ファイナンス 2025年10月号 No.719
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私は 2010 年頃から、米国で医療政策や医療経カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)准教授津川 友介済学の研究を続けている。その頃から日本の医療の持続可能性を高める政策の重要性を訴えてきたが、その当時、耳を傾ける人は少なかった。長年続くデフレの中で日本の医療費の伸びは小康状態にあり、対処すべき政策課題の中での優先順位が低かったのだろう。近年になってインフレが起こり、医師の働き方改革によって医師の人件費が高騰し、医療機関の経済状況は急速に悪化している。そこに来て、国民の増加する社会保険料に対する不満感が表出したのが、この夏の参議院選挙であった。給与から天引きされる社会保険料には健康保険、厚生年金保険、雇用保険などが含まれるが、その中で健康保険料、すなわち医療費が高すぎるのではないかという議論になったのである。医療費の水準を計算(国際比較)するときには、一般的に「GDP 比の保険医療支出」が用いられる。これは一般的な家計における一人当たり GDP の中で何パーセントが医療費に使われているかのざっくりとした指標になるからである。日本は GDP の 11.5%を医療費に使っている。世界一医療費が高いのが米国(16.6%)で、日本はドイツやフランスと共にその次の集団の一つである。OECD 平均の 9.2% よりは高い。世界の国の中で、突出して高いわけでもないが、かといって安いわけでもない。日本は、医療費が「やや高めの国」なのである。日本の医療費の伸びが他国と比べて大きいわけではないものの、他国との大きな違いがある。それはGDP の伸びである。他国が過去 30 年に GDP を堅実に伸ばしているのに対して、日本の GDP はほとんど伸びていない。そのため、GDP の比で計算される「GDP 比の保険医療支出」を見ると、日本の医療費は実際よりも大きく伸びているように見えてしまうことに注意が必要である。とはいうものの、国民が医療費の負担を減らしたいという思いを持っていることは事実である。日本の医療費適正化の政策を見ていると、自己負担割合など経済学のツールに大きく依存していて、医療そのものの中身をターゲットとする政策が少ない印象を受ける。医療サービスを全て横並びに抑制しようとするのではなく、その中身に関する議論が重要ではないか。米国で行われた研究では、医療現場で提供されている医療サービスの 2~3 割は、健康の改善に寄与していない「価値の低い医療サービス」であったと報告されている。健康改善の程度と比べて価格が高い医療行為を「低価値医療」、そもそも健康改善のエビデンスがない医療行為を「無価値医療」と呼ぶ。これら低・無価値医療は、日本の医療現場でも実際に提供されている。国民が希望しているのは、健康、医療の質、アクセスを犠牲にすることなく、医療費を削減することである。健康を犠牲にしてまで社会保険料を引き下げれば、必要な医療サービスが受けられない国民の不満が高まり、いずれ政治的な問題となる。拙速に「大味な政策」で医療費削減を進めるのではなく、今の日本に必要なのは、総額 46 兆円の医療費の中身を一つ一つ丁寧に吟味して、低・無価値医療を削っていくプロセスであるはずである。そして、その仕分けに必要なエビデンスの創出、つまり「医療政策研究」の推進が急務である。そのために昨年、医療政策学会を立ち上げた。この学会では、医療の価値の研究など、日本の医療費の適正化に必要なエビデンスを創出する医療政策研究を推進している。この学会の活動が、少しでも日本の未来を良いものにしてくれることを願っている。ファイナンス 2025 Oct. 1エビデンスを創出する 医療政策研究に向けて巻頭言

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