赤羽→品川線↑海岸線↓山手線石谷川戸どど戸な連載路線価でひもとく街の歴史はしくまがやはなかわいしでかもんのすけよしたね橋戸河岸花川戸河岸かもんつつみこづかっぱらか も ん 50 ファイナンス 2025 Sep.2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D(出所)地理院地図 vector に筆者が加筆して作成275D510C240E295Eめうがや跡ヨーカドー発祥地隅田川駅1902~旧浅草駅(現・とうきょうスカイツリー駅)1885~赤羽駅1903~池袋駅→大塚支線荒川(現・隅田川)1896~田端駅→土浦線1883~上野駅1890~秋葉原貨物駅神田川2025 年は、江戸幕府が日光街道の宿場として千住宿を開設した寛永 2 年(1625)からちょうど 400 年の節目の年にあたる。荒川を挟み、北千住、南千住を合わせて約 3km の長い宿場町だが、開宿時は今の駅前通りの裏通りにあった本陣を中心に、南は現在の足立成和信用金庫の本店の角までが千住宿だった。ここに街道を横切る形で荒川の堤防の熊お、ここで荒川とは現在の隅田川をいう(図 1 参照)。正確にいえば、開宿当時は入間川の下流だった。寛永先月号で、川越の街が新河岸川舟運で栄えた話を書いたが、その航路の終点が浅草花千住の橋河岸である。川越の船頭が「押せよ押せ押せ・二挺櫓で押せよ・押せば千住が近くなる」と歌ったのが千住節(川越舟歌)だ。寛永 15 年(1638)に始まった新河岸川の舟運で千住はさらに賑わった。そして、万治元年(1658)、本宿の南に掃部宿、河原町、橋戸町が新たに開設される。徳川入府に伴う財政基盤拡大の一環で千住やその周辺に新田が開発されたが、その 1 つの掃部を宿場町に改修したものだ。名前は開発に貢献した出掃部介吉胤にちなむ。熊谷堤の南に築かれた 2 本目の堤防は掃部宿の 2 年後には荒川南岸にも宿場町が設定される。中村町と小駅の南口の場所には小塚原刑場があった。千住の橋戸河岸といえば奥の細道の起点でもある。元禄 2 年(1689)5 月に松尾芭蕉が、大和総研の本社もある深川から舟で隅田川を遡上。橋戸河岸で下船し部新田の一き魚の目は6 年(1629)の瀬替え工事で荒川の下流になった。堤があった。な河岸で、1 つ前が荒川放水路(現・荒川)部堤という。現在の墨堤通りである。掃塚原町である。街道筋の南、現在の南千住て詠んだのが「行く春や鳥啼涙」だ。水運の利を活かして生まれたのが、江戸の三大市場とも呼ばれた青物市場、通称「やっちゃ場」だ。掃部堤を川側に越えた、文字通り「河原」町にあった。千住やその周辺の農村で生産された米や野菜の集散地でもあり、荒川の舟運で持ち込まれた物資を陸揚げして換金する場所でもあった。現在の東京都中央卸売市場・足立市場の源流だが、中世から近代にかけての市場は、個々の問屋が道沿いに集まった問屋街で、それぞれの店舗がセットバックし、奥行きが深い土間に大八車が乗り入れ、商品を並べてせり売りをしていた。明治 22 年(1889)の町村制で千住宿は千住宿開宿400 年 地価上昇全国5 位のワケあり区千住宿開宿400 年 地価上昇全国5 位のワケあり区第 67 回 足立区千住第 67 回 足立区千住千住開宿 400 年橋戸河岸と河原町問屋街図 1 広域図 路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街
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