ユニバース岩木川連載路線価でひもとく街の歴史H I R O S A図 3 広域図 駅前の発展(出所)地理院地図 vector に筆者が加筆して作成和 27 年(1952)1月 26日に開通した郊外電車、弘前(1949)1月に普銀転換して発足した。他方、青森商業電気鉄道の中央弘前駅の最寄である。通りには東京に本店を置く富士銀行と協和銀行が進出していた。その後、昭和 48 年(1973)の最高路線価は「土手町青和銀行前」だった。同じ土手町通りでも土淵川から北側の下土手町と呼ばれる場所に移った形だ。青和銀行は、戦後 4 行残った貯蓄銀行の青森貯蓄銀行が昭和 24 年銀行は全国最小の地方銀行として単独経営を続けていたが、店舗数 7、職員数 49 人ではいかんともしがたく、昭和 33 年(1958)9 月に青和銀行に吸収されていた。弘前市は、第五十九銀行が 5 行合併を機に本店を青森市に移したため、銀行の本店がなくなっていた。同じ旧弘前藩とはいえ、青森市と経済圏は互いに独立している。他方、急速に勢いを増している金融機関が当時の弘前無尽だった。一県一行主義は転換期を迎えつつあった。中小企業の金融排除の解決のため登場したのが、無尽会社が転じた相互銀行という業態である。弘前相銀の発足にあたって、昭和 26 年(1951)10月20 付『東奥日報』は「その地方の特殊事情に精通し、かつ理解ある本店銀行を設立したいとの要望は、弘前市をはじめ周辺の中、南、西、北郡の各中小商工業者の切実な叫びであり、岩淵勉氏が弘前市長在任中も特にこの問題を取りあげ」たと、地元の歓迎ぶりを示している。昭和 27 年(1952)5 月、下土手町に本店を新築した。現在の青森みちのく銀行下土手町支店である。昭和 29 年 1月には資金量純増が全国相互銀行 70 行中の第 1 位となる。昭和 35 年(1960)に旧国道沿いに 4階建の本店を新築。当時は市内 3 位の高層建築だった。下土手町、つまり土淵川の蓬莱橋から下土手町交差点までわずか250m間に最盛期には3軒の百貨店があった。下土手町交差点の東南角にあったのが“かくは”宮川百貨店だ。明治 20 年頃に創業したかくは呉服店が源流で、大正 12 年(1923)1 月に鉄筋コンクリート4 階建の百貨店を新築し、かくは宮川呉服店とした。昭和 12 年(1937)に 5 階部分と新館を増築、エレベーターを設置し耳目を集めた。戦後は百貨店の中三が昭和 37 年(1962)11 月に弘前店を立ち上げた。明治 29年(1896)6 月に五所川原で創業した「中三中村呉服店」が源流。次は、昭和 46 年(1971)3 月に進出したカネ長武田百貨店である。こちらは安政年間(1850年代)に青森で創業した「武田呉服店」を祖とする。昭和 51年(1976)10月1日は弘前にとって記憶に残る日である。この日、本店を置く銀行が再び無くなり、駅前にイトーヨーカドー弘前店が開店した。まず、弘前相銀が青和銀行と合併し「みちのく銀行」となった。新銀行の本店は青森市に置かれた。弘前では青森銀行を上回るシェアを持つ弘前相銀にとっては、さらなる飛躍を目指し地方銀行転換を果たした意義がある。また、イトーヨーカドーの開店は、土地区画整理事業の進捗に伴う発展の兆しとしての意味がある。最上階に展望レストランがある8階建の大型店舗は地元からみればスーパーというより「デパート」だった。弘南バスのターミナルが併設されていた点ではターミナル百貨店に通じる。対する下土手町の次の一手は 3 店 3 様だった。まず、老朽化が目立っていたかくは宮川百貨店は昭和 52 年にいったん閉店し、昭和 55 年(1980)6 月、ファッションビル業態のハ店する。店名は弘前のローマ字表記の読み方を洒落たものだ。カネ長武田百貨店は、スーパーを全国展開していたニチイと組み、ダックシティカネ長武田百貨店となった。平成 5 年(1993)10 月に下土手町の店舗を閉店。国道 7 号線バイパス近辺に弘前ビブレとして移転した。シネコンを併設した郊外型の百貨店だった。国道 7 号イローザを開 34 ファイナンス 2025 Oct.さくら野カブセンター運動公園市街図
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