ファイナンス 2025年11月号 No.720
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北上川小牛田駅鳴瀬川石井閘門仙台駅ぜんほくじょうかいそうもりよし図 3 宮城電気鉄道開通以前の広域図図 4 市街図卍卍卍卍住吉公園羽黒山鳥屋神社水路跡街道筋(出所)筆者作成。陰影起伏図・傾斜量図は地理院地図 vector。“77”後記の丸数字は移転の順番1912~ 仙北軽便鉄道(現・JR石巻線)1880~北上運河石巻駅住吉町実業跡大島旧実業77④商銀↓77⑤商銀跡77②第一→77③77①ファイナンス 2025 Nov. 35仙台街道(出所)地理院地図 vector に筆者が加筆して作成東京セルフ跡エンドー跡サンエー跡再開発/区画整理利府駅現・JR東北線旧・塩釜駅1887~1997松島湾東名運河寿福寺永巌寺小学校郡役所跡石巻神社鹿島御児神社77卍卍を選んだ啄木は多賀城を見物したが、鉄道コースは塩釜駅から鉄道で仙台駅に移動した。その晩、20 時 57分の汽車に乗り深夜 2 時に盛岡に着く。その10 年後、明治 45 年(1912)5 月に同じく旧制盛岡中学だった宮の汽船乗り場から 6 時 45 分に会社」として開業した船会良親王を呼び寄せかくまっ塩釜港に譲ることになった。「大漁踊り」で頭に浮かぶ漁港に転換したのはそれ以降である。背景には北上運河と鉄道の開通があった。鳴瀬川河口の野蒜と北上川を結ぶ北上運河の整備に伴い、水位が異なる北上川と運河を連結したのが石井閘門である(図 2)。明治13 年(1880)7 月の竣工で、名称は当時の内務省土木局長石井省一郎に由来する。日本初のレンガ造の西洋式閘門で、琵琶湖疎水の大津閘門よりも古い。平成14 年(2002)5月には国の重要文化財に指定された。脇にある北上川・運河交流館「水の洞窟」は国立競技場の設計でも有名な隈研吾氏が手掛けた。平成11年(1999)の竣工で、北上川の土手に半分埋まったような構造物である。旧制盛岡中学の生徒だった石川啄木が記した修学旅行日記から当時の舟運と鉄道の関係がうかがえる。それ に よ れ ば、 明 治 35 年(1902)5 月 28 日 深 夜 1 時13 分、盛岡駅を発ち、日の出の時間に一関駅に着く。4km ほど離れた狐禅寺こじ上回漕路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 蒸気船に乗船し、午後 2 時半に「右に石井運河の水門を望んで少し行く」ところの北上会社支店前に上陸した。ここで石井閘門が登場する。北上会社は明治 18年(1885)に「北社で盛岡に本社があった。石巻支店と船着き場は大島神社が鎮座する現在の住吉公園にあった。一行は日和山に登り太平洋の海原を眼下にする。啄木は「砕けてはまたかへしくる大波のゆくらゆくらに胸おどる洋」と詠んでいる。その後、内海橋を渡って後醍醐天皇供養碑を見学した。石巻城主の葛西氏が南朝シンパだったことから、護たという言い伝えがある。一行が渡った内海橋は明治15 年(1882)に架けられた。内海五郎兵衛が県の認可を得、自己資金を投じて整備したものだ。明治 33 年(1900)まで料金を徴収して、その後県に寄付した。今で言うPFI(PrivateFinanceInitiative)である。翌朝、第一北上丸で北上運河を進み、11時半に松島に到着して観光を楽しんだ。3日目、塩釜神社の参拝後、徒歩コースと鉄道コースに分かれる。徒歩コース日和山

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