ファイナンス 2025年9月号 No.718
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連載セミナー ファイナンス 2025 Sep. 61メリカと関わったかを紐解きつつ、お話を進めてまいります。栄一は 1840 年に現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。家業は藍玉と桑の生産・販売で、栄一は父から商売の基本を学びながら育ちました。若いころは多くの同年代の青年たちと同じように、外国人への強い反感を抱いており、1863 年には高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き打ちする計画すら立てていました。しかし、「成功の見込みはない」との忠告を受け、従兄弟の渋沢喜作とともに京都に逃げます。その後、縁あって一橋家に使え、当主・徳川慶喜が将軍に就任すると、栄一の人生は思いがけず幕臣としての道を歩むことになります。慶喜公の弟である昭武は将軍名代としてパリ万博博覧会に派遣されますが、栄一はその随員として 1867 年に渡欧することになりました。かつて憎しみに近い感情をいだいていた欧州へ、自ら赴くことになったのです。わずか一年間の滞在でしたが、栄一は大きな変化を遂げます。ちょんまげを落とし洋装に改めるだけでなく、欧州の経済、商業、社会福祉の制度に深い関心を寄せ、熱心に学びました。とりわけ、農家の息子として非常に平等意識が強かった栄一は、官尊民卑に大変対抗しておりました、フランスに行った時に、軍人と企業人が対等に話をしているところを見て、「こんなに民主的な国があるのか」と、とても驚嘆したと伝えられています。また、ベルギー国王が「ベルギーの鉄は素晴らしいので日本に買ってほしい」と述べ、王室まで商業を重要視している姿を目の当たりにし、商業が軽視されていた当時の日本との違いに強い刺激を受けました。帰国後、伊藤博文、井上馨、大隈重信らの要請により民部省(後の大蔵省)で租税制度の整備など日本の近代化に尽力しました。しかし、1873 年に大蔵省を辞して、民間人として以後は実業界に深く関わることになります。栄一の思想の根幹には、「道徳経済合一」という理念がありました。すなわち、ビジネスは道徳と一致していなければならず、すべての人の利益につながるものでなければならない、という信念です。この理念を説いた著書が『論語と算盤』です。論語(倫理)と算盤(経済)を両立させることが健全な資本主義社会を築く基盤であり、実業家は国家と社会のために公益を追求すべき存在であるという考えが、一貫して栄一の根底にありました。彼は「一人だけ富んでそれで国は富まぬ」という言葉も残しております。生涯に渡り、栄一は約 500 の企業に関与しましたが、「渋沢」の名を冠することなく、創業支援や発起人として裏方に徹しました。つまり自らの利益や家名拡大を目的としてはいなかったのです。一方で約 600 の社会事業にも関与していきます。特に力を注いだのが、「養育院」という、生活困窮者や孤児を支援する施設です。これはロシア皇太子の来日にあたり、東京の路上生活者を収容する必要から始まった施設ですが、栄一は 34 歳の時から関わり、39歳からは亡くなるまで院長を務めました。このほかにも栄一は学問としての商業を広めようと、一橋大学の設立に尽力し、また、女性の教育の重要性を強く認識し、日本女子大学、東京女学館の創立にも関与しました。栄一は 4 回にわたりアメリカを訪れ、4 人の大統領と会見を果たしました。アメリカに最初に行ったのが62 歳の時であり、最後が 81 歳の時です。当時の 62歳は今の 62 歳よりずっと高齢のように思いますので、これも本当に驚きです。最初の渡米は 1902 年、ルーズベルト(Theodore Roosevelt)大統領と会見します。その後、1909 年に は 渡 米 実 業 団 の 団 長 と し て、 タ フ ト(William Howard Taft)大統領、1915 年、75 歳の時にはウィルソン(Woodrow Wilson)大統領、そして 1921 年、渋沢栄一の生涯と思想の概要「道徳経済合一」:『論語と算盤』の精神渡米と米国の社会的背景令和 7 年度職員トップセミナー1.4 回の渡米と大統領との会見

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