444444路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 ア ト レア ト レペ ペ歴史の地層が温存された街(出所)すべての写真は令和 7 年 4 月 12 日に筆者撮影ファイナンス 2025 Aug. 31プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦図 5 現在の南町(川越一番街)仙台市出身、1993 年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06 年)出向等を経て2008 年から大和総研。主著に「自治体の財政診断入門」(学芸出版社)、「公民連携パークマネジメント」(同)駅)で、現在の川越駅は駅だった。川越駅となったのは昭trε」が完成。丸広百貨店が核れ、建築家やまちづくりの専門家、市役所職員も参加した。商店街の活性化を念頭に町なみ景観の保存や修景にかかる活動が展開された。遺構保存や観光開発だけでなく、商業活性化や住環境の質的向上とのバランスを重視するのが特長だ。昭和 62 年(1987)には商店街に「町並み委員会」が発足。翌年、デザインコード「町づくり規範」が示された。一帯は平成11年(1999)tré」に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定される。城下町特有の「五の字型」の区画で、交通渋滞が起ePe」きやすいのがネックだったが、現在はそれがかえって強みとなった。令和 6 年、市の調べによれば、川越市を訪れた観光客は 735 万 8 千人に達し、前年比 2.3%の増加となった。そのうち外国人観光客は推計約 70万人で、調査開始以来最多を記録した。今年の 5 月に試行された一番街での歩行者天国が好評を得た。7 月に公表された令和 7 年の最高路線価は 32 年連続して川越平成 17 年(2005)に底を打つ。この時点と比べると直近の路線価は 44%上昇している。かつての最高路線価地点の丸広百貨店前は 29%。川越一番街はそれ以上の上昇率であり、鐘つき通りやコエドテラス前、菓子屋横丁は 50%を超えている。舟運拠点だった頃の街の遺産は、いまや観光地として再生し、エリアの収益力が地価水準に反映していると言える。駅前だった。地価は平成5年以降下落を続け、岡勝也が設計した昭和 11 年(1936)築の店舗が現存している。発展の兆候を見据え、丸広百貨店は昭和 39 年(1964)10 月、新富町に 5 階建の店舗を新築して移転した。昭和43 年(1968)には 3 倍に増床し地域一番店の地位を盤石にした。オイルショックを機に高度成長が一段落した が、 中 心 地 の 南 下 は 進 む。 昭 和 48 年(1973)、新富町にあった丸井川越店が川越駅 前 の 脇 田 町 に 新 築 移 転 し た。 昭 和 59 年(1984)には最高路線価地点が丸井の前の「黒田書店前脇田町通り」となった。脇田町は旧町名を西町といった。東武東上線において川越を代表する駅は川越町駅(現在の川越市開業当初は川越西町和 15 年(1940)に同じ場所に国鉄の川越駅が開業してからだ。平成 2 年(1990)には、川越駅東口再開発事業で再開発ビル「aテナントとなった(なお JR 東日本の商業施設は「aで半角英字の語尾が異なる)。翌年、西武本川越駅の駅ビルも完成し、プリンスホテルと商業施設「Pが開店。そして平成 5 年(1993)、最高路線価地点が川越駅前の「脇田町アトレ前通り」となった。また、この年から最高路線価の下落が始まった。札ノ辻から本川越駅まで徒歩 20 分弱、約 1.3km、同じく川越駅までは約 2km 強、徒歩 30 分かかる。駅ができてから数十年単位で中心地が南下し、新しい街が旧市街の外側にできる形で広がっていった。古い街が上書きされずに残された理由には、1 つは戦災を受けず、戦後復興もなかったこと、また県全体の拠点機能が大宮市や浦和市に移転したことが挙げられよう。北から南に、古い街から新しい街へまるで地層のように興味深い街となった。これまでの連載で似たようなパターンとして岐阜市があるが、こちらは戦災を経験しているため、川越のほうが良い状態で残っている。蔵造りの町なみについては、地元のまちづくりの情熱も忘れてはならない。昭和 58 年(1983)、川越一番街の若手商店主を中心に「川越蔵の会」が立ち上げら
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