しんがわがしじし河岸川眼大師こ子こ岡勝也や澤町連載路線価でひもとく街の歴史うしげんたかざわまちだいやすおかかつ第 66 回 埼玉県川越市第 66 回 埼玉県川越市明治の街・南町(川越一番街)明治・大正・昭和の歴史の地層が映える街明治・大正・昭和の歴史の地層が映える街2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D275D510C240E295E 28 ファイナンス 2025 Aug.図 1 旧・八十五銀行本店(りそなコエドテラス) (出所)筆者撮影(1934)まで埼玉県の最高地価があった。繁栄の源は(1931)に終了する。18 年(1885)の最高地価は高約 20 店舗が軒を連ねる。昭和初期には 70 軒以上の店小江戸川越は、戦前の記録で最も新しい昭和 9 年寛永 15 年(1638)、喜多院再建の資材運搬のために始まった新の舟運である。喜多院は慈と天海大僧正が住職を務める重要施設だ。藩政期を通じて、新河岸川は川越と江戸を結ぶ物流幹線の役割を果たしていた。川越の拠点は上新河岸、下新河岸、扇河岸、寺尾河岸、牛物資が集積し、江戸行きの荷舟に積み換えられた。明治 4 年(1871)の廃藩置県で川越藩は川越県となる。その後、入間県、熊谷県を経て現在の埼玉県境が定まるが、入間県の時代の約 1 年半は川越に県庁が置かれた。現在の県庁所在地の浦和より 12 年早く、県内で初めて市制施行されたのも川越である。戦後は大宮市や浦和市にその座を譲るが、少なくとも戦前は埼玉県下の中心都市だった。背景には主要交通手段の変遷がある。明治後半から大正にかけて鉄道網が拡大。 新 河 岸 川 舟 運 は 物 流 の 主 役 を 奪 わ れ 昭 和 6 年埼玉県統計書によれば、記録に残る最も古い明治は川越市街を囲むような流路で、高澤町の西端に高澤橋が架かる。川越城の西大手門から続く東西のメインストリートで、川越児玉往還へ続く西の玄関口でもある。南北のメインストリートとの交差点に高札場があり、札の辻と呼ばれた。現在の高澤町は「菓子屋横丁」が観光名所になっている。明治以来の駄菓子屋街で、があった。明治 22 年(1889)の町村制で川越町が成立。翌年以降の最高地価の表記は川越町字川越となる。札の辻から南の両側町が南町で蔵造りの町なみで知られる。現在は川越一番街と呼ばれる通りの両側に、黒漆喰の重厚な蔵造りの建物が並ぶ。江戸時代の町家形式を継承した耐火建築である。「小江戸」を象徴する景観だが、実際は明治時代の景観だ。明治 26 年(1893)の川越大火で当時の中心街のほとんどが焼失してしまった。ただ、寛政 4 年(1792)に建てられた呉服太物店、大沢家住宅は焼け残った。町衆はこれを教訓に耐火性の高い蔵造りの店舗を再建した。一説によれば、当時の日本橋の町なみをモデルにしたとされる。南町には川越、いや埼玉県で初めての銀行もあった。藩政期以来の商業者が立ち上げた第八十五国立銀行である。開店は明治11 年(1878)12 月だった。営業期間の満期を迎えた明治 31 年(1898)に第八十五銀行と改称した。現在残る建物は、大正 7 年(1918)に新築されたものである(図1)。三菱地所の前身・三菱合資会社の技師長だった保和 2 年(2020)6 月まで埼玉りそな銀行川越支店として営業していたが移転し、建物は観光スポット兼シェ河岸の 5 つあり、周辺農村からだった。新河岸川の独立後の作品だ。令路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街
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