財務総合政策研究所

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.第一回研究会(平成10年10月5日)

(1) 国別報告「タイ」 

政策研究大学院大学・埼玉大学教授
    下村恭民

[1] はじめに

 タイの経済危機は、今回の東アジアの経済危機のきっかけになったわけだが、今日は1997年7月以降の1年余りの間に何が起こったのかということを簡単に述べ、そして、なぜ危機が起こったのか、なぜこんなに深刻化したのかということを考えた上で、最後に、今後の動向を見るポイントを挙げてみたいと思う。


[2] 何が起こっているのか

 何が起こっているのかというと、マクロ、ミクロともいろいろな経済指標が持続的に悪化しており、これらをいくつかのポイントに絞って要約してみたい。

 まず、今回の経済危機は、最初は通貨危機という形で起きた。97年7月にバーツの価値が急落して、すぐ株価の急落という形になった。また、97年7月と98年7月の東アジア諸国の通貨、株価を比較するとほとんどの国で通貨価値が目減りし、株価も急落したが、タイで起こっていることは東アジアで決して例外的なことではなくて、国ごとに状況も歴史も問題点も、危機が起こってからの道筋もずいぶん違うにもかかわらず、そういう個性の差を超えて非常に似たようなことが起きているということが1つのポイントではないかと思う。

 タイについて言うと、97年7月からの1年の間に通貨価値が7割のダウン、株価が約5割のダウンということになっている。通貨は、最近は若干戻しており、98年の春あたりから一進一退で一応落ち着いている。これがマクロ経済面の1つの下支えになっているということが言えるかと思う。

 通貨価値が落ちて株価が落ち資産デフレが始まったという影響を受けて、金融部門が非常に大きな打撃を受けた。タイの金融部門は、90年代に入ってから、いろいろな自由化の努力をして、その終着点が93年に創設されたオフショア金融市場による短期資本移動の自由化だった。これによって外国から非常に豊富な資金が入ってきたと同時に、これがいろいろな有効でない使われ方をして、タイ国内の状況の変化とともに、急速に流出してしまうという問題が起きた。通貨価値の下落と株価の下落、その後に続いた土地等の不動産あるいは資産の下落、これによって民間金融機関の不良債権が非常に急増し、不良債権比率が非常に高くなった。総貸付に占める不良債権の比率をみると、アジア各国とも似たような水準に収斂しており、タイだけが特にひどいというわけでもなくて、各国とも不良債権が非常に累積している。タイの場合は不良債権の累積が結局金融機関の経営を破綻させて、しかも84年以降タイの通貨が非常に対ドル・レートで安定していたということで、金融機関が外貨でリスク・ヘッジしないで借りたことから、対外債務の支払い能力も払底したという状況が起きた。

 金融機関が経営破綻した後、その影響を受けて、いよいよ実体経済に影響が出て、生産が急減し投資が急減した。その結果、急激にマイナス成長に変わりつつあるが、これをもう少し詳しく見ると、97年7月以降の製造業の生産高と民間投資の月別の対前年同月比の動きをみても、急激に落ち込んで、特に年が変わってから非常に深刻な数字になっているということがわかる。これを品目別に見ると、やや興味深いことに資本財、生産財の落ち込みが非常に深刻な反面、消費財あるいは輸出用のICとか生産高は非常に好調だという数字が出ている。これはどうも実感とちょっと違うので、この辺はさらなるチェックの必要がある。

 なお、通貨価値の下落による輸入インフレの激化が非常に懸念されたが、今のところ10%強という消費者物価上昇率でとどまっており、急激に上がる感じもない。これは、為替が下げ止まったということも貢献していると思う。ただ、食料不足で食料品価格の上昇率が高いために、貧困層あるいは農民又は地方の人たちの間の不満が、高まっているということが、今後の1つの問題点であろうかと思う。

 こういう国内経済の状況なので、輸入が激減するということは当然起きるわけで、これが東アジア全域で発生し、そうなると当然タイの輸出も低迷した。輸出を中心に、わりあい早期の回復が可能ではないかと当初思われたが、これがどうして実現しなかったかということについては後ほどもう一度考えてみたい。輸出は、バーツ建では非常に伸びているけれども、ドル建では伸び悩んでおり、地域別構成をみると東アジアのウエイトが急速に下がって、それを埋める形で米国向け輸出のウエイトが上がったという構造変化が見てとれると思う。こうした動きは、ASEANではフィリピン以外は共通の形になっているということがわかる。


[3] なぜ危機が起きたのか

 なぜ危機が起きたのかということについて述べるとタイの場合は、総合して考えて5つの要因が複合的に関連し合って作用したということではないかと思う。ただ、5つの要因のうち、タイに特有の要因というのは実はそれほどあるわけではなくて、おそらく、東アジアに共通の、あるいはもっと一般的に言うと、いわゆる新興市場、エマージング・マーケットに共通の要因が中心材料になっているということが言えるかと思う。そういう意味では、タイで最初に通貨危機が起きたわけだが、これは東アジアあるいは他の新興市場で、状況が変わればどこで悪化してもおかしくなかったと言えるかと思う。

 まず、5つの要因の1番目は、世界的に不安定な短期の資金移動が増えているということであり、それが10ないし12の世界の新興市場に集中している。96年のデータによると、途上国への民間資金流入は、 2,340億ドルで、このうちの85%ぐらいが12の新興市場に集中しているという数字が出ており、これは途上国にとって非常に有望な機会であったと同時に、極めて危険な状況に導く要因であったと言えると思う。

 2番目の要因は世界的なグローバリゼーションの下で、タイが90年代に入ってから金融部門の自由化を積極化したことである。これは2段階に分けて考えることができると思うが、1番目はいわゆる金融自由化の仕上げの段階で、いろいろな取引あるいは金利の設定についての規制を緩和すると同時に、政府による監督基準も緩やかなものにして、さらに、ノンバンクを含む非常に多くの金融機関の新規参入が認められた。これで、不慣れなあるいは弱体な金融機関が非常にたくさんできた。その後、第2番目の段階として、93年に、先ほど最初のところで触れたようにオフショア市場をつくり、これで資本取引の自由化が進められて、金融自由化は相当高度な段階までいったということだったろうと思う。ただ、残念なことに、これは方向としては当然望ましいのだろうが、金融部門の制度能力の方はある程度時間を置けばキャッチアップできるというようなものではなくて、おそらくタイの金融部門の制度能力をはるかに超えるような能力を要求される制度に変わってしまったということだったと思う。ここに不安定要因が充満したということではないかと思う。

 3番目の要因は、こういう未発達な金融機関があって、新興市場に巨額の短期の資金が流れ込んだわけであるから、それがどう使われるかということについては非常に危ぶまれる状況が起きる。シンガポールを除く東アジアに広くみられるパトロン・クライアント関係というものが、インドネシアとか、あるいは韓国に比べると目立たない形にはなっているかとは思うが、タイにも当然あるわけで、こうした関係がやはり民間金融機関の資金配分、あるいは融資の仕方に相当影響したということは言えると思う。

 4番目の要因として、長期の非常に安定した高成長が生んだ、右肩上がりの心理が内外の投資家の間にあった。これは、タイだけを批判することはとてもできないわけで、80年代の日本や今のアメリカと同じような過剰な流動性と右肩上がりの心理が結合すると何が起こるかある程度予想がつく。

 5番目の要因として、90年代になってからテクノクラートの地位が著しく低下したということが挙げられる。

 タイのテクノクラートは途上国の中でもバランスがとれた、非常に合理的なしかも慎重なマクロ経済運営をするということで、高い評価を得てきており、IMF、世界銀行を含む国際機関の評価も非常に高かったが、これが急速に変化して、テクノクラートの影響力の低下と能力の低下が平行して生じた民間部門が繁栄し、高い給料がオファーされたことによる頭脳流出の問題も当然あるが、むしろ重要なのは、1992年の5月流血事件に続く民主化運動の勝利の帰結である。この勝利は政治的には非常に望ましい方向と思うが、残念ながらその後に登場した非常にダーティーな政治家たちによるマクロ経済運営への介入があり、そのため、それ以前の、特に80年代の軍部出身のプレーム政権の頃に、政治的ロビー活動の影響力から遮断した形で、テクノクラートにマクロ経済運営の腕を振るわせたという環境からみると大きな変化を生じさせたということがあると思う。80年代のタイはかなりバランスの取れたわりあいリーズナブルな一種の民主的開発主義体制だったのだろうと思う。特にプレーム政権はそういう意味の1つの最も完成度の高い政権だったろうと思うが、そういう体制の下で政治的な影響力からかなり遮断されて、特に中央銀行などが腕を振るえた時代が終わって、テクノクラートのモラールも下がったのだろうと思うが、90年代のタイのマクロ経済運営は、かなりモタモタしたと言えると思う。こういう5つの要因が組み合わさると通貨危機が起こるのはしようがなかったなという感じがする。

 金融部門が弱かったから短期資本移動の自由化がうまくいかなかったのだという話がよくあるし、ドーンブッシュは「東アジアは無免許運転と酔っぱらい運転を一緒にやったようなものだ」と言ったそうであるが、本当に金融部門が発達していたら、どれだけ短期資金がジャブジャブ入ってきても、右肩上がりのバブル心理があっても大丈夫だったかというと、とてもそうは言えないわけで、また、金融部門がそれだけ弱いのに、無免許状態なのに、双子の自由化を助言したということも国際機関、先進国側の大きな反省材料ではないかと思う。

 その結果、97年の6月、つまりタイの危機が発火する直前の状況は、債務残高のうちの短期債務が約5割弱、外貨準備に対して短期債務が 110%という数字が出ている。タイの状況が必ずしも飛び抜けて悪かったということではなくて、マレーシアとか韓国の数字も概ね似たようなところにあったので、東アジアの状況はかなり共通していたということではないかと思う。


[4] なぜ深刻化してしまったか

 以上のような5つの要因があり、他の新興市場と同じように、タイでも通貨危機は避けられなかったと思うが、問題はむしろ、冒頭申し上げたマクロ、ミクロの経済の指標が示すような状況までなぜ深刻化してしまったかということではないかと思う。

 クルーグマンをここで引用するのはあまり気が進まないが、あのシニカルな彼でさえ、やはり予想しなかったようなことが起きたと述べているわけであるから、やはり、これはいままでの分析のやり方では、予測できないようなことが起きたということなのかもしれない。なぜこういうことになったかということを考える上で、小峰隆夫さんが興味ぶかい視点を提示している。これを借りて私なりのやり方で考えてみたい。

 通貨危機が起きたときに、タイあるいは他の東アジアでも似たような状況だったと思うが、いずれもファンダメンタルズ、あるいは実体経済はしっかりしているし、貯蓄率も高いのだから、わりあい早期に立ち直るのではないかと思った。そのときの立ち直るための有力なシナリオというのが2つあったと思うが、なぜこのシナリオが働かなかったのかということである。

 1つのシナリオは、IMFが提示した構造改革を実施すれば、市場原理が強化されて、経済が効率化されて、民間部門が活性化して回復するというシナリオ。もう一つは、為替がこれだけ切り下がったのだから輸出主導で回復するのではないかというシナリオである。この2つとも、今のところあまりはかばかしい結果が出ていないが、これはなぜかということを考えてみると、深刻化した理由がわりあい浮き彫りになってくるのではないかと思う。

 まず、IMFの構造改革のシナリオについては、通貨危機が起きた時点のタイの経済状況とIMFの支持プログラムの中身がミスマッチだった。この点については、もう既にいろいろな指摘が出ているので、ここではくり返さないが、伝統的な構造調整アプローチは、80年代の双子の赤字と公的債務で起きた経済危機あるいは債務危機には一応ある程度フィットするものであったと思うが、21世紀型の通貨危機に合わない。ただ、それに加えて、私が1つ強調したい点は、IMFが市場心理への対応に失敗したことである。IMFのアプローチは極めて整合性のあるコンシステントな理論的基盤に基づいたものだったと思う。ただ、理詰めで取り組むだけでは、公的債務中心で双子の赤字のときはそれですむと思うが、今回のように政府の公的部門に問題がなく、民間部門で貯蓄投資バランスが大きく崩れている場合には十分でない。短期の資金がトラブルの源泉になったわけであるから、外国の投資家たちの心理がどう動くかに、その後の安定化の成否が依存することになる。つまり、タイの経済のその後の動きが、外国の投資家の動向の関数になってしまったわけだが、そういう状況ではIMFの対応は極めてまずかったと思う。つまり、IMFのアプローチは、市場心理をあまり考えない枠組みのアプローチだったということである。厳しい緊縮政策とか大幅な構造改革、インドネシアの場合になると、もっと踏み込んで政治体制に手を付けるような要求もしたということだが、容易でないコンディショナリティーが出てくると、当然、途上国側がそれを充足する可能性が低くなるから、それが途上国にとって望ましい改革であるかどうかは見方の違いがあるにしても、少なくとも市場心理から言うと「これは大変だ、先行き右下がりだ」ということになって、過剰に悲観的な市場心理を生むということは言えると思う。その結果として、タイで起きたように資金が引き上げられ、通貨価値が下落し、その結果、不良債権が増加し、金融機関の経営が破綻して生産停滞になる。これがまたフィードバックして通貨の急落につながるという連鎖、スパイラルが起きたということが言えると思う。

 97年夏の段階で、まだ、みんなが「これは通貨危機だ」と思っていた段階で、通貨危機のままで封じ込めてしまう対応が必要ではなかったかと思う。これが21世紀型の危機についての将来の教訓の一つではないかと思う。ここには、そういう形でやるとモラルハザードが起きるという批判が当然あると思うが、現状でもモラルハザードが起きているわけで、弱者や貧困層へのダメージという社会的側面に着目すると明らかなように、これだけの深刻な代償を払うよりは、早い段階で通貨危機のまま抑えこむ対応をした方がよかったのではないかと思う。

 次に輸出主導による回復がなぜうまくいかなかったかということだが、為替が切り下がって生産部門がしっかりしていれば、いずれ輸出は回復するのだろうと思うが、ここまでのところはあまりうまくいっていない。これについては以下の要因が考えられると思う。

 1番目はJカーブ効果である。これは当然起きるわけで、Jカーブはいずれ時間の問題で解決するので辛抱強く待つということだろうと思うが、やはり深刻なのは2番目の国内の金融部門の破綻である。このために、輸出向けの生産をしようと思ってもなかなかうまくいかない。つまり、原材料とかパーツを輸入してから、最後に生産されたものを船積みするまでの間いろいろな段階があるけれども、各段階で資金の確保が必要であるが、この資金が確保できないという問題や、輸出信用状が開設できない、又は開設されても国際的にアクセプトされないというような困難がタイを含む東アジアに広範な形で起きている。

 直接投資を基盤にする東アジアの製造業は程度の差はあれアセンブリー的な要素が強いわけであるが、為替が下がった結果として、輸入部品、パーツの価格が高騰したために輸入決済資金の金額も大きくなって、それを流動性の不足の中で確保するのが大変だというような状況が起きていると思う。これをどうするかというのも今後の展望の1つのポイントになってくる。

 さらに深刻なのは東アジアの域内貿易が縮小したということではないかと思う。タイだけではなく各国の輸入が減れば輸出が当然伸び悩む。こういう状態が起きて、タイの輸出の地域別構成で見ても、東アジア向けの輸出のシェアが落ちており、いままで東アジア域内でお互いに支え合って好循環をしていた状況が失なわれたということがある。これはすぐには解決できない、しばらく続く問題ではないかと思う。

 輸出主導による回復がこうした要因で今のところなかなか機能していない。言い換えると、各国の、タイの場合もそうであるが、国内の金融部門が健全な方向にだんだん向かうということと、東アジア各国、各経済の実体部門が上向きになって貿易が増えることを待つしかないと思う。


[5] 今後の展望

 最後に今後の展望であるが、3つほどテーマを挙げる。まず最初は、あまりにも一般論であるが、国際経済環境の安定である。今の世界の状況を見ると、この前提条件が果たしてどれだけ確保できるか非常に不安であり、国際的な経済環境の安定が確保できないと、タイに限らず一たん落ち込んだ新興市場の経済の回復は大変であろうと思う。

 次が先ほどから強調している国内での資金供給の確保であるが、生産部門、輸出部門に流動性を注入することが緊急課題だということは十分指摘され、各国の政策担当者も十分以上に認識していると思うが、金融部門が正常に機能しない状態になっているので、援助などによって原資が確保できても、それが末端まで流れないという問題が起きている。タイでも、今、日本で取り沙汰されているように、原資が確保できると、それでバランスシートを改善して金融機関として生き残るという方向に走る動機がどうしても出てきて、なかなか融資に回らないということがある。

 そこで、最近、調印された円借款の場合は、以前からパートナーになっているタイの産業金融公社(IFCT)と農民農業協同組合銀行(BAAC)を使って、特に中小企業相手の場合は産業金融公社であるが、政策金融のチャンネルで資金を流そうという工夫をしている。これは有力な試みだと思うが、何といっても商業銀行でないと、全体をカバーする融資はできないわけで、優良な商業銀行がどれだけ残っていて、どれだけ資金を流せるか、ここがカギだと思う。

 最後の重要な問題として残るのが、経済危機から政治危機に飛び火しないように予防するということである。最近のマレーシアの状況はまさに経済危機が政治危機に飛び火した状況ではないかと思うし、インドネシアも、華人に対するいろいろな攻撃、特に華人女性のレイプの問題がオーバーシー・チャイニーズの間で非常に感情的な反発を生んでいると思うので、この辺がマレーシア、インドネシアについては非常に要注意だと思う。

 それに比べてタイの場合は、幸いなことに顕在化している不安要因というのはないが、ただジワジワとボティブローのように効いてきつつある問題があると思う。これは決して新しい問題ではない。ずっと以前からタイでは地域格差の是正が非常に大きなテーマになっていた。経済原理が働くとバンコク一極集中になるのは避けられないので、地方部との地域格差が開く一方であるが、その地域格差の拡大を最小限にして、少なくとも農民や地方の人たちに政治的な不満を起こさせないということが大きな政治的課題としてずっと長くあったと思う。だから、特に国王が先頭になって地方に目を向ける、地方にお金を回すということをやってきたし、援助の資金の配分も非常に地方優先型になっていたと思う。ただ、今回、こういう経済危機の対応を見ていて、地方の人たちあるいは農民、あるいは貧困層の中に、有力者や金持ちのマネーゲームの後始末のために貴重な予算とか外国の援助が食われてしまうことについて不満が起きていると言われている。野党側の政治キャンペーンという色彩もあるだろうし、断片的な情報があるだけなので、今の段階でこれを強調するのは妥当かどうかわからないので、この程度にしておくが、相続税導入の問題とかに発展していくと、危機の中でいろいろ厄介な政治的課題が出てくるのではないかと思う。タイの場合は、あまり深刻になるとは思わないが、こうした政治危機への飛び火の課題が今後の動向の一つのポイントと考えている。

〔 原 座長 〕 最後に王様の話が出てきたのですが、タイ語で官僚のことを「カー・ラチャ・カーン」と言うが、今でも「王様に仕える人」という意味になっており、英語で「ビューロクラート」と訳すとタイ人は嫌がる。ところが最近の若い官僚はそういうことを全然、不協和音を感じないと言っており、それが先ほど下村先生が言われたタクノクラートのディクラインというのはタイの学者みんな言っているが、私も友だちがいて、おじいちゃんの官僚はわりあい王様というのを気にしているが、若い官僚ほどそういう気がしなくなっているという、やはりいろいろな変化がおこっているのだなということをちょっと感じた。

 



(2) 国別報告「インドネシア」

 広島大学大学院教授
     小松正昭  

[1] はじめに

 下村先生の話を伺いながら、それから、その前に篠原さんの発言を聞いて、だんだん「困ったな」と思い始めて、私の今日の話を少し軌道修正をしようかと思ったが、既にレジュメに書いてあり軌道修正はできないので(笑)、批判は覚悟の上で述べる。というのは、多くの方々が「経済自由化政策、金融自由化政策が今回の原因危機だ」といい始めているが、どうもそうではないのではないか、ということをお話したいと考えているからである。もちろん、自由化がいろいろな問題を作り出したということは事実だと思うし、自由化がすべて正しいと言うつもりもない。しかし、経済自由化政策は基本的に間違った政策の方向だったのだろうか?アジア危機以後インドネシアのエコノミストの間でも、経済官僚の中でさえも「自由化政策が間違っていたために、今回の危機が起きたのだ。」と言う人が多い。今日はそういう考え方を、もう一度インドネシアの事例に即して見直してみたいと思っている。

 世銀の資料に「Who owes what to whom」、(誰がどこから借りているか)というのがある。98年3月の総債務残高が 1,380億ドル、そのうち銀行部門による借入れ、これは国営銀行と民間銀行を合わせたもので、これが 136億ドル。一方、民間企業による借入れ、これが 700億ドル。したがって、銀行部門が借りすぎて問題を起こしたのではなくて、銀行部門の対外借入はプルデンシャル・レギュレーションで、91年以降コントロールされてきた。もちろん十分であったかという議論もあるが、一応コントロール下にあった。問題は民間企業が急激に借入を進めたことにあり、実際に数字でも確認できる。それでは民間企業というのは誰かといったら、中心はオーバーシーズ・チャイニーズである。彼らは金融自由化が導入される以前から、どこからお金を持ち込もうと、どこにお金を持って行こうと自由だったわけである。インドネシアでは、為替管理は1971年から撤廃されていたのである。繰返していうと、1980年代の金融自由化政策によって、民間企業の急激な借入れが進んだのではない。では何が民間企業の過大な原因だったのだろうか?その原因として次の2点が考えられる。第1に、私はむしろ金融自由化政策が不十分だったから、そして金融部門の整備が不十分だったから、市場の発展が遅れ、資金のアベイラビリティーが不足し、金融部門の非効率が生じ、高金利が生じて対外借入が進んだと考えている。

 第2の点としては、80年代から90年代に起こった国際金融市場へのインテグレーション、そこで起こった最近、国際金融の方々がよく言っているが、いわゆるハーディングが問題だったのではないかと思う。この点については、第4節で説明する。


[2] 経済政策の特徴と政策決定のメカニズム

 インドネシアにおける経済危機は、今回が始めてではない。くり返し生じた経済危機をふり返ってみると、その構図は、「経済テクノクラートと利権グループ・保護主義派との戦い」であったと思う。これが私の見るところ、インドネシア経済マネージメントの一番大きな課題だったのではないかと思う。

 その議論の前に、インドネシア経済政策上の基本原則とも呼べる特徴を2つ説明しておこう。1つは、先ほど述べた為替管理不在である。インドネシアでは1971年に為替管理が撤廃されている。なぜそのような政策がとられたかというと2つ理由があって、1つは1965年に9.30事件が起こって共産革命が試みられたと言われているが、そこでかなりの人たちが殺されたわけである。そしてその後共産革命の背後にいたと言われている華僑に対する排斥が起こる。しかし、民間経済を担っているのは、そのときもそして今も華僑である。1960年代後半の経済混乱から立直るためには、華僑に戻ってきてもらう必要があった。そのためには、彼らに対する経済活動の自由、儲けたお金を外に持って行く、そういう意味での自由を保証する必要があったのである。資本移動の自由を与えざるを得なかったということが1つの理由である。それから、地理的にシンガポールからスマトラ島は見える。インドネシアの華僑の方々は、インドネシアではインドネシア名を使っており、シンガポールまたは台湾にいるときは中国名を使っている。まさに国境を股にかけてビジネスをしている人はたくさんいる。ちょっと付け加えると2国間の貿易統計、シンガポールとインドネシアの貿易統計は、シンガポールは発表していない。ということは、密貿易が大量にある。それはモノだけではなくてお金についても言えて、そういうところで為替管理をやるということは非常に難しいと思う。そのために為替管理はそれ以降不在だったわけである。

 2つめの原則は、均衡財政主義。「均衡財政」という言葉はミスリーディングであるが、インドネシア政府は国内でお金を借りられない。政府は銀行部門または国債の発行など国内の金融市場からお金が借りられない。したがって、財政資金の不足分は援助国会議または国際金融市場から借りるしかない。そこで、政府は財政節度を保たざるをえないというシステムである。もちろん、そこに財政赤字は当然あるが、それは海外援助によってまかない、国内のいわゆるマネー・プリンティングによって財政をファイナンスするということはできないシステムになっている。

 それでは次に、「経済政策決定のメカニズム」を図式化してみよう。まず1997年までのスハルト政権下のメカニズムをみると、スハルト大統領の下に大きく3つのグループが存在し、大統領はそのバランスをとりながら政策運営を行ってきた。「軍」、それといわゆる「テクノロジスト」と言われる現在ハビビが中心になっている技術屋のグループ、それから「テクノクラート」つまり経済閣僚のグループ、である。その中では経済テクノクラートが経済政策を立案し実行してきたという図式になる。

 大統領の背後には、「政商」、「ファミリー」というのがいて、これが1990年代に入ってどんどん力が強くなってきた。そしてテクノクラートのグループには、そのときの経済閣僚達、特に大蔵省と中央銀行、それに経済顧問のウジョヨあるいはワルダナがいた。そして真のコーディネーティング・ミニスター(調整役)がこのウジョヨであって、重要な問題はウジョヨが大統領を説得するというメカニズムになっていた。残念ながら調整大臣も大蔵大臣も中央銀行総裁も必ずしもスハルトを説得することがなかなかできなかった。ウジョヨは、66,7年からずっと経済政策に携わっていた長老であるが、通称バークレー・マフィアと言われているグループのボスになる。これも誤解のないように述べると、バークレー・マフィアはアメリカ派だというのは間違いだと思う。バークレー・マフィアは経済政策のものの考え方というのは、確かにアメリカの大学で勉強し博士号を取ってきた連中で、そういう意味ではIMFとも世銀とも考え方をかなりの程度共有していると思うが、アメリカ派だとは私は思っていない。むしろ日本との人的な交流の方が、少なくともかつては大きかった。しかし残念ながらこの数年の間、関係はかなりの程度劣化してしまったということを一言申し添えたい。

 また、BAPPENASというのが経済官庁の中にあり、これは経済企画庁プラス援助予算の配分を行っているところである。したがって、日本のある意味での主計の役割を果たしている強力なところであるが、援助国会議の窓口になっていて、この大臣がギナンジャールであるが、これはテクノクラート・グループではなく、経済政策立案にはある意味で関わっていない。そういう人が援助国会議の窓口だったということが、ある意味で非常に残念なことだったと思うが、しかし、非常にパワーのある方で、日本とも強いパイプがある。

 ギナンジャール、テクノロジスト、軍、こういった人々の考え方というのは、簡単に云えば、既得権益を守る、利権を守る、大型プロジェクトを推進する、国産化を志向し、保護政策を求めるというものである。これに対して、いわゆるテクノクラートのグループというのは、これらの既得権益を廃し、利権を廃していく、そのためには自由化政策を推進し、合理的な経済政策を推進しようとする人たちであった。

 これが経済政策決定の対立の構図である。自由化政策とは何であったかというと、どうやって軍や政治家の既得権益を排除するのか、どうやって経済合理性に反する大型プロジェクト等を排除するのかというための「経済政策の基本原則」であったと考えられる。過度な保護主義によって守られる非効率的な政治的プロジェクトを排除するために貿易自由化政策というものがあり、政治がらみの案件に低利の貸出を行なうことを抑制するために金融自由化政策が、導入されたのだと考えている。

 問題は、この図式のバランスの中で90年代からどんどんテクノクラートの力が弱くなっていったことである。経済ブームの時期にはテクノクラートの力が弱まっていくように思う。ブームのときにはお金がジャンジャン入ってくるので、そこで引締めをしろというのは非常に難しい。お金がどんどん入ってくると、それはどうしても利権に結びついて大型プロジェクトを動かしていくということになる。90年代の初めというのはまさにそういうことが起こっていた。ファミリービジネスに反対した、中央銀行や大蔵省の上の人々は、首をすげ替えられてしまった。そして最終的には1998年にそれまで舞台裏にいた政商であるとか、ファミリーであるとか、こういう人たちが今度は表舞台に出て、大臣になり、同時にハビビの力が増した。こういう変化が起こったわけである。


[3] 社会経済構造としての銀行部門の問題

 最初にインドネシアの経済パフォーマンスを確認しておこう。危機以前の経済成長率は6〜7%前後の高成長を続けていた。外貨準備高は輸入の5か月分近くあり、順調に増加していた。インフレーションはどうかと言うと、おおよそ8%から10%の間にあった。経常収支赤字幅も、対GDP比で2%から3%ぐらいと大きくない。実効為替レートでみる限り、為替レートの過大評価もそれ程大きくない。財政収支も黒字であった。インドネシアの経済パフォーマンスは総じて大変よかったということである。

 それでは、なぜ、対外借入が進むことになったのかということを、考えてみたい。第1の原因は、急速な経済発展に国内金融部門が対応できなかったという点である。国内金融部門の発展が遅れ、非効率であったため、海外借入れが促進されることになった。第2の原因は、次節で説明する国際金融市場の問題である。まず国営銀行の問題は何かと言えば、一言で言えば古典的な政府の失敗にある。国営銀行は、かつて80年代前半には銀行部門総資産の7割から8割ぐらいのシェアを持っていた。国営銀行のマネージメントは政府や軍の天下りか、または政府によってアポイントされている人たちである。したがって彼らは政治的な指示、例えばプライオリティー・セクターに貸さなければいけないということも含めて、政治圧力、縁故や情実に従いがちであった。それが、国営銀行の不良資産に結びついた。これが古典的な政府の失敗である。

 もう一つ国営銀行で問題になるのは、92年に新銀行法ができて国営銀行が自由化政策の中で民営化されていくが、マジョリティーは政府、大蔵省が握っている。この意味で金融自由化は、完全に実行されていない。預金者、または国際金融市場はどう見ているかというと政府がマジョリティーを握っているから政府リスクだと見ている。したがって、金利が政府が借り入れているよりも高ければ、どんどんそこに貸し込んでいくという状況が起こった。政府リスクだと考えているから貸付審査は必ずしも十分にやらなかった。そこには預金者と国際金融市場の銀行のモラルハザードの問題があったと思う。

 次に、民間ビジネス・グループ系銀行であるが、これはかつて80年代初めには、国内金融資産の3割ぐらいのシェアを持っていたが、金融自由化が進む中で急速に成長し、この危機が起こる直前で、6割ぐらいのシェアを持っていたのではないかと思う。主としてこれは大きなビジネス・グループ、例えば華僑のビジネス・グループが所有している系列の銀行、またはファミリーの所有する銀行である。国営銀行ほどではないがここでも同様に不良資産が蓄積している。しかしその問題は異なっている。これらの銀行は、資産の多くをグループ系企業に貸し込んでいたとみられている。そのグループ系企業というのは、銀行にとっては身内なわけであり、そこでは金融仲介をしているのではなくて、市場から集めてきた預金を身内の企業に貸すという、資金の導管の役割をしていたにすぎない。金融仲介機能を行なっていたとはいえないのである。


[4] 海外資金流入と対外債務

 国内金融市場が未発達、非効率だと国内金利は高水準に止まる。又銀行部門の不良資産が大きいと預貸マージンは拡大する。このように国内の金利が高くなると、優良企業は外から資金を借りることになった。これを実際の金利水準でみてみると、次のとおりとなる。(表−1参照)金利裁定の関係を預金サイドでみると、国内金利=海外金利+期待為替切下げ率+リスクプレミアムとなる。国内金利の方が高ければ、国内で預金した方が高い預金利子を得ることができるので、国内にお金が入ってくる。その逆になっていれば、当然、お金は外に出ていくという関係である。表にもとづいて内外金利差を計算すると、86/87年と、97/98年を除くと、各年とも大幅なプラスになっていて、国内に預金した方がはるかに得となる。そして現実においても大量の資金がインドネシア国内に流入した。

 1つ説明を付け加えなければならないのは、このリスクプレミアムがどうなったかということである。80年代から90年代にかけてインドネシア経済および、東南アジア経済が急速に成長を遂げ、そして、自由化政策を中心に経済政策が合理的に運営されていった。このような状況の下で、東南アジア諸国に対するリスクプレミアムは限りなく小さくなったのではないかと思う。したがって、金利感応的になって、金利差によってお金が流れるようになったと考えられる。

 さて、それでは、こうした状況がなぜこんなに長い形で続いたかという議論であるが、金利裁定の関係を借入サイドでみると、国内金利に国内での借入預貸マージン、海外金利に海外での借入預貸マージンをそれぞれ足してこの関係がどうなっているか。インドネシア国内の預貸マージン4%、5%ぐらいと非常に大きい。一方で、インターナショナル・マーケットの対インドネシア企業の預貸マージンは、大体2%位で大きな差がある。

 なぜ、そういう差が生じたかと言えば、先ほど述べたように、国内の金融機関が非効率だから、国内金利が高くなり、預貸マージンが高くなる。明らかに国内で借りる方が高いわけである。こういう状況の中で、海外市場にアクセスのある優良な借り手は外に出ていくわけである。そうすると、国内の金融市場からは優良企業が撤退していくことになるわけである。国内の金融市場にはよりリスクの高い企業が残されて、したがって、銀行の貸出リスクは高まって、預貸マージンは高くならざるを得ない。高くなれば、その次のセカンドクラスの優良借り手は外に出ていくことになる。一種のアドバース・セレクションが起こったのではないかと私は思っている。

 次に、一方で、国際金融市場へのインテグレーションという問題と、貸し手の責任を考えてみたい。80年代から90年代にかけてアジアに向かって投資ブームが起こり、新しい投資家が参入してきた。新しい投資家、それは日本の地方銀行やノンバンク、韓国、台湾の銀行、そして欧米のミューチュアルファンド等々である。彼らは、必ずしもアジアの情報、リスクというのも十分に分析するだけの組織とスタッフを持っていなかった。そういう人たちはどうしたかというと、多分、他に追随した。例えば東京三菱に追随するとか、J・P・モルガンに追随するとか、そういうハーディングが起こったのではないか。なぜそうしたかと言うと、簡単に人を集めてリスクを分析するというのは難しく、多分、アジア各国の情報を分析するコストが高かったからではないか。

 もう一つは、レーティング・エージェンシーの責任という点である。S&Pとムーディーズは、インドネシア政府をトリプルBというインベストメント・グレードの一番下のところにレーディングした。先程お話した不良資産を大量に抱えた国営銀行も同じトリプルBに格付けされた。これらすべてインベストメント・グレードにした理由は何かというと、それより下にすると、機関投資家は投資できないこととなり、格付の意味が小さくなる。この辺がやはりウォール・ストリート・コマーシャリズムを反映したレーティングだったのではないかと思う。そして、見直しをしたのが97年の始めだったと思うが、そのときもまだトリプルB、そして1年後には何とジャンクボンドのトリプルCに格下げされた。ここでの第1の問題はやはりレーティング・エージェンシーがミスジャッジをしていたという点。そして第2の問題、より重大な問題点は、レーティング・エージェンシーが市場に誤ったシグナルを送っていたのではないか。そのシグナルの結果、投資家のハーディング行動は大きく増やされることになったのではないかと思うわけである。


[5] マクロ経済政策

 次にマクロ政策のことを話したいと思う。上にお話したように過大な対外借入れが進み、経済がオーバーヒートして、経常収支の赤字が膨らんでいく中で政府は何もしなかったかというと、そうではない。

 インドネシアにおいては80年代後半から90年代までの経済政策手段としては、オーソドックスな経済政策としての金融政策、財政政策、それに91年から導入している対外借入政策(PKLN)の3つがあった。これはマンデル・フレミングを持ち出すまでもなく、インドネシアの場合はオープン・キャピタルで資本移動を規制しておらず、管理フロート制なのだから、理論的に言えば金融政策は有効でなく、財政政策が有効である。そして、直接的な対外借入政策も有効である。金融政策が有効でない理由は、金融政策で引き締めれば国内金利は高くなる。資本管理がないのだから、金利が高くなれば、先ほどの金利裁定で明らかなようにお金は流れ込んできてしまうので、引締め政策が相殺され、金融政策は有効でないということになるわけである。

 これに対して現実はどうかと言うと、第1に財政政策については、インドネシアは、財政政策の引締めを十分に実行していなかったと思う。インドネシアの大蔵省や多くのエコノミスト達は財政政策を引き締めたと言うが、私は引締めが不十分か、または引締めしていないと思う。第2に対外借入政策は91年から導入しているが、十分な管理ができなかった。大型のインフラ案件の民営化が進む中で政治的な圧力が強まり、対外借入れ政策をきちんと実行できなかった。又日本やアメリカの企業や銀行がいろいろなハイテクを駆使して対外借入規制を逃れるような仕組みを作っていったのである。

しかし、対外借入政策が十分に実行できなかった最大の理由は、スハルト政権の末期症状が進んだことである。政治的圧力が高まって大型案件がどんどん実行され対外借入規制(PKLN)が尻抜けになった。

 財政引締めについてみると、確かに財政黒字はGDPベースで見て1995年から97年には2%ぐらいはあり、引き締めてはいる。また、マネタリー・ベースで見ても財政は常に揚超であり、マネーサプライに対してマイナス要因になっているので引き締めていると、大蔵省は主張している。しかし、民営化政策によってそれまで財政でまかなっていた多くの案件を民間に押し出しており、それも何らかの形で政府が保証をしている。多分、政府が保証しなければ、これらのプロジェクトは動かなかったわけで、広い意味で見ると財政は拡張型だったのではないかと思う。その結果、経済政策手段としては金融政策に依存することになり、中央銀行は有効でない金融政策を実行せざるを得なかった。そして引き締めによって対外債務が増大するという悪循環になった。

 財政政策との関連でCGI(コンサルタティブ・グループ・フォー・インドネシア援助国会議)の役割ということを述べておきたいと思う。CGIというのは援助国会議で財政の中の投資資金を供給しているわけである。又同時にインドネシア経済運営を外側から監視する役割を果たしてきた。ところがその役割は十分に機能してなかったのではないか。上に述べたとおり経済がオーバーヒートしている場合は、財政を引き締めるか、それとも、民間の対外借入規制を厳しくしいて借入を規制するかというのが理論的に正しい政策である。援助国はCGI、援助国会議の場で、それをもっと強く言うべきだったと思うが、それはできなかった。その理由は[1]大型インフラ案件には日本・アメリカの主要援助国の企業が深く関わっていたこと、[2]財政投資の主要な資金源である援助額を大幅に削減することは、難しかったことという2点にある。最近の援助国会議は儀式化し、その成功のクライテリアは、去年の約束額よりも大きい援助約束額を取りつけることにあったと思う。そうすると、窓口にいるテクノクラートの立場を考えると、対スハルトの下で彼らの力を維持するためには援助国会議が成功してもらわないと困る。援助額を大幅に減らすというのが仮に経済政策上望ましかったとしても、そうすると彼らの首が飛んでしまうかもしれないので、そこは非常にやりにくかった。

 それから、これは同様のものの考え方が援助国の側にもあったのではないかと思う。予算のインクレメンタリズムと言ったらいいのかもしれないが、そういうものが援助供与をする側にもあったのではないかと思う。従って援助額を大きく調整するという発想は援助供与国の側からも出てこなかった。


[6] 現下の経済状況と今後の方向

 現下の経済状況の問題は、コンフィデンスの崩壊だと思う。為替レートが97年の8月頃は 2,500ルピア/ドル、それが12月には 5,000ルピア、98年2月ぐらいには1万 3,000ルピア、そして、暴動が起こったハビビ政権の下で1万 6,000ルピアになった。これは、その間にIMFのパッケージが1次、2次、3次、4次と出ているが、必ずしもそれにより収まるということにはなっていない。これは、IMFの政策が間違っていたのかどうかということより、私はそれ以前の問題だと思う。つまり、コンフィデンスの問題だと思う。例えば 5,000ルピアになった直前に、スハルトの健康不安説が12月頃流れ、そして98年2月頃は、カレンシーボード・システムを採用するとの発言があり、さらにはスハルトが、「IMFの政策というのは憲法違反だ、インドネシアになじまない」と言ったりする。そういう政治の不安、政策のインコンシステンシー、その中でテクノクラートが一掃され経済運営に関する当時者能力がなくなっていった。為替レートが5,000ルピアを超えた時点では華僑の人々は、企業を立て直す努力をやめ、資産をどんどん逃避させた。返すという努力をしていないように思う。

このような急激なコンフィデンスの崩壊によって、経済システムがこわれてしまった。そういう中で海外資金フローのシステム、貿易のシステム、国内金融のシステム、流通のシステムが崩壊してしまった。これらのシステムを動かす上で大きな役割を果たしているのは華僑である。したがって、コンフィデンスを回復し、経済システムを機能させるためには、華僑のコンフィデンスを、もう一度建て直さなければいけない。ところがハビビ政権は、反華僑だと見られているから、華僑は現状では戻ってきていない。

 私の見方では、華僑にとって最も重要な条件は第1に安全の確保、そして第2にフェアな取扱いの保証、それには法的なという意味もあるが、同時に自由な経済活動の保証、であると思う。

そうだとすると、治安の維持と同時に、経済政策としては自由な経済活動を保証する経済自由化政策が堅持される必要がある。そしてそのような経済自由化政策の方向性は、経済テクノクラート達が経済運営に引続きたずさわることによって実現される。現在のコンフィデンス危機を克服するためには、誰が今後の経済運営を担っていくのかが、重要な鍵をにぎっていると思う。



(3)質疑・討議


〔 篠原委員 〕 両者のプレゼンテーションについて、瑣末なところで私と多少なりとも見方、考え方が違うところがあるが、ここではちょっと全然違う問題提起を、この場の基本的な問題意識として持てるのではないかと思う点があるので、披露したいと思う。

 本年の4月か5月か覚えていないが、小さな勉強会で、国税庁の船橋さんに来ていただいて話を聞いたことがある。彼がいろいろなことを述べた中で1つ耳に残っているのは、97年末の状況で日本の地価総額とGDPの比は3対1、地価総額がGDPの3倍ある。同じ時点で、同じような計測をしてみると、東南アジア諸国、韓国、あるいは中国等々、多くの国はこの3という数字に近い。日本のバブルの絶頂はこれが7まで上がっており、先だって韓国の人としゃべっていたら、韓国は70年代の土地バブルのときはやはり6ぐらいまで上がっていた。

 一方、いわゆる西欧、アメリカ、欧州はこれがほとんど1対1で均衡しており、ドイツでは0.85ぐらいであった。金融機関を援護するつもりはないが、金融が拡大していくときに、リスクの判断が下手であったという中に、土地に過大に頼った金融拡張を、土地代の右上がりの傾向の中でやったのではないかという話がよく聞かれる。また、これへの対応というのは、ウォール・ストリートの好きなロジックのような気がするが、例えば土地の証券化から始まる市場化等々がでている。こうしてみると、土地の持つ社会的な意味というのが、東南アジアとその他の地域でかなり基本的に違っている気がする。これは、新しい金融のあり方、あるいは監督の強化とかいろいろなことを考えていくときに、基本としておもしろい視点ではないかという気がしており、自分1人で持っているのが重すぎるもので、皆さんにも分けてもらおうかと思い、ちょっと発言した。


〔 小川委員 〕 まず、タイでなぜ深刻化してしまったのかというお話の中で、タイの危機が起こったときにもっと思い切った危機管理をやっていれば、問題はそうなかっただろうというのは私も賛成です。おそらくタイで抑えていれば、その後の問題というのは出てこなかった可能性もあるのではないかと考えている。

 それでは、逆に、IMFがどうしてあれほど積極的にやらなかったか、あるいはそのときに他の国とかあるいは日本が協力できなかったのかというところが、やはり問題になってくると思うので、タイの問題というのはそこにあると感じている。

 インドネシアは世銀が入って、世銀の優等生ということでずっときていたわけで、今日、いろいろ話を聞いて、実はやはり優等生ではなくて劣等生だったということを勉強させてもらった。それでは、そのとき世銀は何をやっていたのかというところが非常に興味があって(笑)、例えば、タイを支援するときにインドネシアはお金を貸している。去年の7月、8月、9月あたりはインドネシアは大丈夫だということで、まさか誰もインドネシアまでいくとは思っていなかった。しかも世銀の優等生というお墨付きであったから、やはり世銀は何をやっていたかということも、やはり問題になるのと感じた。


〔 原 座長 〕 今の小川委員のお話について、下村委員、小松委員のコメントはどうか。特にIMF世銀は何をやっていたかを一言で悪口を言ってくれればいいが(笑)。


〔 小松委員 〕 最近、世銀の人に会ったら、「インドネシアはマクロのミス・マネジメントだったんだ、それが最大の問題だった」と言われて、ちょっと待ってほしいなと思った。もしそうだとしたら、彼らは共同正犯となる(笑)。それでは、世銀は何もしてなかったのかといったら、そうではなくて、引締めをやりなさいとか、GDPの例えば2%ぐらいの財政黒字を作りなさいとか、対外借入規制を頑張ってやりなさいと言っていた。ただ、現実にはどれほど援助国会議の場で本当に真剣に議論したかには疑問がある。政策オプションとして財政を思い切って引き締めるか、対外借入をガッチリやって経常赤字をGDPの2%以下にしなさい、そうでなければ援助コミット額を削減しますと云ったかというと、多分、世銀も他のドーナーもそれはやらなかったと私は思う。その背景には、援助供与側にも、インドネシア側にも又海外投資家にもユーフォリアがあったと思う。もう一つ感じたのは、ウイジョヨと一緒に経済顧問をやっていたアリ・ワルダナという男がいるが、彼に、「対外借入規制をここでガッチリやれないんですか」と、95年ぐらいに、話したことがあるが、彼は、「しかし、これ以上やったら、我々の仲間はいなくなっちゃう。そうしたら、誰にアドバイスするのだ」と。要するにその前に、役所の人たちの首が飛んでいたので、こういう政治状況の中で、スハルトを説得しようとしたら、多分、テクノクラートの現職閣僚の首が飛ぶかもしれない、そうしたら、誰にアドバイスするのだ、ということだったのかなと思う。


〔 下村委員 〕 先ほどの小川委員の話で、私もいわれるとおりだと思うが、97年の8月にIMFが、なぜ非常にステレオタイプなパッケージしか出さなかったか。おそらく、タイの通貨が切り下がった後にそれが伝播して東アジア、さらにはもっと世界中に、あんなに実体経済に影響をすると思わなかったために、本腰を入れて事の本質を掘り下げようということではなくて、マニュアル的な従来型の対応をとったのだと思う。インドネシアについては、体制を何とか変えようという意図があって、事態を深刻化させてしまったが、タイの方はむしろインドネシアと違って特段の問題意識がなくて、極めてマニュアル的に対応して、そのマニュアルが伝統的な危機に対するマニュアルとしては、ある程度よかったけれども、新しいタイプの危機に対応するきちんとしたマニュアルにならなかったということではないかと思う。それから、インドネシアの世銀の話については、私は小松委員の話は非常に示唆に富んでいると思う。結局、一方でテクノクラートをサポートしながら、他方ではスハルトの下のインドネシア経済が破綻しないようにするという、ある程度のチェック・アンド・バランスによる安定化の役割を伝統的に世銀は果たしていたのだろうと思う。ただ、それがどうしてもスハルトの方から言うと、自分を見捨てることはない、IGGIがCGGIに変わったときでも東チモール問題の時でも世銀は見捨てなかった。であれば、ある程度景気のいいときはハビビなどの開発重視派、景気が悪くなったらマクロ均衡派のテクノクラートというふうに軸足を移しながらやっていればいいというように、むしろ世銀は、スハルト大統領にうまく操作されてきたのではないかと思う。


〔 飯島委員 〕 感想なのだが、4月にタイに行って、TDRIというタイ開発研究所のチャロンポップ所長と会ったときの話と、下村委員のパトロンとクライアントという文化人類学的なタームの話等々にかけて、思いつくままに一言だけ発言する。チャロンポップ所長のところに伺っていろいろ話したときに、去年の2月と5月に何回かバーツがアタックを受けたときのマーケットに対する中央銀行の対応ということで、非常に残念がった話をそこで聞いてきた。2月にアタックを受けたときに、中央銀行は大蔵省と簡単な打ち合わせをして、ともかく介入をしようということで、バーツ買いドル売りの介入をし大成功だった。日中の為替レートとしては一時26バーツ台になったが、クロージングで25バーツ台に戻った。そして、5月に複数回アタックを受け、そのときも同じように対応したが、いわゆるここで委員の言われる経済政策決定のメカニズム、はっきりしたメカニズムがあったのかどうかわからないが、だんだん中央銀行と大蔵省の議論が少なくなってきて、ある意味では為替介入の担当者の実務的対応という格好で行なった。そして7月2日を迎え、そのときには既に担当者は「投機家のアタックは大したことはない、我々の買い介入で十分対応できる」という自信に溢れすぎていたがために、同じように対応していったらば底抜けでアッという間に先物を含めて百何十億ドルという外貨準備を使ってしまった。自分たちの慢心と政策決定のメカニズムが明確でなかったというようなことで、チャロンポップ所長は非常に残念がっていたという、そういう対話をした。ある意味で下村委員流に、文化人類学的に考えると、激情国家的なヒエラルキーのないインスティチューショナルなデシジョン・メーキングというのに不慣れな状況にあったのではないか。それがために国家としての対応ができなかったのではないかと、今、感じたわけである。

 その後の小松委員の政策決定メカニズムの話は、非常にありがたく話を聞いた。つまり、二、三のアカデミアの先生方と話しても実業界の方々と話しても、先ほどの激情国家論ではないが、どういうふうに政策決定がなされたのだろうかということが、最近、非常に議論になっており、そういう意味では1つのモデルを今日拝聴したなと思ってありがたく思っている。


〔 北村次長 〕 2人のお話の中で、特に触れられていなかった点だと思うが、私どもが用意したペーパーの中には、タイにしてもインドネシアにしても、国内貯蓄率は30%前後と国際的に見ても非常に高い水準にある。そういう状況にあるにもかかわらず、海外からの資金に左右されたという問題点を、小松委員なり下村委員なりはどうみているのかというのが1つの疑問である。

 それから、もう一つは、下村委員の話から始めると、IMFの処方箋というものがマニュアル的だったのではなかろうかという議論であるが、確かにそういう面はあったと思うが、同時に、タイなりインドネシアに一番精通しているのは、ある意味ではIMFなり世銀のエコノミストという面もあると思う。その場合に、IMFの処方箋というときにマクロ政策ということで財政金融、為替政策と構造政策というのは、一応分けて考えるべきなのだろうと思う。特に為替が切り下がっているときに、マクロ政策として今回IMFがとった方法以外はなかなか難しいという感じがするが、確かに財政を若干緩めるという手はあったのかもしれないが、しかし、非常に大ざっぱにとらえた場合にマクロ政策で、なおかつ緊急事態のときにどういう対策をとるかという場合には、IMFに反論するというのはなかなか難しいのが通常なのだろうと思う。その場合、構造調整策がどの程度問題があったか、あるいはなかったかという点について、下村委員は、マクロと構造調整政策というのを分けると、後者の構造調整というところまでIMFがマニュアル的であったのかどうなのか、というところについての感想を聞きたい。

 それから、小松委員のインドネシアに対する結論として合理化を進めなおかつ自由化を進めるという点に関して、実際には海外からの資金流入というものに対して、国なり中央銀行が十分把握できていなかったのではなかろうか、統制できなかったのではなかろうかと思う。多分、世銀等がインドネシアは模範生だというのは、ある意味では為替管理等をなくさせて、資金流入、あるいは資本移動について自由にさせるという側面をとらえて、そういう言い方をしていた面があったと思うが、それ以外についても全部が全部優等生という言い方をしていたかどうか、やや疑問な感じがする。

 そういう中で、自由化という意味で為替管理の撤廃をみると、インドネシアは非常に進んで、あるいはタイでも進んでいたと言わざるを得ない。それが問題だったということは、逆に自由化とか、合理化とかという、言葉の使い方が問題になるかもしれないが、健全政策をもう少し厳しく保っていくというリ・レギュレート、ディ・レギュレーションではなくてリ・レギュレート、こちらの方の問題ではなかろうかと思うが、小松委員は、先ほど冒頭の方で合理化なり自由化をさらに進めるべきだと言われた、その言葉の使い方、細かい点で恐縮なのだが、話を聞かせてもらえればと思う。


〔 林 委員 〕 まず、感想を述べたい。各国の状況とIMFとの関係について、各国に、いつかは、どんな状況になっても助けてくれるのだという甘えがあったのではないかと思った。これは、なぜ、そう述べたかというと、日本の昨今の状況と非常に似ていたのではないかと感じたからだ。いつかは誰かが助けてくれるという思いがあって、日本もアジアも、「助けないぞ、自分でやれ、と言っておきながら、最後に助けてあげた」というゲーム理論的に言うと全く間違った道を歩んだのではないかという感想を持った。

 下村委員に対する質問である。処方箋の方の2番目、輸出主導による回復には基本的にはもう少し時間はかかろうと思うが、私はこの手段が失敗したとはまだ言い切れないと思う。ほとんど2年ぐらいとすると、つまり、99年ぐらいから急速に、インドネシアも含めてアジア諸国が回復していく過程が実はあるのではないかと思って見ている。アジア神話も言いすぎなら、アジア神話の崩壊も悲観的すぎると思う。その辺、どう考えているのか伺いたいと思う。


〔 篠原委員 〕 ここの議論で欠落していると思うところを1つだけ付け加えると、北村次長の最初のポイントに関連するが、95年の4月、5月に、ドルは80円を割るまで切り下がった。それはアメリカが黒字国責任論を言い出して、相手の通貨を自国通貨対比で切り上げさせれば上げさせるほど、通貨外交上高得点であると言わんばかりの妙な政策をとったからであった。例えば、局地的にであるが、95年にはマレーシア・リンギットの切り上げの投機が起きているし、96年初頭のIMFの4条コンサルテーションでは、タイに向かって切り上げを前提とした連動幅の拡大を言っている。そして、アメリカは突然にして高いドルはいいことである、お金がずうっと回ってきてくれる限りにおいては悪いことではない。との見方になった。ヨーロッパの方もユーロの船出を指呼の間に控えて、安めの船出はスムーズだろうと言わんばかりの、言ってみればドルの独歩高。25バーツでくっついていたタイバーツはご承知のとおりであるし、小松委員の表から見ると、この間のドルの独歩高に対する自国通貨の調整という面でかなり遅れた。これが当然のことながら経常収支の赤字をもたらした。そして、このファイナンスのために、大量にお金を借りざるを得なかった。その借り入れの結果がいろいろな問題を発生させ、タイではバブルが生じ、インドネシアでは華僑のキャピタル・フライトがこういう問題を通じて94,5年から既に始まっていたというべきなのだろうと思う。それをIMF、世銀はともに基本的には先進国クラブであるから、この先進国の通貨間の非常に身勝手な暴力的な動きを、これをそもそも肯定した上で論展開をしていた。したがって、問題意識が外れていたし薄かったと思う。


〔 下村委員 〕 まず、北村次長の貯蓄率の話であるが、貯蓄率は確かに非常に高いが、投資率はもっと高く、ISギャップは常に存在するという形になっている。その中身は、先ほどちょっと触れたが、財政収支は88年から黒字であり、90年代半ばでは対GDP比は確か3%ぐらいと、タイの財政はかなり黒字だった。ということは、リソース・ギャップがかなりの部分民間で出ていた。つまり、民間の貯蓄、これはずっと増えていなくて、投資率の方が最近急激に上がったということなので、これはつまり民間部門が非常に必要以上に投資していたということで、貯蓄率も高いが、それ以上に加熱していたということではないかと思う。

 それから、IMFの処方箋では、私が述べたのは、IMF、世界銀行の構造調整アプローチの基本というのは、安定化政策が必要だったらまず安定化政策をして、容体が落ち着いたら手術である構造改革、構造調整に移る、制度改革、政策改革に移るということだったと思う。

 タイの場合は、IMFの意図は必ずしもはっきりしないが、あまり明示的に制度改革を要求しなかったから、基本的には一種の安定化政策だったと思う。マクロのタイトベルト・ポリシーをやって安定化させる。それはISギャップがあるからということだったと思うが、そのとき、通常の財政金融の引締めをやるというのが、短期の資金の移動と為替の不安定という状況に合っていなかったのではないか。つまり、安定化政策のやり方が、一方で21世紀型の危機への認識が不足し、他方で市場心理への配慮が不足した通常マニュアル型だったのではないかと述べた。

 輸出主導の回復の展望については、林委員の言われるとおりだと思う。ただ、当初、タイで想定されていたのは一国だけの問題で、輸出主導で回復するだろうと私も思っていたが、それが東アジア全域に広がったために回復が非常に遅れているということから、先行きがかなり厳しいのではないかということである。


〔 小松委員 〕 最初の貯蓄の話は、もう下村委員が述べたとおりであるが、インドネシアの場合ちょっと特徴的なのは、第1は貯蓄統計そのものに対する問題である(笑)。貯蓄統計というのはGDPからコンサンプションを引いて作っているから、貯蓄は残差なのである。だからコンサプションが過少評価されていれば大きくなってくる。しかし、そうだとしても、言われるように非常に高い貯蓄率が達成されているということも事実である。ただ、そこの問題をもう一ぺんよく考えてみなければいけないのであるが、もう1点として付け加えておきたいのは、多分、金融市場は、現在の発展段階ですと銀行を中心に機能するということになるので、銀行の金融仲介機能が、先ほど述べたようにうまくワークしていない、貯蓄資金が効率的にチャンネルされない。そこがもう一つの問題だと思う。

 自由化政策というのは、ディ・レギュレーションというのはリ・レギュレーションだと言われたのは、そこは全く同意見である。ただ、私が強調したいのは、自由化政策を進めたとインドネシアは言っているが、その裏でものすごい既得権益があって、もうがんじがらめのライセンスであるとか、そういったものに守られている。したがって、私は、インドネシアで必要なことは、さらなる自由化だと思っている。

 確かに自由化の順序の問題等あると思う。なぜ、資本を最初に自由化してしまったのか。しかし、資本自由化は1971年に導入された事実である。今から真っ白なキャンバスにものを描くように自由化政策の順序を考えるというわけにはいかない。今の選択として、では、規制に戻るのか、資本為替管理に戻るのが正しい政策かどうかということをインドネシアとして考えなければいけない。そうなったときに、いわゆる学者が言っているような、単純な自由化のシークェンシーの問題だけでは片づかない厄介な問題がある。


〔 原 座長 〕 1つはIMFというのは、国際通貨システムを考えるのが役割なのに、援助機関になっているではないか。これは篠原委員が言っていることだと思うが、円とドルが動いたことが大問題のきっかけにあるのだ。これは、野村総研の関君なんかがずいぶんこのことを言っているが、こんな問題もまだやらなければいけないと思う。

 2つ目は、全然話が出なかったが、最近、京都大学の佐和隆光さんと別のことでお会いして、彼といろいろ雑談したが、やはり彼らしいなと思ったのは、一国だと輸出主導で回復するでしょうけれどもリージョンで回復できるか。つまり、何を言いたいかというと、世界は不況になっている、過剰生産になっているのではないか。そういう長期の波動がある場合に一体どうなのだということを経済学者は全く議論していないではないかということを指摘しており、私も、それは全く賛成で、別のところに書いてしまったが、この問題もあると思う。

 3つ目は、今日、お2人のスピーカーは実は同じことを言っており、プレゼンテーションの仕方が違うが、マーケットというのはセンチメントで動く、ハーディングとかいろいろな言葉が使われたが、それと新古典派の経済学というか、IMF、世銀が考えているマーケットというのは実はズレている。これが、先ほど一番最初に篠原委員がマハティールに同情的だと言われたが、私もちょっとそういう感覚があり、学問の問題としては「ホワット・イズ・マーケット」、マーケットというのは何なのだということを考え直さないと、ちょっとしんどいのではないかということである。この3つぐらいが感想である。