ファイナンス 2025年8月号 No.717
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いのはなまちきちれんけいやま大正の街・猪鼻町(大正浪漫夢通り)昭和の街・中央通りから駅前へ 30 ファイナンス 2025 Aug.(出所)筆者撮影図 4 旧・武州銀行川越支店(川越商工会議所)田銀行になった。戦後は富士銀行と改称し、昭和 34年(1959)に連雀町交差点の角に移転した。昭和 31 年(1956)の最高路線価地点は蓮の中央通りだった。もっともこの年の県内最高路線価地点は大宮市で、川越市はその約 3 分の 1 だった。中央通りは昭和 8 年(1933)に整備された新しい道である。南町・鍛治町の通りの南側は行き止まりで丁字路だったが、中央通りが整備され交差点となった。片側アーケードが残る昭和レトロな通りで「昭和の街」と呼ばれる。元の猪鼻町の川越銀座商店街と合わせ、高度経済期に入る前の中心地だった。高度経済成長期を迎えると街の中心はさらに南下する。 昭 和 43 年(1968) の 最 高 路 線 価 は、「 新 富 町2-10-7 森田生花店」だった。元の新田町で、丸広百貨店の通りである。その原動力となったのはチェーン店や百貨店だった。チェーン店で最初に進出したのは昭 和 35 年(1960) の 長 崎 屋 で あ る。 昭 和 37 年(1962)にニチイ、昭和 42 年(1967)にイトーヨーカドー、昭和 45 年(1970)に西友が進出した。当地の地域一番店は丸広百貨店である。元をたどれば、昭和 14 年(1939)、大久保竹治が出身地の飯能で創業した丸木商店が源流である。「丸木」は大久保竹治が奉公した八王子の衣料卸問屋にあやかった。川越出店は昭和 26 年(1951)だが、当初は鍛治町、現在の川越一番街にあった。川越初の百貨店とされる山デパートの建物を賃借した。第八十五銀行と同じ保道 大 宮 線 )。 し か し、 西 武 鉄 道 大 宮 線 は 昭 和 16 年(1941)に廃止。5 月、池袋と川越を直線的に結ぶ東上鉄道の開通であ正 13 年(1924)から志義町となった。ここは川越一(1919)3 月に八王子が本店の第三十六銀行が川越支したが、帝国電灯の時代に鉄道部門が分離され、川越鉄道とともに(旧)西武鉄道の経営となった(西武鉄舟運の凋落が決定的になったのが、大正 3 年(1914)る。東武東上線の前身で、現在の川越市駅は川越町駅といった。その翌年 4 月には、池袋と飯能を結ぶ武蔵野鉄道が開通した。こちらは西武池袋線の前身である。古来川越を中継点にしていた所沢、入間、飯能が東京と直結し、川越の拠点機能が低下した点で重大だった。現在の西武鉄道の祖は武蔵野鉄道とされる。武蔵野鉄道が(旧)西武鉄道を吸収合併し、吸収先の社名に改称した。(旧)西武鉄道は川越鉄道の後身だが、かつて乗り入れていた甲武鉄道が国鉄になったので東京に直結していなかった。そこで、昭和 2 年(1927)4月、東村山駅から分岐し高田馬場駅に至る村山線が開設された。現在の西武新宿線である。大蔵省主税局統計年報による川越市の最高地価は大番街の南端に接する東西の通りだ。志義町の南側の南北の旧道が猪である。猪鼻町は戦後の川越銀座商店街で、昭和 36 年(1961)に県内初のアーケードが架けられた。アーケードは平成 7 年(1995)に撤去され、現在は「大正浪漫夢通り」と呼ばれている。大正ロマンをコンセプトに、石畳の道にカフェや雑貨店が店を構えるエリアとなった。この通りのシンボルが、志義町との角にある川越商工会議所だ。昭和 2 年(1927)12 月、武州銀行川越支店として建造された近代建築である。埼玉銀行発足後は川越南支店となった。商工会議所が譲り受けたのは昭和 45 年(1970)で、平成 10 年(1998)に国の有形文化財となった。高島屋日本橋店も手掛けた前田健二郎の設計だ。ルネッサンス・リバイバル様式で、ドリス式の列柱が特徴である。界隈には、大正 8 年店を開店している。猪鼻町にあった日比谷銀行の営業を譲り受け、昭和 18 年(1943)4 月に合併されて安の前馨寺じ鼻町吉連載路線価でひもとく街の歴史

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