ファイナンス 2025年11月号 No.720
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石遠巻ロ町温連載路線価でひもとく街の歴史さ い た らと し まなおもとまちはる図2 石井閘門(右)と「水の洞窟」(左) (出所)令和 7 年 10 月 26 日・同2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D(出所)令和 5 年 1 月 19 日に筆者撮影275D510C240E295E 34 ファイナンス 2025 Nov.図 1 日和山から見た太平洋ックン島甚句からなる組曲「大漁唄い込み」に合わせ「大漁踊り」を踊り練り歩く。歌詞に「石巻その名も高い日和山」、「三十五反の帆を巻きあげて行くよ仙台・石巻」の一節がある。「待てば海路の日和あり」と、満載の千石船が順風を求めて待機したのが日和山だ。操船が難しい一枚帆の千石船で、太平洋を黒潮に逆らって進む東回り航路は海難リスクが高かった。日和山は石巻城址でもある。葛飾区葛西地域を本拠としていた葛西氏初代の清重は、奥州藤原氏の滅亡後、奥州総奉行に任じられ、日和山に山城を築いて任地支配の拠点とした。山際が湿地帯だったため、仙台から続く街道は日和山を山越えするルートを辿っている。松尾芭蕉が街道をたどって石巻を訪れたときも日和山に登り、眼下に広がる海原を見渡した(図 1)。当時の中心地の本は街道をたどって山を下りたところにあった。陸の道と川の道の交差点が当時の街の中心となった。太郎節、明治9 年(1876)12月、石巻初の銀行が本町で開業した。明治6年(1873)に渋沢栄一が設立した第一国立銀行である。横浜、大阪、神戸、京都に次いで、いわば地方で初めて出店したのが石巻と仙台だった。同行石巻支店には文豪・志賀直哉の父の直義塾を卒業後入行し、2 店目の任地が石巻支店だった。石巻では縁家の志賀徳蔵宅に住んでいたが、ここで明治16年(1883)2月20日に志賀直哉が生まれた。もっとも2 歳で東京に越したので当時の記憶はないようだ。なお、第一国立銀行石巻支店は明治26年(1893)7月に撤退。行舎を含む営業権は、仙台に本店を置く第七十七国立銀行が引き継いだ。現在の七十七銀行である。もっとも、海運拠点としての位置づけは明治半ばにはも勤めていた。慶應第 69 回は“ロック”の回なので、石巻を「ロール」と称した故・内田裕也氏への敬意も込めて再び石巻を取り上げる。ガイダンスを兼ねた第 1 回では書けなかった戦前までの経緯と直近の様子を書く。北上川の河口の石巻は仙台藩の米の積み出し港として発展した。北上川流域のうち、岩手県南部の一関から水沢、現在の北上市南半分までは仙台藩領であり、そのさらに上流は南部氏が治める盛岡藩領だった。さらに八戸藩の飛び地もあったことから、石巻には盛岡藩や八戸藩の米蔵も置かれていた。例年 8月初めに開催される石巻川開き祭りは、伊達政宗の家臣で、北上川を開削し石巻に港を開いた川村孫兵衛重吉を記念する祭で、大正 5 年(1916)に始まった。最終日の晩、浴衣や法被姿の男女が、斉第 69 回 宮城県石巻市第 69 回 宮城県石巻市東回り航路の時代北上運河の時代川街の歴史と復興の物語川街の歴史と復興の物語路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街

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