ファイナンス 2025年11月号 No.720
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SPOT ファイナンス 2025 Nov. 15(最後の元老、西園寺公望、左は維新前「推定十七八歳」の姿 出典:安藤徳器 著『西園寺公と湖南先生』,言海書房,1936. 国立国会図書館デジタルコレクション 西園寺公と湖南先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション 右は明治39 年「第一次西園寺内閣」成立時の姿 出典:安藤徳器 編『陶庵公影譜』,審美書院,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション 陶庵公影譜 - 国立国会図書館デジタルコレクション)昭和 100 年―百年前の新聞や日記から―その 1如き突っ込んだ質問もあつた右に対して片岡蔵相始め政府側出席者は極力陳弁に努むる所あり質疑応苦実に五時間にして一先づ質問を終了して同八時十分散会した。」そして翌日、「政府に撤回を求めて勅令案を否決し去る 枢府委員会頗る強硬 政府代案の提出を肯かず」〔4.16 時事〕は「倉富枢府議長は…閣議中の若槻首相をその宮廷に訪問し委員会の険悪なる情勢を伝へ『他に適当なる案を講究されては何うか』と婉曲に撤回を要求する所であった。若槻首相は…他に代案は絶対に無い故に撤回することはできないというふうに決定した、…是に於て委員会は…政府が撤回せずんば已むを得ずとなし緊急勅令は憲法の正当なる運用に反するという理由を以つて別段内容に立ち入つて審議せず又賛否を票数に問ふ所なく全員一致の形で否決し同五時半散会した」。この結果、「若槻内閣総辞職 昨夕闕下に辞表捧呈 特に南支方面の実情を奏上 優渥なる御沙汰を賜はる」〔4.18時事〕と「枢密院本会議に於て脆も敗れたる若槻首相以下各国務大臣は十七日午後四時十分永田町首相官邸に引揚げて直ちに緊急臨時閣議を開催し…南京漢口事件の真相及び政府の取り足る臨機の処置及び方針につき委曲上奏することに決定、更に若槻首相及び各国務大臣の辞任理由を協議作成したる上…赤坂離宮に参内、天皇陛下に拝謁仰せつけされ総理大臣以下各代臣の辞表を…棒呈し更に辞職理由をも御説明申し上げたる後南支在留邦人の救済措置について委曲上奏…」との報道。内閣総辞職を受けて、「新内閣組織の大命 田中義一男に下る 直ちに拝受して御前を退下」〔4.20 東朝〕によると、「後継内閣首班に関する西園寺公の奉答の次第をもたらした河合侍従次長は十九日午前九時十分東京駅着帰京直ちに宮内省差し回しの自動車で同二十五分赤坂離宮東門より参内、これよりさき九時十五分頃相前後して参内した牧野内府一木宮相に簡単なるあいさつをなし御召に応じてあわただしく表御座所に入り聖上陛下御一人の前で拝謁仰せつけられ西園寺公からの奉答の次第を委曲復奏して御前を退下した、続いて牧野内府又はお召しにより同じく表御座所に伺候し西園寺公より奉答の次第につき更に御下問ありこれに奉答し一旦御前を退き一木宮相と協議の上更に相携えて御前に伺候し後継内閣首班につき最後の奉答を申し上げた、これにより宮内省からは直ちに政友会総裁田中義一男の邸にお召しの旨を電話をもって告げられたので田中総裁は同十時五十分服装を改め急ぎ午前十一時二十五分赤坂離宮において陛下に拝謁仰せつけられ大命を拝明して同三七分離宮を退出し赤坂表町なる高橋前総裁邸に立寄り青山の自邸に帰りいよいよ政友内閣組閣に着手した。」という。当時の政党政治について。内務官僚だった安井誠一郎東京都知事は日本経済新聞の「私の履歴書」で「大正十五年に富山県の警察部長に出た。その時代は、ようやく政党政治がはなやかになりはじめたころで、わたしが赴任するときは憲政会内閣であったが、翌年、政友会内閣に代わった。この時私は飛躍的な抜擢を受けて驚いた。というのは三等県の富山県から一等県の兵庫県の警察部長になったのである。…当時は党人意識の強い時代で、内閣が代わるごとに、知事の半分、警察部長の半分くらいは代わってしまうというころで、実際、富山県も知事は左遷をけって辞表を出すし、内務部長も辞めさせられたのだった。」と語る。「財界応急策として三週間 支払猶予勅令発布 臨時帝国議会招集に決し 本日緊急枢密院会議開かる」〔4.22 東朝〕は、「政府は財界、金融界安定に関する具体的方策を樹立するに至るまで銀行取付より生ずる経済上の不安を防止するため憲法第八条第一項により…緊急勅令即ち支払猶予令を公布する事に決し枢密院に諮詢の手続をとつたその期間は二十一日間と決定した…」。次いで、「臨時議会に提出すべき日銀補償法原案成る 補償限度は五億円」〔4.26 東朝〕は「政府は財界安定

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