やまのてようどう 52 ファイナンス 2025 Sep.上野駅に向かう途中の田端駅から分岐し、隅田川の手前に隅田川駅を置いた。現在の JR 貨物隅田川駅である。ターミナルの上野駅がキャパオーバーとなったため秋葉原駅、次いで隅田川駅に貨物線を延ばし貨物取扱を分散させる算段だった。隅田川駅の構内に運河が引き込まれ、舟運に連絡していた。土浦線は隅田川駅の手前でカーブして南千住駅、北千住駅に至る。水戸街道沿いに路線を延ばし、明治 30 年(1897)2 月には福島県浜通りの平駅(現・いわき駅)に到達した。明治 32 年(1899)8 月、東武鉄道の北千住駅が開業。日光街道と並行し当初は久喜駅までの路線だった。土浦線は、常磐炭田からの石炭の受け入れを目的としていた。明治 36 年(1903)4 月、田端駅から池袋駅に至る短絡線を敷設した。これで常磐炭を田端駅経由で品川駅へ、さらに東海道線に乗り換え横浜方面に運搬できるようになった。なお短絡線は明治 34 年のとき田端駅に発する現在の常磐線ルートは海岸線となった。要するに海岸線あっての山手線である。田端駅の手前で U ターンし日暮里駅で合流する現ルートになったのは明治 38 年(1905)からだ。元々の路線は貨物専用線となり現在に至る。鉄道の次に街のデザインを変えるきっかけとなったのは路面電車である。大正 13 年(1924)10 月、大正期を通じて工事が進められていた荒川放水路の通水が始まる。大正 15 年(1926)には国道 4 号線が完成した。当初は日光街道を拡幅する構想だったが、沿道の商店街の衰退が懸念され、市街地を迂回するルートになった。アスファルト舗装、幅員 22m は現在の感覚では立派なバイパス道だった。昭和 2 年(1927)には千住大橋が架け替えられ国道 4 号と一体化する。国道 4 号の路面には東京市電が敷設され、昭和 3 年(1928)7 月に千住四丁目まで開業した。国道 4 号の整備に伴い千住の主要施設が集まってきた。荒川放水路の整備で不要になった水路は道路になった。そのひとつが中居堀通で、沿道に昭和 4 年(1929)5 月、「千住郵便局電話事務室」が新築された。現在の NTT 東日本千住ビルである(図 4)。設計は逓信省の山田守技師で、日本武道館や京都タワーの設計で知られる。昭和 6 年(1931)12 月に京成電鉄の千住大橋駅が国道 4 号沿いに開業。千住町が南足立郡ごと東京市に編入され足立区になったのはその翌年10 月だ。銀行も日光街道から国道 4 号沿いに移転してきた。昭和 13 年(1938)、昭和銀行が行舎を新築し移転。昭和 19 年(1944)8 月に安田銀行になった。後に三井銀行と合流する十五銀行は、駅前通りとの交差点に昭和 17 年(1942)に出店している。安田貯蓄銀行も千住四丁目停留所に移ってきた。戦後、昭和 32 年(1957)の最高路線価地点は国道4 号に接する駅前通りにあった。ここにはイトーヨーカドーの本店があった。発祥をたどれば大正 9 年(1920)4 月、創業者伊藤雅敏の叔父の吉川敏雄が浅草の山谷で旗上げした足袋店「めうがや」となる。洋品店に商売替えし昭和 3 年(1928)頃「羊後、異父兄の伊藤譲が継承するが戦災で焼けてしまう。戦後、昭和 21 年(1946)1 月に千住で再開。その後 3回移転し昭和 23 年(1948)現在地に落ち着く。本店向かいには緑屋が昭和 37 年(1962)7 月に開店。昭和 43 年(1968)9 月、国道沿いに丸愛ができた。この年まで最高路線価地点は国道 4 号の交差点の「うめばち洋品店前」だったが、翌年と翌々年にかけて駅前に移る。1 年目が日光街道の駅側の「千住 2 丁目つるや洋品店前」、2 年目が駅前の「矢島薬局前」だ。この間、日光街道沿いにダイエー(昭和 44 年 10月)と長崎屋(昭和 45 年 9 月)が開店している。他方、物流は鉄道から自動車の時代に移りつつあっ手線とされた。こ」となる。その華堂か連載路線価でひもとく街の歴史(1901)の路線名の整理に際して山バイパス道と東京市電の時代人流は駅前へ・物流は高速道路へ図 4 NTT 東日本千住ビル(出所)令和 7 年 8 月 17 日に筆者撮影
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