連載セミナー 64 ファイナンス 2025 Sep.還元すべき」という暗黙の社会契約がありました。これはキリスト教やユダヤ教における「収入の十分の一を献金する」、すなわち所得の一部を宗教機関や公益に寄付するという伝統に根ざしています。カーネギーやロックフェラーといった起業家たちは、富を創造することに加え、その富を再構築し、他者を豊かにするために投資することを自らの責務と考えていました。これが、「フィランソロピー(社会貢献活動)」であり、これは富の再分配である慈善(チャリティ)につながっていきます。栄一が 1902 年に最初の訪米をした際、カリフォルニアから 4 日間かけて大自然の中を鉄道で横断し、ユタ州やコロラド州の自然資源や豊かな生活環境を目のあたりにします。そこに息づくスケールの大きな国力と富の分配のあり方に強力なインパクトを受けたことは間違いありません。このように、栄一がアメリカで体験した「公益のために富を使う」という実践と理念は、彼の道徳経済合一の思想を国際的な視野で再確認する大きな機会となりました。アメリカでの視察と交流の中で、栄一の心を深く痛めたのは、排日運動の広がりでした。1902 年、サンフランシスコ滞在中に、「日本人水泳禁止」と書かれた市営プールでの標識を目にしたことは、象徴的な出来事でした。カリフォルニアを中心に日本移民への差別が、栄一のアメリカでの民間外交の中心的な課題となっていきました。1880 年以降、多くの日本人がカリフォルニアやハワイに渡りました。経済自立や出稼ぎによる収入の確保を目的に、農村の次男・三男層が農業労働者や契約労働者としてアメリカに移住しました。その多くは、苦労の末に農業経営者としてカリフォルニアあるいは西海岸のオレゴンとワシントンで成功を収めて、大規模農場を営むものも現れました。しかし、こうした成功が、白人労働者との競争を生み、反日感情を呼び起こします。1882 年に制定された中国人排斥法はアジア系移民に対する差別的な姿勢の始まりであり、その後の移民法では、棄民制限が本格化し、日本人もその対象となっていきました。排日感情も当時の新聞や雑誌のメディアによってとても煽られました。「日本人はアメリカで子供をたくさん産み、人口でアメリカを征服しようとしている」といった風刺漫画が出回るなど、露骨な偏見が社会に浸透していきます。ついには、サンフランシスコでは、日本人の子供を公立学校から隔離するという政策が打ち出されるまでに至ります。こうした状況を受け、1907 年には「日米紳士協定」が締結され、日本政府は労働者の移民を自粛し、アメリカ政府は在留日本人とその家族の権利や教育機会を尊重することが取り決められました。しかし、1924 年の移民法によってこの協定は無効となり、日本人の移住は完全に禁止されてしまいます。加えて、1913 年には日本人による土地所有を禁じる「排日土地法」も制定されていきました。このような反日感情に対して、栄一は、理解と交流による関係改善を目指しました。1909 年、渡米実業団の団長として、約 50 名の実業家、教育者、文化人らとともに再びアメリカを訪れ、各地で交流活動を展開しました。また、日米の友好団体の設立や、アメリカのメディアを通じた情報発信にも力を注ぎました。ニューヨークの新聞には、「日本はカリフォルニアにおける日本人への不公平さには怒りを感じる。」といった主張を寄稿し、アメリカ市民への直接的な訴えも試みています。さらに「日本人がアメリカ人の職を奪っている」と主張するアメリカ労働組合の指導者とも面会し、誤解の解消と対話を図りました。また、アメリカの政財界の要人を日本に招くための努力も続けました。当時、日本は日清戦争の勝利を経て、欧米列強から一目置かれる存在となり、同時に「東洋の脅威」として警戒もされるようになっていました。一方、アメリカは米西戦争でフィリピン、ハワイ、グアムなどを獲得し、中国進出にも積極的な姿勢を見せるなど、日本との利害対立が表面化していきます。このような状況の中で、栄一は「信義に厚い実業家同志の交流こそが、国家間の緊張を和らげる鍵になる」と考えまし排日感情の高まりと民間外交の試み2.排日感情への対応と民間外交の模索1.排日運動
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