ファイナンス 2025年9月号 No.718
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連載セミナー 62 ファイナンス 2025 Sep.81 歳 の 時 に ワ シ ン ト ン 軍 縮 会 議 で ハ ー デ ィ ン グ(Warren G.Harding)大統領と会見しています。これらの訪米の主要な目的は、日本の実業界を代表して、アメリカの実業・産業と社会事業を視察し、日米親善、特に悪化しつつあった日米関係の緩和に尽くすためでした。栄一が訪れた、20 世紀初頭のアメリカは、かつてない経済成長を遂げ、世界一の産業国という地位を確立していました。1892 年には 4,000 人だった百万長者の数が、1907 年には 10 倍の 4 万人へと激増し、富の偏在が深刻な社会問題になっていました。アメリカ全体の資産の 4 分の 3 を、わずか 8%の家庭が所有していたとされています。このような経済格差の背景には、産業革命による急速な都市化やスラムの拡大、移民の増加、生活困窮者の増加、南北戦争の後の南部の経済破綻、そして解放されたアフリカ系アメリカ人の北部への大量移住など、さまざまな社会変動がありました。また、1880 年から 1920 年代にかけて、ヨーロッパから 2,700 万人もの移民がアメリカに渡りましたが、移民政策は次第に排他的な方向に傾き、1924 年の移民法により、アジア系、特に日本人の新規移住は禁止されるに至ります。移民の玄関口であったニューヨークのロウアー・イースト・サイドでは、貧困層が老朽化した集合住宅で密集して暮らしており、当時、地球上で最も人口密度が高い地域と言われていました。劣悪な衛生環境の中、チフスやコレラが頻発し、乳幼児の 5 人に 1 人が命を落とすほどの厳しい環境がありました。このような社会状況に直面したアメリカでは、政治、教育、医療、労働など他分野で国家規模の改革が進められ、社会事業家たちは、「科学的フィランソロピー」という概念のもと、より効率的かつ持続可能な支援の仕組みを模索していました。カーネギーやロックフェラーといった巨大な富を築いた実業家たちは、ビジネスの手法を活用して財団を設立し、教育、文化、科学、公衆衛生などへの支援を通じて社会問題の解決に貢献しました。1915 年にはわずか 27 団体だった財団が、1930 年には 200 を超えるまでに急増したと言われています。1902 年、栄一が初めてアメリカを訪れた際、約 1か月をかけてサンフランシスコからニューヨークまで鉄道で横断し、主要都市を精力的に巡りました。この旅は、1867 年に初めて近代化の進むヨーロッパ諸国を訪れた時と同じように、栄一にとっては大きな刺激と学びの機会となりました。到着したサンフランシスコでは、市内にあるスートロ・ハイツ(Sutro Heights)という、巨大な公共施設を訪れました。そこには博物館、自然公園、クリフハウス(Cliff House)というレストランがあり、さらに 1 万人を収容できる大規模なプールなどが市民の娯楽と健康のために設けられていました。これらが、アドルフ・スートロ(Adolfo Sutro)という一人の資産家による寄付で設けられたと知り、栄一は大いに驚いたと書いています。また、カリフォルニア州の知事であり、大陸横断鉄道を建設したセントラル・パシフィック鉄道の創立者でもあるリーランド・スタンフォード(Leland Stanford)が、私財 8,000 万ドルを投じてサンフランシスコの郊外にスタンフォード大学を設立したことにも深く感銘を受けました。フィラデルフィアでは、スティーブン・ジラード(Stephen Girard)の遺産による 750 万ドルの寄付によって設立された、孤児のための教育機関「ジラードカレッジ(Girard College)」を訪問しました。養育院の院長として孤児と接していた栄一にとって、ここで児童に語りかけることは自然な営みであったのでしょう。また、同日にブリンマー(Bryn Mawr)という女子大学を視察し、ロックフェラー家が 25 万ドルを寄付して新築した校舎を見学しました。生涯にわたって27 の女子教育機関に関わった栄一は、東京女学館の設立に際し、伊藤博文に説得されて女子教育奨励会を立ち上げ、日本女子大学創立の時にも財務を担当するなど、尽力しておりました。アメリカの富の規模と、その富が惜しみなく教育に投資されている姿を目の当米国実業家との交流2.渡米時の米国の社会的背景1.1902 年の訪問先

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