ファイナンス 2025年10月号 No.719
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禎連載路線価でひもとく街の歴史な ん ぶさんのへしげよし図 1 旧第五十九銀行と旧弘前無尽 第 68 回 青森県弘前市第 68 回 青森県弘前市本町の時代文化の県都としての伝統と矜持文化の県都としての伝統と矜持本州最北端の青森県は日本海側の津軽地方と太平洋岸の南部地方に分かれる。南部と言えば現在の岩手県盛岡に拠点を構えた南部氏が思い浮かぶが、盛岡に拠点を移したのは南部家 27 代、盛岡藩初代の南部利直の時代であり、それ以前は青森県境の三本拠地だった。一方、初代当主で弘前藩初代藩主の津軽為信は旧姓大浦で元々南部氏の家来だったが武力で独立。南部氏に先んじて小田原征伐に参陣し豊臣秀吉から本領安堵の確約を得た。関ケ原の戦いでは徳川家康を盟主とする東軍に付き、弘前藩主の地位を固めた。このような経緯から、津軽と南部は伝統的に関係が良くなかった。互いに因縁が深い津軽と南部だったが、廃藩置県では同じ県域に組み込まれた。近世を通じて弘前は津軽の中心都市だった。藩庁の弘前城は江戸期以前の天守(現存 12 天守)を擁することで知られる。平成 26 年(2014)から石垣含む土台の修繕中で、楼閣は曳家されて別の場所にある。弘前は城郭や内堀だけでなく外堀も残っているのが珍しい。城下町の区画もその大部分が残っている。対して青森は弘前藩の外港だった。それが明治に入戸郡南部町がると一転して青森が県都になった。廃藩置県の渦中、青森県は一時、旧南部藩の北半分、津軽から北海道は渡島半島の旧松前藩に至る広大な県域だったことがある。このとき、広大な県域の中心で北海道との連絡航路があった青森に県庁が置かれた。県最初の銀行が青森に出店したのも、北海道との行き来が盛んになり青森が交易拠点となったからだ。明治 9 年(1876)7 月に開業した三井銀行青森出張店である。弘前には 4 年後の明治 13 年(1880)4 月に出張店を出している。他方、県内初の国立銀行は明治12 年(1879)1 月に開業した第五十九国立銀行である。出資者の多くは元の弘前藩士で、仕事を失った元武士の再就職先や秩禄公債の運用先、一言で言えば士族授産の意味合いがあった。初代頭取は弘前藩の最後の家老、大道寺繁に出資し同行の支店を弘前に誘致しようとしていたが、第一国立銀行を立ち上げた渋沢栄一から地元行の設立を勧められた。渋沢に助言を求めたところ、銀行は米穀等の荷為替の取扱いが主要な業務なので本店も海陸運送の拠点となる青森がよい、という回答を得た。これは当時の銀行の役割をうかがえるエピソードである。わが国の近代銀行の役割は今でいう公金業務と荷為替だったのだ。荷為替とは、荷主(売り手)が務めた。当初は、第一国立銀行が、荷物の預かり証を担保とし、受取人が荷主で引受人(支払人)が白地の為替手形による代金取立業務である。遠隔地の送り先(買い手)が為替手形を引き受ける(署名する)ことと引き換えに荷物の預かり証を引き渡す。しかし結局、出資者の多数を占める旧弘前藩士として本店所在地は弘前から譲れず、その代わり 32 ファイナンス 2025 Oct.2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D(出所)写真はすべて令和 7 年 9 月 6 日に筆者撮影275D510C240E295E路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街

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