財務総合政策研究所

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5.第五回研究会(2月22日)

(1)国別報告「ベトナム」

 桜美林大学国際学部教授 
トラン・ヴァン・トウ


 アジアの通貨危機の直前までのベトナムの経済の発展の特徴は何であったかということを簡単に述べ、その後、アジア通貨危機の影響とベトナム政府の対策、そして最後に、これからの課題を簡単にまとめたい。


 [1] ベトナムの90年代前半の経済発展の特徴

 90年代前半の経済発展の特徴として、四つのポイントが挙げられる。

 第一の特徴として、91年まで物価はハイパー・インフレーションと経済停滞が続いていたが、92年から5年間位は、物価の安定と経済成長が両立してきたと言える。その要因はいろいろあるが、後で質問があれば述べることにする。

 第二の特徴として、直接投資主導型成長。アジア経済全般について、85年頃からの10年間は直接投資主導型成長とよく言われるが、ベトナムの90年代前半は他のアジア諸国以上に直接投資主導型成長と言えるのではないかと思う。90年代前半の成長について考察してみたい。国内貯蓄と国内投資のデータを見ると、国内投資は急速に上昇し、97年にはGDP比約25%、その前年(96年)は約28%であったが、国内貯蓄は90年までほとんどゼロであった。その後は上昇したものの、17%程度にとどまった。だから、この投資と貯蓄のギャップを埋めるために外国から資本を導入したが、その中で直接投資はかなり大きなシェアを占めた。ベトナムの国際収支の構造について考察してみたい。95年から97年の海外直接投資の対GDP比は10%前後で、この水準はアジア諸国と比較するとシンガポールとマレーシア並みの高さになる。タイとかインドネシアなどは国際収支ベースの直接投資金額のGDP比率は2〜3%だから、ベトナムではシンガポールマレーシア並みの直接投資が行なわれていたことを示している。

 第三の特徴として、他のアジア諸国も東アジア分業体制へ依存しているが、ベトナムは他の諸国以上に高く依存しているという点にある。90年頃までは旧ソ連との分業は強かったけれども、ドイモイ政策の下ではアジア太平洋への大幅なシフトが見られた。他のアジア諸国は対米依存度が高いが、ベトナムは米国との関係はまだそれほど強くないので、その分、近隣諸国のアジアNIEsとか日本、他のASEAN諸国への依存が高い。その分だけ、今回のアジア通貨危機の影響はベトナムにとって大きかった。

 第四の特徴として、所得格差の拡大。都市と農村との所得格差、あるいは都市の中での所得格差もドイモイの過程で拡大していった。特に農村と都市との格差は非常に大きい。そして、その格差が広まっていったということが特徴的である。就業人口の構成を考えてみると、70%の労働力がまだ農業などの第1次産業に従事している。特に農産物価格と工業生産物価格との相対価格、あるいは交易条件が農産物にとって悪化していって、農民の生活はなかなか改善しなかった。こういうことがこれからのベトナムの課題として残っていると言える。

 この四つのポイントが通貨危機の前までのベトナムの特徴である。


 [2] アジア通貨危機の影響と対策

 次にアジア通貨危機の影響と対策に話を移す。ベトナムは金融市場に先物市場が存在しないし、外国人の投資なども制限されるから、その点では通貨危機の影響はベトナムにとっては軽かったが、先ほど指摘したように東アジアへの依存度が高い点で、その影響は軽くない。具体的には三つのポイントでまとめられると思う。

 第一のポイントは輸出成長の鈍化、輸出価格の低下、生産者の所得減少ということが言える。輸出の対前年度伸び率は、ベトナムの高度成長の下では1991年から1996年にかけて年間20%から40%程度増加していた。しかし、97年には20%に鈍化し、昨年(98年)は4%に大きく鈍化した。これは、他のアジア諸国との競合関係のある品目で、他のアジア諸国の為替レート低下の分だけベトナムの国際競争力が低下し、マーケット・シェアを維持するために輸出価格を低下させた。結果として、農産物を生産する農民や企業などの所得の減少が見られた。ベトナムの主要輸出品目については、現在は製品の多様化が進んでいるが、それでも米、原油、コーヒー、水産物といった1次産品への依存度がまだ高い。特に原油の価格は国際市況も悪化していて、ベトナムの原油輸出の価格を大幅に減少させている。それがベトナム経済に大きな打撃を与えた。それが第1のポイントである。

 第二のポイントは直接投資流入の減少と、一部の外国金融機関の撤退である。先ほど東アジア分業体制への依存が高いと述べたが、同様のことが直接投資についても言える。日本、韓国、タイといったそれぞれの国の国内事情あるいは、金融体制改革などの影響でベトナムへの投資が減少した。実行ベースでは97年は29億ドルから98年は17億ドルへと減少した。一部の外国金融機関の撤退ということでは、諸外国の金融機関がベトナムから撤退した。特に日本と韓国の金融機関はベトナムに駐在員事務所、支店を3、4年前までは開設していたが、その一部は撤退した。これはベトナム側の問題もあるが、それぞれの国の金融事情に負うところが大きいと判断できる。その結果として、ベトナムの経済成長が鈍化してしまった。

 第三のポイントとして経済成長の鈍化が挙げられる。98年は経済成長が5.8%。この水準はアジアでは中国に次いで高い成長率だが、当初の計画では9%であった。97年にはまだ通貨危機の影響を受けなかったため9%を維持できたが、98年はその3分の2程度に鈍化した。

 大体通貨危機の影響は以上のような三つのポイントにまとめられる。

 次に、それに対するベトナム政府の対応策だが、当然予想できることだが、第一に外貨管理を強化して銀行間の外貨の取引とか、あるいは外貨に流出・流入などを厳しく管理するようになった。

 第二に為替レートの調整を行なった。他のアジア諸国ほどではないが、大体一年半で三回にわたって約20%切下げるという対策を行なった。

 第三に輸出奨励策および、投資環境の改善を行なった。これは、かつて韓国などがとっていたような政策で、例えば輸出企業がそのパフォーマンスに応じて輸出奨励金などを出すような対策を打ち出した。外国の直接投資をもう少し呼び戻すために投資環境の改善ということも努力した。

 第四に民生安定の強化(医療、食糧、教育の貧困層への普及の努力)。これは特に農村と都市部の貧困層などへの医療、食糧、教育。この3つのポイントを充実できれば社会・政治も安定すると考えて、力を入れるようになった。

 そして、第五として東アジアの経済成長が回復するまで、成長目標の下方修正を行なっている。従来は、10年間位、年間9%ぐらいの成長率を考えていたが、昨年からそういう成長目標は、もはや実現できなくなり、下方修正するようになった。例えば99年は目標を5%〜6%と修正して、しばらくこの水準を維持できればいいという認識を持つようになった。

 また、成長目標の下方修正とともに発展戦略の軌道修正を行なわなければならなくなった。ベトナムは3〜4年前、工業化という一つの大きなスローガンを掲げて、工業化と現代化という二つを長期目標として努力すると言っていた。そして、その方向に向かって大規模な投資プロジェクトを準備していたが、今回は、一部の大規模プロジェクト、南から北や背後地への投資構想などを棚上げするようになった。従来も重視していたが、今回のアジアの通貨危機を契機に、農業・農村開発を重視するという政策を打ち出した。ベトナムは今人口が8,000万人だが、その80%の人口は農村にいるので、その労働力の安定、雇用確保による安定的な生活などを確保しなければならない。そのために、農村・農業開発に投資しなければならないと考えている。

 アジア通貨危機はベトナムにとって厳しい面も多くあったが、よい教訓もあった。ベトナムは改革とか発展の試行錯誤の中で、アジア諸国にこういう危機が起こり、それをベトナムのよい教訓にするように生かしていこうと、政府指導者層は考えている。

 具体的には、持続的な発展のための基盤整備の重要性を再認識すること。そして政治・社会の安定、民生安定、公正重視。つまり経済成長と社会公正とのバランスを重視しなければならない。そのために農村・農業への投資の増加を図る計画だ。アジアの通貨危機を経験して、銀行と企業との関係の健全化と経済原則の重視などに注意して改善していこうというきっかけになっている。

 例えば一年ぐらい前までは、国営企業が銀行から資金を借りるときに、市当局あるいは工業大臣などの国営企業を管轄する行政当局が保証すればいくらでも借りられるシステムであったが、去年からできなくなった。これはベトナムがアジアの通貨危機を教訓として活かした一例である。


 [3] これからの課題

 最後にこれからの課題に話を移す。第一にベトナムが現在どういうことを考えているかということを述べると、当面はアジア通貨危機の影響に対する政策を実施していくが、多分あと二、三年でアジア通貨危機も一段落し、アジア諸国の経済が回復していくと見られるので、ベトナムはそれに対応して中長期の発展ビジョンを策定していく。ベトナム政府関係者は、特に2010年までの発展ビジョンを準備しているところである。というのは、共産党の次期の全国大会(第9回大会は来年の終わりか再来年に開催予定)に向かって中長期の発展ビジョンを準備していくわけである。そのときに、当然、ベトナムはAFTA、APECへの加盟、WTOへの加盟、あるいはアメリカとの通商関係をより改善していくという視点を踏まえて、ベトナムの工業化政策、農業・農村の開発という問題をビジョンとして描くことになっている。

 第二として企業部門の活力の養成・強化と国営企業の改革、ならびに民間企業の発展の必要性を指摘しておく。企業部門の活力を引き出すということとか、それを強めていくということが大きな課題である。ベトナムでは、民間企業の発展の環境はまだまだ十分整備されていない。許認可行政は非常に複雑で、企業の投資意欲を減退させる行政システムが残っている。今後は、中小企業の育成も大きな課題になる。

 第三として金融部門の体質強化が必要である。これはアジア通貨危機を契機にアジア諸国の経験を勉強中である。国内貯蓄率の増加、また、中小企業への融資を効率的にやっていかなければならないので、そのために金融部門の体質の強化と改善が必要である。

 最後に、輸出産業の育成についてであるが、これは、先ほどの貯蓄・投資のギャップにみられたように、ベトナムは当面、外国の資本を導入し続けなければならないが、累積債務化を避けるこめにはどうしても輸出産業を育成していかなければならないということである。



(2)国別報告「ミャンマー」 

東京大学東洋文化研究所助教授
高橋昭雄

 [1] マクロ経済の概況

 マクロ経済の指標だが、実質GDP成長率は80年代にかなり落ち込んだのが、軍政以降数字上はとりあえずかなり高い伸びを示している。社会主義時代にはなかったGDP成長率を記録している。

インフレ率は、社会主義時代にはなかった高い値で、これは主に通貨供給量の増加によってもたらされたものと言われている。通貨供給量の増加率については、後で申し上げる外国投資と、通貨に対する信任の低さがある。ともかくまずいことは隠すというのが軍政の本音であって、最近、このデータは発表されていない。

 輸入・輸出対GDP比は非常に小さい割合で出ているが、これは公定レートで評価している結果である。実際には、公定レートと市場レートの差が70倍ぐらいあるとされるが、70倍だとものすごい輸出量になってしまうので、この数字の根拠は見当もつかない。どの様に算出すれば正しい数値が出るのかわからない。貿易収支の赤字はずっと続いているが移転収支(海外に労働者が出てミャンマーへ送金したお金)黒字がかなり大きくなっており、貿易収支と比較すると経常収支の赤字が少し減るということになっている。いわゆる市場経済に移行したのが90年ぐらいであるが、90年代において構成比が高くなっているのは農業である。寄与率を見ても、87年(農産物の自由化を実施した年であり、88年の民主化闘争の一年前)から98年の11年間については38.5%、92年から98年については27.7%となっており、市場経済化してから農業部門の寄与率が高くなっている。この間の経済成長は基本的には農業部門が押し上げたものである。それに次いで寄与率が高いのは製造業部門、建設部門である。今、ヤンゴンやマンダレーでは建設ブームが起こっている。製造業部門では割合小規模な製造部門が生じて来ている。以上の三点がGDPの成長の主な要因ということができる。また、商業と貿易の自由化に伴う経済成長であるということもできる。コメはほとんど輸出余力を失っている。国内の需要に食われてしまう、あるいはヤミでかなり流れているのではないかという噂があるが、この辺はとらえることができない。

 現在、輸出で大きく占める品目は、農産物だが、その中で一番多いのは豆である。豆類は各国別の輸出先資料はないが、主にシンガポール経由でインド、バングラディッシュに流れていると思われる。

 あと大きいのが水産物の輸出で急成長している。水産物に関しては自然のものはほとんど取り尽くされた、あるいはそれに近い状態にある。自然のエビは一時期日本に輸出されていたが、最近では減りぎみである。

 林産品の輸出に関してみると、チークは国家の管理で、少しずつコントロールして輸出している。これについて、私が見る限りにおいては、太さがどんどん細くなっている。つまり、細いものを伐っているという印象がある。

 ちなみにコメ、木材(チーク)、貴金属、特に宝石類の輸出は国家の独占になっており主要な輸出品目はほとんど国家が握っている。豆類、水産物等は小規模企業がやっているが、この企業が自由化以降非常に増加している。小規模企業が少ない資源を争って輸出しようとすると、国内の需要をまかなうことが出来ず、必需品(食料品)の価格が上がってしまう。対策として、政府はあるときはゴマを禁輸にしたり、あるときはラッカセイ、あるときは魚というふうに、何か不都合があるとそれを必ず禁輸にするという措置で当座はしのいできているし、現在でもそうしている。


 [2] 農業の革新

 ミャンマーの農業が90年代特に変わったことは、灌漑の導入である。乾期(11月から3月、4月にかけて)にはミャンマーはほとんど雨が降らないので、このときは何も作らないというのがデルタの原則であり従来の農業の方法であった。これが灌漑(潮汐灌漑といって海の潮を利用してやっている)によって二期作が導入されたことにより、この部門の成長が非常に大きい。

 ここで強調しておきたいのは、ミャンマーの農業は90年代に大きく変わってしまったということである。どういうふうに変わったかというと、いままで牛を使ってほとんどインプットなしに労働力と畜力でやっていた。90年代になって、水を引くのにディーゼルが必要で、乾期に耕起するために機械(トラクター・耕うん機)が必要となる。高収量品種米が導入されると肥料が必要になる。つまり、生産量は非常に増加した一方、金がかかる農業に変わってしまった。ところが最近、通貨危機後、外貨が不足して肥料(NPK(窒素りん酸、カリ)のうち、ビルマはNの半分が国内で生産できるが、あとNの半分とP、Kは全く生産できないため輸入せざるを得ない)が全く輸入できない状況である。つまり、農業が大きく変わって生産は伸びたが、自国の外貨準備高によって影響される農業に変わってしまった。今年は肥料が輸入できないために、かなり問題が起こるだろうと予想される。


 [3] 商業と貿易の自由化

 次に三点目として、88年9月にクーデターが起こり、10月に輸出入業務の自由化が直ちになされた。これによって軍政はミャンマーはすぐにでも大発展するだろうと思った。88年11月から国境貿易が二国間協定(ミャンマーと国境を接しているタイ、ラオス、中国、インド、バングラディッシュと二国間協定)で順次合法化されていく。いままで、陸上の貿易はすべて違法(ヤミ)だった。

 また、私企業の設立により、小規模の輸出入業者が非常に多くなっていった。結果として少ない農産物の輸出品の奪い合うという状況が生じ、食料品価格の高騰につながっていった。

 他にも輸出入について価格を押し上げるいろいろなシステムが昔からあった。輸入ライセンスの取得のために非常に煩雑な手続が必要であり、あるいは申請料を大幅に上回る賄賂(これは結局は軍政に入るのだが)などが輸入価格を押し上げる要因となっている。

 いままでミャンマーの人たちはドルを握ることはできなかった。「握ると手が焼けてしまう」と言われていたが、93年2月に外貨兌換券(フォーリン・エクスチェンジ・サティシフィケート=FEC)が発行される。これで1ドルはFEC1ドルと自由に交換出来ることとなった。この結果輸出入業者が自分で稼いだドル、あるいはどこからか持って来たFECをかき集めたドルに替えて外国から物を輸出入することができるようになり、事実上ドルを使うことができるようになった。

 専門家が、FECとドルを交換し、次にFECをいろいろな銀行に回したりすることにより、信用創造作用が生じるのではないかと言ったが、そんなことではなく、FECと交換した現金のドルは政府が使ってしまった。つまり、使ってしまったために、突然、FECを替えてくれとたくさんの人が来たらもう替えられないという状態が明らかとなったために、97年7月(通貨危機とほぼ同時期)FECを引当とする外貨送金を一カ月当たり5万ドルに制限することとした。民間企業は、特に外資は困る。外国から原材料を輸入して国内で売っても、ミャンマー人からもらえるのはチャットかFECであり、FECでは原材料は5万ドルまでしか輸入できない。そういう困った事態が発生し、外資にとっては非常にディスインセンティブとなる。

 こういう状況下、輸入は外貨がないので規制される。外貨がなければ輸入は禁止されるということであり、たとえ外貨を持っていたとしても強制的に、全輸入額の80%は政府が必要とするものを輸入しろ(いままで50%ぐらい割当があった)、残余の20%についても政府のリストがあって、ここから輸入したいものを選べという、非常に厳しい状況になり現在に至っている。

 国境貿易についても、赤字が出そうになる。あるいは、ビルマ産の農産物がたくさん出そうになるというと、輸出禁止にするだけではなくて国境も閉じてしまう。しかし、中国やタイから圧力がかかれば開く。97年12月に閉鎖したが、中国から文句が出て98年3月に開放、9月にはタイと国境を開放している。

 アジア通貨危機の問題は、おそらく一つは出稼ぎ労働者の送金の減少ということがあると思う。一説によるとタイには(おそらくはほとんど不法)およそ100・万人のミャンマー人労働者がいると言われている。これは、先ほど言った移転収支として計上されていないこれは「ホンディー(ヤミの送金)」である。日本からミャンマーにもそういうふうに送金しており、ヤミの送金を大量にしていたためにつかまったミャンマー人もいる。「ホンディー」というのは英語ではなくてヒンディー語か何かではないかと言われているが、その送金がかなり少なくなってしまった。これが大きいと思う。

 送金の減少の要因は不景気のためばかりではなく、タイが98年1月から8月にかけて26万人の不法就労者を送還しているが、このうち80%から90%がミャンマー人と言われている。つまり、量的にも強制的に減らされてしまった。

 「闇経済の復活?」と言われているが、社会主義時代は物はほとんどヤミから入っていた。統計上ではものすごく貧乏な国だと思うが、物はそれなりにかなりあった。今でもかなり不景気だ、外貨の輸入割当がある、政府がコントロールしていると言われながら、印象としては、外国の消費財はどこに行っても増加している。これは主に麻薬の増産による収入によるものと伝えられていて、一説によると軍も一緒になってやっていると言われる体制の中に麻薬による収入を積極的に中に取り入れていこうという動きがあり、50%税金を払えば、あとの50%で何に使ってもいいという制度があり、クンサーとかローシンハンという麻薬王が道路を整備したりホテルを建てたりしている。そういうアングラの金が少しずつ表に出てきているかなという感じがする。表見には非常に苦しい経済、数字で見ても苦しい経済という印象があって、政府も苦しいからFECを替えられない、輸入を規制すると言っているが、実際にはすべての人が困っているわけでもなさそうだという印象を持っている。


 [4] 金融制度の改革

 金融制度の整備改革のために、90年に中央銀行法、金融機関法、農業・農村開発法の金融三法が公布され、これで国内の民間銀行の設立が認められ、国内に関しては、一部の銀行では外貨を扱うことができる。外国の銀行の駐在事務所を認めるということになった。外国の銀行は、いずれ外貨を扱えるだろうと思って出てきたのだが、いつまでもそうならない。邦銀も半分ぐらいは撤退ということになっている。

 国内銀行も、98年にまた外貨を扱えなくなった。ビルマの国営銀行二つのみと、後退している。

 実際にはヤミ経済でいろいろなことがあると言ったが、先ほど言ったような貨幣要因、あるいはヤミの輸入コストが非常に高いということで、インフレはかなり昂進していて、実質金利はマイナスになっている。したがって、貯蓄は非常に少ない。

 中央銀行は実質的には財務省の一機関ということになるので、財務省の言いなりでどんどん国債(主には90日の短期国債だと思われる)を引き受けて、それで通貨発行するというふうになっている。国民にとっても、何回か廃貨というのが起こった。これも聞き慣れない言葉で、私も「デモニタイセーション(demonetization)」という言葉はミャンマーに行って初めて聞いたのだが、突然千円札や1万円札が今日から使えないと放送されてそれで終わり。交換もしてくれない。そういうふうにして通貨が突然使えなくなってしまう通貨に対して非常に信用が薄く、あまり自分で持っていたくないから流通速度がものすごく速い。インフレは廃貨をやっても通貨流通速度が上がってすぐ一か月ぐらいすると元に戻る。

 結局、庶民は通貨を信用していないので貯金もしないし、できたら金か、宝石でため込むという状態である。

 バーツの下落を原因としてチャットの急落が発生し、97年7月14日には、チャットの下落に追い撃ちをかけるように、外貨送金の制限があった。これによって一気に1ドル200チャットぐらいから300チャットぐらいまで通貨の下落が起こった。

 それに対して政府は、為替ディーラーを取り締まるとか、為替レートを政府で公定するとか、送金制限するとかという制限的な措置をとるだけで、他の政策は何もしていない。


 [5] 外国投資の導入

 88年10月に外資法が制定され、そのときの政府は、ミャンマーは資源の非常に豊富な国だから外資がたくさん来るに違いない。10年したらASEANのタイぐらいには追いつくのだということを一部では聞いていたが、結局はそんなことにはならなかった。

 外国投資の部門別認可実績を見てみると、当初から多いのは石油と天然ガス、いわゆる資源を開発するタイプの外資である。石油は結局全然見つからないで、みんな損して外資は引き上げたが、政府は試掘のときにある程度お金をもらっているので、その分は政府の懐に入った。天然ガスについては、アンダマン海でヤダナガス井と、イエタゴンガス井で産出しており、タイにパイプラインで送る予定であるが、タイの火力発電所の建設で環境問題等が生じており、まだ送っていない。

 それから、もう一つ多いのは、ホテル観光業。これは96年にミャンマー・ビジット・イヤーというのをやって、100万人を呼ぶという計画にしていたが、それが50万人になって実際に来たのは20万人ぐらいではなかったかと思う。それによってホテル観光業の外資がたくさん来ている。

 この二つの特徴は、直接ドルで投資して、石油などが出た場合にはドルで売る。ホテル観光業も、外国人はもちろん現地の人についてもドルでしか宿泊サービス料を受け取らない。つまりチャットの大きな為替レートの差を回避することができる。こういうタイプの外資しか入ってきていなかった。96〜97年あたりから少しずつ変わってきて、ASEAN諸国の木材加工、セメント等、亜鉛鉄板の工場が少しずつ建ち始める予定だった。ASEAN諸国、インドネシア、タイ、マレーシアの投資が増える見込みだった。これらは認可したのであるが、実際には通貨危機の影響を受け、ほとんど来ていないという状況のようだ。ミャンマーは日本と同じで財政年度は4月から3月だが、去年(98年)の3月まで56件ほど来ていて、金額的にも7,700万ドルぐらいあったのだが、去年(98年)の上半期、4月から9月までの半年については8件、認可額も2,000万ドルぐらいに落ち込み、ASEAN諸国が製造業で投資しようかというときに、ちょうど通貨危機とぶつかり、投資はほとんど来ていない。


 [6] むすび

 むすびとして、第一に政策がいろいろ変わり安定しないことがある。外貨が不足すれば突然外貨との交換を禁止する。あるいは輸入制限する。為替レートがちょっと高くなったということになると、ディーラーを捕まえる、あるいは公設市場を作ってそこでコントロールする。インフレが昂進すると、市場(イチバ)にわざわざ行ってスピーカーでどなって、「高く売っている奴は捕まえる」と言って脅す。こういう気まぐれというか強圧的というか、そういう政策ばかりが目立つ。

 農業についても、農地はすべて国有地である。農民は耕作権があり、農産物価格はかなり自由化されているとはいえ、作付けについては基本的に政府が強制的に作付けさせている。したがって、農業部門の伸びも、「これを植付けろ、あれを植付けろ」という指導によって増えたものである。

 第二にミャンマーは軍事経済である。私は社会主義時代も二年間行っていたが、そのとき感じたことは、社会主義というのは無花果の葉っぱみたいなものである。恥部は軍政政権ということで、これを隠す無花果の葉っぱみたいなものだ、ちょっと下品だが、と思った。

 1974年の社会主義的憲法などに「人民のための…」というふうに書いてあるが、80年代に実際は人民は非常に貧困化し、米も一部の地方には渡らないという末期的な症状となった。それでも、強制的に、市場を通さないでいろいろな製品を分配するというシステムをとってきた。これは軍人が、上の方から命令すれば何とかいくだろうというシステムでやっていたわけである。

 これは、今、市場経済化と言っているが基本的には変わっていない。つまり、無花果の葉っぱが変わっただけだと思っている。基本的には軍事経済であると思って差支えない。

 アウンサン・スーチーは、88年の民主化運動で、「いままでミャンマーの経済は四半世紀にわたって能力もモラルもない人たちによって運営されてきた。だから、経済は悪くなった」と言った。これはある程度国民の共感を得ていて、農村に行ってもアウンサン・スーチーの人気は非常に高い。政府がいくら「俺たちの言うことを聞けば、経済は良くなる」と言っても、四半世紀にわたる経験があり、ミャンマー人には「軍政がいたから悪くなった」という考えがしみ通っている。だから、軍政が外資をいくら受け入れようとしても(現在かなり危機的な状況となっているが)、そう簡単にはこの国は変わらないのではないかと民衆は思っている。

 最後に、今後ミャンマー軍事政権が目指すところを考えてみたい。軍政が目指すのは、少なくともインドネシアがああいう状況に陥る前までは、インドネシア型の開発体制、あるいは開発独裁を目指していた。憲法についてもインドネシアにそっくりなものを作ろうとしていた。だから、今、軍政は非常に悩んでいる状況にあると思う。開発独裁がある一定の経済発展を成功したのは、先進国の市場、先進国からの投資、経済援助に依存していた。今、これがすべてストップしている。こういう状況で、少なくとも半年ぐらい前まではインドネシア型を目指そうとしていたミャンマーは一体どうするのだということになると、現在岐路に立っているあるいは、軍政は何をしていいかわからない状況ではないかと思っている。


(3)質疑・討議


〔 菊池委員 〕 ベトナムについて二点質問したい。一つは、農業政策を重視するという場合、具体的には例えば土地所有形態の改革を行なうなどの制度改革、あるいは農業自体の近代化を進めて品種改良をするなどの技術的な側面の改善など、いろいろあると思うが、どのような政策を行ってきたのかを具体的に聞きたい。

 もう一つは、中小企業の場合、トラン教授が「よくなった点」ということで挙げられているわけだが、例えば輸入が難しいとすれば国内で自主生産を開始するなど、いろいろな対応策を考えると思うが、具体的にはどういう方向で企業自身の努力が始まっているのか聞きたい。

 ミャンマーの方は、東南アジアの開発独占を見ていると、軍人というのはどちらかというと農村部出身であり、しかも農村部のエリートが軍部に入って、農村を基盤にしながら独裁をしていくという形態がとられたことが、成功要因の一つとなっているのではないかと思うが、ミャンマーの場合はそういう結びつきとか、そこでエリートが育つような基盤がない軍事政権のようだが、具体的にはどうなっているのか聞きたい。


〔 トラン教授 〕 農業政策について、土地改革と農業の近代化の両方行なっている。土地改革はいろいろ試行錯誤しながら改革を進めている。当初は承知のように合作社の時代、その後は、合作社の農民は自発的に管理をしてもいいし、管理をしなくてもいいという選択権も与えられた時代。その後、ベトナムは社会主義国という建前から、土地の所有権はまだ与えられてないが、使用権は20年間から50年間ぐらいまで認められるというように改革を進めてきた。しかし、まだ改革の余地が残っていて、例えば使用権は売買できるか、あるいは使用権を借入金の担保に供することができるかなど、これからさらに改革していかなければならない。

 農業の近代化に関しては品種改良なども当然重視しているが、何よりもインフラ投資を重視している。先ほど述べたように、去年までは工業化を重視していた政策であったから大規模な投資プロジェクト、工業発展のための投資プロジェクトに国家の予算をかなり割り当てていたので、農村へのインフラ投資はちょっと少なかった。今後は、農業への投資をもっと増やしていく。

 また、政府の機構改革を行ない、農村担当の副首相というポストを設けた。いままでは大臣ポストが最高の責任者だったが、一昨年の終わり頃、副首相ポストの人が農村開発を担当するようになった。以上のように農村開発を重視するという方向へ政策が転換してきている。

 二番目の質問についてだが、ベトナムでの中小企業発展の環境整備は不十分であり、むしろ、先ほど述べたが、中小企業の投資意欲を減退させるような許認可行政が残っていてこのことを改善しなければ中小企業がなかなか発展しないというのが私の見方である。このことをベトナム政府も気がついていて、改善していくという方針をとっているが、具体策はまだ十分には実施していない。


〔 菊池委員 〕 中小企業以外の企業の対応をみると、輸出競争力が低下したために価格を引き下げて輸出する一方では、輸入原材料価格も上昇してきている。対応策として、合理化するとか国内で部品調達をするとか原料を調達するとか、何か具体的な動きはあるのか。


〔 トラン教授 〕 その点、正直申し上げて、私はよく把握していない。現在、ベトナムの主要な企業体としては、国営企業、外資系企業、二種類であり、純粋な民間企業はほとんど育っていない。結果として、現在動向を観察する対象は前者のこの種類の企業に限られており、純粋な民間企業の動向に目立つものはほとんどない。


〔 高橋助教授 〕 軍人の出自はやはり農村が多く、今の元首タン・シュエは、かつて私が調査した村のすぐそばの村出身者である。社会主義時代から農村出身者はかなり多かった。

 思想性の背景としては、ネ・ウィンに率いられ、ビルマというものが独立していくためには、外資を排除し資本主義的な要素を打倒していくのだというのが軍のエリート層の考え方だった。開発主義の裏返しみたいなもので、東南アジアでは開発独裁と社会主義(ビルマ社会主義)と並行してあった。

 資本主義的な要素を否定し、主要な産業は農業セクターに限られる一方、貿易を行なわずに資本蓄積を図るためには、農村から余剰を引き出さざるを得なかった。治安は治安維持委員会を作って維持する一方、農民から供出制度を実施し、インプリジット・タックスを取って資本蓄積を図っていこうとした。

 インフレは進行する一方、農産物の買上げ価格が74年から12年間ぐらい上がらない。そして、86から87年頃(私が調査した頃)に行き詰まってしまった。その過程で農民層が非常に不満を持って、農民層が反乱しだした。これが87年の農産物自由化に結びつく。この自由化が都市にものすごいインフレを起こした結果、民主化運動が起こる。農村搾取というシステムを長年やってきたのだが、それが失敗した、あるいはそういう矛盾がたまったのが民主化闘争である。よく言われる人権問題あるいは、情報操作・不足は、社会主義を通じていつでも存在していた。民主化運動の根本的な原因は「農業による資本蓄積の失敗」である。

 農民層の不満を解消するため農産物の自由化を行なう。作付けは強制的に行なうが、供出は大幅に減少する。耕作権については基本的に一年契約(ベトナムのように保証の限りではない)。しかし、農産物価格は保証する。先ほど申し上げたように金のかかる農業になり、金のかかる農業ができる人しか儲けは出ないから、農村内部での格差は非常に広がっている。しかしながら農村と都市を比べると、87年の自由化によって農村にとって交易条件が有利になったということは言える。それが軍人エリートの農村に対する慰撫政策であるということが言える。

 エリート教育については、DSA(ディフェンス・サービス・アカデミー)で教育するのだが、社会主義的なシステムのコントロールについて基本的には教育は受けてきたが、市場経済になって、市場をどうやってコントロールあるいは組織化していくかということについては、現在非常にノウハウが欠けている。


〔 菊池委員 〕 基本的には支配層の意識改革がなされない限り工業の円滑な発展に対する理解は進まないということか。


〔 高橋助教授 〕 もちろん、そうだと思う。


〔 原 座長 〕 他のASEAN諸国と異なりちょっと乱暴な言い方だが、ビルマには華僑がいない。イギリスの植民地時代に、印僑が移住し、金融業に従事した。ネ・ウィン政権を掌握すると、社会主義かバーマナイゼーション(ビルマ化)かわからないが、金貸し(印僑)をみんな追い出してしまった。

 そこからビルマは、社会主義なのだが、私はネ・ウィン自身に会ったことはないが、側近には何度か会って話をした時に、ソーシャリズムというよりはバーマライゼーションということをよく言っていた。そこに他の東西アジア諸国と違う点があって、特にビルマ族には、やってきたインド人は金貸しで富を全部収奪していたので、これを追い出したという発想がある。また、工業に対する理解に欠けることになった。私も民主化の頃よくビルマに行っていたのだが、農業の失敗から大インフレになり、学生が騒ぎだす、というプロセスはよく見ていたので記憶があるのだが、他の植民地と違って、根本にはそのような発想があるのではないかという気がしている。


〔 高橋助教授 〕 華僑も印僑もバーマナイゼーションの中で非常に抑圧されたいた。しかし現在、マンダレーという第二の都市(実際には100万都市ぐらいになっている)の市街地の70%は中国人の所有であると言われている。その中国人というのはビルマ語を話せないが、漢族ではない。コーカンとかワとか呼ばれる人達で、昔、共産主義運動をしていた人達で、麻薬に投資して得た利益を、今、土地に投資している。ミャンマーの土地の価格が非常に上がっているが、その原因はほとんど中国系ビルマ人によると土地投資である。

 華僑が力を持っていなかったということは、政権と結びついていなかったという意味であり、今は政権からとりあえず容認されている。社会主義時代はビルマ語の看板以外は禁止されており、中国語の看板はマンダレーでもヤンゴンでも見られなかったが、最近、マンダレーは中国語が8割であとは英語になっており、ビルマ語の看板を見る方がむずかしい。華僑あるいは中国系ビルマ人のプレゼンスは政権とは癒着しないが、少しずつ上がってきている。

 それから、統計は出てこないが、インドネシアから逃げてきた華僑がずいぶんビルマに来ていて、コネクションを利用し繊維産業などの小規模工場を沢山建設している。華僑、印僑の政治的な影響力はともかく経済的にはネットワークを利用してかなり活動しているのではないか。


〔 斉藤委員 〕 今のベトナム経済の現状についてIMFでは、ベトナム経済をもっと厳しく考えている。トラン先生の講演で輸出成長が鈍化したと指摘されたが、最近のデータでは、98年の後半は輸出は鈍化でなくてマイナス成長になっている。直接投資の流入も20億ぐらいという話だったが、実際は、その4分の1程度と予測される。総合的に判断して経済成長率5.8%であるが、一番最近の予測ではもっと低いものになるのではないかと見ている。

 ベトナムに対する国際支援について去年12月にパリで援助国会議があって、22億のプレッジがあった。IMFもこれとの関連でESAFの交渉を進めてはということで、今月の中頃からミッションが行ってESAFの交渉をしているという情勢である。

 ミャンマーの国際支援体制は、現在極端に言えば国際的な孤児という感じだ。国際機関の中で定期的にコンタクトしているのは、IMFだけであり、これも金融面での援助ということではなく、IMF8条国協定上の義務と権利(ミャンマー側から言うとIMFに一年一回来てもらう権利がある)の関係でコンタクトしている。しかし、ミャンマー側、特に若い官僚からはもう少し何とかならないか、技術援助等で打開策を見つけてくれと言われており、方々でいろいろな知恵を出そうとしている。

 ミャンマー側から見ると、いろいろ努力した結果、ASEAN加盟が実現し、ASEANのいろいろな会議に出席する際、ミャンマーの方は非常にうれしいという感じで出席されて勉強している。そのあたりから国際支援体制ができればいいと個人的に思っている。

 ビッグバン・アプローチというのは、ミャンマーの国内体制が変わるということだろうけれども、これは外の者からは何も言えないということだ。

 ミャンマーについて一つ質問をさせていただきたい。実はコメの輸出がものすごく下がっているということにショックを受けた。ミャンマーは20年ぐらい前にずいぶん行っていたが、その頃はタイと並ぶコメの輸出国だった。この低下の原因は、先ほどお話があったが、農民の生産意欲がなくなったこと、それの一番大きい価格は相対価格ではないかと思う。質問としては、ミャンマーのコメの価格体系あるいは輸出に向けての集荷体制はどうなっているか、特にコメの輸出の際、為替レートはどっちを使うのか。そのあたりを含めてお願いしたい。


〔 高橋助教授 〕 マクロ的に見て生産量の10%は政府が公定価格で買い上げることになっている。社会主義政権下では公的価格は、市場価格の10分の1ぐらいであったが、いまでは市場価格の半分ぐらいになっている。

 コメの輸出については、ドル建てで、チャットに換算されるときは公定レートで行なっている。農産物交易公社がコメの輸出については一元的に行なっている。まず輸出については物理的に20%ぐらいロスがあるだろう。品質も非常に悪くて、どんどん壊れてしまうもう一つは、中間で物理的でなく人為的なロスを生じている。100万トンぐらい輸出できるはずなのだが。

 それから、人口統計が1983年に最後のセンサスをやっただけなので、どのぐらいの人口かいるか本当はよくわからない。1.88%の人口増加率を適当に掛けて推定しているだけであり、実際に国内のコメの消費量がどのぐらいかという正確な推計ができない。だから、逆に輸出されないというところから、人口は本当はもっと多いとも推測される。今述べたような点に関する。制度的なあるいは技術的な改善であれば、価格インセンティブが十分に働かないとしても、ある程度の輸出はできるだろう。


〔 トラン教授 〕 ベトナム経済のデータを整理する際、いつもIMF、世界銀行などの国際金融機関のデータの方が、ベトナム政府関係機関が発表するデータよりも信頼性が高いと思っている。両者の間にデータ数字が違う場合、だいたいそのように判断しているベトナムの方のデータの信頼性が低いというのは、故意に間違ったデータを発表するのではなく、ベトナムの統計行政官がまだ十分に養成されないので統計が科学的に整備されていないのが現状である。さて、98年のGDP成長率の件であるが、一年を通じて5%台ではないかと見ている。


〔 北村次長 〕 ミャンマーは厳しいという話だが、成長率は6%、7%、9%という見事な数字を遂げている。一人当たりGDPの数字を見ても立派に伸びているということからすれば、ある意味では見事な成功例とも見えなくはない。なぜそんなに厳しい見方をするのか。

 ミャンマーの方のヤミレートというのはよくわかったが、ベトナムの方も1万3,000何ドンというようなことで一時切り下がるが、かなり為替相場は固定的だ。ミャンマーほどではないにしても、相当ヤミドルの世界というものが存在しているのではないか。ベトナムに対しては日本政府、あるいはJICAを通じて石川 滋一橋大学名誉教授が中心になって「石川プロジェクト」により非常に熱心な支援活動が行われている。この前、小渕総理がアジアの会議でベトナムのトップの方とお話しされたときもその話が出た。この「石川プロジェクト」というのは、ベトナム側はどんな評価であるのか、率直なベトナムサイドのお話しを伺いたい。


〔 高橋助教授 〕 おそらく95年か96年までは成長しているという実感があったと思う所得も明らかに伸びた。外国のものを消費するような傾向が少しずつ庶民の間にも出てきていた。しかし96〜97年あたりから、いろいろな統計を隠すようになった。どうも統計上の問題がある可能性がある。

 それから、経済成長に対して大きく寄与している部門は農村部である。いままで非常に抑えられていた農村部がある程度解放された。つまり、正常に戻ったような感じの成長である。実際に一次産業の特に農業部門が割合を増やしている傾向があり、その意味では、農村の一部は成長している。他の部門、外国の投資とかインフラの整備などのいわゆる長期的な成長を支えている部門がほとんど旧態依然のままであり、特に都市の人たちにとってはこのGDP成長率はほとんど実感できないような状況なのではないだろうか。


〔 トラン教授 〕 91年頃からベトナムでは、ヤミレートはほとんどなくなった。銀行で両替したレートと、小規模貴金属店(昔はヤミレートの場所だった)で両替したレート間にはそんなに差がない。政府が五年前にベトナムドンの公定レートをかなり切り下げたまた、外国にはあまり知られていないが、ベトナムの外貨の需給では、直接投資、ODA外国に居住しているベトナム人からの送金などから、供給サイドが過剰となっており、需給関係から見てもヤミレートというのはほとんど存在しなくなった。今は1ドル1万3,000ドン前後で推移している。

 「石川プロジェクト」の評価を簡単に申し上げると、このプロジェクトはあくまでも知的支援という性格で、ベトナムの政策立案などにベトナム政府が参考にする(どの程度まで参考にしているかははっきり言いにくいが)。ベトナム共産党書記長などに会って、ベトナムのこれからの発展政策など懇談したことがあるが、その際、「石川プロジェクト」がよく言及された。「石川プロジェクト」の貢献の1つは、ベトナム経済(ファンダメンタルズ)の診断の方法の確立であった。それまでベトナムでは貯蓄率などのファンダメンタルズについてベトナム自身は過大評価していたが、このプロジェクトの結果で正確に評価するようになった。また、このプロジェクトはベトナム政府に対し工業化一本だけではなく、工業と農業とのバランスある開発が必要であるということも示した。

 今回、石川先生に友誼勲章(旧ソ連時代は友好関係などで与えたことはあるが、資本主義国に対してはあまり与えていない)を与えたことから、ベトナム政府は非常に評価していると言える。

 しかし、最初に申し上げたように、知的支援だから、どれだけ参考にしているか、本当を言うと難しい判断である。


〔 原 座長 〕 「石川プロジェクト」の評価に関して少し言っておく。第一点は、石川先生と前の書記長が個人的に仲良くなったということは決定的に重要だった。

 第二点は、農業・農村ということを初めから石川先生が言われ、ベトナム側のビューロクラシーに何らかのインパクトを与えた。


〔 後藤委員 〕 ミャンマーから外資に来てほしいという話はいくらでも出るのだが、日本企業にとって一つの大きな課題は、アメリカの影なのである。ミャンマーの民主主義運動に関して、アメリカでどれだけの人間が関与しているかよくわからないが、少なくともミャンマーにおける投資、企業活動(特に日本企業の活動)に対して、アメリカで入札に参加できなくなるとか、入札資格を問われるという形で敏感に反応する。

 ミャンマーで大規模な仕事ができるかというと、実際問題やれることは現時点では限られている。外的要因でも、日本企業にとっては非常にやりにくい状況となっている。訪れると日本人が好きになる国がアジアに二つあってモンゴルとミャンマーです。日本人がシンパシーをもちながら企業としてミャンマーに進出していく要素があるのではないか。

 農業の問題の中で麻薬の増産という話があった。この問題に関してミャンマーと日本が協力して何ができるかというと、農業生産の増大ということである。しかしながら、麻薬から転換するときに土地の状況からみて栽培可能な作物はゴマ、あるいはソバなどに限られるケースが多い。実際問題、換金性、経済性の高さにかなり差があるので、麻薬を作っていた人が簡単に変わるかどうか。このプロジェクトの問題点は、本当に向こうの農民がそういう方向に向いてくれるかどうかにある。

 ベトナムの問題点はビューロクラシーである。南と北とでも違うので、企業にとって本当に悩ましい。当社はマンション事業を展開しているが、外国人が減少したためにマンションに空室が出てしまうなど、一時のベトナムブームは実感として去っている。確かにファンダメンタルズはしっかりしていて、生産が動き出せばいいという部分もあるが、国の政策(外貨の交換が難しくなるなど)の統一性が変わらないと難しいと思われる。


〔 高橋助教授 〕 ボイコット問題だが、ASEAN諸国の経済危機で、進出が認可されたが中止となる。また、認可申請自体も少なくなった。

 ミャンマーに進出する企業は労働集約的な繊維産業、家具産業などであり、主要な輸出先は先進国で、それも生産財ではなく消費財である。だから、ボイコット運動の影響を簡単に受けやすい。香港資本などが、アメリカ市場向けの繊維製品などをミャンマーで作っていたが、撤退してしまったのは、その様な理由による。ミャンマーで作ったというのがわかるとカナダやアメリカが受け入れてくれないから撤退せざる得ない。ボイコット運動は先進国が進出して来ないということはもちろん、途上国の消費財産業も進出して来ないというのにもつながっており、ミャンマーの政府にとっては効いている。彼らは「そんなこと、どうでもいい」というふうには言っているが、外資にとっては非常にセンシティブな問題である。

 大学の講義で去年エルソンの「ジ・エンド・オブ・ザ・ペザントリー・イン・サウス・エージア」というテキストを使用したが、へき地の農民にとって歴史的に、要するにペリフェリーにあって、政府の干渉もないが投資もないようなところでは、圧倒的に有利なのは麻薬であり、これを変えるのは本当に命がけの仕事だ。ミャンマーが好きになって、信州大学を定年前にやめられた方が、ミャンマーの山奥でJICAの専門家として活動しておられるが、常に命の危険にさらされるようなことがあって、経済性からみたらやはり麻薬栽培から農業へは非常にむずかしい。ミャンマー政府も転換させるための資金を持たないため、麻薬で得た利益を麻薬から転換する代償にホワイト・マネーにマネーロンダリングし、その資金による道路建設、ホテル建設、工場建設などに対する投資を奨励している例えば大規模な高級ホテルを作ると、「これは麻薬のローシンハンという人が作ったのだから、皆さん、泊まらないようにしましょう」という情報がインターネットでバッと回るという時代になっている。とにかく麻薬生産から代替農業へというのはかなり難しいのではないかと思う。


〔 トラン教授 〕 ビューロクラシーはベトナムで一番頭が痛い問題である。ベトナムは人的資源がいいと外国では言われているが、関係者についてはそうは言えない。解決には、時間がかかりそうだ。

 しかし、ホテルやマンションの空室率が高いということは、これはベトナム側にも今言ったように問題もあるけれども、しかし、投資国側の事情もあるわけで、両方の問題がある。


〔 井上委員 〕 ここまで近代化した日本のレベルで世界を考えると、各国の発展段階や事情に差がある。そういう事情であってもビジネスはやはり現実的に考えなければいけない。政権を変えられるわけでもなければ、民族の意識を変えられるわけでもない。ビジネスを行なうに際し、経済発展する過程においてはいろいろな問題が起こるわけであり、これらの諸事情はリスクマネジメントの範疇に入っている。かつて昭和20年代の日本も同様であった。

 スタンフォード大に行ってある教授に会った際、彼は私が日頃会社で言っていることと同じ旨の発言し共感を覚えた。「最近の日本人はなぜあんなに統計を信じるのか。アメリカの統計もいいかげんなもので、大体、アメリカ人というのは何人いるか正確に測れるか測れないのに一人当たりGNPは出てくる。我々はそういうことは全部わかって仕事をしている。日本人がこちらに来ると一人当たりGNPはどうだとか、貯蓄率がマイナスになったがどう思うかなど、いろいろ議論してくる。しかし、お前の国の統計は本当に正確であるのか」という質問を受けた。それぞれの国の発展段階とそれぞれの国の民族特性を理解しながら、リスクマネジメントとしてそれぞれの企業の経営の責任でビジネスをやっていくということが必要である。

 この頃思っているのは、官民協力が非常に非難される世界になった。マルチ・ナショナル経済とか、これからの高度な新しい産業はインフラ整備を伴う。こういうものは官民分断した中で、日本の構造の中ではやれない。癒着はあってはいけないだろうが、アメリカでは、人間が動くとかいろいろトランスペアレンシーのある連携がある。日本も何とかそういう新しい連携を作りながら非常に変化する社会に対応して生きていく活力を持たないと、アングロサクソンにはとてもかなわない。

 経済成長と工業という問題に興味を持っていた。ところが、二年前ぐらいから金融の話が出てきたので、今度は金融の勉強をした。その次にエネルギーの話が出てきて、この頃は、食糧の話がどうも脚光を浴びてきている。結局、経済成長は食の供給と需要の両方を変えるということである。

 今日、びっくりしたのは、肥料等を輸入に依存するなどから、農業の近代化を図ると貿易収支の悪化を生む。アジアには農業を輸出品としている国というのはかなりあるわけでその国が農業産品の国際競争力がどうあるかという問題。各国の農業生産力の問題もあると思うが、実質的には国際競争力があるかという問題だ。そういう点ではミャンマーの現況はどの様であり、今後どの様な方向を目指しているのか。


〔 高橋助教授 〕 現在自給を目指しているが、肥料問題や機械化など、農業部門だけでは解決できないような問題が生じているということは間違いない。

 輸送についても、いままでは牛車で運んでいたのが、それでは品質が落ちるので車にしようということで、またエネルギーの輸入が必要になる。それに見合うような、あるいはそれ以上の生産性の増加、あるいはまだ未耕地(統計上は、現在、栽培しているところと同じぐらいの面積があると言われている)を開拓していこうという仕事にしても、資本、労働力ともに必要なことであって、国際競争力を得るために生産性を向上しようということは考えていないのではないか。民生安定のため、とにかく闇雲に米の生産だけを増やそうと考えていて、国際的に輸出で米で儲けるのだという方向には向かっていない。これらのことは統計では明らかとならない性格のものである。私も、数字があまり信用できないから農村ばかり歩いているのだが、政府の姿勢を見ていると、コメが今不足したら自分が危ないのだという状況で、コメで外貨を稼得しようということは、とりあえずは考えていない。肥料を輸入してもとにかくコメは確保しようというのが現政権の政策である。

 ビルマが比較優位な地位を持つのは、東南アジアの北方に位置しており中部ミャンマーはインド型の農業地帯なので、政府関係者は、豆、綿、砂糖、そういう方向に、国際情勢を見ながらシフトしていこうと言っていた。昔のようにコメを輸出しようというのはほとんど考えていないのではないか。


〔 原 座長 〕 東南アジアは農業立国に見えるが、世界的に見るとそれ程得意なところではない。東南アジアは雨が多く、雨が降ると雲がかかる。一番生産力が高いところというのは雲がなくて日光がたくさんあって水があるところだからカリフォルニアとかあっちにいってしまう。アジア地域は世界全体からみると穀物の自給率がどんどん下がっている。そういう自然環境なのだと思う。しかしながら、工業化を推進しない限りもともと農業国であり、農業という問題が非常に重要だろうと思っている。


〔 小川委員 〕 ベトナムの国有企業の改革、金融部門の体質強化ということであるが中国でも同じような問題がある。中国の方にお話を伺うと、国有企業はコミュニティーを抱えている。単に企業の問題だけではなく教育、年金から医療まで全部抱えている。国有企業改革を行なうためには、中国の年金などの未整備な体制の整備を同時にやらなければならないので、そこに貸し込んで不良債権化している銀行の問題も片づかないということを聞いている。共産主義国が市場経済化していくときのそういうインフラ整備などについてベトナムはどういうことになっているのか。


〔 トラン教授 〕 同様の問題はベトナムにもある。ただ中国と比べてベトナムは歴史的に短いという分だけ小さい。また、ベトナムの南部の企業を国営化したのは20年ぐらい前であり、国営企業は大部分が工業部門あるいはエネルギー関係の部門(工業、エネルギー関係部門の対GDP比は中国と比べてかなり小さい)であるから、社会的な問題はその分だけ小さい。しかし、国営企業の関係は一つのプレッシャーになって、改革をさまたげる要因となっている。ファン・バン・カイ首相は、そういうような要因があっても断固実行していこうと決意を表明している。

 ベトナムの農業・農村の開発、融資は、食糧を増産させるというような内容ではない。農村に人口の8割が住んでおり、今までのような工業化を推進しても労働力を吸収出来ない。だから、農民の所得水準を引上げ、その過程で購買力を増加させる。そのために生産性の改善、農産物の多様化、流通の改善などで農民の所得を引上げて、その過程で工業の発展を図ると同じに国内市場の基盤ができるという方向を目指している。


〔 小松委員 〕 ベトナムの金融自由化というのは、具体的にはどういう形でどの程度進んでいるのか。指標を見ている限りは、金融自由化政策によって貯蓄のモービライゼーションが起こってないようにも見える。一方で、外資はGDP比で10%ぐらいで流入している。それが経常収支赤字を拡大させる。しかし外資の大半は直接投資(FDI)で、そんなに不安定な要因でもないように見える。他の東南アジア諸国と金融自由化の方向性が異なるのか。

 次にビルマについてお話を伺っていると、具体的にはどのようなものかわからないが、ビルマ型、またビルマ独自の発展戦略というものが存在するように思える。現在の軍事政権を正当化する以外に、社会的、歴史的な背景から生じるものであり、今後とも継続する独自の政策は存在するのか。


〔 トラン教授 〕 金融自由化をどのように定義するかは難しいが、銀行産業への参入障壁を取り壊す、参入の自由化は、以前から行なわれている。しかしながら、今回のアジアの通貨危機の影響によりベトナムの金融自由化のテンポが少し遅くなる傾向となった。特に外国の金融機関のベトナム国内での活動はかなり厳しい規制を受けるようになった。また、国内金融機関のネットワークを整備普及し、国民の貯蓄を幅広く動員できる体制を整備しているところである。


〔 高橋助教授 〕 ビルマの発展戦略は、少なくとも1988年までは「ビルマ式社会主義」、括弧付だが一応正当性を持ったイデオロギー(バーマライゼーションであると同時にソーシャリズムであり、それにより軍の正当性を保ってきた)が、それがなくなった後軍が目指した方向は、人権を抑圧しながらでも外資を導入して経済発展を目指すのだという方向だった。それを代表するのが今の国家元首と書記長、実質なナンバーワンであるキン・ニュン。しかし次の元首になる人物はハードライナーと見られる。社会主義は放棄したとしてもバーマライゼーションは貫き、外資は最小限度に抑制する。外資は全て政府のコントロール下に置くという人物であり、次期国家元首の最有力候補である。

 経済的な面での発展戦略については、特にアジア危機以降、開発独裁的な発展戦略を練っていたグループもその戦略について再考を余儀なくされており、二派対立という構図になりつつある。

 ミャンマー独自の開発政策については、現在混乱しており、新しい路線を探しているが見つけ出せずにいる。基本的な路線は、現状維持路線であり、「そのままでいこう、あまり変えたくない」ということではないか。土地制度改革はしない。国有企業改革についても、映画館や精米所など本当に小さい企業についてのしか民営化しない。軍政になってから十年たったが、現在でも暫定政権であり、「そのままでいくのだ」というのがとりあえずの基本路線だ。


〔 原 座長 〕 ベトナムとミャンマーは大陸部東南アジアにある。東南アジアの歴史で非常におもしろいのは、大陸部はタイ以外全部社会主義になってしまった。インドネシアは、スカルノ時代は社会主義なのかどうかわからないが、大陸部東南アジアがタイ以外社会主義国になったかという理由をよく考えないと、21世紀のこの地域のビジョンというのは出てこないのではないか。

 経済として効率が悪く「社会主義はだめだ」ということは大体のリーダーははっきりとわかり始めた。90年代の自由化の中で、グローバルな経済云々と言われ「ナショナリズム」という言葉がどこかに消えてしまっていた。しかし、今後のキーワードは「ナショナリズム」である。ビルマとベトナムは、APECに入ったりAFTAに入ったりいろいろしながら、グローバルな経済のネットワークの中には入らなければならない。しかし、国民経済、国民生活という問題になると、農業・農村問題の解決は極めて重要であり、ここから広い意味での「ナショナリズム」の問題が生じており、この問題は消えないと思う。他の東南アジア諸国と異なりこのグローバリゼーションと「ナショナリズム」との対立をよく考慮しなければならない。

 「石川プロジェクト」で日本とベトナムは協力関係にある。また、ビルマも社会主義のときに四プロというのがあって、援助したのは日本だけであった。ネ・ウィンと30人の志士は、日本で訓練を受けた軍人であり、独立軍は日本の支援によったという。歴史的な意味から現在でも日本の役割が決定的に大きい。しかし、日本は現在身動きが取れないという状態になっている。広い意味でのアジアの経済、東南アジア地域のストラテジーを考えるときに、ミャンマーとベトナムというのは、ある意味ではコアになってくる。表面には出ていないが非常に重要な位置を占めている。そういう意味でビルマとベトナムをどういうふうに勉強するかというのは重要ではないかと、日頃から思っている。