ファイナンス 2025年11月号 No.720
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ファイナンス 2025 Nov. 37図 6 旧七十七銀行石巻支店(撮影当時は本町支店)仙台市出身、1993 年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06 年)出向等を経て2008 年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 (出所)筆者所蔵。平成 6 年 3 月頃に撮影されたものかった屋号と思われるが、地域紙の広告を調べたところ 7 時開店 12 時閉店だった。昭和 55 年(1980)8 月、地元タウン誌 ZERO が創刊。単独誌としては平成 2 年(1990)まで発行されていた。ふりかえればこの頃が石巻中心街の全盛期だったが、その一方で郊外にロードサイド店舗が増えてきた。昭和 57 年(1982)6 月、サンエーと提携したイトーヨーカドーが石巻店を出店。同年 12 月、隣地に石巻最大手のヤマト屋書店もオープンした。昭和 60 年(1985)9 月、立町にあった東京セルフコーナーはスーパー大手のヨークベニマルと提携して郊外(大街道)に「ポートプラザ」を開店した。中心街の衰退は橋通り界隈から始まった。平成 6 年(1994)に七十七銀行本町支店が閉店。平成 8 年(1996)3月、丸光は仲町から石巻駅前に店舗を新築して移転し「石巻ビブレ」となった。同じ年の6 月、蛇田地区にイトーヨーカドー石巻あけぼの店が開店した。その2 年後に三陸自動車道が延伸開通し、石巻河南 ICを中心とした新市街地が形成されていった。平成18 年(2006)5月には基幹病院の石巻赤十字病院が移転。その翌年 3月には店舗面積 33,686m2のイオンモール石巻が開店した。他方、駅前のさくらの百貨店(元の石巻ビブレ)が2008 年(平成 20 年)に閉店。中心商店街のシャッター街化に拍車がかかった。さらに平成 23 年(2011)の東日本大震災で旧市街が津波被害にあう。その翌年には石巻河南 IC 前が駅前を抜き最高路線価地点となった。震災以降、旧市街の各所で再開発が始まった。橋通りにあった七十七銀行の旧行舎は取り壊され、12 階建のマンションが建った。内海橋は立町通りから続く形で架け替えられ、ほぼ岸壁だった川沿いの道路には防潮堤が築かれた。仲町の丸光跡地には産直施設「いしのまき元気いちば」がオープンし、明治期に中心地だった本町は区画整理されてマンションが建設された。仲町・本町にかけての景観は大きく変わった。石巻のまちづくりには他例と異なり不撓不屈の物語がある。志ある人が来石し特色ある活動を通じて貢献している。「世界で一番面白い街を作ろう」を合言葉にまちづくりの活動を進めるISHINOMAKI2.0が立ち上がり、空き店舗を改修したシェアオフィスIRORI 石巻や、小劇場・ミニシアターのシアターキネマティカも登場した。震災10 年目の令和3年(2021)、立町の再開発ビル「石巻 ASATTE」1階に、山形県の鶴岡を拠点に地産地消の第一人者として活躍する奥田政行シェフの店、「アル・ケッチャーノ」の支店が開店した。地元出身の高橋博シェフが手掛ける、石巻の旬の食材を使った料理が特長だ。また、震災以降、映画やドラマの舞台になることが増え、20 本近くの作品でロケが行われた。石巻は筆者が新卒で就職し4 年間過ごした街だ。1990 年代の石巻を知る者として、その注目度や変貌ぶりに驚くばかりだ。帰省の折に街を歩くと、再開発ビルや個性的な店が点在する一方、廃墟然とした家屋や撤去後の更地が目に入る。図 6 が撮影された頃、行舎の裏手はファンシーショップやブティック、喫茶店が集まる「ミニ原宿」だったが、立町通りまで見渡せる一面の野原になっていた。これを「復興は道半ば」と見る人もいるだろうが、新市街である蛇田地区の発展を見、本連載のテーマである街の発展史を考えれば、どの地方都市にも共通する旧市街の将来像を示しているのではなかろうか。石巻は歴史と自然に恵まれた街だ。街なかに近代建築が残り、山と川そして海が揃う景観がある。歴史と自然を尊重した、住みやすく居心地のよい街が、新しい旧市街の着地点だと考える。復興の物語の次に何が来るのか、石巻のまちづくりの今後から目が離せない。復興の物語プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦

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