連載セミナー ファイナンス 2025 Sep. 63たりにし、深い感銘を受けたことは想像に難くありません。栄一は帰国報告の中で、「訪れた先々で、アメリカ人が巨額の資産を惜しまず公共のために寄付する素晴らしい姿を見ることができた」と述べています。また、「アメリカには仁の心を持つ事業家が多い」とも語っています。実業家が社会事業家として公益のために尽力している姿に触れたことは、栄一自身の理想とも重なり、アメリカという国に対して大きな信頼と親近感を抱くに至ったと思われます。栄一が最も尊敬し、深い共感を寄せていた実業家が鉄 鋼 王 の ア ン ド リ ュ ー・ カ ー ネ ギ ー(Andrew Carnegie)です。カーネギーは、一時的な富の不平等な分配に対する真の解決法は、富裕層と貧困層の間に調和をもたらすことであり、それによって社会を統治することだと述べています。1902 年の渡米時には、カーネギーが母国スコットランドにいたため、面会は実現しませんでしたが、1921 年に渡米の際には、カーネギーの未亡人を表敬訪問し、栄一自身が序文を寄せた「実業の帝国」というカーネギーの著作の翻訳版を献呈しました。カーネギーはその著書の中で「富裕層が寄付するべき 7 つの最善の分野」として、大学、図書館、病院または医学校、公園、コンサートホール、大衆浴場、教会のオルガンの 7 つを挙げております。カーネギーは大変熱心なクリスチャンだったので、教会のオルガンをその中に含めております。一方、栄一も一橋大学、日本女子大学と慈恵医科大学の設立支援に加え、済生会や聖路加病院などの医療施設、明治神宮外苑の整備、帝国劇場などの文化施設にも深く関与しており、両者の活動には多くの共通点が見られます。1902 年、ワシントンでルーズベルト大統領と会見した後、栄一はニューヨークに向かいます。ルーズベルト大統領は栄一をニューヨーク商業会議所会頭であるモリス・ジェサップ(Morris K.Jesup)に紹介し、ジェサップを通じて多くの実業家と面会の機会を得られました。ジェサップ自身も貧困移民を支援するセツルメントハウスに関与し、国立公園の設立にも関わっていました。栄一は、こうした実業家でありながら社会事業にも深く関わる人々との対話と信頼関係こそが、日米関係の維持と発展に不可欠だと確信していました。栄一が社会事業の理念に目覚めたのは、先ほど申し上げた、徳川昭武に随行してフランスを訪れた際でした。そこで視察した近代的な病院が一部寄付によって運営されていること、市民によるバザーなどの慈善活動が盛んに行われていることに深い感銘を受けます。この体験を通じて「福祉とは個人の善意に頼るのではなく、市民や組織の公共の責任として担われるべきものである」と強く感じるようになりました。こうした「民による民のための社会事業」という考え方は、当時日本に根強くあった官尊民卑の風潮を打破しようとする栄一にとって、現地で学んだ社債や株式会社の制度と並ぶほど大きな刺激と影響を与えたと言えるでしょう。フランスからの帰国後、栄一はさまざまな社会事業に関与するようになります。養育院の院長としての活動に加え、聖路加病院、東京慈恵会医科大学、中央慈善協会(全国社会福祉協議会の前身)などの設立・運営に関わりました。特に中央慈善協会では初代会長として、組織化を推進し、商工会議所に匹敵する中核的な団体へと発展させるべく尽力しました。フランス訪問から 35 年後、栄一はアメリカに行くことになりますが、その時はすでに社会事業家としての立場を確立していました。栄一がアメリカで体験したのは、“圧倒的なスケール”による「民による民のための社会事業」でした。当時のアメリカには「ある限度を超えた富は社会に社会事業・フィランソロピーの理念と実践令和 7 年度職員トップセミナー2.最も共感を抱いていた実業家:カーネギー3.米国の実業家とのネットワーク1.渋沢栄一の社会福祉・社会事業の原点2. 米国のフィランソロピーに見た「公共の精神」
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