りしめながら、真夏の太陽が地面に焼き付けるトライシクルの影を見つめていた。バイクの横に客車を据え付けたトライシクルは、マニラ庶民の日常生活に欠かせない足だ。ドライバーの後部に2人、客車に3人、無理をすれば4人、時にはそれ以上の客や荷物を満載にし、大気汚染と渋滞にまみれたマニラ市街を走り回る…それがトライシクルだ。平時であれば。

しかし、生計の基盤となるはずのトライシクルは3月16日から動きを止めたままだった。フィリピン政府がマニラ首都圏を含むルソン島全域を対象に課した厳しいロックダウンにより、あらゆる交通機関―電車、バス、ジプニー、タクシー、そして配車アプリのGrab(グラブ)からトライシクルまで―の運行が禁止されたからだ。銀行口座も貯蓄もなく、育ちざかりの4人の子どもたちと夫婦の食費、月1500ペソ(約3000円)の家賃、500~600ペソ(約1000円)の光熱費を支払えるあてもない。

大家は、家賃の延滞を認めてくれた。政府からはバランガイ(フィリピンの基礎自治体)事務所を通じて2週間分の缶詰やコメが配給された。一家庭あたり7000ペソ(約1万4000円)の補助金が支払われるという話もあった。しかし、役所に赴くと、申請書類が足りないため後日来るよう言われ、日を改めると、支給期間は終わったと告げられた…。

写真:マニラ庶民の足であるトライシクルは2020年3月16日から5月末までの間実施されたEnhanced Community Quarantineの間、他の全ての公共交通機関同様、運行が停止となった。

~建築作業員、ドナルド~
2020年7月中旬。激しい夕立がトタン屋根を叩きつける音が響く中、36歳のドナルドは部屋を照らす小さな豆電球の下で頭を抱えていた。隣には、腎不全で弱った妻ルセルが横たわっている。これまで建築の現場作業員として月2万ペソ(約4万円)を稼いできたが、パンデミックの影響で現場は次々と閉鎖され、収入も途絶えた。仕事を見つけようと走り回ったが、目にしたのは、自分と同じように職を求める人々だけだった。

妻の容態を保つには、週3回の透析が欠かせない。一回の費用は950ペソ(約2000円)。月に1万ペソ(約2万円)以上かかる。政府の保険プログラムがカバーしてくれる上限額を、先月突破してしまった。コロナ対応のための経済対策で財政赤字が激増した政府には、透析費用の補助を拡大する余裕はなさそうだ。2年前に3歳で亡くなった長男の笑顔が頭をよぎる。「俺は、日々弱っていく妻をただ見ていることしかできないのか…」。ドナルドは壁に掛けられたイエスの肖像を眺めながら、自分の無力を呪った。8歳の長女ステファニーは、そんな父の背中を柱の陰から見つめていた。

3.ロックダウンと終わりの見えない感染拡大

フィリピンで初めて新型コロナウイルスの感染者が出たのは、2020年1月30日だった。中国武漢からの旅行者で、一人は回復したが、もう一人は死去。中国国外でコロナによる死亡が確認された初のケースとなった。ドゥテルテ大統領は翌31日、中国湖北省からの旅行者の入国を禁止。2日後には対象を中国、香港、マカオからの全ての外国人へと拡大したが、一カ月後の3月5日に国内での市中感染が確認された。

筆者を含め約2000名が勤務するアジア開発銀行(ADB)の本部も、来訪者に感染者が出たことが判明したため、3月12日金曜日に急遽閉鎖された。その週末にはフィリピン全土で76人の新規感染者と6人の死者が確認され、政府はロックダウンECQ(Enhanced Community Quarantine)に踏み切った。以来、マニラでの生活と風景は一変した。

交通機関が全面的に運休となったことはすでに述べた。これによりほぼ全てのマニラ市民は出勤ができなくなった。一方、銀行、スーパー、薬局、及び生活インフラを提供する企業以外は全て営業停止となり、普段は賑わう巨大モールはシャッター通りへと姿を変えた。スーパーも、営業時間に加えて、一度に入店できる人数が制限され、入り口には、マスクとシールドで顔を覆い、社会的距離を保ちながら入店を待つ客の列ができた。教育機関もすべて閉鎖。夕方6時から朝5時までの11時間外出禁止令が出され、市内のあちこちに設けられた検問では、迷彩服に身を包みマスクとサングラスで顔を覆った軍隊が多数展開し、行きかう車やバイクの運転手に、外出許可証の提示を厳しく求める風景が常態化した。マニラを擁するルソン島と、それ以外の島々とを結ぶ飛行機や船も欠航となり、国際線はごく限られた出国と、海外で働くフィリピン人とその家族の帰国に限定された。

厳格なロックダウン(ECQ)は、脆弱な医療体制と裏腹の関係にあった。約1億600万人の人口を擁するフィリピンだが、保健省によると、昨年4月頭時点で利用可能な人工呼吸器は、国中かき集めても1263個で、重症患者向け集中治療用ベッドは4300床*4。医療従事者を守る防護服なども圧倒的に不足していた。新規感染者数が3~4日ごとに倍増する中、マニラ市内の大病院は相次いで新規患者の受け入れを断らざるを得なくなり、ひとたび重症化すれば、ろくな治療も受けられないまま、運を天に任せるしかない状況になった。

ロックダウン(ECQ)は、5月30日まで2カ月半にわたり続いた。その後、マニラ首都圏はおそるおそる制限を緩和したが、感染者数や死者数の減少と軌を一にしたわけではなかった。状況はむしろ逆で、特に7月以降、疫学上の不幸指数はいずれも上昇。8月6日には累積の新規感染者がインドネシアを抜いて東南アジア最高となり、8月10日には一日の感染者数が6871人を記録。これを受け、フィリピン政府は8月半ば、経済活動の制限の再強化に踏み切った。

その後、年末に向けて感染者数は徐々に減少、一時は一週間の平均が三桁台にまで減ったこともあった。しかし、新種ウィルスの流行や人々の気の緩みも手伝って、足もと、感染が三度拡大。本原稿執筆中の3月末時点で日々約1万人の新規感染者が確認されており、再び、厳格なロックダウン(ECQ)*5が3月29日から一週間実施されている。すべては、振出しに戻ってしまった。

写真:ADB本部近くにある巨大なモール(SM Mega Mall)の入り口。マスクとフェイスシールドの着用、検温、そして携帯電話にダウンロードしたTracking(居場所確認)のためのアプリケーションの提示がなければ入館は認められない(2021年2月)。

4.ソーシャルディスタンスも在宅勤務も難しい人々

厳しい活動制限にも関わらず、感染拡大が抑まらない背景の一つに、フィリピンにおける大きな経済的、社会的な格差が挙げられる。例えば、富裕層や国際機関職員が多く暮らすBGC(Bonifacio Global City)やマカティといったエリアでは、外出時にはマスクやフェイスシールドの着用が厳格に求められ、違反者には罰金の切符がきられる。自宅マンションやモールに入る際は検温と消毒が、レストランで食事をする際には陽性者との接触を確認するための個人情報入力が徹底されている。オンライン環境も悪くなく、在宅勤務にも不自由はない。

他方、庶民の状況はどうか。例えば、マニラ湾に面した貨物ターミナルの周辺に広がるBASECO*6は、マニラ首都圏で最も貧しい地区の一つ。トタン屋根とコンクリート・ブロックで作られた小屋がところ狭しとひしめく迷路のような集落に、約6万人が暮らす。厳密な仕切りもない長屋のような空間に複数世帯が暮らす環境では社会的距離を保つことは難しく、個人がどれだけ努力しても感染は広がりやすい。

写真:筆者が毎週末、個人的支援活動を展開しているBASECO地域の街路。東京ディズニーランドと同じ程度の面積の埋立地に6万人以上の人々が暮らす。上下水道や舗装された道路もほとんど未整備だ。

手洗いやうがいの習慣も、蛇口をひねれば清潔な水が出るという贅沢な設備があるからこそ成り立つ。BASECOで暮らす多くの人々は、毎日、ポリタンクを持ってミネラルウォーターの給水機がある店まで飲み水を汲みに行く。値段は1リットルあたり1ペソ(2円)。ひねれば水が出る蛇口がある家は数十軒に一軒しかない。手洗いやうがいに欠かせない清潔な水も、ここでは高価で希少なのだ。

写真:町内のあちこちにあるミネラルウォーター販売機に5ペソ硬貨を入れて1ガロン(約3.7リットル)が入る容器に飲み水をためるBASECOの若者。

この町で暮らす男たちは、冒頭で紹介したロニーやドナルドのように、トライシクルやジプニーのドライバー、建築現場や港湾の作業員、あるいはオフィスの清掃員として働き、女性の多くは、レストランやバーの給仕や接客係、富裕層の家事手伝いや子守役、あるいは町の雑貨屋であるサリサリストアの店番をしながら、日々の糧を得ている。いずれも大切な仕事だが、在宅では取り組めない。失業手当も未整備のなか、ロックダウンの割を真っ先に食うのが、こうした人々だ。そして、彼らを苦しめる災禍は、失業や疾病だけではない。

5.スラムで頻発する大きな災禍

~大火災とコミュティリーダー・ボナの悲しみ~
「火事だ!」
近所の人の叫び声をボナが耳にしたのは、2020年7月16日の昼下がりだった。障害のある子どもたちや親たちを対象に教育や食料を届けるプログラムを実施しているキリスト教系慈善団体の「CARITAS MANILA」でコミュニティ・リーダーとして活動するボナは、その日も街の教会で支援プログラムの内容を住民たちに説明していた。弾かれたように教会を出ると、黒煙が上がり、人々が身の回りの品物だけを持って半狂乱で逃げまどっていた。迷路のように入り組んだ街路には、消防車が入る隙間などない。ひねれば水が出る蛇口すら、この辺りでは数十軒に一軒しか設置されていないため、いったん火が付けば、延焼を食い止めるのは極めて難しい。

調理用の油鍋がひっくり返ったことで発生した小さな火は、巨大な火炎となってあっという間にコミュニティを飲み込み、コロナ禍で疲弊しきっている人々から、つつましい家屋を含め、わずかながらの資産をすべて奪った。被災者は648人、172世帯に上り、ボナがこれまで支援してきた友人の女性も4人の子どもたちを残して亡くなった。今年10歳になる末の女の子は心身に重度の障害がある。そして、彼女たちは、数年前に病気で亡くした父に続き、火災により母も亡くし、孤児となってしまった。

ボナは、22年前からマニラ湾に面したBASECOで暮らしている。乏しい医療体制、舗装されていない道路、整備が行き届かない上下水道、夜になると頻発する喧嘩や犯罪、その背景にある厳しい貧困など、問題は山積している。それでも、「我が町BASECOの明日をより良いものにしよう」という思いから、彼女は長年、地域の人々とともに献身的にコミュニティ活動に取り組んできた。しかし、今回の事件はあまりにも厳しい。ボナは瓦礫の山に変わり果てた火災の現場に立ち尽くしながら「心が折れそう…」と、つぶやいた。彼女の横には、途方に暮れている4人の火災孤児たちがいた。

写真:BASECOで2020年7月16日に発生した火災の現場。残念ながら人口過密状態で水へのアクセスが乏しい都市のスラムでの火災は珍しいことではない。

6.回復力を発揮する地域の人々

そんなボナの悲しみは、彼女のFacebookへの投稿を通じて多くの人々に届いた。彼女がボランティア・リーダーを務めるCARITAS MANILAの活動を2018年8月に見学させて頂いたことを御縁に知り合った筆者もその一人だ。ボナの声に導かれて火災の二日後に筆者が訪れた現場は、想像以上に広範囲が焦土と化していた。台風等の災害から住民を守るために建てられた鉄筋4階建てのBASECOの避難所には、プライバシーも、社会的距離もない状態で、数百人の人々が身を寄せ合っていた。皆、身の回りのものだけをもって逃れてきたようで、身体を洗ったり、水をくむためのヤカンやバケツすら持っていなかった。マットレスや毛布も、もちろんない。

被災した人々への見舞いとして、風雨をしのぐテント数枚、缶詰食品、母親を亡くした孤児のためのオモチャ、そしていくばくかの現金をボナに手渡してその日は引き揚げたが、そこからが、困難に立ち向かうボナをはじめとするBASECOの人々と私の並走の始まりだった。

BASECOの現状を一人でも多くの人々に知ってもらい、可能な限りの支援を集めようと筆者がSNSで呼び掛けると、ADBの大勢の同僚たちや、日本の友人たち、そして財務省をはじめとする霞が関の同僚たちがそれに応えてくれ、わずか10日で約440万円もの義援金と、車5~6台分の支援物資が私のもとに寄せられた。

一方、ボナは、CARITAS MANILAのボランティア・スタッフを二十人近く動員し、義援金で当座必要な日用品を大量に購入。私とボナ、及びその仲間たちとの緊密なパートナーシップを通じて、火災の発生から約1週間で一人当たり1000ペソ(約2000円、5人家族なら約1万円)の当座の生活資金と併せて生活必需品のセットを避難所で暮らす人々に届けることができた。

さらに、4人の火災孤児が安全に暮らせる家を探し、火災から約1カ月後、子供たちは無事、避難所から新しい家に引っ越すことができた。家の購入費は改修費と併せて35万ペソ(約70万円)。孤児たちの家を選ぶ際にボナがこだわったのは、自治体が発行した資産証明番号が付いていることだった。他の途上国の都市部に広がるスラムと同様、BASECOの土地も基本的には政府の所有物であり、そこで暮らす人々は、事実上、その場を占有しているにすぎない。従って、政府が公共事業等をその土地で実施すると決めた場合には、突然、立ち退きを命じられるリスクがある。しかし、家の入口に自治体が発行した資産番号がついていれば、政府公認の資産として所有権が認められ、仮に今後、立ち退きの必要が出た場合も資産額に見合う補償金を受け取ることができる。

写真:2020年8月、火災現場から身の回りの者だけをもってBASECO内の避難所に身を寄せる人々。避難所からすべての人々が退去したのは火災発生から2か月後のことだった。
写真:緊急支援として調達した日用品を受け取るBASECOの火災被災者の女性
写真:避難所から新居へと移った4人の火災孤児たち

7.危機対応から未来への投資のフェーズへ

4人の火災孤児たちが、自律し、自立していくためには教育が不可欠だ。

「何とかしてこの子たちに質の高い教育の機会を届けたい」、「誰か家庭教師を引き受けてくれないだろうか」―。そんな思いで探し回った末に出会ったのが、ランディ先生だった。BASECOで育ち、今年35歳になるランディ先生は、現在、マニラのGolden Success Collegeで17歳から18歳を対象にビジネス・マネジメントやマーケティングを教えつつ、空き時間を利用して、経済的に恵まれないBASECOの子どもたちに補修授業を行う家庭教師のネットワークを作っている熱血漢だ。孤児たちへの家庭教師を快諾してくれたランディ先生は、しばらくしてこんなことを語ってくれた。

「コロナの影響で今年の新学期は通常より2か月遅れて10月から始まるが、対面での授業は当面期待できない。公立学校では、保護者を週に一度学校に呼び、科目ごとに宿題を配布しては回収、添削し、また次の宿題を出す、というやり方で指導を続けようとしている。マニラ市も各家庭にタブレットを無料で貸与し、オンライン授業の環境整備を支援している。」

「しかし、BASECOでネット環境がある家庭はごくわずかだし、宿題だけもらっても、教える人や監督する人がいなければ、子供たちは勉強に身が入らず、知識も身につかない。こんな状況を、BASECOの若者たちの手で変えていけないだろうか…。」

それは、いわば「BASECO版寺子屋イニシアティブ」を立ち上げたいという提案だった。ランディ先生は、成績が優秀で地元愛の強い大学生や社会人10人を「寺子屋」の講師として集め、火災で被害を受けた家庭や、経済的に厳しい家庭に寺子屋の開始を知らせて回った。さらに、教会や民家と交渉し、少人数の授業を開けるスペースを10カ所以上確保した。

約2週間の準備期間を経て、「BASECO版寺子屋イニシアティブ」は10月3日にスタートした。以来、今日に至るまで、クリスマス・年始の休暇を除き、土曜と日曜の午前と午後に2時間ずつ、計4回開かれるクラスには、小学校1年生(Class1)から中学4年生(Class10)まで各学年7~8人ずつ、合計で約320人の子供たちが集い、基礎的な学習機会と定期的な学習習慣を手にしている。ノートや鉛筆がない子どもたちには、義援金からノートとペンを配布したほか、授業に役立ててもらおうと、講師陣にはホワイトボードとマーカーも提供した。

先生役を引き受けてくれた若者たちも、週末の午前と午後に2時間ずつ授業を受け持つことで、一日500ペソ(約1000円)の謝礼を受け取ることができる。マニラ首都圏におけるマクドナルドやジョリビー(フィリピン現地資本の巨大ファーストフード・チェーン)の日給とほぼ同額だ。彼らの中には、親が失業して学費を払えず、進級や進学を遅らせている者もいる。寺子屋は、BASECOの子どもたちを力づけるだけでなく、指導役の若者たちにとっても、コロナ禍がもたらした厳しい不況を乗り切る所得を得る機会になっている。

現在、筆者は、ランディ先生、ボナ、そしてBASECOの人々と協働しながら、図書館の設立にむけて取り組んでいる。毎週末、迷路のように入り組んだ、舗装されていないドロドロのBASECOの裏道を歩き回りながら、候補となりうる物件を探しまわってきた。そして、とうとう、3月末に価格面、立地面、そして施設面で最適と思われる物件を見つけ、22万ペソ(約44万円)で購入契約を済ませたところだ。

写真:BASECOにある教会の敷地を借りて展開する「BASECO版寺子屋プロジェクト」の様子。

新型コロナ、失業、そして大規模火災。無体とも言える度重なる不幸を前に、変えられない現実は受け入れながら、自らの力で変えることができる何かを見つけ、周囲を動かし、コミュニティの明日を創っていく…。そんなBASECOの人々と毎週末、ともに時間を過ごしていると、この街が「スラム」という一般名詞では表現しきれない、とても豊かで、深みのあるコミュニティであることに気付く。

一方で、経済的・社会的格差と貧困はパンデミックを抑え込むうえでの障壁となり、同時に、パンデミックの結果、さらに悪化している。例えば、上下水道が整備されておらず、舗装された道路もない劣悪な住環境が改善されなければ、感染症を克服することは極めて困難だ。そして、パンデミックが長引けば長引くほど、そうした地域で暮らす人々の所得は相対的に大きく下がり、また住環境を改善するための公共投資も後回しにされていく。この悪循環をいかにして断ち切っていくかは、今後長きにわたる大きな開発課題だ。特にフィリピンでは、昨年3月以降全教育機関が閉鎖されて以降、一年を経てなお、対面授業の再開のめどが立たない中、拡大する格差が、世代を超えて、さらに深く、大きく、社会に定着するのではないか、との強い懸念を持たざるを得ない。教育-特に質の高い公教育-には、世代を超えた格差の固定化を打破する機能がある。一日も早い対面教育の再開と、教育へのさらなる投資が、フィリピンをはじめとする途上国の経済・社会をパンデミックから力強く、そして持続的に立ち直らせていくためには不可欠だ。

次号では、「危機に立つ開発金融機関」とのタイトルのもと、筆者が勤務するアジア開発銀行が2020年の第一四半期に展開した危機への初動、及びその間に発生した様々な組織管理上の課題への対応について紹介していきたい。

筆者略歴
2001年財務省入省、主計局、広島国税局等を経て、2008年よりハーバード大学院ケネディスクール留学。公共政策修士号取得。以降、国際金融・途上国開発、国際租税分野等の政策立案を担当。2011年夏より3年間、世界銀行に出向、バングラデシュ現地事務所及びワシントン本部にて開発成果の計測・モニタリングの仕組みの立上げと展開に尽力。2017年7月にアジア開発銀行総裁首席補佐官に就任。中尾武彦前総裁、浅川正嗣現総裁のトップ外交、組織経営全般を補佐。
著書「ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ~世界を変えてみたくなる留学~」、「バングラデシュ国づくり奮闘記~アジア新・新興国からのメッセージ~」(共に英治出版)

*1)出典:Philippine Government Department of health, COVID-19 Case Tracker

*2)出典:アジア開発銀行による2021年3月時点の推計値

*3)出典:フィリピン統計庁月例労働力調査(2021年3月31日公表)

*4)Philstar Global April 3 2020

*5)2021年3月29日からマニラ首都圏、及び近隣4週を対象に課されたECQは2020年3月半ばから2か月半に亘り課されたECQよりは若干内容が緩和されている。例えば、公共交通機関については乗客に制限を設けたうえで運行が許容されているほか、レストラン、カフェもテイクアウトに限りサービスが許容されている。ただし、教育機関は2020年3月半ば以来、閉鎖されたままであり、また18歳以下、65歳以上の者は原則として外出すら禁止されている。

*6)BASECO(バセコ)の正式名称はBarangay 649(Barangay(バランガイ)とは東京23区のようなフィリピンの最小行政単位)。Basecoはマニラ湾に面した、一辺約1キロの正三角形のような形をした埋立地であり東京に喩えれば、芝浦ふ頭のような場所だと考えると想像がつきやすい。アジア開発銀行からは約20キロ、道路に混雑がなければ30分程度の距離となる。