ファイナンス 2025年9月号 No.718
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連載セミナー ファイナンス 2025 Sep. 65た。民間レベルでの継続的な対話と信頼構築が、国と国の関係においても重要であるという信念を彼は生涯貫いたのです。前述したように 1909 年、栄一は渡米実業団の団長となって、50 名ほどの実業家、教育者、文化人とともに二か月かけてシカゴ、ワシントン DC、ニューヨークなど各地を訪問し、講演や交流会を通じて、反日感情の和らげと日米理解の促進を目指しました。この訪問では JP モルガンをはじめとする有力財界人と交流を重ね、商工会議所と連携、さらにはタフト大統領とも面会しました。この訪米実業団は、日本の近代実業界を代表する初の本格的な「経済外交、外交ミッション」として位置付けられており、同時に政府の枠を超えた「民間外交」の先駆けとも言えるものでした。1909 年の渡米実業団を契機として、1915 年には「日米関係委員会」が設立されます。さらに 1920 年には非公式な民間対話の場として「日米有志協議会」が東京で開催されました。この協議会にはナショナル・シティ銀行頭取を務めたフランク・ヴァンダーリップ(Frank A.Vanderlip)やイーストマン・コダック創業者のジョージ・イーストマン(George Eastman)らアメリカの有力実業家が参加し、日米の経済協力、移民問題、中国政策などをテーマに、6 日間にわたり意見交換が行われました。また、この協議会にはアメリカ側代表の夫人たちも同行し、日本文化や女性教育への理解を深める機会となりました。単なるビジネス交流にとどまらず、文化・社会レベルでの相互理解が進められたのです。栄一は、仁義を重んじる実業家同士の信頼を土台に、国家を越えた対話によって平和的な関係を築こうと務めました。彼と交流のあったアメリカの実業家たちも、栄一と同じく、社会事業家としての側面を持ち、公益に奉仕する精神を共有していました。こうした価値観の共通性が、国境を超えた友情と共同の礎となっていったのです。ここで、栄一と交流があったアメリカの実業家たちをご紹介します。(1)ジョージ・イーストマン(George Eastman)先ほども触れましたが、イーストマン・コダックの創 業 者 で あ る ジョ ー ジ・ イ ー ト ス マ ン と は 栄一 が1902 年、1909 年(渡米実業団)、1921 年の三度にわたり会っております。1921 年にはイーストマンの自宅に宿泊し、彼が設立した歯科診療所なども案内されています。イーストマンは、巨額な資産を教育、医療、文化分野に寄付するアメリカを代表するフィランソロピストで、特にマサチューセッツ工科大学やロチェスター大学、さらにはアフリカ系アメリカ人医学生の支援など、幅広い社会貢献を行いました。1920 年の日米有志協議会にも参加しており、その時は三田の三井俱楽部に泊まっています。(2)ジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)シフはユダヤ系アメリカ人の実業家であり、当時ロシア帝国によるユダヤ人迫害に強く反対していました。その立場から、日露戦争では日本に対して多大な経済的支援を行い、国際的にも注目されました。栄一と彼は三度にわたり会っており、1906 年にシフが来日した際には飛鳥山の渋沢邸を訪れ、養育院にも寄付を行っています。ユダヤ教には「正義としての慈善」という理念があり、シフもその精神に基づいて、生活困窮者や差別を受ける人々への支援に尽力しました。また、彼は排日運動にも反対の立場を取っていました。(3)ヘンリー・ハインツ(Henry Heinz)栄一は 1909 年の渡米を機にアメリカの食品実業家の ヘ ン リ ー・ ハ イ ン ツ と 出 会 い ま し た。 ト マ ト ケチャップで有名なハインツは、企業の利益よりも従業員の福祉や社会貢献を重視した経営者であり、熱心なキリスト教徒でもありました。宗教的信念に基づき、日曜学校や移民支援に尽力しておりました。民間レベルの信頼構築と対話の推進令和 7 年度職員トップセミナー1.1909 年渡米実業団2.日米有志協議会などの日米友好団体の設立3.アメリカの実業家との交流

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