財務総合政策研究所

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4.第四回研究会(平成11年1月18日)

(1)国別報告「インド」 

 法政大学経済学部教授 
絵所秀紀


 [1] はじめに

 インド経済全般の話をするということではなく、今日のテーマは「インドの金融改革と資本自由化」に絞りたい。91年に、インドは債務危機寸前という状態になり、92年からIMF・世銀から資金を借りて「構造調整プログラム」を精力的に行ってきた。その中で、金融部門の改革が主要なアジェンダとなり、銀行制度改革、証券部門改革が進んでいる。こうした動きをみてみるわけだが、少しヒストリカルに、その改革に至る前のインドの金融制度はどういうものであったかについて概観してから、金融改革の内容に入っていく。


 [2] 「インド型」金融システムの構造的特徴

 インドというのは、途上国の中ではもっとも閉鎖的な国の一つであり、非常にユニークな金融制度を持っていた国である。特記すべきことは、1969年に主要商業銀行を国有化する措置を取ったことである。それまで銀行業は民間でやっており、大体財閥系の銀行であったが、69年に大半の銀行を国有化した。預金、融資、支店の8割以上が国有部門に入り、これ以降、金融改革が始まる92年まで、非常にユニークな金融制度を作り上げた。

 最初に、69年以降でき上がった金融制度はどういうところに特徴があったかということを概括しておきたい。その特徴の1つ目は、インドでは金融深化が、その下で着実に進行したことである。マネーサプライの対GDP比率をみると、日本のM2に当たる銀行の普通預金、当座預金プラス郵貯の普通預金を示すM3は、着実に上がってきている。また、ほかのいろいろな金融連関比率、フィナンシャルレシオ等をとっても、金融深化は進んだことがわかる。2つ目、独立後インドでは農業・農村金融及び工業金融も相当整備された。3つ目としては、しかし、全体としてみると、依然としてフォーマルセクターとインフォーマルセクターの金融の二重構造というのが存在しており、特に農村ではマネーレンダーが大きな役割を果たしている。4つ目は、独立後のインドの金融制度は、5カ年計画に組み込まれる形で発達してきた。5つ目は、これと非常に密接に関連しているが、インドでは金融機関の歴史は国有化が拡大する歴史である。今、商業銀行の大半は69年に国有化されたと言ったが、ほかの工業金融機関、農業金融機関も、すべて国家部門の機関として発達してきた。保険業界も、50年代は民間に任せていたが、これも国有化して、損保、生保、信託銀行 (ユニット・トラスト・オブ・インディア) もみんな国有部門として発達した。制度としてみると、国有化の拡大の歴史ということができる。そして、一番大きいのは、先ほどから何度も言っている、69年の商業銀行の国有化である。6つ目は、それ以降の、商業銀行のパーフォーマンスをみると、預金額、融資額、店舗数は飛躍的に増加して、特に農村及び準農村地域に銀行業を浸透させようというスローガンの下に、驚くべき勢いで進んできた。「商業銀行の人口センター別店舗数の推移」を見ると、農村とSemi-urbanでの店舗数が拡大している。商業銀行が農村にこんなに浸透していくという、想像を絶するパターンを示しており、農村地域を優先するという強烈な政策指導があってこういうことになったことがわかり、この結果、バンキング・ハビットはかなり定着したと思う。7つ目は、融資の方も国有化以降大きく変わり、農業と小規模工業が優先分野に特定され、いわゆる政策金融が定着した。一方、インドでは工業部門は大中規模工業と小規模工業とに分かれているが、大中規模工業に対する融資が減った。特に、民間商業部門、それに対する融資はほとんどなくなってしまう、という大転換を迎えた。8番目は、金融機関全体としてみると、銀行業を中心に発達して、証券市場は十分に発達しなかった。証券市場の歴史は長いが、証券市場のシェアで見るとそれほど大きくない。9番目は、大半の近代的金融機関はみんな国有化されたから、市場競争がほとんどなかった。10番目は、例外的な時期を除くと、独立後のインドではインフレーションはかなりよくコントロールされた。80年代になって2桁インフレとなったが、それまで2桁インフレはほとんどなかった。2桁になると政権が交代する、というくらい物価に対してセンシティブな国で、低インフレ国である。その結果、実質預金利子率は長期的にみると、大まかに言ってあまりマイナスになっていないといえる。つまり、「金融抑圧」は金利の面ではみられない。その結果、貯蓄モービライゼーションにもかなり成功したし、投資促進にとっても望ましい影響を及ぼしたと言っていいと思う。11番目としては、他方で、非常に厳格な外資規制を行っていたので、インドの金融制度は閉鎖的な環境の中に置かれてきた。12番目として、商業銀行に対してはいろいろな規制が行われた。大きくいうと3つあり、先ほどの信用の部門別配分規制、金利規制、そして、準備率規制である。13番目として、金融政策は財政政策にかなり従属してきた。特に政府の財政赤字を補填するためにTBを発行して中央銀行に引き受けてもらう。あるいは国債を発行して、国有化した商業銀行に割り当てることをやってきた。TB、国債の利子率は極端に低く抑えられていたので、金利は、金利体系に歪みが生じる形で規制されてきた。14番目としては、全体としてかなり硬直的な利子率の構造ができ上がってきており、したがって、公定歩合政策は実際には全然効力がなかった。15番目として、政府証券の流通市場はほとんどなかったので、公開市場操作も効力がなかった。16番目としては、唯一の金融政策の手段は準備率規制ということになった。準備率規制は、現金準備比率と法定流動性比率と2種類がある。現金準備比率は、我々が普通言っている準備率と考えて良く、銀行の手持ち現金プラス中央銀行への預入金である。法定流動性比率は、銀行が預金のうちに政府証券あるいは政府認定証券に投資しなければならない比率である。この両比率をみると歴史的に下がることはなく、ひたすら上がってきている。金融改革が始まる前の89年では、現金準備比率が預金の15%、法定流動性比率が38.5%、合わせると53.5%が準備率に取られている。つまり、預金のうち半分以上が、最初から政府部門に回ってしまうという状況になっており、金融政策が財政政策に従属しているのがわかると思う。17番目としては、貯蓄・投資ギャップをみると、家計部門はもちろん資金過剰部門であり、大半の資金は政府部門に流れているということがわかる。18番目としては、実質金利に関しては、金利だけを見ると「金融抑圧」とは言えないが、広い意味では「金融抑圧」といえる。「金融抑圧」は、高い支払準備率の要求、人為的低金利政策、優先分野への信用割り当ての3種類の政策介入により引き起こされた金融部門の歪みと解釈されているが、金利以外の分野ではかなり典型的な金融抑圧的なシステムができ上がっていたと言っていいと思う。


 [3] 銀行制度の改革

  (A)金融改革の概要

 金融は相当硬直的になり、特に80年代後半になると金融の財政への従属が、大きな問題になり、改革しなければいけないという話になってきた。チャクラヴァルティ委員会というのが80年代の中頃にでき、それを受けてヴァグール委員会報告が出た。同委員会は、金融政策の効率を高めるにはどうしたらいいかを考えて、結論として、公開市場操作を金融の手段としようとした。そして、そのような金融システムに転換していこうということを考えたものである。また、ヴァグール委員会は、マネー・マーケットを具体的にどうやって発展させていくかということを考えたものである。80年代後半から規制緩和は進んできたが、それに応じて、TBをオークションベースで売却する、あるいはインド割引金融公社ができて短期のマネー・マーケットをつくるという動きが出てきた。そういうときに、先ほど言った91年の債務危機が起こり、さらに金融改革に拍車がかかったという歴史をたどった。

 (B)商業銀行の規制緩和

 91年、構造調整を実行するときに、ナラシムハム委員会を設立し、いろいろな勧告を出したが、この報告書はかなり包括的な勧告を行った。つまり、銀行部門改革としては、準備率を引き下げる、利子率規制を緩和する、支店ライセンス規制を緩和する、民間の銀行の設立を許可する。また証券部門改革としては、証券取引監視局 (SEBI)をつくる等、かなり包括的な案を出した。それ以降のインドの金融改革の大枠は、ナラシムハム委員会の線に従って金融改革を進めている、あるいは金融自由化を進めていると言っていいと思う。商業銀行改革で注目されるのは金利の自由化、準備率規制の緩和、信用割り当ての存続である。

   (a) 金利の自由化

 金利の自由化は、大口の金利、預金金利・貸出金利は自由化されたが、全体としてみるとかなり慎重にやっている。インドの中で金利をすぐに全部自由化するのは反対だという意見がかなり強くある。これは、サザンコーン諸国のときに、一挙に金利を自由化して銀行危機が引き起こされたことをよく学んでいるためである。しかし、実際にはかなり慎重に行っているけれども、方向性としては、金利の自由化という方向が打ち出されている。

   (b) 準備率規制の緩和

 準備率規制の緩和は、CRR(Cash Reserve Ratio)とSLR(Statutory liquidity Ratio)をみるとわかる。89年に15%あったCRRが、97年には10%となり、また、SLRも38.5%あったのが 33.75%となっており、徐々にではあるが引き下がってきたと言える。準備率は引き下がったが、実際に銀行はどのように対応したかというと、商業銀行の預金に対する現金、投資、融資の比率をみると、どれもあまり下がっていない。特に投資の比率はCRR及びSLRに対応するものであるが、下がらずに、むしろ上がっていると言える。上がっている理由は、政府がSLRを下げても、インドでは民間部門で危なくない優良債権というのはとても少ない。そうなると、政府債権が一番優良となって、銀行のポートフォリオとしては、依然としてそれを選好したためである。同時に、銀行の自己資本比率の内容が厳格となったことから、銀行サイドとしてはより安全な方法を選んだ結果である。

   (c) 信用割り当ての存続

 融資の4割を農業及び小規模工業部門へ割り当てるという規制であり、ナラシムハム委員会は、段階的に引き下げる方向を打ち出したが、現実には、今でも依然として残っている。信用割り当ての問題点であるが、日本も、韓国も、信用割り当てをずいぶん長い間やってきている。ただ、インドの場合は、割り当てそのものが必ず悪いわけではないが、割り当てられたセクターではモラルハザードが起こりやすいのは事実で、議論のあるところであるが、実際には信用割当引下げに対する抵抗感が非常に強いのだと思う。既得権益があるから、それを奪われてしまうことに対しての反対が強くあって、なかなかなくすことができないと考えている。インドで小規模工業は、軽工業の輸出産業が大半であり、そこに信用割当存続の根拠があるのだという議論をする人もいるが、全体として見ると、信用割り当てそのものも問題だけれども、銀行のモニタリング、スクリーニングが弱い。全体に「たるみ」があるという感じがしている。

   (d) 銀行規律

    i) 自己資本規律

 自己資本規律を同時に金融改革の中で厳しくしていこうということで、BIS基準8%を超える自己資本の維持が義務づけられた。また、10%を満たせという議論もでている。こうしたことから、今いろいろな会計基準が整備されており、その結果、28の公共銀行部門の収益が45%低下したと言われている。

    ii) 不良債権

 インドの場合、不良債権は不動産、株式に対するものではなく、大半が公企業、あるいは農業部門に対する貸出しである。債権を、日本と同じように(1)標準、(2)準標準、(3)灰色、(4)回収不能に分けて一応整理すると、全体の23%が不良債権、また、全体の15%が灰色又は回収不能と言われている。以上のように、国際基準に従って、徐々にではあるが金融改革・銀行改革を進めていると言っていい。


 [4] 株式市場の変化

 インドの株式市場は、途上国と比較するとかなり発達した大きなものである。93年時点で、インドの株式発行時価総額は世界で22位、出来高で24位、上場証券数はアメリカに次いで2位となっている。現在では、インドの大都市に大体、証券市場があり、さらに89年に店頭株式取引所ができ、92年にナショナル・ストック・エクスチェンジがボンベイにでき、スクリーン・ベースド・トレーディングをやり始めた。

 インドの株式市場の特徴は、大半の株式が政府系金融機関、特にUTI(Unit Trust of India)(インド信託公社)と絡んでいることである。一番老舗で大きな株式市場であるBSE(Bombay Stock Exchange)では、主要30企業の株式(センセックス)のうち政府系金融機関が所有している比率は13%から50%ぐらいある。インドにはタータなどのファミリービジネスといわれている財閥があるが、これらの大株主は、UTI、生命保険公社あるいは損害保険公社などの金融機関である。したがって、金融機関は、いつでも役員を変えようと思うと変えられるポジションにあるが、実際にそういうことをしたことはないし、日々の企業の業績に口を出すこともない。翻ってみると、恐らくこれはインドの経済ナショナリズムのあらわれであり、外資によるテイクオーバーに対して、それを阻止するという役割を果たしているのではないかと思っている。

 92年に、インド証券取引所法が成立し、その下でSEBI(Securities and Exchange Board of India)は、「投資家の保護と資本市場の発達」を目的とする特殊法人となった。それ以前は、資本発行は厳しく制限されていたが、SEBIの下で株式市場が徐々に整備されてきたのが現状であり、外国機関投資家もインドの株式に投資できることとなった。外国機関投資家の投資額は無制限だが、実際には各企業の24%という投資比率の上限がある。現在SEBIに登録されている外国機関投資家の数は427機関と言われており、そのうち活動しているのは半分の200社ぐらいである。また、非居住インド人 (Non-Resident Indians) には、証券に優先的に投資できる特別措置があり、その意味では、国際化が急速が進んでいると言える。さらにインド企業による海外での転換社債及び株式の発行も認められ、かなり進んでいる。

 株式市場の自由化に関するインド国中の議論は相当微妙で、ネガティブな議論の方が多いと思う。一般的には、世銀タイプの議論、つまり、金融改革は、銀行改革だけでは不十分で、証券市場の改革を伴わなければいけない。証券市場の発達と経済発展との間に密接な関係があるという議論があり実証研究も多数存在している。

 しかし、インド人の間では、ネガティブな議論が多い。

 期間が短いのが残念であるが、いくつか実証研究がみられる。それらによると、株式への投資が経済発展には結び付いていない。「アングロアメリカン流の市場改革をする必要はない。銀行システムの改革を中心にやっていくのがずっと安全だ」という議論もある。

 株価の不安定性が増加し、自由化以降、相当激しく変動するようになり、投機なども見られ、そのマイナスの方が大きいのではないか。


 [5] 金融自由化の対外的側面

 構造調整プログラムの一環として、外資の流入に対する規制緩和が、直接投資、証券投資、非居住インド人預金の3本柱を中心に進んだ。

 直接投資、証券投資の両方とも急速に増加してきている。これは、92年にマンモハンシンが大蔵大臣になり、改革を始め、これが成功し、国内からほとんど反対が出ることなく、経済安定化プログラムはうまくいった。これが国際社会から高い評価を受けたのは間違いない。

 また、当時、インドがエマージング・マーケットの一つだという評価を受けたこと、そして、アメリカの金利も低下したので、93年の外国投資総額は約41億ドルにまで増加した。しかし、メキシコ危機の影響を受けて95年になると減少した。その後、97年度30億ドルぐらい、今年も40億ドルぐらいではないかと言われている。

 証券投資は、92/93年度は2億ドルちょっとだったが、93年/94度には35億ドル強まで急速に伸びた。そして、94/95年度が38億ドル。ただし、97年度以降は大幅に減少している。

 非居住インド人預金には、いろいろなスキームが存在する。その中でFCNR(A)(Foreign Currency (Non-Resident) Accounts)の金額が一番大きい。非居住インド人預金は合計で、200億USドル程度の残高がある。

 それまでは外資流入を規制していたため、これほど多量の外資が流入することがなかった。大量の外資が流入したときにRBI(インド中央銀行)は、名目為替レートを維持する措置をとった。為替レートは、実質的にはドル・リンクであり、1993年以降2年以上にわたって1ドル=31.4ルピーを維持していた。実際に、外貨流入に対抗するため公開市場操作を実施するなど中央銀行が市場に強力に介入した。また、自由化開始当初は準備率を少し引き下げて、民間に対する融資を増加させる政策をとり、民間活力を刺激した。しかし、結果として外資が多量に流入すると、対抗手段として、準備率を94年に引き上げ、不胎化政策へ転換したが、TB市場はできたばかりで依然として小さく、また、準備率は既にかなり高率となっており、それ以上高率にできないという理由から、不十分な不胎化政策となった。結局、中央銀行は外貨を大量に購入することとなった。

 リザーブマネー(ハイパワードマネー)の構成内訳を考えると、伝統的に政府に対する中央銀行の債権(RBI claims on Government (net))がほとんどを占めていた。93年以降、外国為替準備高(Net foreign exchange asset of RBI) が急増し、マネーサプライの増加の大きな原因となった。不胎化政策が不十分だったので、国内流動性が増加し、物価にはね返り、94年にインフレ率が二桁上昇となった。ただ、このときはドル安に転じた結果、インフレは、一応終息した。


 [6] 1995年9月からの為替下落

 95年9月からルピーのレートが急速に下落した。それまで31.4ルピーを維持していたが、10月には36ルピーに下がった。名目為替レートを無理に維持した結果、国内ではインフレが昂進し、実質為替レートが上昇し、インドの輸出競争力がなくなっていく。結局、輸出競争力を維持するためにルピーを切り下げ、外資の流入制限を緩和しなければいけないことになった。

 一度ルピーの切り下げを実施すると、インドは投機の波に襲われることとなり、10月〜11月にかけてルピーがどんどん下がり、35〜36ルピーくらいまで切り下げられた。

 この間、ドル売り介入したので、ルピーが吸収され、短期資金が足りなくなり、コールマネーの金利が急上昇していく局面が何回か起こっている。コールレートが、94年、95年、96年にかけて3度ほどかなり激しく動いた。


 [7] タラポレ委員会報告の概要

 以上のような対照的な経験を得た後、IMFの圧力がとても強くかかったこともあり、政府は、資本勘定の自由化に転換が可能かどうかを検討するタラポレ委員会を設置した。

 経常勘定の自由化(92年に行われた)時に資本勘定を自由化しようという議論があって、インドはその方向に一層進むべきであることを、当時の政府、マンモハンシンと、特にモンテク・アフリワリアあたりが強力に言った。ここでIMFの圧力がかかって、さらに一歩進んだのがタラポレ委員会である。

 この委員会報告は、資本自由化をした11カ国の事例を検討し結論を導いている。結論として、資本勘定の自由化をするために、1つは、財政基盤の強化、特に財政赤字を減らし、マクロ経済の安定を達成すること、2つは、97年〜99年の3年間にかけて平均3%〜5%の目標インフレ率を達成すること、3つは、金融制度の強化である。特に準備率規制から公開市場操作及び金利政策を利用した金融政策への転換、金利自由化、不良債権の処理、こういう3つの条件が必要だと言っている。97年〜99年の3ヶ年をかけて実施するという慎重な一面を持っているけれども、一方で、機は熟したという議論になっており、資本勘定の自由化は必要だ、という結論になっている。内容的には、世銀報告「途上国への民間資本流入」(要するにマクロ経済の安定、金融規律の強化、自由化の促進)とほぼ同じであった。

 しかし、実際には、当時、97年の段階でインドの経済は、タラポレ委員会報告の条件をほとんど満たしていない状態であった。財政赤字はむしろ増加しており、卸売物価、消費者物価もそれほど下がっていない。前提条件が実際には整っていないのにかかわらず、資本勘定の自由化実行の方針が出されたということは、IMFの圧力が相当強かったのではないか。


 [8] アジア通貨危機への対応

 委員会報告が97年6月に公開された一ヶ月後の7月にタイ・バーツが急落し、アジア通貨危機が、あちこちに飛び火した。当初、インド政府は委員会報告を実施する方針であったが、慌てて、しばらくペンディングにしていたが、去年4月、IMF・世銀総会の後で、今の大蔵大臣のヤシュワトン・シンハが正式に、資本勘定の自由化は当面見送るということを表明した。

 アジア通貨危機の影響はインドにはなかったのかというと、やはり結構あったと言える。ルピーは相当切下がり、中央銀行は為替投機に対する防衛措置を積極的に実施した。インドの場合は他のアジア諸国と異なり、アジア通貨危機プラス、5月に実施した核実験の影響があった。アメリカが経済制裁を発表し、日本も新規円借款を停止した。また、実質的にはそれほど影響が出ていないが、ムーディーズもインドのソブリンリスク格付けをずいぶん引き下げた。インドは、通貨危機と経済制裁の影響を受けて、95年と全く同じようにルピーがオーバーショートした。前回と同様のメカニズムが発生した。つまり、最初は、エマージング・マーケットとみられ、改革が成功したということで大量の外国資本が流入してくる。次に、名目為替レートを維持しなければならないために、中央銀行がドル買い介入をして不胎化政策を実施する。しかし、不胎化政策が不十分でマネーサプライの増加を招きインフレになる。インフレになると実質為替レートが切り上がって、その結果輸出競争力が減少し、貿易収支が悪化する。そのため、名目為替レートを切り下げる。切り下げると、投機的なドル買い圧力に見舞われ、その結果、一層為替レートは切り下がり、オーバーショートする。そうすると、中央銀行はドル売り介入を実施し、短期金利が上昇、銀行収益が圧迫される。

 このメカニズム自体は、アジアあるいは、メキシコでも同様である。インドの経験から明らかなように、中央銀行は介入するが、その際の外貨準備の適正額について今までは貿易収支(輸入の何カ月分外貨準備があるか)を基準に算出していたが、この基準は全く意味がないことになる。為替レートの動向あるいは、資本収支の動向で適切な介入のための外貨準備高は決まってくるということになる。

 もう一つ、インドは、準備率を引き上げて外資の流入に対抗しようとしている。準備率の引き上げは民間企業に対する信用縮小を起こす。インフレーションと生産、特に工業生産(去年、今年とずいぶん落ち込んだ)の落ち込み全部を金融で説明することはできないが、スタグフレーション的な状況が出てくる可能性はかなり大きい。名目為替レートを無理して維持しようとするが、維持しきれない。そのため一度名目為替レートを切り下げると投機的な圧力に見舞われ、オーバーショートするシステムになっている。ただ、インドに幸いしたのは、完全自由化を実行する直前に、アジア通貨危機が起こって、再考する余裕ができて、完全自由化を見送ることが出来たことである。

 去年の7%、一昨年の7.7%から比べると経済成長率はかなり下がり、今年は5.5%ぐらいの成長率になると言われている。他のアジア諸国に比べれば、相対的に打撃が少なく、インドは国際市場にそれほどインテグレートされていないのではないか。


 [9] おわりに

 全体としてみると、インドの金融改革と資本自由化は、南米諸国の場合と違い、ほぼ順調である。「初期条件」(69年以降の金融システムが閉鎖的になったが)である銀行制度も発達し、金融深化も十分あった。また、テクニック(マネタリーマネージメントの能力)も相当あったからである。

 二番目として、金融改革は、結果からみると相当「グラデュアリズム」で、無理のないペースで実施された。ただ、この評価が難しい。政府が意図的に「グラデュアリズム」を導入した面もないわけでないが、いろいろな既得権益が絡んで、結果的にそうなった面が多いのではないか。民間銀行、ノンバンクファィナンシャルコーポレーション、信託銀行の設立はさかんである。しかし、国有化された金融機関の再民営化の議論はほとんどされず従来のままの形式で残っている。これは既得権益がある上に、労働組合の力が圧倒的に強いため、議論の対象にすらならない。保険業界も同様である。たまたま結果として既得権益が沢山存在したため、自由化がグラデュアリズム的なアプローチになったのではないか。

 金融市場の自由化は、短期マネー・マーケットが最初に規制緩和され、銀行信用市場、株式市場、債券市場という形で進行しており、いずれも流通市場の改革はまだまだこれからだ。

 対外面での金融自由化も、ある程度まで進行し、その結果巨額の外資が流入した。これがマクロ不均衡の大きな要因になっていることは間違いない。インドの場合、それほど自由化していないにもかかわらず、いろいろな面で影響を受けてしまうことの意味を考えると興味深い。

 去年4月に、大蔵大臣が、しばらく資本自由化しないと表明した。世銀のウィリアムソンは、この前インドを訪問し、「インドはもう30年間資本自由化しないでいい」とコメントした。世銀の方が相当が折れて、資本自由化をやっても仕方がないと表明した。「30年しなくていい」ということは、永久にしなくていいという感じだ。世銀の自由化圧力がかなり弱まっている。だから、期せずして、国際金融市場の暴力からインドは守られた。

 資本自由化は、実行すると政策変数が多くなりマクロ経済運営が非常に難しくなる。国外の投資家の動向に右往左往し、それに対応する形で経済運営を綱渡り的にやらざるを得ない。

 インドのエリート層、特に中央銀行のエリートは素晴らしい。よく勉強しており、マクロマネージメント能力に秀れており、金融市場も十分に発達してきた国である。しかし、ほんの小さな出来事から、投機的な圧力にされされてしまう。自由化すればいいという理論的な議論はあるが、具体的にどういう事態が生じたのかを考えると何が言えるか、そういうことが資本自由化をめぐるインドの経験から得られる教訓である。



(2)国別報告「パキスタン」

明治学院大学国際学部教授
平島成望


 [1] 開発50年の総括

 パキスタンも1980年以来構造調整を受けていて、まさにスタンダーダイズな処方箋どおりに開発を進めているわけである。世界銀行あるいはIMFが、パキスタンの現況に関してどういう感覚で理解しているかというと、一言でいえば、「社会に対する基本的なあるいは構造的な理解がない。あるいはあっても、それに触れてはならない」ということである。中期的なスパンで事態を考えている世界銀行としては、わかっていても、そこに触れてはならないと思っているのか(これはいい解釈)、それとも新古典派経済学並みに、構造的な解釈は妥当しないと考えているのか、どちらかであろう。いずれにしても、そこにこそ同じ過ちが繰り返されているパキスタンの経済の姿があるということである。


 [2] 発展を阻む初期条件

 パキスタンは、1947年にインドから独立した。パキスタンを構成する地域は、その当時は今のバングラデシュを含んでいた。インド統治下のパキスタン地域は、ボンベイ、アメダマードの繊維産業に対する綿の供給地、あるいは小麦の供給地。バングラデシュ地域は、カルカッタのマルワリーのジュート工業に対する原料ジュートの供給地と位置づけられていた。パキスタン地域の人々は政治的な経験もないし、ムスリムはヒンドゥーから、教育制度と官僚登用などで分割統治により差別されていたので、官僚制が未発達であった。また、商業あるいは産業資本も育っていなかった。経済的には、「在地権力(土地をベースにした政治社会・経済権力である)」と、市場経済ではない「慣習経済の残存」が支配的であった。地勢学的な点からバルチスターン(アフガニスターン)、イラン国境、大カシミールという緊張関係があったので、強力な軍隊を維持する必要があった。インド軍の中でグルカ族を除いて、その大部分の人的構成はパキスタンのラージブートという種族と、北西辺境地のパターン族によって占められていた。それが全部パキスタンに残ったということが、長期間軍事政権がパキスタンを支配する1つの要素になった。当然、社会的なセクターの発達は「在地権力」の中で遅れ、現在も遅れている。端的に言うと、「在地権力」がパキスタンの50年間の開発経験を非常に貧しいものにしてしまった。

 発展を阻むこれらの諸条件を克服することが、一番大きな緊急的課題である。「土地改革」と言う方式を導入することを勧める人々がいるが、土地改革というのは、ドラフトするのはやさくしくても、それをインプリメントするエージェントがなければいけない。その改革を導入する主体が「在地権力」であることを考えると、これはほとんど机上の空論に等しい。「在地権力」を崩壊(「崩壊」という言葉は不穏当であるけれども)、あるいは相対的にポジションを低め、選択肢が多く、社会的な機会の平等が守られた社会を実現するためには、市場経済を活性化することと社会セクターを発達させること、及び人口の80%を占める農村の低所得者層の農家所得を強化するような地域経済の発達、この3つしかない。これが私の結論である。


 [3] 独立後の政治・経済社会の変遷

 これがパキスタンの初期条件と考えられるが、その後の変遷をどのようにみればよいかを述べたい。

 パキスタンの経済の混迷は、一貫した経済政策がない(いわゆる羅針盤のない)経済であった。それがサブタイトルに載せたように、「顔のない国家像」をつくり上げた。

 どのように行われたかというと、3つのエージェント(在地権力、財閥、軍)間相互の力関係で政治が決まり、その政治により経済が決まるということが、建国以来、今日まで続いている。


  (a) 政治指導者の喪失と政治の混乱

初期の政治指導者であるムハメド・アリー・ジンナー、リアーカット・アリー・ハーンを失ったということはあるが、その指導者を失ったとたん、在地権力の政党が乱立し、政局は混乱に陥る。そこに軍が政権をとる下地が出てくるわけだ。


  (b) 軍政の始まり

 1958年のアユーブ・ハーンがクーデターで政権についたが、引き続き69年までの10年間は、アユーブの軍政時代で、パキスタンにとっては黄金の時代だと言われている。現在でいう民活・民営化に主導された市場経済の発達によって非常に高い成長率を遂げた。

 軍政期の第2次五カ年計画、第3次五カ年計画の成長率は非常に高く6.8%、6.7%であり、変動係数も非常に低い。社会主義政権期の下の年次計画期は、経済成長は低い。その社会主義政権が崩壊し、再び軍事政権に戻る。軍事政権下の第5次五カ年計画、第6次五カ年計画では、変動係数、成長率ともに非常に高い。パキスタンの現状を見ると、軍事政権の方が民政政治よりもはるかに安定した経済成長と安定した経済運営を実現していることは、紛れもない事実である。

 アユーブ・ハーンは、3つのエージェントの中の軍出身である。軍というのは、在地権力と関わりはない。軍が、在地権力を抑えながら政権を安定させる手段としたのは、土地改革である。パキスタンで初めて土地改革が導入され、わずか600人ぐらいの大地主から200万エーカーという土地を収用して分配する。これは初めて実施された土地改革ということで、在地権力の基盤を相当破壊した。

 その一方で、民間セクター、特にボンベイ、アーメダバードから移り住んだパキスタンの民間資本を活性化することによって、在地権力の相対的な地位を弱めようという政策を実施する。この政策が功を奏して、その後に財界、民間セクターを中心とする非常に高い経済成長が実現する。

 しかしながら、この過程で、今のバングラデシュとの確執が表面化する。その当時、パキスタンは、バングラデシュ(東パキスタン)で産したジュートにより稼得された外貨を西パキスタンの民間資本家が経営する綿工業に振り向ける政策を行った。そこでつくり出された生産物を「インターウィングトレード」と称して、外国から輸入するよりも高い価格で販売する国内市場としてバングラデシュを位置づけた。資金のフローも西に偏っていた。この西パキスタンの東パキスタンに対する、いわば「帝国主義」的な政策がやがて東パキスタンの反乱を招くことになる。それと同時に、民間セクターを伸ばし過ぎた結果として、22の財閥が形成された。この財閥形成が社会的な平等感を損なうことになり、結局、この2つの条件がアユーブ・ハーンの政権を崩壊する結果になる。


  (c) ヤヒヤ・ハーン戒厳令

 アユーブ・ハーンは戒厳令を発効して、ヤヒヤ・ハーンという同じ戒厳令司令官(軍の司令官)に権限を譲渡するが、この過程でバングラデシュの分離紛争で印パ戦争が起こり、完全にパキスタンが敗北し、71年にバングラデシュが独立する。

 当時、パキスタンの経済にとってはバングラデシュの経済は、いわばトカゲの足を切るような感じで、マイナスになるような要素は何もなかった。逆に、バングラデシュからすると、経済的には、西パキスタンの余剰をもう少し吸収してから独立してもよかったのではないか。


  (d) 軍政から民政へ

 その後、民間のブットー政権が始まる(ブットー首相は、後に軍により絞首刑に処せられる)。ブットー政権の性格は、在地権力(ブットーは、シンドに6000エーカーの土地を持つ大富豪)を背景とするものであり、この在地権力が返り咲いたということである。そのため、ブットー政権安定には、興隆する財閥を抑える必要があり、そのために企業の国有化(これが一番安直な財界のつぶしであった)政策を実施した。

 国有化政策を正当化するイデオロギーを得るためにブットー政権は、中国へ接近した。インドとソ連の関係に楔を打つためには、中ソ関係が少し微妙な立場になっていたときに中国に接近するという国際的な力関係もあったが、企業の国有化というものをジャステファイすることが出来た。しかし、中国のイデオロギーとイスラムのイデオロギーは相容れないので、イデオロギーを受け入れる際、イスラーム社会主義つまり「イスラーム」ということを出してくる。そのときの国有化の条件は、非常に属財閥的で、必ずしも一貫したものではなかった。ブットー政権下で成長率は低くなり、経済は混迷する。

 ちょうどそのときに、第1次石油ショックが起こったという外生的な条件もあるが、ブットーが中国寄りになり、しかも国有化をしたという2つのことは、現在まで影響を与えている。インドが核実験をしたときにパキスタンが核実験をできた背後、あるいはインドが核実験をした背後に常に中国があった。中国・パキスタンとのリンケージは、ソ連が崩壊してインドがやや孤立した状況の中で極めて有利な外交的な連携として作用した。一方、国有化が逆に経済成長を低めた。22の財閥をつくり上げた経営資源が失われることにより、経済を混迷に至らしめることになった。

 現在行われているIMFの構造調整は、この時に国有化した企業をいかに民営化するかということに重点を置いている。当時、社会主義を強調し、労働組合あるいは小作・農業労働者に手厚い保護をしたため、国有部門のオーバースタッフィングが起こり、国有化したオーバースタッフィングそのものが民営化を拒んでいることも、ブットー政権のレガシーだ。


  (e) 再び軍政へ

 民営化・市場化の方向に進んでいたパキスタンが180度翻って社会主義的な方向へ経済運営を転換したことにより、政権の今後に対する不安感が生じ、その混迷に乗じてジアウール・ハック軍事政権が登場する。

 ジアーウル・ハック政権は、軍政の安定化を図るため両天秤かけるような政策をとらざるを得ない。民間セクターを活性化することにより行き過ぎた国有化を緩和すると同時に、在地権力に対してもある程度の妥協をするという政策をとる。

ジアーウル・ハック政権の問題は、イスラーム原理を経済の中に持ち込んだことである。イスラームの経済では、利子を取るのが禁じられているので、プロフィットアンドロスシェアリングという、よく分からない原理をもって銀行を運営せざるを得ない。またウシュル、ザカートというイスラーム税が賦課されるなど、近代的な経済の道筋と矛盾するイスラーム原理が導入された。この時期にイスラーム原理に傾いたことは、79年の第2次石油ショックにより不足した資金をアラブから導入したいという理由であり、妥協的な産物として導入された色彩が強い。

 79年のソ連のアフガニスタン侵攻で300万人ぐらいの難民がパキスタンに流入した。逆に、300万人ぐらいのパキスタンの労働者が中東市場へ労働者として流出した。一見、非常に大変な労働力の移動が行われたようだが、300万人のアフガニスタン人のパキスタンへの流入は、もともと流動的な北西辺境地に限られたいたので、内政にそれほど混乱を生じたわけではない。

 難民問題を政治化することによって、各国から大量な援助が流入し、特にアメリカから近代的な武器が導入されたことが問題である。ボーダーが弛緩した結果、麻薬や伝統的な手法でつくられている武器が国内に流れ出し、国外にも流れ始めた。アフガニスタン問題を放置することによる社会的なコストがだんだん上昇してくる。ようやく目覚めたジアーウル・ハック政権は、それに終止符を打つような政策を採用するが、その政策半ば、1988年にジアーウル・ハックは、不慮の死を遂げる。暗殺であるかはよくわからないが、いずれにしてもそこで政策に関しても、軍事政権に関しても終止符が打たれ、再びパキスタンの経済は民政に移る。


  (f) 民政の復活

 それ以降は、ブットーの娘のベナジール・ブットーによる政権と、民間資本家のナワーズ・シャリーフという政権が二期ずつ交代交代に担当して、現在に至っている。

 1997年2月に総選挙が行われ、現在の首相のナワーズ・シャリーフが圧倒的多数で政権を握る。第二次ナワーズ・シャリーフ政権は、都市に基盤を持ち、インドで生まれたナワーズは、ラホールを基盤とする中小の財閥出身である。ボンベイあるいはアーメダバードからパキスタンに移住したカラチ在住の22財閥出身ではない。ナワーズ・シャリーフは、財閥出身者であるけれど、伝統的な財界によってサポートされているわけでは必ずしもない。軍のサボートを得ているわけでもない。また、在地権力のサポートを得ているわけではない。しかし、ナワーズ・シャリーフ政権の閣僚名簿、国会議員、州会議員の名簿を見ると、ほとんどが在地権力の二世、三世で埋められている。一見すると、構造調整によって市場経済中心の運営がうまくいくような感じでありながら、なかなか思ったように運営ができていないというのが実情で、中央はともかく、地方では在地権力が、依然としてすべてのことを牛耳っていて、この構造が変わらない限り、ナワーズ・シャリーフの政策が思うような方向には行かないだろう。


 [4] マクロ的視野から見たパキスタン経済と構造調整


  (a) マクロ経済の状況

 現在のマクロの状況を少し述べたい。パキスタンの経済のおもしろさあるいは、驚くべき事実として、1982年〜94年の期間にかけて、GDP成長率と綿の生産の成長率がほとんど1対1の関係で相関している。マクロデータを見ると、パキスタンのGDPの成長率が下がったときには、ほぼ例外なく綿の生産(あるいは農業の生産)が下がっている。パキスタンには、フッド・アンド・ファイバー・システムという言葉があるが、綿と、綿をベースとする綿工業、それが農業セクター・生産セクター(彼らは生産セクターと言っている)の大部分を占めている。したがって、綿の生産の動向が非常に大きな要素を持つことがよくわかる。97年(第二次ベナジール・ブットー政権の末期に当たり、97年2月から第二次ナワーズ・シャリーフが立ち上がる)のGDPの成長率は3.1%と下がっている。農業セクターが0.7%の成長率、主要作物が▲4.5%、その中の綿が▲11.7%、GDP成長率が低かった状況を説明するシンボリックなデータだ。

 パキスタン経済の農業セクターはGDPの24%まで下がっているけれども、一方、製造業セクターの発達がほとんど見られない。工業部門の70%ぐらいのシェアを占める大規模企業の成長が非常に悪い。大規模製造業は、この時期に▲1.4%の成長率である。つまり、コットンの減収の影響の直撃を受けた結果である。

 小規模製造セクター(医療機器、カーペット、スポーツグッズ等)が成長を示しているが、統計が非常に曖昧で、いつも同じような成長率が載っていて、信用に値しない。


  (b) 構造調整

 構造調整を行うにあたり、様々な政策目標が掲げられているが、政策的に重要なインフレと失業の抑制について考えたい。

 パキスタンでは失業統計が不備であり、失業がどの程度か明らかでないが、4%〜5%程度と言われている。しかし、雇用を創出するセクター、特に大規模な工業・製造業セクターの成長率が停滞ないし下降する一方、3%あるいは3.1%に近い増加率で増加している労働力人口を受け入れ得る部門は農業セクター以外に存在しない。失業が農業セクターの吸収力によって目に見えないものになっている。

 インフレについては、CPIでみるとそれほど下がっていない。最近少し下がったけれども、上がったり下がったりという状況である。マネーサプライが増加しているので、やがてインフレ率も上昇するであろう。インフレを説明する要因がいくつかあるが、その中の一番大きなものが地下経済だろう。最近の73年〜96年までの推計によると、地下経済の割合は、1973年にGDPの13%であったが、現在はGDPの51%までに上昇している。地下経済の規模はタックスイベージョンがどの程度かということで推計されたが、1996年のタックスイベージョンの割合は、総収入の約50%に相当するものであるとされている。

 為替の切下げによる輸入インフレ、農業生産が停滞することによるコストプッシュのインフレも要因であろう。また、財政赤字が中央政府特に中央銀行に負担を課す結果、通貨供給量が増加すると昔から言われていて、現在まで変化が見られない。構造調整の結果、タックスが上がったり、航空料金が上がったりすることでインフレ圧力は収まる気配がない。

  双子の赤字つまり財政赤字と対外収支のインバランスがある。財政赤字対GDP比は目標である4%のレベルまで下がらず、改善されない。歳入に関して、タックスベースを広げることが出来ず、直間比率が非常に硬直的である。最近は直接税の比率が若干高くなったが、それでも間接税、特に関税に依存しており、GDPに連動しない形となっている。貿易の自由化が実施されると、関税収入は減少し、財政赤字は改善しないというジレンマがある。

 歳入面で一番問題となるのは、農業所得税の課税である。2%ぐらいの農家が40%ぐらいの農地を支配している「在地権力」の構造、反対の側面から考えると80%ぐらいの農家が5ヘクタール以下の農地を耕作しているということである。1996年、97年に農業所得税が法律として導入された。農業生産の70%から80%を占めるパンジャーブ州に限定してその実施状況を見てみると、12.5エーカー以下の灌漑地は免税、非灌漑地は25ヘクタール以上が税の対象になる。12.5エーカーから25エーカーまでは1エーカー当たり100ルピー、25エーカーから50エーカーまでは125ルピー、50エーカー以上は150ルピーの農業所得税が賦課される。つまり、農家のほとんどが農業所得税の網から外れることとなる。農業が州の管轄事項である以上、農業部門へ一番強力にタックスベースを広げなければならないが、ほとんどの場合、課税を逃れる状況にある。

 歳出面では、利払いとディフェンスと補助金がほとんど変化していない。ディフェンスの割合が多少、低下しているが、それを利払いが増加しており、大まかな構成はほとんど変わっていない。

 先日、外務省のアレンジメントで、ナワーズ・シャリーフ側近の秘書、そしてシンド州政府のガバナーと面会し話す機会があった。2人が異口同音に言っていたことは、世界銀行、IMFは利払いを削減するということは当然に言わない。ターゲットは軍事費の削減である。しかし、軍事費の削減は不可能であり、どうしたらいいだろうか、というのが非常に大きな悩みであった。現在のパキスタン、ナワーズ・シャリーフ政権下の治安状況を見ると、軍事費を下げ得る状態にない。つまり、財政赤字をGDPの4%に下げるのはほとんど不可能ではないか。

 対外収支バランスの推移を考えてみたい。所得弾性値の低いフッド・アンド・ファイバー・システムに依存しており、ここ何十年輸出項目は変わっていない。ボーダートレードの広範な存在によっても輸出産業の育成がディスカレッジされているということがある。耐久消費財はボータートレードでふんだんに市場に溢れており、耐久消費財産業の成長はほとんど見られない。また、ブラックマネーの存在もある。したがって、輸出の構成がラディカルに改善しない限り、輸入削減策をとらざるを得ない。輸入削減をすることは、経済成長にもネガティブなインパクトを与える。東アジアの通貨危機がコストプッシュ型のインフレーションを緩和している状況はあるが、全体として大きなインパクトはまだない。

 貿易のインバランスを緩和しているものとしては、海外からのレミッタンス(送金)、それからノンレジデント・パキスタン人、あるいはレジデント・パキスタン人の外貨預金制度である。送金と、特に短期のノンレジデントあるいはレジデントのよる外貨流入がパキスタンの外貨不足を補っている。核実験直後、パキスタン政府は、FCD(フォーリン・カレンシー・デポジット)を凍結した。ブラックマネーをホワイトマネーに転換する手段であった外貨預金制度が凍結されたことで、内外のパキスタン人が現政権に対して非常に大きな不信感を持った。凍結により、外貨保有高は若干増えるようになったけれども、経済制裁によって直ちにデフォルトの可能性が出てきた。最近、IMFの制裁解除がなされているし、日本もそろそろ制裁解除せざるを得ない状況となっている。


  (c) まとめ

 パキスタン経済のマクロデータをずっとフォローしていて、本当にどの部門を改善すればマクロ経済が改善するか、その展望が予想出来ない状況にある。一番大きな問題は、社会セクターを発達させること、経済の政策の一貫性をとること、ガバナンスを維持すること、ロー・アンド・オーダーを維持することが必要である。また、パキスタンには、ナショナリズムが欠如していることも大きい。ナショナリズムを支える知的な勢力が自分の資源を国家の形成のためにほとんど使用していない。そして、基本的な構造として、在地権力の存在の問題があって、この在地権力の構造が現在と同じような形式で存続すると、パキスタン経済の開発は同じような形で停滞し続け、発展の展望が今のところ見えない。

 シンボリックな改善を行う場合、カラチという商業都市を本当に活性化することである。市場経済を中心に経済の活性化を図るということは、かつてアユーブ政権下の22家族の財閥形成と同様の財閥が形成される可能性もあるが、現在では財閥の形成自体グローバリゼーションの中で許可され得る状況にある。そう考えると、財閥のネガティブなファクターよりも、むしろ市場経済を活性化させ、民間セクターを発達させることによって在地権力の持っている古い傷をだんだん縮小していく方策がとられるべきであり、この方向以外に国の将来はないのではないか。


(3)質疑・討議


〔 原 座長 〕 綿花の生産がマイナスになっている。最大の理由は何ですか。


〔 平島教授 〕 病虫害です。高収量品種のニアブに頼り過ぎており、病虫害の被害を受けると、土壌を消毒する必要があるが、消毒するだけのコストが民間には十分なく、それが2、3年続いた。


〔 小松委員 〕 インドとパキスタンの話で、久しぶりに「低開発の罠」の話(最近、東南アジアをやっていると、あまりそういう話は出てこない)を伺った。

 世銀の構造改革(ストラクチュア・アジャストメント)は、パキスタンの社会的な構造とか背景とかを十分に踏まえないで対策がとられており、そのことが構造調整政策の失敗の原因だと言われた。もう少し具体的に何がその問題の原因になっているのかを聞きたい。パキスタンには、在地権力(典型的な前近代的な経済構造)が存在する。在地権力支配を打開するために土地改革を行ったが失敗し、その後、財閥企業の国有化が行われた。改革の失敗というのは、改革の方向が間違っていたのか、あるいは、改革が不十分だったのか。在地権力を打開しなければいけない、そして、市場経済へ移行していかなければいけないという話と、世銀型の構造調整政策の持っていた問題との関係を聞きたい。

 その関係で、モイーン・クレシーの暫定政権のとき平島先生とパキスタンに一緒したが、IMF・世銀チームがパキスタン政府の中枢に座ってIMF・世銀のチームがまさに政権を乗っ取った様になり、いろいろな政策を実行しようとしていた。ある意味では、モイーン・クレシーは、世銀を代表するような方で、当時のエコノミストたちが希望をもってそれを見ていた。それがなぜ失敗したのかということも含めて、パキスタンの今の世銀の構造調整政策との関係をもう少し説明してほしい。

 インドに関しては、固定為替制度の下での資本移動の自由化を実施すると金融政策が無効になるというジレンマにある。理論的にはいろいろな答えを導き出すことが可能であるが、インドの社会的な、または経済的な諸条件の下で、どういう政策が有効だと考えられるか。資本移動を規制する方向、変動相場制に移行する方向、あるいは別の政策オプションがあり得るのか。インドの状況の下でどういう政策が望ましいと考えるか。


〔 平島教授 〕 シンガポール在住のパキスタン人、モイーン・クレシーがケアテイカー・ガバメントの首相として任命されたことについて、パキスタンの在地権力は不快感をもっていた。モイーン・クレシー政権は3カ月の暫定政権であったので、ある程度の改革を打ち出すことが出来たが、もう少し長期政権であったとすると今までの政権同様失敗に終わったのではないか、というのが事後的評価である。

 世銀・IMFの構造調整政策が、アジア諸国の中で最も有効に作用するのは、パキスタン、インドだろうと思っている。理由は、組織原理が脆弱であるということに尽きる。

 しかしながら、どうしてこれがうまくいかないのかということは、繰り返しになるが、1996年〜1997年の予算上、文教費のアロケーションが、100百万ルピーに対しユーティリゼーションが45百万ルピーしかない。パキスタンは、構造調整の中でも社会セクターに対する予算が削れなかった非常にめずらしい国なのだが、中身を調べていくと、お金が使えていない。なぜ使えていないか。地域で使わせてもらっていない。在地権力が州あるいは地域の政治を全部支配しており、教員の配置から、学校の立地まで、すべての面を掌握している。したがって、資金を準備すれば社会セクターが発達すると考えていること自体、認識が甘い。この様な地域の実情を世銀上層部が把握していない(多分わからないのだろう)。そして、現地の状況をよく把握している世銀のプランナーたちもそれを見て見ぬふりをする。

 社会セクターが十分に効力を発揮しない原因として、世銀は4つの要因を挙げている。[1]ベーシックスクールシステムへの予算配分が足りない。学校制度が不十分で劣悪である。[2]制度が弱い。[3]官吏も弱い。[4]ライン・デパートメントが脆弱である。住民参加が欠如している。しかし、これらは原因とならない。社会セクター整備を考えていくならば、プロモーションあるいはプレースメントまで意識し、学校の立地まで決めるような権力構造に対し、何らかの形で影響を与える施策を実施した上で、資金配分を行わなければ単にレントシーキングにつながるということにしかならない。私は、非常に絶望的な考えを申し上げているが、本当に絶望している。


〔 絵所委員 〕 インドは、国際通貨システムの中でメジャープレーヤーではないという点が最初に考えておかなければならない点である。本来、インドは通貨バスケット制度でやっているのだが、実質的にはほとんどドルペックとなっている。ユーロが導入されたから今後、バスケット制度に復帰することによって危険を分散するということがベストではないかと思われる。他の措置は考えられない。

 現在の状況で自由化を進めるのはさらに難しい状態になっている。インド人は性格的に非常に慎重なところがあり、国内の金融改革を先行してやっていくという非常にはっきりした意識は持っている。しかし、国内のシステムが整った後にさらに自由化を実施した場合でも、やはり対応出来ないのではないか。

 世銀もインドに対してはずいぶん甘くなっており、「自由化を急いでやらなくていい」と言っている。インドは徐々にドルペックを離れて、自由化を実施していくのではないか。


〔 菊池委員 〕 インドでは、小規模企業あるいは農業に対する資金は、比較的コンスタントにそれなりに流入していた。その資金が、投資に使われているとすると、そういうセクターは発展してきて然るべきであるが、なぜ発展しないのか。運転資金として消耗されるような形になっているのか。

 資金が流入する地方経済は活性化して然るべきなのに、どうして活性化しないのか。そういう意味での実物経済の循環は本当にうまくいっているのだろうか。

 パキスタンには、兵器産業等があるが、結局、製品を輸入するだけで、地場の産業に何ら影響を与えていないのか。歳入と歳出が、産業と連関のない形で行われているのかどうか。

 在地経済が成立、発展するために、前近代的な産業構造が商業に巻き込まれて、破壊されて、農業セクターが縮小、工業が発展していくことが自由主義経済下では当然なのに、そうならないのはなぜか。在地経済は、農業生産だけで成り立っていくシステムが確立された上で成立しているのか。それとも、外部から資金が絶えず供給されて、経営がうまくいっていないために補助金をもらうような形で成立している。つまり、政治に寄生するような農業でしかないのか。実体経済の発展と資金の流出・流入という問題がうまく絡まっていない原因はどこにあるかを聞きたい。


〔 絵所委員 〕 農業の方へ流入した資金の相当部分は不良債権化している。大半は、運転資金に行っている。特に食糧の買上げに相当回っているのが実態である。フード・コーポレーション・オブ・インディア(公企業)の運転資金として消耗されているノンパフォーミングのローンが一番多いのは、農業セクターであり、不良債権化している。つまり、補助金のような形で消費されている。

 小規模工業はまだかなり良い状況で、ある程度発展している。小規模工業に対しては、留保政策をとっており、小規模工業でないと製造できない規制された分野が700ぐらいある。大企業は参入出来ないから小規模企業を使って生産しているケースもある。また、競争力のある企業がないわけではない。特に繊維産業は、輸出の8割が小規模工業が行っている。こうしたいいところもあり、全部が悪いわけではない。

 生産性の伸びと信用の伸びを比べると、信用の伸びがずっと大きいために、それほど成果が上がっていないという指摘があるが、業種・業態を細かく見ないと間違った認識をすることになる。


〔 菊池委員 〕 生活必需品産業は比較的健全に育っているとみてよいか。一方、日本の電機産業等が進出しているが、それらの下請けになって、いわゆる産業インフラを形成することができているかどうか。


〔 絵所委員 〕 それほどはできていないけれども、サブシディアリーとか、アンシラリーインダストリーという概念があって、作ろうという意識はある。OECFも小企業開発銀行にローンして、デリー周辺でうまくいっているケースも多々ある。小規模企業も、ピンからきりまである。伸びのある業種とそうでない業種が存在している。国内向きの消費財製造業は品質もよくならないし伸びない。しかし主に輸出向けの繊維産業、あるいは、優先部門政策の対象の産業は良く、この政策は必ずしも間違っているとは思わない。


〔 菊池委員 〕 ソフトウエア産業などが最近よく話題になるが、どうか。


〔 絵所委員 〕 ソフトウエア産業は、小規模産業には分類されていない。財閥系が強い。


〔 平島教授 〕 インドの農業の問題は、灌漑比率が三分の一しかないということである。緑の革命がその三分の一(400ディストリクトあるうちの100ディストリクト)のディストリクトに普及するのに25年かかった。今後3%から4%の成長率を7割の天水田でどうやって達成できるか。今までは、2億トンぐらいの食料生産ができており、大体予測された水準まで行っているが、今後の達成は少し危ないという感じがする。

 農業に対する公共投資が80年代からずっと下がっている。私的な投資は上がっていて、トータルでいえば横這いか、若干上がりぎみである。公共投資というのは、使う人間にとってはスケールニュートラルである。しかし、私的投資はスケールニュートラルではない。そのエクイティのインプリケーションが全然違う。それから、公共投資のあるところの私的な投資の収益性は非常に高い。現在、PDS(パブリック・ディストリビューション・システム)に大方の補助金が行っている。これは政治基盤が脆弱で、しかも、不幸にして民主国家だから、農民が1票持っている。したがって、貧困線以下が2億人とか3億人とか言われている国で、食料穀物はまだ賃金財だから、それを安く分配するには、どうしても補助金が必要である。そのPDSを賄っている州は、4州(パンジャブ、ハリアナ、AB、UB)に過ぎず公共投資もほとんど集中している。この4州から、米の80%、小麦のほとんど100%を政府が買い上げている。PDSを守るために公共投資をその4州に集中したということはジャスティファイされるが、今後はそのようなわけにいかない。

 公共投資を東の方に振り向けるというのが、インドの農業にとって非常に重要なことだろう。今、東部のベンガル、オリッサ、ビハールで農業成長が非常に高いが、それは電力供給を基盤とするシャロー・チューブ・ウエル(深井戸・浅井戸)、それによる灌漑が増加して成長率が高い。そこに公共投資が振り向けられることによって、同じ公共投資で生産効果は非常にあるだろう。インドの農業生産に関しては、ポリティカル・プロセスになると思うが、これができれば楽観視出来ると思う。インドは、交易条件として農業がずっと有利になっているが、これは、グローバリゼーションの1つの圧力ではある。総人口の7割か8割に近い農村在住者の中の4割が、食料の購入者(これは土地の所有がなく、統計上農業労働者と分類)である。交易条件を農業に有利にすることは、市販余剰を持っている人間にとっては有利だが、持たない人間にとっては経営圧迫、土地を持っていない人間にとっては生活水準の低下を招くことになる。そういう意味で、PDSに対する負担となり補助金が減少するどころか増加している。価格システムが生産と連動しておらず、豊作でも価格は上がり続ける。だから、価格が上がれば、生産は上がり、在庫は積み上がるけれども、同時に経済は悪くなるという問題がある。

 パキスタンに関しては、兵器産業等々、常に国家の手にあるけれども、鉄鋼業はコストが高く、競争力はほとんどない。これは最初、ソ連に協力を依頼した結果であるかわからないが、少なくとも、地場の産業の発達に貢献していないことは明らかである。

 ボーダートレードがほとんど野放図にされていることが一番大きなことではないか。国内産業をディスカレッジするようなボーダートレードが野放図にされているということは、パキスタンの製造業にとっては非常に辛いところだと思う。ボーダートレードを経済学的にペイしないようにするには、関税を下げればいいわけだが、関税を下げると今度は完成品が入ってきてしまい製造業が成立しないということで、ジレンマのケースになる。

 農業生産についてであるが、パキスタンは8割というインドよりもはるかに優れた灌漑ベースをもっているが、緑の革命を経たコメの生産性は、明治期の日本よりも低い。水が足りないとかいうこともさることながら、基本的な農法が農村のレベルでなかなか普及しない。先ほど制度が弱い国だと述べたが、まさに制度が弱いから新技術が広まらず、農業のレベルが上昇しない。日本の中では、新しい技術は、ほぼ垂直的に村落あるいは、地域の技術になる。向こうでは、個人の技術で終わってしまう。新しい発見はあっても、よほど価格のインセンティブがない限り新しい農法は普及はしない。

 政治に寄生するというよりも、本人に寄生していると考えた方がいい。パキスタンでは、ハーン(khan)、チョードリー、モアッラーという言葉がある。ハーン、チョードリーというのは、北西辺境州パンジャーブの大地主のことを言う。モアッラーというのは、それの弊害をすべて宗教で包み込んでしまう、イスラームの僧侶の総称。レガーリー大統領がかつて「カルチャー・オブ・コルージョン」という言葉を使ったが、これは言語でいうと「リシュワット,サファーリッシュ」で、リシュワットというのはコネ、つまりコネ社会。サファーリッシュというのは馴れ合い。在地権力が、地方、国、国会それから政府というもの全部を牛耳っている。例えば、農業開発銀行の一番の借り手は在地権力であり、彼らは借入金を全然返さない。要するに、ちょっと考えられないような状況。このすさまじさというのは、現場に行かないとわからない。

 フィールドに行けば何でもわかるのかとお叱りを受けそうだけれども、マクロを見ていても、余り多くはわからない。マクロは血液検査ではあるけれども、CTかMRIをしてみないと構造的問題はわからない。農村の基本的な社会ユニットに問題があり、長年培われてきたものであり、イギリスの植民地制度ですら、それを壊すことができなかった。そういう大変なものである。

 この問題を変えようと思ったら、市場経済を活性化する以外にない。残念ながら、消去法でいくとそれしか残ってこない。


〔 下村委員 〕 パキスタンもインドも核兵器を保有することになったが、国境線の話、宗教の違いなど争いの種は尽きないと思う。また、経済力の格差は、核実験後の経済制裁でさらに明確になった。この経済力の格差について、パキスタン側にどのくらい焦りがあって、どの位その格差が戦争に結び付く可能性があるのか。

 絵所委員に明快な話を伺ったが、前から感じていたがインドの場合は、IMF・世界銀行(特に世界銀行)の構造調整がインド政府の意向を配慮した形で行われている。なぜこのようなことが許されているのか。これ自体はいいことであるが、東アジアに対する対応と余りにも違うのではないか。

 平島教授が、インドとパキスタンで世銀・IMF型の改革がうまくいくと(これはブラックユーモアかもしれませんけれども)言われた。過去の実績からそういうところがあるが、それはむしろ2つの国際機関の腰が引けているからではないか。腰が引けている理由が、特にインドの場合、インド人が世銀に食い込んでいるということだけで説明できるのかどうか、その辺のところを伺いたい。


〔 篠原委員 〕 十分な定義なしに「アジア」という語を使う一方、「アジアはずいぶん違うんだよね」という言い方もしている。インド人がインド国内にいる場合、パキスタン人がパキスタン国内にいる場合、彼らの知的なアイデンティティの中に「アジアの一員である」という認識があるのかないのか、どのくらい強いのか、教えてほしい。


〔 平島教授 〕 アジアの一員であるということを意識するのは、彼らがパキスタンから出たときである。それ以外に答えようがない。パキスタン国内でそういう意識を持っている人間は、ごくわずかである。

 インドとパキスタンの決定的な違いは、知的な中間層の幅が全く違う。パキスタンは、ローカルな大学で学位の取得を終了する人はほどんどいない。上層部の人々が、外国で学位を取得して帰国する。帰国後すぐ官僚や、政治家になる。一方、インドの場合には、ローカルな大学で修士号や博士号を取得する人々が沢山いる。

 パキスタンの場合は知的な中間層が欠如しておりドーナツ現象となっている。シャリフ政権は最後まで核実験を実施したくなかったにもかかわらず、核実験を強行せざるを得なかったのは、大多数の文盲の国民が感情的に爆発してしまい、それを抑えるだけの力が、シャリフ政権になかったということに尽きる。

 ごくごくわずかなパキスタンの人間は、カラチを出たとたんに、アジアの一員ということを意識すると思う(誇りに思うかどうかは別である)。

 篠原委員のお話に関連するが、今年の1月3日に、デリーでノーベル賞をもらったエイケイ・センがインタビューを受けるのに出くわした。インタビューの中で核実験のことについて聞かれたときの答えが非常に明快だった。インドが核保有国の態度に対してフラストレーションを持っている、また、中国に対してフラストレーションを持っているというのはよくわかる。しかし、フラストレーションを持っているとしても核実験はインモラルであるということをまず最初にはっきりと言った。それから、3つの意味で、これはインドのクレデビリティをパキスタンよりも下げたものであるということ。[1]あれだけ国内問題であると言い続けていたカシミール問題を、核を持ったことによって、自分から国際問題化してしまったということ。[2]核を持つことによって国連の安全保障理事会のメンバーになったとするならば、同じような国に同じような道筋をつけたという誹りは免れないだろうということ。[3]パキスタンに関して、たった人口の7分の1の国だと、斬って捨てた。インドは、中国があって初めてパキスタンがあるわけで、無視してもよろしい存在である。それであるにもかかわらずパキスタンとある意味で同じ土俵にのってしまったこと。パキスタンに関心を持つ者にとって、不愉快なコメントではあったが、非常にはっきりと言っていた。

 核実験実施後の経済制裁がパキスタンに与えた影響についてであるが、パキスタンは、貿易依存率が90年になって36%ぐらいとなっている。インドはせいぜい20%〜25%である。貿易依存率が高いということは、対外的な影響を受ける。パキスタンのODAの規模がインドに比べて全く違う。そういう意味では、経済制裁が実施されODAが途絶えると、外貨繰りは非常に苦しくなるという意味では、インドと比べものにならないようなインパクトを持っている。

 また、対外的な要因による影響を受け易いという点では、ロー・アンド・オーダーの問題がある。一番の商業地のカラチには、MQMという政党(インドからパキスタンに移り住んできた人たちが、2等市民の扱いを受けていることに対抗する、ラディカルな政党)がテロ活動を行っており、シンド州が非常に治安が悪くなっている。そのために、外国の資本、ドメスティックな資本もカラチに投資しようという意欲がない。

 93年ぐらいまでは、FDI(Foreign Direct Investment)は、インドよりもパキスタンの方が多かったが、最近はぐっと少なくなった。FII(Foreign Indirect Investment)が増えるのは、例えばテレコミュニケーションの株を放出するとか、そういうアドホックな状況で増えるけれども、こういう状態が続く限り上がることはない。したがって、パキスタンが今、核実験後、頼りに出来るのはFCD(Foreign Currency Deposit パキスタン居住者及び非居住者の外貨預金)であるが、湾岸の石油価格が今はずっと下がっていて、送金がそれほど爆発的に伸びるとは限らないとなると、インドに比べると経済的なインパクトは非常に大きい。


〔 絵所委員 〕 しばらく前にロンドンのLSEに行っていたが、あそこでエージアンというと、イギリス全体がそうだが、インド人、パキスタン人、要するに南アジア人のことを言う。インド人もそういうふうに考えている。インド人には、「我々はアジア人だし、アジアの中心にいるアジアの本家である」という意識がとても強い。

 インド人は、東南アジアのことをアジアと言わない。イギリスから見るとファーイーストつまり、アジアのおまけであり、インド人もそのように思っている。エージアンの中心はインドと思っている。中国人とは、非常に張り合っている。インド人は、日本も当然エージアンであると思っているから、日露戦争の話がよく出てきて、「アジアの仲間だね」と言われてしまう。

 世銀の対応についてであるが、80年代「IMF・世銀」と言ってたけれども、現在はそこのところに楔が入ったような気がする。インド人の評価も、そこに楔を入れた形で評価をしている。スティグリッツが世銀副総裁になってからは特にそうだ。IMFに対しては硬直的だという批判をしている。

 腰が引けているのはなぜか、インドが巨大であるからではないか。アメリカの対インド意識が反映していると思う。政治的かもしれないが、アメリカのインド評価はかなり高い。一方、日本人のインド評価はあまりにも低い。インドのポジションに対する評価が日本とアメリカのあいだで、ものすごくずれている。世銀・IMFは、アメリカ人のインド評価を当然反映すると思うが、その差が出ているのではないか。

 インドはイギリスの植民地当時、イギリス帝国臣民の地位を与えられた国であるが、アフリカは与えられなかった。そこに差がある。なぜかというと、インド人は教育を与えれば、ちゃんと一人前の人間になるとイギリス人は考えていた。実際に、その能力はある。マネージメント能力があるという点を英米系の人間は確信しているところがあって、インド人に対する評価で日本と大きなズレがあるところである。

 中国人、ロシア人よりはるかにインド人の評価は高いのは、間違いない。


〔 原 座長 〕 東南アジアを専門にしている人間としては、インド、パキスタンに行くと、違う国に行った感じがする。「原さんは、インドに冷たい」と絵所委員に怒られているが、今日の話を聞いて、もっと冷たくなろうと……。