SPOT(「東京公会堂楼上からみた日比谷界隈。左が日比谷公園運動場…樹林を越してその向こうには帝国劇場、東京会館等の諸建物がある。中央の大建築が帝国ホテル、その右は華族会館、往時の鹿鳴館…」出典:『大東京寫眞帖』,[出版者不明],[1930]. 国立国会図書館デジタルコレクション 大東京寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション)(大正3 年9 月竣工の三越呉服店 出典:建築学会 編『明治大正建築写真聚覧』, 建築学会, 昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション 明治大正建築写真聚覧 - 国立国会図書館デジタルコレクション)元国際交流基金 吾郷 俊樹1 昭和の始まり 10 ファイナンス 2025 Nov.「断腸亭日乗」に 1926(大正 15)年「十二月十四日 文豪、永井荷風は、死の前日まで 38 年間の日記…夜銀座に往くに号外売頻りに街上を走るを見る。聖上崩御の時近きを奉ずるものなるべし。頃日の新聞紙朝夕陛下の病況を報道すること精細を極む。…」と記し、同年(昭和元)12 月 25 日には、「昨夜深夜聖上崩御の公報出でて、銀座通の商舗今朝より休業。…余昨夜より家を出でず、又新聞を観ざるを以て、ここに初めて諒闇の事を知る。…此日改元。」 と記す。昭和百年ともいわれる今年。昭和がどのように始まったのかを覚えている人はきっと少ない。読売、毎日、朝日出身の編纂委員による「昭和の五十余年間の日々の動きを全国三百余りの新聞から抜粋し、編年形式に編纂」した「新聞集成昭和史の証言」は、「“新聞は歴史の生きた証人”と称され、また、“社会を映す鏡”とも例えられている」という。今回は当時の新聞や荷風の日記などを手がかりに、昭和元年、二年の様子を紐解く。当時の新聞の一つを見てみると、テレビ欄がなく、政治、経済、芸能などが混然としていて、古い言葉が飛び交い、時代の雰囲気、人々の生活感が伝わる。当時の各紙の報道を見ると、「天皇崩御」「〔12.25 東朝〕「天皇陛下には今二十五日午前一時二十五分葉山御用邸において崩御あらせらる。大正十五年十二月廿五日 宮内大臣一木喜徳郎、内閣総理大臣 若槻禮次郎」の記事。「新帝陛下践祚 人皇第百二十四代」〔12.25 時事〕「天皇陛下崩御あらせられたるを以て、皇室典範の御規定に依り、摂政の任に在らせ給ひし皇太子殿下には、直ちに践祚、祖先の神器を承け給へり。」とあり、以下、「宮中賢所後御儀」「剣璽渡御の御儀」「皇后柵立 皇太子殿下皇位 御継承の結果」と続く。更に、「元号を昭和と改めらる」〔12.25 時事〕「新天皇陛下には大統を承け万機の政を行わせらるるに望み、先帝の定制に遵い、枢密院の議に附し、愈々『昭和」と改元せられることに御決定相成り詔書を以て公布することとなった」。この日の新聞広告〔東朝〕を見ると、三越呉服店は「御大葬につき今二十五日謹んで休業仕候」、高島屋呉服店、松屋呉服店、松坂屋、白木屋呉服店も休業の広告。俳優として初めて国民栄誉賞を受賞した長谷川一夫は、当時、石巻で女形として興行中で、映画入りの話が決まり、電報で大阪によび戻され「…当時、仙台から大阪にはまるまる一昼夜かかりましたが、私の頭の中は不安と期待とでその夜行列車の長い時間もわからないほどでした。あくる晩になってようやく大阪に着昭和 100 年 ―百年前の新聞や日記から―その 1
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