ファイナンス 2025年10月号 No.719
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富士跡 協和跡旧中三武田跡青和跡三井跡旧木村産業研徳村わ淵路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 土手町の時代下土手町の百貨店街(出所)筆者作成(2001)に青森銀行から弘前市に寄贈され、改装を経て平成 16 年(2004 年)から美術展示施設「百石町展で、昭示館」となった。もうひとつの弘前相銀はみちのく銀行のルーツである。今年 1 月 1 日に青森銀行と合併して「青森みちのく銀行」となった。昨年までの 2 大行のルーツはともに弘前にあったということだ。昭和 11 年(1936)の 2・26 事件後に発足した広田内閣、馬場蔵相の代に一県一行主義が打ち出される。低利の国債を買い入れさせるための低金利政策が背景にあった。地方銀行側にも、戦時体制が進む中で融資対象先が減っていた事情もあった。青森県下では県域一番行の第五十九銀行を軸とした統合策が進められていた。難産の末、昭和 18 年(1943)10 月、第五十九銀行と津軽銀行、板柳銀行、八戸銀行、(旧)青森銀行が合併し、青森銀行が新設された。他に 3 行あったが、終戦前年の昭和 19 年 6 月に佐々木銀行、弘前商業銀行が合流。青森商業銀行が最後まで独立を貫き、結果として一県二行で戦後を迎えた数少ない県となった。戦後、昭和 30 年(1955)の最高路線価地点は、市街を南北に貫く土青森に支店を置いた。城下町の時代の弘前の中心地は本町である。三井銀行も第五十九国立銀行も現在の弘前大学病院の正門に卍卍卍卍面する本町の通り沿いにあった。青森県統計書をひもとくと、確認できる範囲で明治 21 年(1888)から明治 42 年(1909)まで宅地の最高地価だった。もっと も、 青 森 県 内 で は 明 治21 年時点で八戸十三日町が首位で、弘前は青森米町に次ぐ 3 位だった。ち青森-弘前間が官設鉄道として開通。現在と同じ場所に弘前駅が開業する。住所は中津軽郡和和 11 年(1936)に合併するまで弘前市ではなかった。鉄道の開通をきっかけに街の中心は駅に引かれて動き出す。宅地の最高地価は明治 43 年(1910)に弘前市 大 字 土 手 町 と な っ た。 そ の 6 年 前 の 明 治 37 年(1904)11 月、第五十九国立銀行あらため第五十九銀行が本店を新築し、移転する。木造 2 階建て寄棟屋根・越屋根付き桟瓦葺きで、ルネッサンス様式。設計施工は、弘前市を中心に近代建築を後世に残している堀江佐吉である。行舎は昭和 40 年(1965)、現在地に新店舗を建てるにあたって取り壊される予定だったが、市民の声を受けて曳家し保存されることになった。昭和 47 年(1972)に国の重要文化財に指定される。現在の「青森みちのく銀行記念館」である(図 1 左)。他にも近所に銀行建築が2軒ある。明治16年(1883)に建てられた旧津軽銀行と、昭和 2 年(1927)の旧弘前無尽、後の弘前相互銀行である(図 1 右)。旧津軽銀行の建物は元々角三宮本呉服店の店舗だったが、津軽銀行が大正 6 年(1917)1 月に購入して本店とした。その後の銀行再編で青森銀行津軽支店となる。弘前市内に現存する洋風建築では最古級である。平成 13 年街道筋旧ヨーカドー現シーナシーナ弘前旧ダイエー現ヒロロファイナンス 2025 Oct. 33現・天守閣市民会館卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍とく卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍明治 27 年(1894)12 月 1 日、現在の奥羽本線のう卍卍卍卍卍卍卍卍むら卍卍卍卍つちぶち卍卍††カトリック††川から南側の中土手町だった。昭緑の相談所天守閣(本来の場所)メソジ††スト博物館旧弘前相互東奥義塾跡市役所旧59青森59跡本町医学部旧津軽かくは跡旧弘前相互みちのく旧本店中央弘前駅聖公会れんが倉庫弘大病院図 2 市街図

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